きのう、沖縄密約文書訴訟加冠する控訴審の判決が東京高裁であった。

 朝刊の解説によれば、対象となる密約文書は沖縄返還時に

  1. 返還協定で定めた3億2千万ドルを超えて日本が負担する
  2. 米軍用地の原状回復費400万ドルを日本が肩代わりする
  3. VOA(アメリカの謀略宣伝放送局)の移転費用1600万ドルを日本が肩代わりする

として1は1969年、2・3は1971年に日米の政府高官(おそらく外務大臣と国務大臣だろう)がイニシャルを書いて交換した文書だという。

 この裁判はアメリカ公文書館で当該の文書を「発見」した我部政明はじめ25人(他に西山太吉、澤地久枝など)が文書の開示を求めて提起したもの。一審は密約文書の存在を認め国に開示を命じたが、きのうの判決では密約文書の存在は認定したものの、二審に至って外務省と財務省が提出した「文書は見つからなかった」とする調査報告書を認め、「それまでの政府の説明が事実ではなかったこと明らかにならないように情報公開法施行前に秘密裏に廃棄した可能性を否定できない」と判じた。

 判決後の記者会見で西山太吉は「我々にとって、大勝利であり、同時に大敗北だ」と言った由。大勝利とは文書を国が保有していたことを認定したこと、大敗北というのは廃棄した可能性を認めて一審の開示命令を取り消したことだ。

 一方政府側のコメントも次のように報ぜられている。山口壮外務副大臣は「ないものはないからすみません、という話だ」、藤田幸久財務副大臣は「国側の主張が認められたものと理解している」、藤村修官房長官は「(政権交代以前に)保管から外した可能性は否定できないということなので、厳粛に受けとめるべきだ」。役人以上に役人らしい物言いで、なんだ所詮政権交代しても結局はこういうキンタマのない腑抜けになるのかという話。あきれてものも言えぬ。

 一方の当事者であるアメリカ側は大切に保管して、年限の経過したいまでは誰でも確認できるようになっている以上、密約文書の存在は争う余地はない。核密約に関する佐藤栄作とリチャード・ニクソンの署名入り文書が佐藤栄作の自邸の机の引出しから出て来たなどという絶句するような恥ずかしい話がある国のことだから、外務省や財務省が100%ウソをついていると断定することはできないが、少なくとも財政支出をともなう話である以上、何の証拠書類も確認・保管することなくカネが出されたというのは「不自然」であると「推認」できるだろう。

 もし、その文書を廃棄処分したというなら、誰がいかなる職権に基づいて命令したのかは明確にしなければなるまい。その人物は明らかに涜職行為をなしたのであるから、氏名を明らかにしてその犯罪行為について記録する必要があろう。「なくした」のではなく「なくするようにした」のでなければ「でてこない」ことの証明にはならない。青栁馨裁判長は基本的な判断ができないご仁か、官僚機構に不当に肩入れをする良心のないお人のようだ。

 それにしても・・・と思う。わずか数日前、政治資金規正法に基づく文書への「期ずれ」を咎め、それが「虚偽記載」にあたるか否かについて大騒ぎをした裁判があった国で、二国間の協定に関わる公文書が意図的に廃棄されたことが明らかにされながら、その下手人が誰であるか、その責任がどこにあるのかについては問おうともしない。不思議な国だ。

 さらに書けば、二国間の密約文書が一方の国では後日のために保管され、他方の国ではなかったことにして恬然としている。日頃やたらに「反日行為」に過敏に反応する者どもが何も言おうとしない。およそ文明国とは思えぬ行為により「国を貶めた反日行為だ」という声すら上がらない。奴らはメクラか。(9/30/2011)

 記録というものには人をワクワクさせるような何かがある・・・というものもあれば、ご当人(ないしはグループ)には「すばらしい!」ものらしいが、「で、それがなに?」というものもある。マスコミが囃し立てれば、「早グソ」だって「輝かしい、脅威の、大記録」にしたてられるだろう。

 イチローの年間200本安打という「記録」などは、どこに存在意義があり、なにが記録なのか、マスコミのヨイショを苦々しく思う者にはよく分からない「記録」だ。

 まず外見の話。「年間200本」というときの「200」にはどんな意味があるのだろう。チームのトップバッターのヒット数が200を越えると、199以下の場合よりも、チームの勝率が明らかに何%かアップするというのなら分からないでもないが、長年、野球を見続けてきてもそういうことはない。

 イチローはこれまで10年連続で年間200本以上、ヒットを打ってきたのだが、ことしは184本に留まり、11年連続という「記録」を逃した・・・と、我がマスコミは残念そうに報ずるが、無意味に見える記録にそれほどに拘るのなら、「これでイチローは11年連続で年間184本安打の偉大な記録を打ち立てました」とでも報じて差し上げたらよかろう。立派な記録ではないか、呵々。

 次に中味の話。アメリカ人という人種がどれほどヒット総数の多寡に留意しているのか、疑問に思う。彼の地のベースボールの試合には引き分けはない。勝ち負けこそが最大の関心事だからであろう。彼らのベースボールの楽しみは試合を分けるエキサイティングな投球、安打、走塁、捕球、・・・だ。試合の帰趨に関わらないところでのヒットは眼の覚めるようなクリーンヒットならばともかく、当たり損ねのボテゴロに感動することはたぶんない。ことし、イチローが「大記録」を逃したのは、例年よりボテゴロ内野安打が少なくなったからだそうだ。メジャーのファンの多くは「このこと」に気付いていないだろう。ボテゴロに感動していたならば気付かぬはずはない。つまりもともと印象が薄いからだ。

 11年連続記録が絶望的になった半月ほど前、ある解説者が「イチローにとっては、200本安打の記録が途切れる方がいいかもしれませんね。いままでイチローは連続記録を意識して、打ちにでていましたからね。来年はタマをよく見て、フォアボールを稼ぐようになり、打率を上げられるんじゃないですかね」と言っていた。

 どうだろう、ここ1・2年、イチローの三振は増加している。動体視力に衰えがあるからではないか。内野安打が少なくなっただけではなく、あまりクローズアップされていないが、併殺打が多くなっているそうだ。足に衰えが来ているからだろう。メジャーのプレイヤーの眼はいい。足に衰えのある選手とみれば打球の処理にあわてるようなことなくなる。いままでイチローの足という「先入観」故にプレイの確実さを犠牲にしていたとすれば、エラーの確率は格段に低くなるだろう。さらにエラーによる出塁か否か、記録員も「足の速さ」というバイアスをかけずに判定するようになれば「ヒット」と判定される確率も低くなるだろう。

 オールスター直後に「最近イチローはやたらコマーシャルで目立っているなぁ」と書いた。その際、「スポーツ選手がコマーシャルで目立ち始めるのは、本業が下り坂に差しかかった時だ」とも書いた。ことしの2割7分2厘という打率が、かつてイチローがインタビューごとに気取って使っていた「ボクにとっては通過点ですから」というフレーズに、ぴったりそのまま当てはまる言葉になるかもしれない。(9/29/2011)

 朝刊国際面から。

 オバマ米大統領が2009年11月に初来日する2カ月前に、当時の薮中三十二外務事務次官がルース駐日米大使に対し、オバマ氏が被爆地の広島を訪問することは「時期尚早」との考えを伝えていたことが分かった。内部告発サイト「ウィキリークス」が入手した在日米大使館発の米外交公電に記載されていた。
 公電は09年9月3日付。
 公電によると、薮中氏は同年8月28日にルース氏と会談。オバマ氏が同年4月に「核なき世界」を目指すと演説したことで、同氏が広島を訪問するかどうかが注目されているとし、「両政府はそうした国民の期待を抑えなければいけない」と述べたという。公電は、薮中氏がその理由として、オバマ大統領が広島で原爆投下を謝罪する見込みがないことをあげたとしている。
 薮中氏は27日、朝日新聞の取材に「コメントはしない」と回答した。

 アジア大洋州局長の前任者だった田中均が開いた拉致問題の扉を閉ざしてしまった藪中の「外交感覚」がうかがわれる話で、「なるほどね」と思わせる話。拉致問題が永久に解決不能になったのは、これに見る限り当然のことだったと納得がゆく。(9/28/2011)

 きのう、小沢秘書三人(大久保隆規、石川知裕、池田光智)に対する判決が東京地裁であった。

 この裁判では検面調書の大半が証拠採用されなかった。理由は「威迫と利益誘導があった」ため、任意性がないというものだった。村木厚子に対する郵便割引制度不正利用事件において、検面調書の多くが証拠採用されず、結果として村木無罪の判決が出たことを想起すれば、石川と池田の無罪は決まりだと思われた。しかし判決は全員有罪。しかも検察への「満額回答」(朝刊見出し)ともいうべき内容。

 検察側にとって一縷の望みであった「裁判長が登石郁朗であること」が結果的に活きた。なにしろ登石は大久保裁判の「訴因変更」を認め、石川・池田裁判と合併させるという「離れ業」をやってくれたいわば「頼りになる」裁判官。

 裁判傍聴ブログに登石についての寸評が載っている。「この裁判官には裁かれたくない。公正な裁判をするかどうか、わからないからだ」、「この裁判官のイメージカラーはグレイ。最高裁はこの裁判官を評価しているが、私はそのポイントがつかめない」。傍聴経験者は登石を、権力組織の都合に左右されず論理的な判断を下す「職業的良心」を大切にするタイプの裁判官はなく、法務官僚組織における評価の方を大切にする「出世主義者」タイプだと見ていたわけで、これが最後に物を言ったわけだ。日本の裁判は、多くの場合、分離してセットされることが多い。被告人一人一人に対して公判が別々に設定される。これは被告弁護側に過大な負担をかけることを狙ったものと思われる。だが、この裁判は「訴因変更」というアクロバットを演じてまでも「統一公判」(大震災直後に大久保が被災者になった関係で一時的に分離したことはあったが)にした。登石のような裁判官は「得がたい人材」だったからかもしれない。

 最初に西松建設政治献金で起訴された大久保は、政治献金をした団体が西松建設のダミー政治団体であることを知りながら、「3500万円の寄付を受けたように装う虚偽の記載を行った」(もしたとえダミーだとしてもそれなりの政治団体名でカネを受け取ったのに「西松建設から受け取った」と記載したら、その方が「虚偽記載」ではないかと思うのは・・・素人の浅はかさなのだろうか?)こと、そして石川らによる土地取引に関する虚偽記載にも関わったとして禁固3年執行猶予5年、石川は土地取引に関する虚偽記載で禁固2年執行猶予3年、池田も禁固1年執行猶予3年という量刑であった。大久保の刑が一番重かったのは「自ら天の声の発出役を担当し、企業との癒着に基づいた小沢事務所の資金集めに深く関わっていた。犯情は他の被告に比べて相当に思い」からだそうだが、それほど確実に「天の声」により公共工事案件の受注業者をコントロールしていたというなら、検察に対して「入札妨害罪で立件しなかったのは、検察として職務怠慢である」と指摘してもよかったろう。

 石川や池田についていえば、彼らの検面調書を証拠採用せずに、どのような証拠、証言によって有罪と判断したのかということになる。登石裁判長はここでも「離れ業」をやってのけた。

 こういう理屈だ。土地の購入に充てた4億円について収支報告書に記載をしなかったこと自体が、水谷建設から受け取った1億円(石川が受け取った5千万円と大久保が受け取った5千万円)の存在を隠すために行った隠蔽工作であると「推認される」。(世の中には4億円の記載がないと誤解している人もいるようだが、4億円の収入そのものについては04年の収支報告書に記載がある由。そのカネが小沢個人から用立てられたカネか、いったん定期預金にして、それを担保に陸山会代表者である小沢が銀行から融資を受けたカネか、いわばカネの「素性」が明確にされていないだけのこと。政治資金規正法は実質的な収入額を記載することを求めているのみで、経緯について明確にすることを求めているのではない。つまり、ややこしいことをしているなぁとは思うものの、そのこと自体は違法ではない)

 これが判決のエッセンスだ。検察の立証は蹴飛ばしておいて、あれこれの「証言」に対する裁判官の心証に基づく「推理」で判決したということ。「魔女裁判」あるいは「カンガルー・コート」とはこういうものだったのかもしれない。「被告の『わたしは魔女ではない』という『説明』は『不自然』だ。だから被告は魔女だ」。この理屈で裁かれれば無罪になる者はいない。

