パレスティナ歴史紀行

1998年4月27日(第3日目) 受胎告知の街  ティベリア−ナザレ−アッコ−ハイファ−ティベリア

 朝3時に一度目が覚めたが、充分に睡眠を取って、6時に起床。徹夜と歩き回った疲れも取れて、実に爽やかである。ゆっくりと準備をして、7時半に宿を出た。今日は日帰りでナザレ、ハイファ、アッコへ行く予定である。バスターミナルまで歩いて行き、まずはバスでナザレへと向かった。道中、雲が少し多いなあと思っていたのだが、ナザレに着いてバスを降りた瞬間に、本当に滝のような雨が降り始めた。慌ててアラブ人のスークのような狭いアーケード(向かいの家の屋根をビニールシートでつないだだけの簡単なものだったが)の道に入った。昨日の明け方の雷雨のことはすっかり忘れていて、この地域は雨が少ないという先入観を拭い去れずにいたこともあったのだが、それよりも今朝はいい天気だったので、まさか雨が降るとは思わず、傘も持ってきていない。ただ、ヨーロッパの雨は待てば止むものなので、気長に洋服屋のビニールシートの下で待ち続けた。

 ところでここはどこだろう。降りた地点がターミナルでなく、普通の道沿いだったので、今一つ現在地が分からない。雨宿りしながら周りを観察して、それを地図と照合しながら必死で考えてみた。そのうち30分もすると、雨が小止みになってきたので、あまり長いこと雨宿りをする時間がないこともあり、行動を開始した。どうやら見当をつけた現在地が合っていたようで、坂道を上り始めてすぐ右手に、受胎告知教会が見えてきた。

 ここナザレは聖母マリアの受胎告知の場所であり、また、イエスが伝道を始めるまでの30年間、両親と暮らした場所でもある。イスラエルはその国土の至る所にイエスにまつわる聖地があるのだが、ここナザレはその中でも特に重要な場所となっている。受胎告知の場面は、特にルネッサンス期の多くの画家たちに格好の画材を与えているが、その総本山がここナザレの受胎告知教会なのである。コンスタンティヌス帝の時代から、教会の建物は何度か建て替えられており、現在のものはほんの30年程前に建てられたそうで、確かに真新しい感じがした。また、中東一の大きさを誇る教会だけに、かなりでかかった。中に入ると、天井の採光窓がアベマリアのAをかたどって三角形になっていたのが印象的だった。

 坂に建てられているため、2階にも出口がある。そちらから出ると隣の聖ヨゼフ教会にそのまま行けるようになっていたので、そちらも覗いてみた。聖ヨゼフ教会を出た後は、坂道を10分程登り、聖ガブリエル教会へと向かった。マリアに受胎を告知したことで知られている大天使の聖ガブリエルを祀った教会である。中には薄暗い地下室があり、荘厳とした雰囲気が漂っている教会だった。そして、ここを出ようとしたまさにその時、今度はバケツをひっくり返したような猛烈な雨が降り始めた。どうにも動けないから、教会の軒下でまた雨宿りである。10分くらいした後、ようやく雨足が少し弱くなったので歩き始めた。が、教会の前の道路が川のようになっていて対岸に渡ることができない。坂の街のため、高台からの水が道路をつたって猛烈な勢いで流れているのである。しばらく躊躇したが、どのみち靴も少し濡れていたので、思い切って渡ってしまった。当然、靴はべたべたになったが… 雨の少ない地方では、排水設備が整っていないため、また、短時間に集中して降ることが多いため、すぐ道路に水があふれ出すということを聞いたことがあるが、まさにそのとおりである。

 雨で方々に水たまりや水の流れができている道を歩き、行きにバスを降りた場所までやってきた。地図を見ると別の場所にしっかりとしたバスターミナルがあるのだが、どうやら改修工事か何かで使えないようであり、街のメインストリートがバスターミナルのようになっている。メインストリートといっても、ちょっと広めの片側1車線の道路なので、バスが入り乱れてすごい渋滞になっていた。

 さて、その頃になると、さっきまでの猛烈な雨が嘘のように、もう陽がさんさんと照っている。地中海の天気の変わりやすいことよ。待っていると、ハイファと書かれた真新しいバスが来たので乗ろうとした。しかし、それはハイファ大学行きの学生専用のバスで、乗車を断られてしまった。もうしばらく待つと、今度は少しぼろい本当のバスが来たので乗り込み、ハイファへと向かった。

 ハイファは、イスラエルの海の玄関口であり、また、この国で一番近代的・開放的な都市でもある。シャバット(安息日)でバスが走っているのはイスラエルでもこの街くらいなものらしい。街にはおしゃれなショーウインドウが並び、ハイファ大学を始めとする大学も多い。イスラエルの新しい顔となりつつある、情報通信をはじめとするハイテク産業も、ここハイファに集積している。今日は時間があれば街をぶらつこうと思ったが(結局できなかったが)、とりあえずはバスを乗り継いで、十字軍の街アッコへと向かった。ハイファから約30分、12時半にアッコのバスターミナルに到着した。

