パレスティナ歴史紀行

1998年5月4日(第10日目) 霧に煙る移民港  エルサレム−テルアビブ(ヤッフォ)

 7時すぎに起床。いつもよりゆっくりと朝食を取り、しっかりと荷物を整えて、9時半頃、6泊もしたエルサレムタワーホテルをチェックアウトした。取りあえずフロントに荷物を預かってもらい、お土産を買いがてら、エルサレムに別れを告げるためにオールドシティに行った。ヤッフォ門から入り、ダマスカス門へ行くまでの間に何軒か土産物屋を物色してみた。そこで死海石鹸、オリーブの木で作ったマリア像、Tシャツなど、頼まれていたものやら何やらを購入した。その後、古都を心ゆくまで散策し、名残を惜しんでから、12時頃ホテルへ戻った。そして、預かってもらっていた荷物を取ってホテルを後にした。

 久々に重い荷物を担いで、市バスに乗ってバスターミナルへと向かった。イスラエルへ来る前は、長距離バスはともかく、市バスはテロのターゲットになりそうだから、市内は絶対にバスに乗らないでおこうと思っていたのが嘘のようである。この6日間、エルサレムの市内バスに乗りまくり、今回で11回分の回数券を10回使ったことになる。回数券を買ったときは、ひょっとしたら大半余らせてしまうかもしれないと思っただけに、我ながら頑張って乗ったなあと感じてしまった。バスターミナルに着いてからは、昨日と同じようにテルアビブ行きのノンストップバスに乗り、一路テルアビブへと向かった。約1時間でテルアビブの中央バスステーションに到着した。

 これからテルアビブ、ヤッフォを観光するに当たり、この背中の大荷物を預けたいと思い、荷物預り所だとかコインロッカーを探すことにした。地球の歩き方には、荷物預り所が6階と4階にあると書いてあったのだが、どれだけ探してもそのようなものは見当たらない。それに、このテルアビブのバスターミナルというのがこれまた広くて、商業施設とも融合しており非常に分かりにくいので、余計に時間がかかってしまう。30分以上さんざん探した挙げ句、ないという結論に達した。恐らくテロ対策から撤去でもしたのだろう。考えてみれば、イスラエルに荷物預り所があると考える方が不自然である。ということは、当然この重い荷物を背負って観光か… かなりブルーになってしまった。気を取り直して観光に出発するかと思ったが、その前にターミナル内のツーリストインフォメーションに寄り、地図をもらうことにした。そこのおばさんがこれまたとても親切で、ヤッフォへの行き方から、半日で見るテルアビブのコースまで、事細かく親切にレクチャーしてくれた。そして、教えられたとおり、市内バスに乗ってヤッフォへと向かった。

 テルアビブとヤッフォ、新と旧というコントラストが鮮やかなこの二つの街は、名前こそ違え、互いに結びつき合って血液の通う一つの街を形成している。テルアビブは港町ヤッフォの北側に広がった新しい都市あり、ヤッフォの新市街とも言えるかもしれない。逆にテルアビブの旧市街がヤッフォと言うこともできる。この両者のつながりは、20世紀初頭にさかのぼる。その頃から始まったユダヤ人の帰還は、ここヤッフォ港を舞台に繰り広げられた。ユダヤ人国家を夢見る入植者たちは、ヤッフォで先祖の地を踏みしめると、街の北に広がる未開の土地をアラブ人から買い取って、自分たちのテリトリーを広げていった。当初、60家族から始まったヤッフォのノーザンテリトリーは、半世紀の間に40万の人口を持つイスラエルきっての都会、テルアビブへと変身した。テルアビブは新生イスラエル国家の繁栄の象徴と言えるだろう。

 近代的な都市の様相を見せるテルアビブも十分に興味深いのだが、俺にはヤッフォという名の方に限りないロマンを感じる。しかも、エルサレムから眺めるヤッフォに対して。エルサレムのヤッフォ門の前に立つと、遙か遠くにシャロン平野と地中海が広がり、そこに向かってなだらかに一本道が下っていき、馬の背に荷を乗せた隊列がゆっくり進んでいる、といった情景が脳裏に浮かんでくる(無論、実際は地理的にエルサレムから地中海は見えないが)。つまり、俺にとってのヤッフォとは、エルサレムから鳥瞰して眺めるようなそんなイメージができあがっているのわけある。ダビデ王の時代から、ヤッフォはエルサレムの海の玄関であった。エルサレムの神殿を造るためのレバノン杉もここから陸揚げされたという。今、そんな港町のヤッフォへ向かっているのである。