 カンガルー・コートの主催者たる登石もさすがに「認定」という言葉は使いかねたのだろう。確たる証拠があるわけではないが、合理的に「推理」すれば「認定」できる、だから「推認」という呼ぶことにしよう。こんなところだろうか。この理屈でゆけば、「あやしい」、「きにいらない」、ないしは「どこかうさんくさい」という輩はすべて「犯罪者であると推認できる」ということになる。恐ろしい話だ。

 最後に、何があろうと法務官僚組織の意向に添った結論を出そうと決心したのなら、なぜ、検面調書を不採用にしたのかという疑問が浮かぶ。

 この裁判が進行するのとほぼ平行して大阪地検特捜部による証拠改竄というスキャンダルが露見した。事件の主役になった前田恒彦検事が大久保の取調べを担当したこともあり、「どうも検察官というのは平然と調書をでっち上げる人種らしい」ということが常識化した。それに加えて、石川が取調べ状況をひそかにICレコーダーに録音、これを証拠提出する構えを見せた。実際には、録音は提出されず、文書化したものが証拠採用されるにとどまったが、検察を含め法務官僚としてはこれが法廷で再生されることは避けたかったのだろう。つまり「威迫と利益誘導」という違法な取調べの実態が生の音声で晒されるのを隠すために、検面調書不採用という目眩ましをせざるを得なかったのではないか。これが判決結果から見るといかにも不自然な登石裁判長の「犯行動機」であると「推認」される。呵々。

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 先週木曜、74円80銭で仕入れた買い玉がすこしばかり高値水準だったような気がして、ここまではどうかと思われる76円10銭の指し値で決済売りにかけた。売れなければそれでもよしという気分。ところが夜9時をまわったくらいから円安に振れ始め、10時すぎに決済されてしまった。決済後も上げ止まらない。まあ、喜びも中くらいが良い。

 アメリカの不動産市場は一向に改善されないらしい。アメリカに底入れの徴候が出ないうちは、愛国的なアメリカの格付け会社はPIIGSの格付けをいじることでユーロ攻撃を続けるに違いない。そのたびにジェットコースターは上がり下がりを続ける。

 呼吸のリズムを読むことだ。恐いのは「誰かが過剰に反応するか」、「大チョンボをやらかすこと」。いまのところ、42円界隈までの下げには対応できるようにしてあるが、手元資金は確保しておかないと、去年の6月頃のようになってしまう。また、74円界隈まで降りてくるだろう。74円ちょうどと73円あたりに網を張って待つことにしよう。(9/27/2011)

 中国電力の原発建設予定地、上関町の町長選がきのう行われ、原発推進派の現職柏原重海が3選された由。朝刊には「1982年に原発計画が浮上して以来、町長選は9度目。推進派と反対派の一騎打ちは、これで推進派の9連勝となった」とある。

 朝日デジタルに「岐路の上関」という記事がある。当該の日付の宅配版には見当たらない記事だから、おそらく地元版ないしは西日本版に掲載された記事だろう。それには「事前調査の始まった84年から昨年度までに、町には45億円の原発関連交付金が入った」とある。原発自治体にはこのような公明正大なカネの他にも電力会社が数々の施設を建ててくれるし、公にされないヤミの寄付金も入る。

 東京電力が福島、新潟、青森の三県と県下の自治体に集中豪雨のようにカネをばらまいていた(過去20年間に4百数十億円)ことは一週間ほど前に報ぜられた通り。フクシマ事故の直後に「福島は東北電力の管内、地元では消費されない電力を発電している。首都圏のための原発であることを考慮しなければならない」などという発言もあった。しかし首都圏の電力消費者はこの莫大なカネを電気料金として負担していたわけで、いささかナイーブに過ぎる(ないしは「ためにする」)発言だったことになる。

 話を元に戻す。上関町もとっくの昔に原発という覚醒剤の中毒患者になっているというわけだ。勝利した町長や選挙参謀は勝利コメントを求められて、「地域を活性化するために他にどんな方法があるのか。あれば教えて欲しい。原発は必要悪だ」と言ったそうだ。なるほど「悪いこと」であること、「汚いカネ」であることの自覚はあるらしい、上等だ、呵々。だが「岐路の上関」が書いている数字は無惨だ。「(事前調査の始まった)84年に6647人だった人口は、今月1日現在で3534人」。「原発中毒」がかえって町の衰退を招いているという皮肉。これが魂を悪魔に売った連中が直面している「現実」だ。原発という覚醒剤などに手を出さなくとも、ちゃんとやっているじいちゃん・ばあちゃんの町や村は全国各地にある。むしろ、そちらの方が多いのだ。「必要悪」と自嘲しながら「悪」に手を染めるのは覚醒常習者と同じ。知恵を出さずに安易な生き方を選ぶのはグータラどもの常だと思えば、得心がゆく。

 上関原発ができれば、伊方原発と並んで、内海に面した原発になる。どちらかの原発で「想定外」の事故が発生すれば、外海に面している福島より影響は深刻かつ放射能汚染は長期化することだろう。高級ブランドで名高い「関アジ・関サバ」などは消えてなくなるかもしれない。その時、原発推進派の連中は腹を掻っ捌いて侘びてくれるのだろうか。覚醒剤常習者同様の下衆どもには、そんな覚悟など露ほどもなかろう・・・、柏原町長とその一派に訊いてみたいものだ。

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 注文していた磯江毅の「写実考」が届いた。あの「シーン」という音が聞こえてきそうなくらい静まりかえった世界に身を沈めるようにして独り愉しみたい夜、そういう夜が、これから先、幾度も訪れそうに思えたからだ。(9/26/2011)

 タイラー・コーエンの「大停滞」、読了。腰巻きによると、「2011年、最も話題の経済書」(米ビジネスウィーク誌)、「過去30年間の歴史に関する常識を根本から揺さぶる一冊」(エコノミスト誌)、「コーエンは本書によりみずからが経済論議に欠かせない存在であることを実証した」(ナショナル・レビュー誌)など、最大級の賛辞、ワシントン・ポストに至っては「本書を読み終えると、コーエンの主張を裏付ける実例が社会のいたるところで目につきはじめる。良書とはそういうものなのだろう」と書いている。

 この本のエッセンスは「アメリカ経済の停滞の原因は"容易に収穫できる果実"の枯渇にある」という主張にある。"容易に収穫できる果実"とは、ある時代は「無償の土地(ネイティブ・アメリカンから土地をぶんどった)」であったし、つい最近までは「技術革新」と「未教育の賢い子どもたち(高等教育を受けていないにもかかわらず気の利いた仕事のできる安い労働力のことらしい)」のことをさしている。

 これらの条件が飽和し、新たな"容易に収穫できる果実"が登場しないために、アメリカ経済がかつての成長率を確保できなくなっているというのが、コーエンの「卓見」であるというわけだ。この本を「読み終えな」くとも、先進国の行き詰まりの原因が「温度差の消失」にあることくらいは誰でも気付いていること(いずれ「熱平衡」に到達するのは自然の理ではないか)ではないかと思えるが、案外、専門の細分化の進んだアメリカのビジネスマンにとっては「独創的な知見」に思われるのかもしれない。

 コーエンは「"容易に収穫できる果実"がふんだんにないと、政治を行うのは非常に難しい」と書いているが、問題は「高い収益をもたらすための"容易に収穫できる果実"がなくなってしまったこと」にあるのではなかろう。"容易に収穫できる果実"が消失したために陥った低成長時代に適合した政治(経済運用の考え方)の構想すらもたてられず、当然の帰結として、現在に適合した政治が実現できないことに問題があるのだ。

 訪れたばかりの低成長時代に金持ちと貧乏人の取り分の比率を変えずに切り盛りしようとする方がどだい無理な話なのだ。イノベーションでも教育の成果でも何でもいいが、新たな"容易に収穫できる果実"が見出されるまでは、金持ちは金持ちとして社会へのノレス・オブリージュを果たすべきなのだ。現にウォーレン・バフェットなどはそういう呼びかけをしているではないか。

 コーエンのこの本はどちらかというと、分かりきったことを大げさに指摘してみせ、はびこりにはびこった新自由主義の抱える本質的な問題を韜晦しているだけのクズ本と断じてよかろう。(9/25/2011)

 磯江毅作品展。けっこうの数、個人所蔵というものが出ていた。

 それを見ながら、ちょうど一週間前、増田誠展を観た夜の飲み会で**くんが「個人所蔵の美術品のデータベースを創る呼びかけをしたい」と言っていた。

 長くはなかったにせよ、「Japan as Number One」と持ち上げられた時期もあったのだ。実感があるかどうかは別にしてストックも相応の水準にあることは事実。とすれば、それに見合っただけの美術的文化資産が活きた形で所蔵されていてもいい。そうでなくてはいかにも寂しい。

 欧米の美術館の開催する企画展はお互いが所蔵する作品を相互に貸し出すことで成立しているという。つまり自分の方にあるていどの「ストック」がなければ質の高い企画展の開催は難しいのだ。しかし、国立新美術館を見ればわかるように、ハード(箱物)にはカネを出すがソフト(展示品と学芸員)にカネをかける気にはなれないというのが、最近のこの国の風潮。

 そんな貧しい精神の国で何とか「新機軸」を打ち出すとしたら、個人所蔵品のデータベースとオーナーとの契約によりバーチャルなナショナル・ギャラリーという「システム」で答えるというのはひとつのアイデアであろう。**くんの呼びかけが広まり、アイデアが拡充されることに期待したい。(9/24/2011)

 あさ、起きると74円ちょうどが約定していた。いま現在は75円台に戻しているがちょっと恐い。外出予定の時と週をまたぐ時は気をつけるべきと考え、73円60銭の買いはキャンセルした。FXは「使い勝手のいい外貨預金」として利用というポリシーなのだが、どうしても助平根性が入ってくる。

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 練馬区立美術館(ニチバンの工場があったところだと思う)で磯江毅の作品展を観る。

 その作品は写実の極。泣き叫ぶ子供のデッサンなどは息をのむ。椅子の木の質感、着ている服の布地の質感、握りしめたスプーンの金属の質感、それぞれがそのままに見てとれる。描き分けられているという感じはしない。そのまま対象物の当然の属性として伝わってくる。「まるで写真のよう」という言い方があるが、それではない。だだをこねている子供の存在感は写真以上に圧倒的だ。あえて写真と比較するとすれば、小島一郎の写真に通底するものがあるように思った。パチリとシャッターを切って写し取りましたという「絵」ではないのだ。

 たまたまなのかどうか分からないが多くの作品はカンバスではなく「板」に書かれている。また、ちょっと不思議なのは、対象物のみが写実の極にあり背景には及んでいないこととと、モノクロのデッサンの恐ろしいほどの写実の緊張感が油彩になると、思いの外、緩むような感じになること。

 それにしても、何という静かな世界だ。「静謐」という言葉そのもの。こういう「眼」を持ちたい、その眼で見たものを表わす業は、当然ながら、我が身とは無縁のものだとしても。

 54年生まれ、**(弟)と同い年。07年、53歳で亡くなった由。もう少し永らえたならば、どんな世界を見せてくれただろうなどと思うと、ほんとうに残念。(9/23/2011)

 朝刊、社会面に小さな記事。

 静岡県牧之原市議会は21日の全員協議会で、隣接する御前崎市にある中部電力浜岡原子力発電所について「確実な安全・安心が将来にわたって担保されないかぎり、永久停止にすべきだ」とする決議案を26日の本会議に提出することを賛成多数で決めた。
 牧之原市では福島第一原発の事故後、自動車メーカーのスズキが浜岡原発から11キロの相良工場の一部機能移転を検討中。同市が実施した市民意識調査では、浜岡原発の「停止」か「廃炉」を求める意見が6割を占めており、西原茂樹市長は「浜岡原発の是非について方向性を出して欲しい」と市議会に要請していた。
 全員協議会では「周辺市との関係にひびが入る」といった反対意見もあったが、議員17人のうち、賛成12人、反対4人、欠席1人で、議案提出が決まった。(竹田和敏)

