パレスティナ歴史紀行

1998年4月26日(第2日目) 豊かなる大地  −テルアビブ−ティベリア(ガラリア湖周辺)

 未明の午前1時45分にテルアビブ・ベングリオン国際空港に到着した。眠い目をこすりながら、入国審査の列に並んだ。やがて俺の番になったのだが、イスラエルでの住所はどこだ、という質問でずいぶん手間取ってしまった。こっちが「まだ決まっていない」と言ったり、「遅いから朝まで空港で過ごす」と言っているにも係わらず、しつこく(こちらが向こうの質問の意図を理解していないと思ったらしく、かなり不機嫌そうだった)同じ事を聞いてくるので、最後にはガイドブックで適当なホテル名を言って何とか通してもらった。ところが、しっかりと俺のパスポートにイランのビザがあったことはチェックしていて、係員に連絡がいっていたらしく、出たところですぐに入国審査官の男に捕まってしまった。おもむろに俺のパスポートを取り上げるやイランのビザのあるページをめくり、これはどういうことだね、とばかりに俺に釈明を求めてきた。なんやまたこれか、と半分苦笑いしつつ、旅行で行ったということ、どこをまわったか、向こうに友人などいないということを、再び延々と述べた。5分ほどで晴れて解放ということになったのだが、アメリカの親愛なる最も忠実な同盟国であるイスラエルに、アメリカの不倶戴天の敵であるイランのビザを持った男(この男もアメリカのパシリの国"日本"国民なのだが…)が行けばどういう扱いを受けるかということが、身にしみてよく分かった。バッゲージクレームで荷物を取り、やっとのことで到着フロアへと出た。

 さあ、現在の時刻は午前2時。始発のバスが午前5時過ぎだから、約3時間あまりこの建物の中で過ごさなくてはならない。換金した後、ベンチに座って寝ようと思ったが、目は半分ふさがっているのに、なかなか眠ることはできない。かといって本を読むほど元気でもないので、仕方なくボーっと、うとうとしながら時間を過ごした。それでもやはり知らないうちに少し眠ったりしたのか、意外に早く時間は過ぎていく。それにしてもいきなりこれじゃあしんどいわ。ところでこのテルアビブ・ベングリオン空港は、20数年前、例の日本赤軍乱射事件が起きた場所(当時はロッド空港と言ったが)である。今では全然のどかな雰囲気なのだが、そのことを考えると、日本人の俺がこの空港で一夜を明かすということに、何だか複雑な気分になってきた。イラン関係のことでしつこく尋問されるのも仕方がないのかなあ。

 さて、4時半を過ぎたので、疲れた身体に鞭打って重い荷物を背負ってバス停へと向かった。誰もいないバス停で約30分バスを待ったのだが、途中から大粒の雨は降り始めるわ、凄まじい雷は鳴り始めるわで、めちゃくちゃな天候になってきた。イスラエルは何となく乾燥地域のように思っていたのだが、その認識を改める必要がありそうである。5時過ぎにやっと、始発のバスが来たので乗り込んだ。雨と雷が続く中を約30分でテルアビブ中央バスステーションに到着した。せっかく朝早くに行動しているのだから、ここからイスラエル北部のガラリア湖畔の街ティベリアまで、一気に長距離移動するつもりである。テルアビブはさすがにイスラエルで一番の大都市らしく、長距離バス乗り場だけでも50近くもある。やっとのことでティベリア方面のバス乗り場を探し当てると、ちょうど5時50分発の便があったので慌ててそれに飛び乗った。

 さすがに実質徹夜明けであるため、バスに乗るとすぐに寝てしまったが、途中1時間くらい経った頃から、いきなりバスが混み始めた。あちこちのバス停から、どかどかと若い兵士が乗ってきたからである。俺の隣にも自動小銃を抱えたがっちりした体格の兄ちゃんが座ってきたため、途端に窮屈になり、寝にくくなってしまった。やがてすぐに、こういうことはイスラエルでの普通の光景として何とも思わなくなってしまったのだが、このときだけは数十センチのところにあるむき出しの銃に、少なからずビビってしまった。後から知ったところによると、この日は安息日(シャバット)の翌日ということで、実家からキャンプ地に戻るために長距離移動する兵士の数が特に多い日だったのである。それに、国中にバス網を張り巡らせている半官半民のエゲッドバスは、兵士輸送の任務も負っているため、バスが兵士に占領されることもまた、とりたてて異常なことではなかったのである。