 教えられたとおり、ヤッフォの入り口に建つクロックタワーが見えてきたので、そこでバスを降りた。ところが、どこでどう間違えたか、オールドヤッフォ(ヤッフォの旧市街の呼び名)とは正反対の方向に行ってしまい、しかもかなり長い間そのことに気付かず、何か地図と違うなあと不安に思いつつも、30分以上も彷徨い歩いてしまった。出直すためにクロックタワーのところに戻ったときに、初めて反対へ行っていたということに気が付いた。そして正しい側の路地に入って3分もしないうちにアル・ムハムディア・モスクが見えてきたので、ようやく地図上の自分の位置が確認できた。やれやれと少しホッとした。モスクの中へは入れないようだったので、外からモスクを眺めていると、海の方から濃いガスが流れてきた。みるみるうちに視界が消されていき、50メートルも離れると何も見えないほどになってしまった。さっきまで眺めていたアル・ムハムディア・モスクもうっすらとしか見えなくなっている。ガスが出やすい地形なのか、たまたまなのかは分からないが、俺の頭の中にはヤッフォ=霧という方式ができあがってしまった。20世紀初頭、期待と不安が入り交じった気持ちで新天地に賭けてきた移民たちにとって、こんな霧に出迎えられてはたまらなかっただろう。実際は快晴のもと、晴れやかな気持ちでヤッフォ港にやってきた移民がほとんどだったろうが、俺としては何としても彼らを可哀想な境遇に落として、その哀愁を想わなければ、ヤッフォでこのような印象的な霧に出会ったことに意味がなくなるような気がしたので、彼らを1900年代初頭に乞食のような格好でアメリカに渡っていったイタリア移民のように見立てて、その不安な気持ちに想いを巡らせてみた。

 さて、地図を片手にオールドヤッフォを歩き始めた。ところが坂を上って下りて10分も歩くと、大きな道に突き当たった。何だ? 地図には載ってないぞ。しばらく立ち止まって地図を見ながら考えて、やっとその理由が分かった。何と地図の端から端まで突き抜けてしまったわけである。そういえばと思って縮尺を見てみると、地図の端から端までは400メートル足らずだったのである。まさかオールドヤッフォがこんなに小さいとは思っていなかったため、ちょっと意外だった。注意深く戻っていくと、確かに地図の通りだった。小路をたどりながら、皮なめしシモンの家だとかをまわって、港まで降りてきた。まだ霧が濃く、ほとんど何も見えなかったが、さっき書いたようなわけで、俺にとっては霧で見えなくても十分だった。

 時刻は3時すぎである。最悪午前0時に空港に着けばいいのだから、時間は腐るほどある。ぶらぶら歩きながらバスターミナルへ戻ることにした。ちょっと蒸し暑いような中を重い荷物を背負って歩くのは正直言ってかなり堪えた。しかしそれでも、途中で少し寄り道して、ガイドブックにでかでかと載っている、中東一高いというシャローム・タワーのすぐ近くまで行ってみた。我々日本人にとっては、外から見ただけでは、何の変哲もないただの高層ビルである。最上階の34階にある展望台へ行こうかとも思ったが、今日はあまり見晴らしも良くないようだった(霧の影響か、街全体も水分が多いように感じた)し、それに疲れてもいたので、そのままバスターミナルへ向かって歩き始めた。予想以上に遠く、午後4時半にくたくたになってやっとバスターミナルに到着した。

 遅い昼食を取るためにターミナル内のセルフサービスのレストランへ入り、ライスと酢豚のような料理を食いながら、粘りに粘って午後6時頃まで居座った。手持ち無沙汰になってきたので、まだかなり早かったが、空港へ向かうことにした。バスで40分くらい、午後7時にベングリオン国際空港に到着した。おそらく搭乗手続きの開始は午前0時頃からだろうから、あと5時間も時間をつぶさなければならない。ここでもセルフレストランに入ってビールを2杯も飲んだり、ベンチに座って罪と罰を読んだりして、ひたすら時がすぎるのを待った。今回の旅の友だった罪と罰はこのときに読んでしまった。こうして、苦労しながら午前0時まで過ごした。

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