 原発が立地される自治体にはたんまりカネが入るが、周辺の自治体にはさほど大きなカネは入らない。雀の涙ていどの迷惑料と引き換えに、簡単に「リスク」と呼ぶには桁違いの「保有」しきれないほどの「リスク」を背負わされるわけだ。

 「周辺市との関係にひびが入る」という言い方は、一聴、美しいが福島第一原発「事故」で塗炭の苦しみを味わっている飯舘村や南相馬市などの現状をみれば、そんな情緒的な「反対意見」に意味があるとは思えない。この3月以降で大熊町や双葉町の町長がこれら近隣の市町村に「火元」として頭を下げたか。なにがしかの支援や救済の話を持ちかけたか。被害者面をしているではないか、不心得な輩のために隣人が大迷惑を被っているというのに。

 浜岡原発で福島同様の「事故」が発生すれば、牧之原市の主要産品である、茶、シラスなど壊滅的な被害をこうむり、立ち直るためには百年オーダーの時間がかかることだろう。ひたすら原発頼りの財政にぬくぬくしている御前崎市とは事情が違う。原発は覚醒剤のようなものだ。いずれ人格崩壊を招く。御前崎市長の無能にして厚顔無恥なる表情を見れば、原発という覚醒剤がどれほど自治体と人間をダメにするか、一目瞭然だろう。

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 夕方、豪ドルが76円50銭台から75円30銭あたりまで急落した。下落のピッチが速い。3月末に一括決済をしてからずっとウォッチを続けてきた。とりあえず、74円80銭と40銭に買いの網を張った。すると9時半ごろに74円80銭で約定、それから1時間ちょっとで74円40銭まで約定してしまった。こうもあっさり約定すると少し不安に駆られる。しばらく迷った後、いま、74円ちょうどと73円60銭に買いを入れた。あっさり降りてくるようなら、ここまででしばらくは打ち止めにしよう。(9/22/2011)

 きのうのうちに帰ってきて幸い。台風15号による風が凄い。昼過ぎ、**さんの家の裏手あたりからトタン板のようなものが風にあおられてバタバタしているような音が聞こえた。相当の風速。雨はさほどでもない。

 浜松付近に上陸、甲府から宇都宮へ移動中というわりには、雨はたいした事はなく風のみ。その風も先ほどからは凪いだ感じ。電車は運転を見合わせていて、渋谷あたりのバスターミナルはすごい混雑というのだが、バス停に並べるということは峠を越したのかもしれない。少し、拍子抜け。(9/21/2011)

 帰りは12時半千歳発ANA062便。ホテルを9時半近くにチェックアウト、外気温は17℃、涼しい。時間はたっぷりあるので、すすきのから札幌駅まで歩くことにした。4丁目交差点にはかつては富貴堂、維新堂があり、三越の東隣には丸善もあった。中学の2年から高校を出るまで中心街のこれらの本屋は、維新堂の北隣にあった古書店を含めて、なじみの店だった。もっともフリーパスで買ってもらえる参考書を別にすれば、買うことは圧倒的に少なく、ほとんどが立読み、図書館代わりだった。

 すべてなくなってしまったなと思いつつ4丁目通りを駅に向かっていたら、なんと丸善があるではないか。開店したばかりの店に入って、特急の中で「素粒子物理が説明する宇宙論」の素人わかりする本として**に薦められた村山斉の「宇宙は何でできているのか」を買い、家に着くまでに読み終えた。

 ちょっといくら何でもこれは素人向きすぎる(ほとんどが「結論」しか書いていない)と内心むくれたが、理学博士としてはかえって中級の本は薦めにくかったのかもしれない。まあ、クォーク理論について頭の中が整理され、少し分かったつもりになれたのはよかった。

 彼岸の入りなのに期待したほどに爽やかではない。湿度が高いのだろう、蒸し暑い。彼岸あけの日までにはなんとか名実ともに秋になっていて欲しい。(9/20/2011)

 霧多布の旅館「くりもと」を出発。霧多布岬を散策してから、ひたすら釧路をめざしてドライブ。レンタカーを返却してから(プリウスとヴィッツの燃費の違いにビックリ、ガソリン代が倍・半分)、13時25分発の「おおぞら10号」で札幌へ。札幌に着いてから、**さんの案内でJRタワーへ。きょうは老人の日のため、通常700円の入場料が無料とか。こういう情報は主婦の独擅場。夕焼けに染まる祝津あたりの岬がきれいだった。

 東横インにチェックインしてから、**くんと待ち合わせなどして**と三人で大通りで開催中の「オータムフェスト」へ。ラム肉をパクつくテントで隣り合った席のOL三人組、三人そろって美人。お話ができた**は大満足の体。ANAオープンを観戦、あしたはワンラウンドして帰る予定とか。・・・「お目当ての遼くんが予選落ちしちゃって・・・でも、あした、楽しんでから帰りま~す」。二十代も後半に見えるが、絶対にそうかと問われれば自信はない。連休にプラス一日、余裕の独身ライフという感じ。

 妙齢の女性は心を浮き立たせてくれる。もう少し、遊び慣れたおじさんだったらよかったのだが、こちらはそういうが不得手のまま人生を終えそうな三人で、ごめんなさいね。ああ、残念。(9/19/2011)

 13時羽田発のANA065便で札幌入り。期待して降りた千歳だったが、案外、蒸し暑く、がっかり。

 いつもの東横イン「すすきの南」は改装してシングルがなくなったので、「すすきの交差点」にチェックイン。「すすきの南」は部屋が広くゆったりしていてお気に入りだったのだが、シングルにしておくのはもったいないということになったのかもしれぬ。

 頭の中の街角と眼前の街角を比べながら、ちょっと街歩き。この街が嫌いだった時代もあったなぁ・・・などと思いながら辻から辻へ。あの角を曲がると映画館とか、ここで振り返ると電停とか、それが、思い通りの街並みだったり、勘違いかと思うほどに変わっていたりとか。そういうゲームをしながら、懐かしい町を歩いてきた。

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 いま、報道ステーションに古賀茂明が出演している。「増税論議というと、必ず、子供たちにツケを回すべきではないという人たちが、原子力発電で出てくる放射性廃棄物、確実に将来問題になるものについて何も言わない。非常にバランスを欠いた話だ」。古賀は今月いっぱいで経産省を退職する由。

 サラリーマン時代、何回も見てきたことだが、いよいよ辞めるときになると、人は真っ当なことを言うようになる。その認識で仕事をしていてくれたら、どんなにやりやすかったことかと思うが、バリバリの現役の時にその感覚で仕事をする人はほとんどいない。古賀も辞めるときだからこう言うのか、それともこういうことを言う役人だったから辞めることになったのか、どちらなのだろう。(9/16/2011)

 朝刊の「社説余滴」、大野博人論説主幹代理がすっきりと書いてくれている。

タイトル:何ともグロテスクな辞任騒ぎ
 「死のまち」に端を発する鉢呂吉雄経済産業相の辞任騒ぎは、グロテスクだと思う。
 政治がこんなことにエネルギーと時間を費やしていると、肝心な問題が後回しになる、からではない。政治が肝心な問題を後回しにしたくて、こんなことにエネルギーと時間を費やし、メディアがそれを助長したように見えるからだ。
 肝心な問題とは「事故原発の周辺地域にはもうずっと住めなくなるのか、住めるようになるとしてもいつからなのか」だ。が、これは希望のもてる答えが見つかりそうにない重い問いだ。
 それに向き合わずにすますため、政治家は手慣れた失言問題に飛びつき、メディアがあおる――。こう感じたのは今回が初めてではない。
 4月、松本健一内閣参与が、周辺地域の見通しを菅直人首相の言葉として話し、騒ぎになった。「場合によっては周辺30キロ以上のところも当面住めないだろう」などという発言だ。
 政界やメディアはもっぱら、住民感情への配慮が足りない、あるいは官邸の情報管理が甘いといった視点から取り上げ、批判した。その結果、肝心な内容についての議論は進まなかった。
 「死のまち」をいくつかの英語メィアは「ゴーストタウン」と訳した。この言葉は多くの人が指摘するとおり、朝日新聞を含めて日本のメディアにもしばしば登場してきた。記者の言葉、また、ふるさとを嘆く住民自身の言葉として、現実を語る表現だったはずだ。
 外来語でなくなったとたんに問題視することに、意味があるとは思えない。
 論説委員室では政策責任者の言葉だから問題なのだという反論を受けた。「放射能をつけちゃうぞ」という言動も緊張感を欠きすぎているとして、社説は「辞任はやむを得ない」と指摘した。
 だが、本人に思慮が足りないにしても、閣僚辞任までの事態の進み方は異様だ。
 メディアが問題にし、政治家が反応し、それをまたメディアが取り上げ、そのたびに騒動が肥大化、深刻化し、肝心の問題は置き去りになる。そして閣僚の首が飛んで終わる。このメカニズムは健全ではない。
 答えの出せない問いを、答えを出せる問いにすり替えても、人々の心に残るのは、政治とメディアへの不信感だけだ。

 なぜ、朝日はこの線で社説をまとめ、紙面を構成できなかったのだ、そう言いたい。話し合うほど、いまのこの国で猖獗を極める「被災者さまのお気持ちに配慮する」と称する「へなちょこ談義」に落ち着くというのなら、話し合うことなどない。

 腰痛、というよりは、背筋が痛い。あしたからの釧路行きに備えて、久々に愛泉道院へ。通常の処置の後、テーピングをしてもらった。(9/15/2011)

 2泊3日、家を空けている間に、鉢呂吉雄経産相が辞任していた。辞任そのものは日曜の朝刊見出しで知っていたが、何がどのように問題なのか、よく分からなかった。

 問題とされたのは、福島第一原発周辺の視察終了後に感想を問われて「死の町だった」と答えたことと、同行記者に「放射能をつけちゃうぞ」と言いながら、防災服をすりつけたことの二点。一体これらのことのどこが「大臣の資質を欠く不適切な言動」なのか。

 けさ、留守中の新聞を眺めていたら、きのうの朝刊に検証風の記事を見つけた。記事には「問題」の発生順序と報道内容に関する興味深い話が載っていた。

 鉢呂氏が問題の言動をしたのは、東京・赤坂にある衆院議員宿舎の玄関前であった記者団とのやりとりの中だった。東京電力の福島第一原発周辺の視察を終えた鉢呂氏は、8日午後11時20分ごろ、経産相の公用車で帰宅。公用車から降りるとオートロック式の宿舎玄関まで数㍍歩いた。玄関付近で待機していた記者団が一斉に追いかけると、エントランスで足を止めて振り返った。
 鉢呂氏は防災服のままで、隣には警護警察官(SP)と経産相秘書官が立っていた。ドアを背に振り向いた鉢呂氏を、経産省担当とみられる記者5、6人が半円形に取り囲んだ。朝日新聞とNHKは、現場に居合わせた政治担当記者が、後ろからやりとりに加わった。経産省担当記者らの所属する会社などは分からなかった。
 「視察はどうでしたか」。記者団が切り出すと、鉢呂氏は視察の模様を自らの感想を交えながら語った。途中で質問が途切れると、防災服の胸ポケットにしまっていた個人用線量計をのぞき、その日に測定された数値の一つを読み上げた。その直後、目の前にいた記者の1人に防災服の袖をこすりつけるようなしぐさをして、「放射能をつけちゃうぞ」と発言した。
 鉢呂氏の行為について、その場にいた記者は抗議や反応をしなかった。その後は除染対策をめぐる予算措置の話題に移り、やりとりは終了した。全体で5分程度だった。

 これが「放射能つけちゃうぞ」発言の顛末らしい。たしかに子供っぽいといえば、子供っぽいが、大臣の資質に疑問が生ずるほどの言動かどうかということになれば、このていどのおふざけをする人に心当たりがない人はいないだろう。酒の席で悪口としては「鉢呂って奴はそんなていどだよ、そんな奴を大臣にする人事ってどうだ?」と問われて、「どうかと思うね」とは答えても「即事に馘首にしなければ大変なことになる」といきり立つ人はおるまい。逆に、このていどの稚気に気色ばむ方が「子供っぽい」。