 しかし、兵士の半分が、まだ幼さの残ったおしゃべり好きの女の子達であることを見るにつけ、イスラエルのつきつけられた現実の厳しさを感じずにはいられない。その一見かわいらしく、可憐にさえ感じられる彼女たちが、瞬時にしてむごたらしい戦場に送られる(さすがに前線は男だけだろうか?)かもしれない日々が、この国では毎日続いているのである。民族のアイデンティティとは、かくも厳しいものなのだろうか。

 それから熟睡できなくなってしまったが、睡魔は相当なもののようで、居眠りをし続けた。約2時間半かかって、午前8時半にティベリアに到着した。ティベリアはガラリア湖畔にある坂の街で、ここから見下ろすガラリア湖はたいそう美しい。坂の街という表現をしたが、ここの坂は普通とは少し違う。何と言ってもガラリア湖は、アカバ湾から死海、ヨルダン川と、大地を裂いたようにして続くヨルダン地溝の北の端に当たるところにあるため、海抜下のかなり低いところにある。そしてガラリア湖の東西には数百メートルの高台が連なっているのだが、実はそれは高台でも何でもなく、海抜何メートルもない普通の平地なのである。ガラリア湖の方が、勝手に陥没しているだけなのである。要するに俺が普通の坂と違うと感じたのは、バスでここティベリアに入るとき、山を越えたわけでも何でもないのに、突然眼下にガラリア湖が広がり、そこに向かって数百メートル転がり落ちていったという異様さがあったからで、上から始まった坂(坂に上からも下からもないのだが)という妙な印象を持ってしまったからかと思われる。

 早速宿探しをしなければならない。このバスターミナルの位置を完全に把握しきれてなかったこともあり、最初はかなり迷ってしまったが、なんとか現在地を確認して、歩き方に載っているホテルをいくつか物色してみた。結局、最初に入った"パノラマ"という街の中心部から南へ歩いて10分くらいのところにあるホテルにチェックインした。部屋は狭くて多少古かったが、17ドルという安さでは仕方ないだろう。疲れていたが、あまり快適でない部屋だったこともあり、すぐに観光に出発した。

 ティベリアの街自体は、どちらかというと、ガラリア湖畔のリゾート地といった性格のため、見所はそんなに多くない。そこで、今日は湖北部にあるいくつかの教会を巡るつもりだった。湖北部へ行くためバスターミナルへ戻ってみたものの、インフォメーションで教えられたバスは11時までなかったので、歩いて行ってみることにした。ちょっとした悲劇の始まりである。湖沿いに街を北へ抜けようと思ったのだが、ガイドブックの地図が分かりにくかったこともあり、湖沿いの道と平行して街の高台を通っている道に入り込んでしまった。それでも方向自体は合っていたので、そのうちどこかに高台から湖畔へ降りていく抜け道があるだろうとたかをくくって、そのまま歩き続けた。ポイントがあればすぐに湖畔へ降りようと、高台の端を通り続けたのだが、坂はひたすら登りで湖畔は遠くなるばかり。一向に抜け道などない。のんきに構えていた俺もだんだん焦ってきた。これがそうかと思い湖畔方面へ延びる坂道を降りていっても、結局行き止まりで余計に疲れるだけである。10分近くも行き止まりの道を降ってしまい、完全に疲れ切ったところでギブアップした。どうやら引き返すしかなさそうだな。もう歩けんからバスで行くか。そんなわけでバス停に戻ったときには、すでに2時間が経過していた。

 バス停でバスの行き先やらをいろいろ見ていると、どうやら教えられたものだけでなく、複数のバスが湖北部へ行くようだったので、運転手さんに確認して、それと思しきバスに乗り込んだ。やがてバスが出発して、湖北部へ向かって飛ばし始めたのだが、これがまた結構遠くて、歩いていかなくてよかったなあと、思わず道に迷ったことを感謝してしまった。12時前に最寄りのバス停に到着した。

 そこから運転手さんに教えられた方角へ15分歩いたところに、パンの奇跡の教会があった。ここは、イエスが2匹の魚と5個のパンを増やして、説法を聞きにきた5000人を満腹にしたという聖書の奇跡に由来した教会である。内部には、魚とパンのモザイク画が残されていた。一通り見学した後で、すぐ隣にあるペテロ首位権の教会(Church of St.Peter's Praimacy)(写真1写真2)に行った。ここは、漁師のペテロをキリストの第一の弟子にした他、数多くの聖書の故事に由来する場所である。庭は木が生い茂っており、いかにも涼しげな様子である。木々の間の緩やかな坂を下っていくと、黒っぽい煉瓦か石で積まれた教会の建物があった。内部へ入ると、そこには復活後のキリストが弟子に食事を与えたという岩があり、床から突き出していた。ふ〜ん、こんなもんか。建物の外へ出た後、教会のすぐ裏手がガラリア湖だったので、その波打ち際まで降りていき、しばらく湖を眺めながら空想に耽ったりした。また、ここの庭では、2グループくらいがミサのようなものを開いていたので、それを遠くから眺めたりもした。一つは讃美歌を歌い、もう一つは厳かに説法を聞いていた。おそらく欧米からの巡礼ツアーの一行だろう。