 バスターミナルは新市街にあるため、見所が集中している旧市街(オールドシティ)まで歩いていかなければならない。歩くこと約15分で、オールドシティの入り口である城壁までやってきた。そして、そこを抜けると、オールドシティの象徴である、高い尖塔を持つアル・ジャザール・モスクが見えてきた。オールドシティに入った途端、アラブ人の姿が多くなり、街もアラブ風の雰囲気を漂わせるようになった。まず、アル・シャザール・モスクに入ろうとしたが、どうも昼の礼拝時のようで、後から来いと言われたので、先に十字軍の街を見ることにした。

 普通の観光案内所のような小さな入り口から中へ入ると、巨大な地下の街が広がっていた。入り口のチケット売場のところで、ガイドがどうのこうのだとか、英語かドイツ語かどちらだとか言われ(一度いらないと言ったが、その後もしつこく言われたので、今までガイド付きでないと見られない観光地もあったから、ひょっとしたらそうなのかと思った)、一応英語と答えると、よく分からないうちにトランシーバーのようなものを渡され、その使い方の説明を受けさせられた。要は個人観光客には、ガイドトランシーバーを貸し出しているようなのである。何だそういうことか。それならいらんかったのに。使い方はと言うと、ポイントごとにヘッドホンのマークと番号が書かれた標識があり、その番号を打つと、トランシーバーからテープの解説が聞けるようになっているのである。そんなわけでトランシーバーを持って歩き始めた。地下の街はホールや様々な用途の部屋などがあり、さながら迷路のようである。順路に沿っていろいろ見て回ったが、最後に、人がやっと一人屈んで通れるくらいの、狭い通路が、50メートルほど張り巡らされており、なかなかスリルがあって面白かった。

 十字軍の街を出た後、先程入れてもらえなかったアル・ジャザール・モスクを見学し、その後、再び同じ道を歩いてバスターミナルへと戻った。改めて新市街を観察すると、欧米人と変わらない格好をしたユダヤ人ばかりである。旧市街にはアラブ人があふれていたことを思うと、そのコントラストは実に鮮やかである。この街では、割と何事もなく両者が共存(というか互いが無関係)しているように見受けられたが、彼らの心の内まではどうだか知る由もない。しかし見方によっては、アラブ人が三方を海、一方を城壁に囲まれた狭い地域に押し込められているというか、ユダヤ社会の中の離れ小島に籠城しているといった感じもしないではない。多少うがった見方かもしれないが、大方間違っていないだろう。

 ハイファ行きのバスに乗り、ハイファのバスターミナルまで戻って来た。途中、ハバイ神殿の近くを通ったので、そこで降りて観光していこうかとも思ったが、しんどかったのでやめた。ハバイ神殿とは、ハイファのランドマークにもなっている、金色のドームを持つ寺院で、海を見下ろす丘の斜面に建っている。この神殿を総本山としているハバイ教は、すべての宗教の根源を一つと見なし、仏陀やキリスト、マホメットなどの預言者が出ることによって、神の真実をひとつひとつ明らかにしていく、といった教義を持つ宗教で、19世紀に成立している。言ってみれば、宗教のエスペラントであるが、宗教のるつぼであるイスラエルに、このような面白い教義を持つ宗教があるとは、実に興味深い。他を容れない(といっても、イスラム教は、キリスト教徒やユダヤ教徒を啓典の民と呼び、歴史的に一応認めてきているが)厳しい宗教を生んだ土地だからこそ、逆にその反動として、このような宗教が根付いたとも言えるのではないだろうか。

 さてそんなわけで、そんなに見所もないハイファはパスすることにして、そのままティベリアに帰るべくバスを待った。待ちながら、ターミナル内をうろうろすると、マクドやら何やらいろいろな店があったのだが、イスラエルに来てからずっと気になっていた店が何軒かあった。何かと言うと、ピタという中が空洞になっているナン(?)に、肉やらいろいろな野菜やらを詰めたもの(ガイドブックを見るとファラフェル?)を売っている店で、みんな店先に立って頬張っている。昼飯を食っておらず、腹が減っていたので、挑戦してみることにした。まず、メインの肉を選び(3種類くらいあった。俺はよく店先で回っている円筒形の羊のグリルを注文した)、それをピタに詰めてもらい、次は店先の皿(トマト、タマネギなど20種類くらいあった)にあるいろいろな野菜などをセルフサービスでピタに詰めて食べるのである。肉は最初に詰めてもらった分だけだが、セルフの皿のものは何度でも入れることができるので、結構腹一杯になり、満足度も大きかった。

 午後4時のティベリア行きのバスに乗った。途中、ハイファの街を抜けるまでが大渋滞しており、ティベリアまで1時間半みっちり掛かってしまった。その後、宿の近くをぶらぶらし、ティベリア湖をしばらく眺めた後、部屋に戻った。昨日よりは遅くなったが、それでも8時には寝た。

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