 興味深いと思ったのはその続きだ。

 9日午前、新聞やテレビ・通信社は鉢呂氏の「放射能」発言を報じなかった。
 だが、その日午前の記者会見で、鉢呂氏は原発周辺自治体を「死のまち」と表現。野田佳彦首相は9日昼すぎ、「不穏当な発言だ。謝罪して訂正してほしい」と語り、鉢呂氏は同日夕に発言を撤回し、謝罪した。
 「放射能」発言を最初に報じたのはフジテレビとみられる。9日午後6時50分過ぎ、鉢呂氏の失言関連ニュースの最後に「防災服の袖を取材記者の服になすりつけて、『放射能を分けてやるよ』などと話している姿が目撃されている」と伝聞調で伝えた。
 午後8時半には自社のウェブサイトにも掲載。この後、他のメディアも報じ始め、共同通信は午後9時過ぎ、「放射能」発言を加盟社向けに速報し、約30分後に記事を配信。TBSは午後11時半からのニュースで報じ、NHKも午後11時59分に「経産相『放射性物質うつった』発言」というニュースをネット配信。朝日新聞など新聞各社も10日付の朝刊で発言を大きく扱った。
 一方、発言内容や自社の記者が現場にいたのかどうかの表現は、社によってばらついた。毎日新聞は「毎日新聞記者に近寄り、防災服をすりつけるしぐさをしながら『放射能をつけたぞ』という趣旨の発言をした」と報道。9日に報じなかった理由は「経緯についてはお話ししかねる」(社長室広報担当)という。
 同様に自社の記者が現場にいたことを明らかにしている共同通信は「鉢呂氏が突然、記者の一人にすり寄り、『放射能をうつしてやる』という趣旨の発言をした」と報道。同時に、経済部長名で「『死の町』発言で、原発事故対策を担う閣僚としての資質に疑義が生じたことで、前夜の囲み取材での言動についても報道するべきだと判断した」というコメントも配信した。
 他のメディアでは、産経新聞、東京新聞、テレビ東京、時事通信が「囲み取材には参加していなかった」としており、鉢呂氏の発言を確認した方法などは明らかにしていない。日本テレビ、TBS、テレビ朝日などは取材に対し、取材の過程については答えられない旨を回答。フジテレビは「取材の結果、報道する必要があると判断した」とし、記者が現場にいたかは明らかにしていない。
 朝日新聞の渡辺勉・政治エディターは「8日夜の議員宿舎での発言の後、鉢呂氏は9日午前の記者会見で『死のまち』とも発言。閣僚の資質に関わる重大な問題と判断して10日付朝刊(最終版)で掲載した」と話す。辞任会見で鉢呂氏が、議員宿舎での取材を「非公式の懇談」と語ったことについては「議員宿舎の玄関付近での取材は自由であり、扱いについて特段のルールはない」としている。

 囲み取材に参加していなかった各社はどのようにして報じたのだろう?

 この時、現場にいたのは、鉢呂本人と囲み取材を行った毎日、朝日、NHK+最大3社の記者、それにSP、秘書官だ。とすると、まずそういう事実の存在については囲み取材に参加していた他社の記者から聞き(じつに微笑ましい光景だ)、SPないしは秘書官(通常、簡単には「余計なこと」を言わない人たちのはずだが)に裏を取ったということになる。なお東京新聞は共同通信からの配信記事を報じたそうだから不自然はない。(サンケイ新聞も共同通信と契約しているはずだが、なぜ共同配信の記事を使わなかったのだろう?)

 記事には新聞各紙がどのように「つけちゃうぞ」発言を報じたかを表にまとめたものも載っている。

 朝日新聞  記者団に「放射能つけちゃうぞ」と発言。記者の一人に、着ていた防災服をなすりつけるようなしぐさもした
 読売新聞 防災服の袖を記者にくっつけるしぐさをし、「ほら、放射能」と語りかけた
 毎日新聞 毎日新聞の記者に近寄り、防災服をすりつけるしぐさをして「放射能つけたぞ」という趣旨の発言をした
 日経新聞 報道陣の一人に袖を「放射能をつけてやろうか」と冗談混じりに述べた
 東京新聞 報道陣の一人に防災服をすりつけるしぐさをし、「放射能をうつしてやる」という趣旨の発言をした
 産経新聞 記者に防災服の袖をすりつけるしぐさをし、「放射能うつしてやる」などと発言
 共同通信 報道陣の一人に防災服をすりつけるしぐさをし、「放射能をうつしてやる」という趣旨の発言をした
 時事通信 記者のうちの一人に防災服の腕の部分などを近づけ、「放射能を付けたぞ」との趣旨の発言をした

 鉢呂の行為の「被害者」になったのは毎日新聞の記者。面白いのはその毎日の記事が「・・・という趣旨の発言」という書き方をしていること。囲み取材に参加していなかった時事通信が「・・・との趣旨の発言」と書く気持ちは分からないでもないが、「被害者」ならば「言い切り」の形で記事を書けなかったのはどうしてか。いささか情けないような気がする。その場にいなかったと自白しているサンケイ新聞が断定調で書いているのと好対照だ。見てきたようなウソを書く、サンケイ新聞の面目躍如か、呵々)

 こうしてみると、鉢呂の「馘首」を決定づけたのは「死の町」という発言だったことになる。

 では、「死の町」という表現はそれほど不当なものだろうか。建物が損壊しているわけではなく、眼に見える異常は見当たらないのに、なのに町には人っ子一人いない・・・そういう町を見て、まさに「死の町」だなぁという感想を持つこと、そして、そういう思いがしたと述べることは不謹慎なことだろうか。大臣が職務を遂行する資質を欠いていることを「証明する」発言だろうか。

 まるで死んだように見える町を普通の生きている町に戻すために何をすべきかを考えるために、現地には行けない国民に対し、現地がどうなっているかをひとことで伝える言葉としては的確な言葉ではないかとさえ思うのだが・・・。

 むしろ本来の使命を果たすための資質を決定的に欠いているのはマスコミの方だろう。取材に立ち会いもしなかった場での出来事を「見ていた」かのように報じた一部の新聞、通信社、テレビ各局(NHKを除く)の方がよほど「ジャーナリズムとしての資質を欠いている存在」だろう。まあ、いささか頼りない鉢呂の後任に枝野が経産相を勤めることになったことを喜びたいとは思うけれども。平成の政治テロリスト、マスコミにカンパイ。

 しかし、社説には「担当閣僚としてあまりに緊張感を欠いており・・・」などと本質を見失ったグダグダを書いている。朝日よ、こういう検証記事をまとめられるのなら、まず、バカな記事と論旨の濁った社説を垂れ流す前に、凡百のバカマスコミとは一線を画するくらいの土性骨を見せろ。文春だとか新潮の朝日攻撃に萎縮して阿呆どもに迎合するな。脳みその欠片もない連中に媚びることはやめろ。十年後に読んでも耐えられる、そういう新聞になるのなら、倍の購読料でも払ってやる。(9/14/2011)


 朝刊オピニオン欄に、チョムスキーがニューヨーク・タイムズに寄せた記事の抄訳が載っている。

 2001年9月11日の恐ろしい残虐行為から、今年で10年になる。事件は世界を変えたと広く考えられている。
 あの攻撃による影響は疑いようがない。西・中央アジアだけを見ても、アフガニスタンはかろうじて存続し、イラクは破壊された。パキスタンは壊滅的となり得るほどの最悪の事態に少しずつ近づきつつある。
 今年5月1日、この犯罪の首謀者と見られるオサマ・ビンラディンがパキスタンで暗殺された。それによる重大な影響が最も早く表れたのも、パキスタンだった。パキスタンがビンラディンを引き渡さなかったことへの米国政府の怒りが、大きな議論となっている。一方で、米国が政治的暗殺を実行するためにパキスタンの領土に侵入したことに対するパキスタン人の怒りについては、さほど語られていない。
§
 パキスタン研究の代表的な専門家の1人で、英国軍事史家でもあるアナトール・リーベン氏は2月、アフガニスタンでの戦争について「パキスタンを揺るがし、過激にし、米国、そして世界にとっての地政学的な惨事を招く危険を冒している」と、ナショナル・インタレスト誌に書いている。
 リーベン氏が言うには、パキスタン人は社会のあらゆるレベルで、アフガニスタンの(反政府武装勢力)タリバーンに驚くほど共鳴している。パキスタンの軍事指導者たちもこうした感情を共有する。彼らは、米国政府による対タリバーン戦争のために犠牲になることを強いる米国の圧力に、激しく憤っている。
 パキスタンでは、軍部は安定した組織であり、国を団結させている。リーベン氏によると、米国の行動は「軍の一部の反抗を招く」可能性があり、その場合、「パキスタン国家はまたたく間に崩壊し、これに伴ってあらゆる災難が発生するだろう」としている。
 起こり得る災難を著しく悪化させるのは、パキスタンの大規模で急速に拡大しつつある核兵器保有量や、同国におけるジハード(聖戦)戦士の活発な活動だ。
 背後に潜んでいる災難は、これら二つが組み合わさり、核分裂性物質がジハード戦士の手に流れるかもしれないことだ。そして、核兵器、それもおそらくは核汚染を引き起こす「ダーティーボム(汚れた爆弾)」が、ロンドンやニューヨークで爆発するのを目にすることになるかもしれない。
 多くの専門家は、米国との戦争でビンラディンがいくつかの大きな成功を収めたと述べている。
 中央情報局(CIA)の上級分析官として、1996年からビンラディンを追跡していたマイケル・ショワー氏は、04年の著書「帝国の傲慢」で、こう説明する。「ビンラディンは、戦争を仕掛ける理由を、米国に対して明確に述べてきた。彼はイスラム世界に対する米国や西洋の政策をすっかり変えてしまおうと躍起になっている」。そして、彼は目的の大部分を達成した。
 ショワー氏は続ける。「米国の軍と政策は、イスラム世界の過激化を仕上げつつある」。ビンラディンの死後も、おそらくそうあり続けている。
 過去10年にわたる恐怖の連続から、次のような疑問が生じる。9月11日の攻撃に対する欧米の対応には、ほかに方法があっただろうか?
 ジハード戦士は、その多くがビンラディンに対してかなり批判的であり、9・11の後、この活動を分裂させ、弱体化させることも可能だった。それは「人道に対する罪」と的確に呼ばれたあの攻撃を犯罪として扱い、容疑者を逮捕するために国際的な行動をとっていれば、の話である。当時はこの考えが受け入れられたが、戦争へと突き進む中では考慮されることすらなかった。ビンラディンに関しては、あの攻撃についてアラブ世界の大部分から非難を受けたことも付け加えておきたい。
§
 ビンラディンは死を迎えるずっと前から存在感を失いつつあり、死ぬ前の数カ月間は、中東および北アフリカの民主化運動「アラブの春」によって、影が薄くなっていた。彼のアラブ世界における重要性は、中東の専門家ジル・ケペル氏がニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した記事の見出しがうまく言い表している。「ビンラディンはすでに死んでいた」ということだ。
 米国がジハード戦士を結集させず、アフガニスタンやイラクに報復攻撃しなければ、はるか前にこの見出しが出ていたかもしれない。
 ジハード戦士の活動において、ビンラディンがシンボルとして崇拝されていたことは間違いない。しかし、専門家が「ネットワークのネットワーク」と呼ぶように、アルカイダはほとんど個別に行動している。どうやらビンラディンは、アルカイダに対してもはや大した役割を担わなかったようだ。
 9・11とその結果、そしてそこから将来の予兆を考えると、過去10年の最も明白で基本的な事実を振り返っただけでも、荒涼たる思いがする。

 911を額面通りに受け取ることには大きな疑問を持っている。しかし事件に対するアメリカの公式説明を全面的に受け入れるとすれば、中段末尾にある「ジハード戦士は、その多くがビンラディンに対してかなり批判的であり、9・11の後、この活動を分裂させ、弱体化させることも可能だった。それは『人道に対する罪』と的確に呼ばれたあの攻撃を犯罪として扱い、容疑者を逮捕するために国際的な行動をとっていれば、の話である」という指摘は的確である。