 まだ2つの教会を見ただけだが、キリスト教を考えてみると、よく分からないことが多すぎる。復活とは何か? 奇跡とは何か? こういう伝説があると言って面白がったりするのはいいとしても、皆が真剣に祈っているのを見ると思わず考え込んでしまう。彼らに、本当にキリストはパンと魚を増やしたと思うのかね、と尋ねたら何という答えが返ってくるのだろうか。明確にイエスノーが返ってくるだろうか。それとも、合格祈願に太宰府や北野天満宮に行くように、自分が真剣に祈ることが本質であるから、本当のことかどうかを疑うことはナンセンスだと言うのだろうか。神社に初詣に行き、教会で結婚式を挙げ、死ねば寺でお経を読まれるという日本人には、キリストという神と一体の"絶対"的な存在を感覚的に捉えるのは少々難しいのかもしれない。

 更に湖に沿って3キロほど歩いたところに、カペナウムというローマ時代の遺跡があるので、そちらへと向かった。右手にはガラリア湖、左手には丘の上にこの後行こうと思っている山上の垂訓教会が見え、まさに絶好の眺めである。ただ、4月とはいえ30℃を越える暑さには少々へこたれ気味だった。40分ほど歩いてやっとカペナウムに到着した。ひとまず遺跡内のベンチに腰掛けて、ティベリアの売店で買ったエッグロールサンドを頬張った。パンにゴマがまぶしてあり、また、卵焼きとレタスとトマトもおいしく、この後もイスラエル滞在中ずっとはまってしまった逸品である。ここの遺跡は、とりたてて特別のものがあるわけでもないため、さっと一通り見ただけで外へ出た。

 来た道を途中まで戻るような感じで、山上の垂訓教会へと向かった。普通の道路で行こうと思うと、だいぶん大回りしなければならないので、登山道を通って湖畔からまっすぐに登っていくつもりだった。しかし登り口がよく分からなかったため(本当の登山道はずっとペテロ首位権教会の辺まで戻ったところにあった)、仕方なく道なき道を登っていくことにした。山といっても木が一本も生えていない、なだらかな草原の丘であり、常に山頂の教会を見ることができたので、方向は見失わずに行けそうである。また、ちょうど丘の斜面が畑になっており、トラクターで耕した(収穫した?)後だったので、道がなくても登りやすかった。ここから北東へ10キロも行くとあのゴラン高原ということで、あまり変なところへ入り込むと地雷でも埋めてあるかもしれんなあと多少思ったが、まさかトラクターで耕した畑に埋まっていまい。

 かなりきつい登山だったが何とか山頂の教会にたどり着いた。教会そのものは後年建てられたもので、そんなに見所はなかったのだが、イエスが説教したというこの山頂からのガラリア湖とその周辺の眺めは最高だった。イスラエルは、というかここガラリア湖周辺は、ごつごつした砂漠という俺がイメージしていたイスラエル像に反して、本当に緑豊かな土地である。

 さて、帰り道は尾根伝いにある普通の登山道を通って、ペテロ首位権教会経由で、バス停まで戻ってきた。バス停には、欧米人観光客が3〜4人と、アラブ人の少年が1人いた。聞いてみると彼らはもう30分もここで待っているそうである。そしてしびれを切らしたのか、30秒に1台ずつの割合で通る車に、ヒッチしようと盛んにシグナルを送っている。俺の方はいつ来るともしれないバスをゆったりと待つことにした。一方、1人でいるアラブ人の少年は、ピンクのビニール袋に丸いパン(ナンかも)を入れて、それをバス停にいる人に売ろうとしている。俺は、一度はいらないと言ったが、ペットボトルの水の残りをあげたりしているうちに仲良くなってしまい、そうしたらなんだか健気になってきて、食う気もないのに買ってやってしまった。30分ほどでみんなヒッチに成功して行ってしまったが、その後すぐにバスが来たので、アラブ人の少年に手を振って別れてバスに乗り込んだ。ティベリアには4時着。宿に戻った後は徹夜明けということもあったので、すぐにシャワーを浴び、洗濯をして、まだ明るい午後6時半に寝た。

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