 あの事件の一週間後の日記に「事件発生以来、不思議に思うのは、今回の『事件』は、『犯罪』なのか、それとも『戦争』なのかということが、ゴチャゴチャにされたままだということ」と書いた。当時、アメリカ政府は混乱しているのだと思った。その後「戦争」は拡大した。アフガン紛争からイラク戦争へ。

 そして事件の二年後の日記には「アメリカは『報復』という過ちを犯し、テロという『犯罪』に『戦争』で応じ、どさくさに紛らわせてイラクへの筋の通らぬ攻撃に踏み切り、『戦線』は拡大したにも関わらず、テロの撲滅という『戦果』は露ほどもあがらなかった」と書いた。

 イラク戦争の顛末を目の当たりにして、かなりの人々は「アメリカは『テロ戦争』を開発したのだ」と知った。要は世界のどこかで戦争をしていたい、戦争をすることそのものがアメリカの目的であり、「テロとの戦い」などはアメリカが戦争をするための単なる名目に過ぎないのだと考える方がはるかに眼前の現実を説明しやすいことに気付いたからだ。

 ときに「反米主義者」とまで言われるチョムスキーだがやはりアメリカ人なのだ。自分の国が「戦争依存症」という病にかかっているとは認めたくないという潜在的心理がはたらいているようだ。いずれ「悪の帝国:アメリカ合衆国」は破綻するだろう。オレが生きているうちにそうなるかどうかは残念ながら分からないが。

 以上、911の十周年に。あしたから仙台に行くので繰り上げて。(9/10/2011)

 九州電力の「やらせメール」の件、朝刊の社会面から。

見出し:九電「やらせメール」で第三者委/「知事発言が発端」

 九州電力の委託で「やらせメール」問題を調べている第三者委員会(委員長=郷原信郎弁護士)は8日、玄海原発(佐賀県)の運転再開を巡る国のテレビ番組に九電社員らが賛成意見を投稿したやらせ行為について、古川康・佐賀県知事の発言が発端となったと認める中間報告を出した。
 九電の前副社長や佐賀支社長らが6月の番組放送前に知事と会談した内容を支社長がまとめた発言メモには、知事が「再開容認の立場からもネットを通じて意見や質問を出してほしい」と九電側に求めたとあった。第三者委は、支社長が会談中に手帳に記した記述と照合し、メモは信用できると判断。知事発言を受け、前副社長らが部下に意見投稿を指示したと認定した。
 報告書では、5月にインターネットで配信された、佐賀県に対する国の原発説明会の前に、県幹部が支社長に「(意見や質問の)書き込みもしてほしい。それが知事の強い要望」と求めたことも明記。九電は原発再開への賛成意見を実際に書き込んでおり、県側の求めに応じ、やらせ行為が繰り返されていたことになる。
 原発の住民説明会で、九電が社員らの動員だけでなく、やらせ質問をしたことも認めた。2005年の佐賀県主催のプルサーマル公開討論会では事前に質問を準備し社員らに割り当てており、質問者18人中7、8人は仕込みだと認定した。

 第三者委員会からこの発表があるや古川知事は記者会見を開き、「事実とは違う形の報告になっていて驚いている」と否定したそうだが、実際にはこうだったという説明はなかった由。

 官公庁案件でトップを攻める場合、業者は最優秀のスタッフを同行させる。バッジ族は明確な物言いはしない。しかしその言葉にはバッジ族の意向のすべてが含まれている。だから一言一句もおろそかにせず聴き取り、思い込みなどにはとらわれず正確に記録できる能力を持った人間をアサインする。トップと話をする機会は少ない。そういう場面で間違えば、最悪の場合、出入りを差し止められることもあるのだ。ここをおろそかにする官庁出入り業者など、この世の中にはない。

 そのスタッフの「発言メモ」という「物証」により確認したとすれば、第三者委員会の調査結果はほぼ真実そのものだと考えられる。ウソをついているのは原発知事・古川康の方だ。(9/9/2011)

 前原誠司がワシントンでの講演で、自衛隊のPKOは健二の武器使用条件と武器輸出三原則の見直しをすすめる旨を宣言した由。国内ではなにも語らずにアメリカに行くと勇ましいことを言う。まるでご主人様の前に出ると尻尾を振りたがる犬ころ。「ねっ、野田よりは役に立つでしょ」とアピールしたかったのかもしれぬが、キャンキャンとやたらに吠えまわるのは番犬としては役立たずの犬に共通する習性。

 嗤えるのは中国を「主張するルールが特異な『ゲームチェンジャー』」と名付けて得意げだったこと。アメリカは中国を「特異な大国」とは見ていない。アメリカ自身の行動原理とまったく同じ原理に立っている国であるが友邦ではなく対抗する国とみているだけだ。核保有、対人地雷・クラスター爆弾などの禁止反対、ICC(国際刑事裁判所)への反対、・・・、すべて両国は軌を一にしている。アメリカは中国を、自国同様、「国益を理由に自分勝手な行動をとることがある国」だと認識している。(アメリカが日本をどういう国と認識しているか、それは書かぬが花というものだが、軍事費の一部を肩代わりする甘っちょろい国と認識していることくらいはよほどの世間知らずでも想像できるだろう)

 前原は安全保障の専門家を気取っているが、安全保障論議(別にこれに限った話ではないが)の基礎となる「事実を分析する能力」は子供並み。そのことは「永田メール事件」への対応をみれば一目瞭然。つまり、安全保障「談義」は前原の「趣味」に過ぎず、その主張に耳をかたむける価値はない。

 先日、一川防衛相が就任にあたり「わたしは安全保障の素人だが、それが本当のシビリアンコントロールだ」と言ったとかで、石破茂が「解任に値する」と怒りまくったという報道があった。一川がどのていどの認識だったのかは分からないが、かつてクレマンソーは「戦争のように大切なことを将軍たちに任せておけるのかね」と言ったと伝えられる。

 前原が素人だから安全保障を語る資格がないと書いているのではない。客観的な事実を分析できないような前原には安全保障を語る資格はないと書いているのだ。世の中にはタンクや戦闘機のプラモデルを並べ、ニタニタしながら、その諸元が語れることを安全保障論議の玄人の条件と思い込んでいるバカもいるようだ、石破のように、呵々。ことほど左様に、この国の自称「安全保障の玄人」には如何物(者か?)が多いのだ。

 閑話休題。

 平野勝之の「監督失格」が「イイ」、「スゴイ」のだそうだ。でも、いっしょに観ようと言われてもね、林由美香との顛末を扱った作品と聞かされるとちょっとね。一人で見る方が、断然、落ち着いて観られそうだもの、ごめんな。(9/8/2011)

 朝刊の国際面の記事、二題。

見出し:カダフィ政権に協力か/CIA MI6 反体制派弾圧

 リビアのカダフィ政権が首都トリポリに残した数々の文書を人権団体やメディアが入手し、同政権と米英情報機関との協力関係を指摘している。米英両国が、テロ対策で協力を求めるため、強権的なカダフィ政権と手を携えていた様子があぶり出された。
 報道によると、人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチと記者らが2日、カダフィ政権の情報機関が所有していたとみられる複数の文書ファイルを、トリポリで見つけた。
 ファイルには、米中央情報局(CIA)、英情報機関の対外情報部(MI6)の表題があり、両機関がカダフィ政権による反体制派の弾圧に協力していた様子が、英語で書かれている。リビアが核開発計画を放棄し、英米との関係を修復し始めた2003~04年ごろの記述が最も多いという。
 文書によれば、CIAとMI6は04年、反カダフィ派のイスラム組織「リビア・イスラム闘争グループ」の元指導者ベルハジ氏を、妊娠中の妻とともにバンコクで拘束し、リビアに強制帰国させた。CIAはこのほか、カダフィ政権による拷問のおそれを認識しながら、グループの関係者らを計8回、リビアに送り込んだとされる。
 現在は反カダフィ派「国民評議会」の軍事部門トップを務めるベルハジ氏は、米紙ニューヨーク・タイムズにこうした事実を認め、トリポリの刑務所に7年間投獄されて拷問を受け、MI6からも取り調べを受けたと、主張している。
 CIAやMI6は、このグループと国際テロ組織アルカイダとの関係を疑っていたため、カダフィ政権と利害が一致。テロ容疑者捜査でカダフィ政権の協力を得るため、反カダフィ勢力の弾圧に力を貸したとみられる。
 英タイムズ紙によると、MI6テロ対策班の幹部は04年3月、当時リビアの情報機関トップだったクーサ前外相あての手紙で「両国の関係のため、これぐらいのことはさせて下さい」との書簡を送付。ベルハジ氏移送に協力したことを、強くアピールした。
 CIAは米メディアに対し、文書には直接触れず「テロ対策での外国政府との協力は驚きではない」とコメント。英政府は、情報機関の活動についてはコメントできないとしつつ、独立した調査委員会に検証させる方針を明らかにした。(ワシントン=望月洋嗣、ロンドン=伊東和貴)

 「人権」にうるさいはずのアメリカ・イギリスの政府機関の手が必ずしもきれいでないことの好例として書き留めておく。

 その下に、ちょうど1年前、尖閣諸島沖で我が方の巡視船に体当たりをくらわせ、彼の国では「英雄」としてヤンヤの喝采を浴び、この国では「漁民を装った特殊工作員」という説が流れた「?晋漁5179」の船長(いまは「元船長」らしい)の「いま」を伝える記事が写真とともに載っている。

 ・・・昨年9月の帰国時には地元に「英雄」の横断幕が掲げられたが、「今は自由に外出も出来ない」。普段から外出するには派出所の許可が必要で、セン氏が買い物をしたいと言うと「妻に頼め」と言われるという。
 「息子は今も仕事に出ていない。家にいる」と母親。知人と食事に行くのも許されないという。漁に出ることもかなわず、2階の部屋にこもっているようだ。
 魚と磯の臭いが漂う深滬港へ行くと、「?晋漁5179」は、港に停泊していた。昨年帰港した時には船首に穴が二つ開いていたが、鉄板で修復され、青いペンキが塗られている。漁船の多くは海に出ているようだが、「5179」には船員も見えず、この日は出航の予定はないらしい。

 「漁民を装った特殊工作員」さんは「冷遇」されているのだろうか。そういえば、「漁船などではなく、体当たりをすることを目的に建造された特殊工作船である」と「断定」したメディアもあった。

 それほど特別な船を外国特派員が撮影できるほど無防備に晒しているのは、中国当局の「三千年の歴史」を背景にした深慮遠謀とみるべきか、「大陸的マヌケさ」の現れとみるべきか、「特殊工作員と特殊工作船である」と断じた方々のご意見を賜わりたい、呵々。(9/7/2011)

 台風12号の通過に伴う大雨で和歌山・奈良両県にまたがる紀伊半島中南部で死者27人、行方不明52人。全国ではそれぞれ35人、54人(朝刊掲載データ)とか。一部地域では31日の降り始めからの総雨量が750ミリ、平年雨量の3カ月分というから尋常ではない。

 今回、発生した土砂崩れは雪崩でいえば底雪崩に相当するもので「深層崩壊」というのだそうだ。大雨により大量の水が通常のレベルを超えて地盤の割れ目から地中深くまで染み込んだ結果、地盤もろともに崩落する現象とのこと。

 異常降雨とはいうものの、深層崩壊を引き起こすためにはあらかじめ地盤の割れ目ができていなければならないだろう。勝手な想像にすぎないが、最近頻発する地震は東日本だけではなく西日本の地盤にも影響を及ぼしているのではないか。つまり地盤の割れ目が従来以上に口を開けて待っている状況に、大量の雨水が流入して深層崩壊につながったという想像。

 既に日本列島全体が地震の活性期に入ったといわれる。ちょっとした「異常気象」に深刻な被害(はやり言葉でいえば「想定外の」)が引き起こされるフェーズに突入しているのかもしれない。(9/6/2011)

 先週、美術館帰りに買った山本義隆の「福島の原発事故をめぐって」を読む。新しい知見はない。しかし本質的なことがらを、高校レベルの知識があれば誰にでも分かるように指摘している点はさすが。

 20世紀に大きな問題になった公害の多くは、なんらかの有用物質の生産過程に付随して生じる有害物質を、無知からか、あるいは知ってのうえでの怠慢からか、それとも故意の犯行として、海中や大気中に放出することで発生した。ひとたび環境に放出された有害物質を回収するのは事実上不可能であるが、技術の向上と十分な配慮により廃液や排気を濾過し、そのような有害物質を工場外に出さないようにすることは不可能ではなく、またこうして発生源で回収されたそれらの有害物質を技術的に無害化することも、あるいはそのような技術が生みだされるまで保管しておくことも多くの場合可能である。というのも、それらの有毒性は分子の性質(原子の結合の性質)であり、原理的には化学的処理で人工的に転換可能だからである。
 それゆえ、排出規制を十分に強化することによって解決しうるものも多い。いずれにせよ有害物質を完全に回収し無害化しうる技術がともなってはじめて、その技術は完成されたことになる。
 それにたいして、原発の放射性廃棄物が有毒な放射線を放出するという性質は、原子核の性質つまり核力による陽子と中性子の結合のもたらす性質であり、それは化学的処理で変えることはできない。つまり放射性物質を無害化することも、その寿命を短縮することも、事実上不可能である。というのも、原子力(核力のエネルギー)が化石燃料の燃焼熱(化学エネルギー)にくらべて桁違いに大きいことが原発の出力の大きさをもたらしているのであるが、そのことは同時に核力による結合が化学結合にくらべて同様に桁違いに強いことを意味し、そのため人為的にその結合を変化させることがきわめて困難だからである。原子核一個二個というレベルであれば、高エネルギーの加速器を使用して原子核を別の原子核に変換することは不可能ではない。しかし、そのさい変換された原子核自体が通常はやはり放射性であることを別にしても、それだけでも恐ろしくコストとエネルギーを要することであり、ましてや何キログラム、何トンという量の物質を変換するようなことは現実的には考えられない(ウラン235とプルトニウム239の場合にだけ原子核の大量の変換が可能であったのは、電荷を持たない、したがって加速する必要のない一個の中性子の吸収でそれが分裂し、しかもそのさい二個以上の中性子を放出するので、反応がねずみ算式に増加する-連鎖反応が生じる-という特殊事情からであった)。
 無害化不可能な有毒物質を稼動にともなって生みだし続ける原子力発電は、未熟な技術と言わざるをえない。

 「除染」という言葉に「銀の弾丸」を想像しているちょっと「頭が不自由な人々」も、こう説明されれば分かるのではないか・・・と、ここまで書いて、必ずしもそうではないのかもしれないと思い直した。先日、野田が民主党代表に選ばれた日、経団連会長の米倉ボンクラは「いまの首相とは頭の出来が違う」と言った由。文科系出身とはいえ化学メーカーで禄を食んできながら、こんな高校レベルの常識にすら想像力が及ばないバカもいる、そんな世の中だ。

 しかし、それにしても・・・と思う、米倉よ、他人の頭の出来をとやかく評する前に自分のカボチャ頭の出来を思った方がいい。こんな奴が経団連会長なのだ、日本経済がズブズブと沈下してゆくのもうべなるかなだ。伊庭貞剛が「事業の進歩発達に最も害をするものは青年の過失ではなくて老人の跋扈である」として住友総理事を辞したのは58歳の時。老害翁よ、なお「馬齢」(「馬鹿」は自分のことが分からないものだから敢えてこう書こう)を重ねたければ、疾く、経団連会長を辞めるが良かろう。お前こそが日本経済のガンだ。(9/5/2011)

 きょうも安定しない天気。「噂の東京マガジン」が終わってから支度をして、久しぶりに午後のウォーキング。雨上がりだが存外さらっとした感じ。門前大橋の手前でヘビに出くわした。

 百科事典などで開いたページにヘビの挿絵や写真があると軽いパニックになるが、ゾクッとはしたものの案外平気だった。遊歩道の右の草むらから反対側に移動中だったのだがこちらの足音ないしは振動に気付いたとみえて、もと来た草むらへと戻っていった。

 色はモスグリーン。長さは優に2メートル以上あったと思う。誰だったろう、「蛇、長すぎる」と書いたのは。声を上げたり、飛び退いたりしなかったのは、ちょっと距離があったからと、その動きがじつにしなやかでみごと、いささか感動を覚えたからだったかもしれない。Uターンというよりはヘアピンのように頭をとって返したのだ。

 「工業デザインの理想はヘビね。シンプルな形で必要な行動のすべてに対応できるんだから」、あのヘアピンのような方向転換が「蛇腹」だけで実現しているのだとしたら、****(たしかそういう名前だったなぁ)の言葉が納得できた。

 精工舎にいったと聞いたけれど、どうしているのだろうか。「キラキラ」という以上に光る眼が特長だった。そういえばちょっとヘビっぽい印象だった・・・帰路を歩きながらそんなことを思い出していたら、お伴のiPodから「あなた」が流れてきた。なんとまあ、絶妙のタイミングと独り嗤い。(9/4/2011)

 きのう、野田新内閣が発足した。どうということもない首相だから閣僚がどうということもない顔ぶれであるのは理の当然。しかし安住淳が財務相というのには驚いた。というより吹き出してしまった。

 お家の事情もあるのだろうが、マイクを向けられたときに、一聴、気の利いた風のことが言えるていどで務まる職責になったのだね、財務大臣も。いい国になったものだよ。まあ、これが自民党にしても事情はたいして変わらないのかもしれないが、安住を財務相に据えるのに比べればちっとはましなことをするだろう。

 いまや野田首相の肩書きになった「ドジョウ」は相田みつをの詩によるものとか。こんな詩なのだそうだ。

どじょうがさ
金魚のまねすることねんだよなぁ

 例の「ヘタウマ」を衒った字で書かれた色紙の写真が昨夜の夕刊に載っていた。「詩」というものは便利なもの(丸谷才一が「詩を教科書で取り上げるな」と書いていたのを思い出す)だから、これについては何も言うまい。しかし相田の字は「ヘタウマ」ではない。わざと下手な字を書いている。白隠などを気取ったのかもしれないが、「詩文」と同様、「生悟り」そのものだ。

 「相田みつをがいい」という人は嫌いだ。理屈などなく嫌いだ。安直に生きることを、安直に開き直って、図々しく肯定する、そういう「匂い」が大嫌いだ。

 松下政経塾出身者といえばエリート意識だけしかない「エセリート」ではないか。それが本心なのに、「金魚じゃない泥鰌だ」と自称する「計算」がほの見える。だから、この新しい宰相には最初から信頼感が持てない。まあ、愚かしいこの国の愚かしいこの時代にはぴったりなのかもしれぬが。(9/3/2011)

 国立新美術館で「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」を観た。所詮アメリカのナショナル・ギャラリーというのはこんなものかというのが偽らざる感想。T・S・エリオットがイギリスに帰化した気持ちがよく分かる。可哀想な国なのだ、アメリカ合衆国という国は。

 今回のサブタイトルは「印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション」。なるほどベストマッチだ。印象派の最大のスポンサーだった新興成金国家アメリカ、そして浮世絵の縁からだろうか印象派好きの日本人。共通するのは「(ヨーロッパ的)教養」の欠如。これこそアメリカ人が印象派をいち早くキャッチできた理由の一つであり、この国の大方の「美術愛好家」が印象派を鑑賞できる理由の一つなのだ。別に貶しているわけではない。オレ自身がその一人なのだから。

 予備知識(いわゆる「教養」)なしに手ぶらで楽しめるというのは悪いことではない。しかしもう少し作品を選別できてもよかったような気がする。いかにも「趣味」がよろしくない。「所詮アメリカ人」だからのことで、日本人ならいくら何でももう少しましな絵を買い集めたのではないか。いや、フランス人は底意地が悪いから「眼」を持たないコレクターに売る絵はこのていどでいいと「値踏み」をしたのかもしれない。もっともその「ナショナル・ギャラリー」に「常設コレクションから9点も!!」などと恩を着せられて、この入り。いささか複雑な気分になった。(9/2/2011)

 全3回の録画はしたものの、第2回の印象が悪すぎて、なんとなく気の入らなかった「シャーロック」の「最終回」と銘打った第3回を観た。

 またまた「正典」のエピソード(「ブルース・パティントン設計書」はそのままの名前、ただし「潜航艇」は「ミサイル防衛システム」に変わっている)や小道具(べーカー街イレギュラーズがホームレス、しかも女性になっていたりする)が満載。第3回は涙が出てくるほど出来がいい、面白い。

 「フェルメールの絵が贋作である根拠」をシャーロックよりも早く予想できた(これは大方の視聴者には分かるだろう、こちらがホームズで、向こうがワトソンになる、じつにうまいファンサービスだ)こと、ラスト近くの急展開を「最終回」というサブタイトルに惑わされ、瞬時、「なんだよ、ワトソンがモリアティだったなんて、そういうオチは許されないよ」と怒ったこと、直後にワトソンが「被害者」にされていたという筋立てに背負い投げを食らったようになったこと、・・・、などなど、区々たる部分のすべてが楽しい。

 モリアティのイメージというとバジェットの挿絵が脳裏に刷り込まれているから、このホモ版モリアティは少しばかり軽すぎて物足りない印象をもった。だが、ヌメッとした感じはかえって底知れぬ「悪の天才」にあっているかもしれない。

 しかしこのラストはラストではない。完全に「to be continued」。だったら「最終回」とネーミングするな。そもそも続編が作られるまではオンエアするべきできないよ、NHKさん・・・いや、まあ、できた順にオンエアでもいいけれど。心は千々に乱れる。(先ほどネット検索をかけてみたら、BBCではセカンドシーズンの制作が完了したところとか、それを教えてくれたブログ主は翻訳のプロ。彼女のような能力があれば、もう数倍は面白いものらしい)。(9/1/2011)

 **(家内)はきょうまでいつものPTA三人組と万座温泉。先週あたりの天気予報では台風12号の直撃をくらうかもしれないといっていたのだが、スピードが遅い上に予報円はどんどん西にシフトして影響はほとんどないようだ。

 別によからぬことをするわけではないのだが、二、三日のことならば独りというのはふしぎに心が浮き浮きする。映画を観るもよし、古本屋街を歩くのもよし、横浜あたりまで出かけてセンチメンタル・ジャーニーするのも悪くはない。何時になろうが気にすることもなく、なにより説明の必要がないというのはいい。ちょっと外出でもしようかという気分になる。問題はこの暑さ。グズグズするうちにお昼もまわり、結局、出損ねてしまった。もう少し季節がよくなってからでもいいさ。(8/31/2011)

 正午のNHKニュースを見ていたら、アメリカがグアテマラで人体実験を行い83人が死亡したと伝えていた。ニュース検索をかけるとNHK、TBS、ロイターが引っかかったが、その他の新聞、テレビは伝えていない。

 [ワシントン29日ロイター]1940年代に米国の研究者が抗生物質ペニシリンの効果を確かめるために、中米グアテマラの刑務所などで性病に感染させる人体実験を行っていた問題で、オバマ大統領直轄の調査委員会は29日、研究者が意図的に倫理規定を放棄していたとする調査結果を明らかにした。
 調査委員会によると、米公衆衛生当局の研究者は当時、ペニシリンの効果を試験する実験を行い、グアテマラの刑務所に収容されている受刑者や精神病院の患者ら約1300人に対し、梅毒などの性感染症に感染させた。中には、性感染症に感染させた売春婦と性交させられて感染した受刑者もいるという。
 調査委員会は数千ページに及ぶ資料を調査。その中で、研究者は受刑者ら被験者をだまし、真実を伝えず、感染リスクから守ろうとしていなかったことが明らかとなった。
 同委員会の委員長でペンシルベニア大学のエイミー・ガットマン学長は「関係者たちはこの問題を秘密にしておきたかったのだろう。広く知られることになれば、国民からの批判は免れないから」と語った。
 この問題はマサチューセッツ州ウェルズリー大学教授の調査で発覚。オバマ大統領は昨年、この件についてグアテマラに謝罪している。 
 調査結果の最終報告書は12月に提出される予定。

 ペニシリンの効果確認のためと説明されると「ああそうですか」という話になりそうだが、「なぜ性病を対象に行われたのか」という説明にはなっていない。1940年代といえば第二次大戦のさなかから戦後にかけての期間だ。ペニシリンの活躍場所は負傷兵に対する治療だったはず。「性病」が「主戦場」だったというのは釈然としない。

 アラン・キャントウェル・ジュニアによれば「人体実験についていえば、CIAには、進んで志願したわけでもなければまたなんの疑いも抱いていない米国市民に対して、こっそり薬物実験を行ってきた長い歴史がある」そうだ。そういうお国柄が我がUSAのもうひとつの顔だ。(注)

 なお、こうしたCIAならびにアメリカ政府機関による実験の数々はRobert HarrisとJeremy Paxmanの共著 "A Higher From of Killing"(Hill and Wang, New York 1982)に記録されている由。(8/30/2011)

注)「エイズ・ミステリー」141ページ

 民主党の代表選、結果は意外にも野田佳彦だった。決選投票に持ち込まれることは別に意外ではなかった。一回の投票で決着がつかないと海江田は苦しいと言われていた。決選投票になればアンチ小沢でまとまるというわけだが、二位生き残りは前原だと思っていた。

 今回の立候補を見送る予定としていた前原が「出るべきだという声が多いため」と釈明しつつ出馬宣言をしてからは、本命登場ということでマスコミは「後出しジャンケン前原」が有力、野田は「フライイングした地味男」として霞んでしまったかの如くに報じた。その雰囲気を一番よく伝えていたのが週刊新潮の広告見出しだった。「今や泡沫扱い『野田財務相』」。勝ち馬におもねるのが週刊新潮の習い性とはいえ、なかなかみごとなものと見直したりしたものだった。

 このままではバカ新潮がいかにも間抜けに見えるから、救いになりそうなことを書いておこう。週刊新潮の仇敵といえば朝日新聞だが、その朝日の週末の世論調査では次期総理には前原というのが40%だった。あながち新潮の「気分」が世の中から外れていたわけではなかったのだ。

 そして、きょう。意外にも二位につけたのは野田だった。それぞれの得票数を書いておく。一回目:海江田143、野田102、前原74、鹿野52、馬淵24。決選投票:野田215、海江田215。

 それにしても野田佳彦ねぇ・・・。所詮松下政経塾。マネシタ電器的経営思想(あれは思想か?)で国家「経営」ができると勘違いした老骨が趣味で作ったサークル。老骨のエリート・コンプレックスが用意させた「厚遇」に吸い寄せられて集まった連中はほとんど例外なく自分を誤解する。「おれたちは優秀なエリートだ」と。しかし松下政経塾に集まる連中の大多数には決定的に欠けているものがある。ひとことでいえばエリートが備えるべき要件の一方を欠いていること。「ノブレス・オブリージュなきエリート」。戦後の日本で一番よく見かける生煮え(「片端」といった方がぴったりする)エリートさん。

 まあテクニックはありそうだから、あるていどはやれるかもしれない。しかしフィロソフィーはなさそうだ。もう民主党も自民党と合併したらいいんじゃないか。(8/29/2011)

 起きると気持ちよく晴れ上がっている。爽やかな風が吹いている。まるで秋のようだなと思った、ちょうどその時、どこからか花火の音がドンドンと聞こえてきた。「どこの運動会だろう」と思ってから、「まだ2学期も始まっていないか」と独り笑いした。しかしウォーキングコースの学大付属養護学校(「養護学校」というのは「不快用語」になるらしく、いまは「特別支援学校」というらしい)には父兄が集まりちょっとした賑わい。花火はここだったのかもしれない。

 朝刊社会面から。

見出し:「納得できぬ」怒る福島/居住禁止長期化/首相に不信感
 東京電力福島第一原発事故に苦しむ福島県で、菅直人首相が二つの「通告」をした。原発周辺の一部地域では長期間、居住が難しいという見通し。そして、放射能に汚染された廃棄物の中間貯蔵施設を県内に置くこと。退陣直前の首相の口から示された方針に、住民や自治体には不信と困惑が広がった。
 第一原発から約2.5キロ、福島県双葉町細谷地区の山本安夫さん(60)は26日、妻の秀子さん(61)と一時帰宅したばかりだ。田畑や自宅周辺は草が伸び放題だったが、「できるなら戻ってきたい」と改めて思った。その翌日の菅首相の発言。安夫さんは「ひょっとして(また住める)と思っていたのに。希望を打ち砕かれた」と話した。
 双葉町で生まれ育ち、昨年9月に定年退職した。自宅を改築したばかりで、趣味の農業を続けるはずだった。「あすあさって辞める人に『住めない』と言われても、納得できない」
 同県大熊町の小林末子さん(73)の自宅も第一原発から3キロ圏内。9月1日に一時帰宅する予定だ。「帰れないなら3回は行きたい。もうあそこで暮らすのは無理ね」と淡々と話した。気になるのはこれからの生活のこと。どこに住むのか、土地や家は国が買い取ってくれるのか。今は同県郡山市の賃貸住宅で娘と住むが、「誰も知っている人がいなくてさみしい。大熊の人とまた一緒に暮らせるようにしてほしい」。
 同県喜多方市に避難している大熊町の石田博之さん(47)は第一原発から約2.5キロの自宅で父(80)と娘(19)と暮らしていた。「国が責任を持って除染した上で、『それでも放射線量が下がらないので』と言うならまだ分かるが、ただ帰れませんでは納得できない」と憤った。
 廃棄物の中間貯蔵施設の設置については「原発周辺につくるのはやむを得ないと思うが、出来てしまったら確実に帰れなくなるという現実が迫る」と話した。

 ほんとうにこの住民たちはこう語ったのだろうか。朝日の記者の誘導質問に引っかかったのか。

 もしそうでないならば、ここまで愚かだと「お気の毒に」とさえ思えなくなる。逆に、ある意味、職位に忠実だった我が宰相に同情したくなる。どうせ辞めるのだ、狡い顔をして何も言わないというやり方もあった。いや、小泉のように冷たく「戻りたい方はどうぞ、ただし自己責任でお願いします」とでもいえばよかったのだ。

 「あすあさって辞める人に言われても納得できない」ことがあるとすれば、それは「補償する」とか、「しない」という類の「お約束」事項のことだろう。

 「(安全に)住めない」のは、「あすあさって辞める人」だろうが、「まだしばらくやる人」だろうが、誰が言おうと間違いのない厳然たる「事実」だ。かつて小林秀雄はこう書いた。「確かなものは覚え込んだ希望にはない。強いられた現実にある」と。まことにその通りなのだ、こと原子力発電とその事故については。

 生まれ育った町で働き、定年を迎え、老後の生活をそこで送ろうと考えたことをとやかく言うことはできないが、原発から数キロという場所に住むことのリスクに思い至らなかった愚かさのために自分から落とし穴に落ちたことは事実だ。その「現実」に怒るなら、まず、「原発は安全だ」と信じ込んだ自分の愚かさに、どうしても他人のせいにしたいのなら、「原発は安全です」と吹き込んだ連中に、その怒りをぶつけるのが筋というものだ。水俣病の患者は怒りの矛先を間違わなかった。怒りを持ち込む先を誤るようでは被害補償を求める相手も間違ってしまう。

 「除染」という言葉に期待をかけている愚かさもまた度し難い。「除染」というのは放射能汚染の発生源を移動させるだけのことであって、中和して無害化することではない。雑巾で汚れを拭き取れば、雑巾は汚れる。その雑巾を水で洗えば、水は汚れる。汚れを移動させているだけのこと。汚れそのものをこの世の中からなくすわけではない。「除染」とはイメージ的にはそういうことだ。

 いくら双葉町なり大熊町の人々をお気の毒に思ったところで、「では、取り除いた放射能汚染物質はわたしのところで引き受けましょう」などと言う人はいない。「汚染者負担」はこの種の問題解決の大原則だ。双葉町と大熊町は原発の建設を容認し、さらには新規建設を誘致するなどの活動をした時点で東京電力と連帯して積極的に「潜在的汚染者」になったのだ。放射性廃棄物の中間(たぶん「永久」ということになるが)貯蔵施設の受入は当然のことでいまさら四の五の言う資格は一切ない。

 全国の原発立地自治体とその住民はこの「強いられるかもしれない現実」を明確に認識した上で原発の運転についての判断を下すべきだ。「大都会の犠牲になるのはいやだ」というなら、即事に原発の運転を差し止める行政措置をとることだ。なし崩しにゴーオンするならそれもいいだろう、ただし事故が起きた場合には「強いられた現実」におとなしく従うことが求められることを肝に銘じておくことだ。(8/28/2011)

 体組成計が戻ってきた。月曜日の午前中に送ったから6日。「7日から10日ほどお待ちいただくことになります」という話だったが、おそらくこういう場合は少し長めで回答しておくはずと考えると、ほぼ標準の所要日数だったことになる。

 修理費、返送料、代引手数料すべて込みで事前のアナウンス通りの8,000円。こちらからの送料が1,160円。あわせて9,160円。いっそのこと新しく買おうかと思ったが、50グラム単位での体重計測は、調べた範囲では、この機種だけ。

 同じもの(手許の取説は2007年、まだ現役機種らしい)がAmazonで10,173円。不便した5日半の我慢賃は1,000円ほどということになる。ゴミにしないことを考えても、修理料一律8,000円という価格設定は微妙なところ。

 録画しておいた「シャーロック」の第2回を観た。ガッカリ。これだったら「シャーロック」のタイトルはいらない。第1回がくすぐり満点だった(「ホイッティカー年鑑」を使った連絡法。こちらが気付かないだけでもっと他にあったのだろうか・・・?)だけに反動が大きい。

 それにしても「中国雑伎団」か。イギリス人にとっては(ひょっとすると最近の日本人にとっても)、いまだに「中国文化」への妙な「コンプレックス」と「中国人」に対していだく「胡散臭さ」には格別のものがあるのかしら。

 サスペンス活劇においては「フー・マンチュー」という「ジャンル」はいまも健在らしい。(8/27/2011)

 きのう書いたロシアから韓国への天然ガスパイプライン計画の信憑性を評価するするためのひとつのファクトが朝刊に載っている。

 朝鮮中央通信は15日、南北朝鮮とロシアの3カ国協力事業に触れる中で、「南朝鮮」の呼称を使わず、「大韓民国」と伝えた。

 すぐ下に「ガス輸送事業に韓国統一省当局が慎重姿勢」という記事も載っているが、最近両国間でもめている金剛山地区の問題に善処を求める意図か、あるいは李明博政権と与党ハンナラ党の一部に乗り遅れた利権を狙う卑しい動きがあるか、どちらかだろう。

 特例公債法案と再生可能エネルギー特別措置法案が参議院本会議で可決、成立した。退陣条件が整い、菅首相が正式に辞任を表明。結局、菅も1年で政権を手放さざるを得なかった。

 消費税といい、TPPといい、菅が手をつけたものはろくでもないものばかりだった。基本的には皮膚感覚の男だったのかもしれない。だから霞が関のお膳立てに「フワフワ」と乗っかった。菅にとって身についた腑に落ちる「仕事」は震災がもたらした。しかし皮肉なことにそれが政権の命取りになった。

 もちろんこういう見方は「買い被り」なのかもしれない。世評通りの「空きカン」が政権にしがみつきたい一心で一番成立しにくいものを退陣条件としただけだったという見方も否定しがたいから。

 特例公債法は中味はどうあれ基本趣旨に野党も「反対」を貫くことはできないものだったし、再生可能エネルギー特別措置法には電力会社に拒否権を認めている点で既に従来の枠組みが一歩も出ていない「安全な」法案だ。なにより「脱原発」の実現メインルートは再生可能エネルギーだという考え方そのものが「脱原発は理想論」というレッテル貼りへ道を開くものになるだろう。菅はもっとまじめにエネルギー論の根幹に立った論議に道をつけるべきだったのだ。

 民主党はあした土曜日に代表選の告示をし、立候補者の日本記者クラブでの会見、日曜日に公開討論会を開催、月曜日に代表選を実施する由。立候補者は海江田、前原、野田、馬淵、鹿野の5名。実質的には小沢・鳩山の指示を受けた海江田、そして当初は来年までのショートリリーフを嫌って見送りとしていた前原の争いになるだろうといわれている。前原グループの協力をあてにしていた野田の目は前原の翻意によりなくなってしまった。

 馬淵と鹿野はいわゆる独自の戦いだから期待をするだけムダ、海江田なら原発即事再開、前原ならアメリカ従属、野田なら消費税増税、・・・どれをとってもロクなもんじゃない。こんな「式年遷宮」を繰り返す意味などどこにもないはずだが、やめられないとまらないのが最近の風潮らしい。

 夕刊の素粒子。

 菅首相でなかったら。組織が動き被災地に早く物資が届いたかも。がれき処理や仮設建設も進んだかもしれない。
 菅首相でなかったら。こんなに粘らなかったかも。そもそも菅おろしも代表選も脱小沢もなかったかもしれない。
 菅首相でなかったら。電力会社とけんかはせず浜岡も止まらなかったかも。原子力村も安泰だったかもしれない。

 いや、残念ながら、馬淵にでもならない限り、原子力村の詐欺師どもは安泰だろう。(8/26/2011)

 金正日がロシアを訪問、メドベージェフとの首脳会談を行った。北朝鮮は六者協議再開の用意があることを表明した他、ロシアとの間でウラジオストクから韓国に至る天然ガスパイプラインの北朝鮮領内における建設に協力し、そのための特別委員会を設けることに合意した由。

 この天然ガスはサハリンのガス田からのもの。パイプラインは既に間宮海峡を経て、ハバロフスクまでは敷設済みでウラジオストクまでもほぼ完成しつつある。パイプラインが完成すれば、北朝鮮には使用料が入るだけではなく、北朝鮮での天然ガス使用の可能性も開ける。もちろん北朝鮮という国柄を考えると北朝鮮の領内での建設中のどこかの段階でストップをかけ、韓国へ供給する前に自国で利用するのではないかという疑念が生ずる。しかし代金の支払いを考慮すれば、韓国からのパイプライン使用料収入は不可欠であろうからその可能性は低いだろう。なによりこの計画のバックに韓国の財閥がついていないことはあり得ない。もしこの計画が頓挫するとすれば、その原因は北朝鮮ではなく、韓国内の政財界内の暗闘である確率の方が高かろう。

 原子力に代わるネクスト・エネルギー源になるのは間違いなく天然ガスだ。我が国がそれを確保する場面において少なからず影響が出そうなこのニュースについて、ほとんどのマスコミは「また金正日がドタバタしてるぜ」ていどの扱いにしている。ほんとうにこの国のマスコミの劣化は度し難いところに来ているなと思わざるを得ない。(8/25/2011)

 島田紳助が引退発表の記者会見を開いたのが昨夜。NHKまでもがあさのニュースで報じている、順トップ扱いだ。ワイドショーも大騒ぎ。引退理由は暴力団との交際があったからとのこと。報ぜられていることを時系列に並べてみるとこういうことのようだ。

  1. (十数年前)ある番組で右翼を怒らせるような発言をした。
  2. 右翼屋さんが街宣車を動員するなど派手な示威行動を開始した。
  3. 紳助は「芸能界を去ろう」とまで思い詰めた。(紳助という男はすぐに「引退しよう」と思うタチらしい、「潔い」のか「軽い」のか)
  4. 紳助が元ボクシングチャンピオンの渡辺二郎に相談した。
  5. 渡辺は山口組の実質ナンバー2という人物に話を取り次いだ。
  6. 右翼屋さんの嫌がらせはぴたりと止んだ。
  7. そのことに対して紳助はお礼のメールを出すなどし、その後も親交は続いた。(ヤクザ屋さんに書状ではなくメールというのは「普通」か、いささか感覚が違いすぎないか?)

 紳助の話がウソ偽りのない話だったとすると吉本興業という会社はじつに冷たい会社だ。垂れ込みメールに基づき本人に事実確認をするやいなや時間をおかずに社長と弁護士を同席させて引退記者会見を手配したのだから。

 誰でも浮かぶであろう疑問。これほどみごとに手際よく問題解決ができるなら、なぜこの交際の発端となった右翼とのトラブルの発生時点で弁護士を交えるなど、紳助をサポートし解決してやれなかったのだろう。そのトラブルは放送内容に関わるものだったというではないか。まさにタレントさんの本業に関わるトラブルなのだから、その解決を図るのはタレントをマネジメントする会社の責務ではないか。「原因」に対しては役にも立たず、「結果」が露見するや切り捨てるのが吉本流か、呵々。

 もちろん、別の見方もできる。紳助の話にウソがある場合だ。トラブルの実態が右翼を怒らせるようなコメントをしたなどというナイーブな話ではなく、とてもあきらかにはできない事情、たとえば右翼暴力団の「商売」そのものに関わったとか、右翼暴力団が「カネをゆすり取れる」と判断するような「弱み」を握ったとすれば、暴力団上部組織の口利きがなければ解決不能であったことは十分理解できる。あるいは右翼筋というのは単なる「目眩まし」で暴力団業務そのものにコミットしていたのかもしれない。そうだとすれば吉本興業としては紳助が憔悴している状況はわかっていても傍観する他はなかったのかもしれない。

 記者会見の最後に島田紳助は「切腹の介錯をしていただいてありがとうございます」と言ったそうだ。そのいささか自己陶酔の混じった「お話」を額面通り信じていいだろうか。どうも真実は隠されているような気がする。

 ・・・それにしても、これほどに騒がれる芸人だったのか、島田紳助は。まあ、正真正銘の大根役者だった石原裕次郎が不世出の大スターだったかのように語られる国のレベルとしては、あのていどでも「惜しむべき芸人」なんだね。なんだか哀しい話だ。(8/24/2011)

 昨夜、録画しておいた「シャーロック」の第1回を観た。

 ジェレミー・ブレット(まったく無関係な話だが「マイ・フェア・レディ」で「君住む街」を熱唱する愛すべき青年を演じていた俳優だと**に教わったときは虚を突かれた思いだった)の演ずるシャーロック・ホームズが強く残っているせいか、最初は少しなじめなかったが、テンポが速く、ぐいぐいと引き込み、退屈させない。しかし「正典」の当時も現代版のこのドラマでもワトソンが「アフガニスタン帰り」という設定で通るというのはちょっとした感慨を抱かせる。

 第1回は「ピンク色の研究」。なんという邦題をつけるのだと思ったが、原題も「A Study in Pink」とあらば仕方がない。記憶によれば、マイクロフトもモリアティも「緋色の研究」には名前すら登場しなかったはずだが、ダイイング・メッセージやら結婚指輪、毒薬の入った瓶の選択など十分に「正典」読者も喜ばせる道具立て、そして新しいストーリー・・・、そして裏読みがすぎるかもしれないが、「犯人」の設定にはブラウン神父の中の有名な一作まで取り込んでいるようにも思わせ、これはこれで文句なく楽しめる作品になっていた。

 「ピンク色の研究」にはモルモン教も「復讐」の話も登場しなかったが、「正典」に収められた「研究」にはモルモン教が事件の背景として登場していた。(小学生のころ「KKK」や「マフィア」など知識を仕入れたのはもっぱら「正典」からだった)。こんなことを思い出したのは、先週、アメリカでモルモン教の存在感が増している旨の記事を読んだから。それによると、来年の大統領選に二人のモルモン教徒が名乗りを上げている(ミット・ロムニーとジョン・ハンツマン)のだそうだ。大統領就任式で聖書の代わりにモルモン教典に左手をおく日が来ることはあるのだろうか?

 ・・・ところで、二人のケント(デリカット、そしてギルバート)さん、しばらく見かけないが、帰国したのだろうか?(8/23/2011)

 朝刊の文化欄に新しい企画。「過去からの予言」。「がれきとなった暮らしの場、放射能と隣り合う不安な日々――過去にあって、今日を見通した小説、マンガ、演劇、美術、アニメは、どう生みだされたのか。予言的作品の作り手たちを訪ね、かつて彼らの中に浮かんだイメージの源泉をさぐり、いま脳裏に映っている未来図をなぞる」趣旨。

 第一回は筒井康隆と「霊長類 南へ」。記者のインタビューに対する第一答、「恐竜にしろ平家にしろ、盛者必衰です。生物史上最高の成功を収めた人類も例外ではありません。滅亡へのトリガーになるのは原子力でしょうが、40年前にそれは、原発ではなく原爆だと思われていました」。人類の未来に対する展望を問われるや、「ないでしょうね。マルクスが予言したように、資本主義は世界を支配した途端に自壊を始めて、すでに破綻していますし、フクシマの事故があっても原発は地球からなくせない。このふたつは車の両輪ですからね。こんな巨大な自走するシステムは、動き始めると止められないんです。人類の叡智を駆使しても、せいぜいあと数百年でしょう」とにべもなく答えている。

 将来に向けての仕事を問われて、「次は滅びてゆくことばをできるだけ使って書きたいと思っています。辞書から消された言葉や、急激に使われなくなった古語などは、言葉の残像として作家が使ってみせるしかありませんからね」。

 筒井らしい言葉だ。Wikipediaの「霊長類 南へ」には「作中、現在では出版物の自主規制に抵触する言葉や描写が多数記述されているため、修正無しの再版は難しい」と紹介されている。

 「言葉狩り」に違和感を感ずる者としては筒井のこれからの仕事に期待する。単に「言葉狩り」を風刺するだけではなく、我々の常識の盲点を突くような言葉のアクロバットを含むような仕事を。

 あさからの雨でウォーキングを諦めていたがなんとか歩けそうだ。夜の飲み会のスタート時間を考えるとギリギリだが。(8/22/2011)

 雨のあさ。涼しい。朝食後のウォーキングは諦めて、またまたマインスイーパー。背後のテレビ番組を嗤いながら・・・地上波の番組制作スタッフはこんなものが面白いと思って作っているのだろうか・・・マウスと格闘。270秒前後で膠着、たしか100秒台の中盤くらいだったと思うが、これが歳のせいか。それとも高解像度モニタではマス目が小さく、マウスコントロールが難しいからか。

 「噂の東京マガジン」を見るうちに雨も上がりウォーキング。涼しい。この気温だと500メートルを4分15秒、時速で約7キロのピッチで行ける。時折、細かい雨粒があたる。蝉の声が耳につく、まさに蝉時雨。おととい前線が通過してから、いっそう大きくなったように思う。蝉も酷暑よりはそこそこの暑さの方がいいのかもしれない。

 「きょうは短縮コース」と思って出たが、結局、フルコース。いまのシチズンの歩数計はピッチを上げるほど歩数は若干多め、消費カロリー値は少なめに出る。どうも加速度に関するセンサーがないのか、鈍いようだ。そうはいっても7.52キロ毎秒という表示はないだろう。ファームを更新すれば、補正されるのだろうか。

 前の歩数計を「洗濯」してしまって買い替えてから1年と少し。きょう積算で450万歩を超えた。花粉症やら放射能騒ぎのブランクがあってこの数字。誰も誉めてくれるわけではないから独り自分で誉めてあげよう。(8/21/2011)

 ウォーキングから戻ると高校野球決勝戦は3-0で日大三校がリード。相手は光星学院。青森県勢にとってはあの引き分け再試合で敗れた三沢以来の決勝。ことしは地震のこともあり、心情的には青森に勝たせてやりたいところだが、出ている選手にとっては一生に一度の決勝戦、日大三校にしても譲るわけにはゆかないのもよく分かる。もう少し拮抗したいい決勝戦らしい決勝戦を見たかったが、11-0のワンサイドゲームで日大三校が優勝。

 **(家内)のPCはWindows7。プレインストール版だからゲームなども入っている。フリーセルもあれば、マインスイーパーも入っている。

 フリーセルなどはクリアしたゲームナンバーを日付・難易度(easy、normal、hardとあり、その上にnightmareというランクがある)とともに記録していた。当初はエクセル、後に専用の管理用フリー・ソフトを使った。いま確かめてみたら総数6,802(全ゲーム数は32,000)、一番早い日付が1996年5月20日、最後が2002年2月9日となっている。WikipediaによるとXP版は前ゲーム数が百万だそうだから、入れ込んだのはwindows95から98の時代だったのかもしれない。

 フリーセルはかなり頭を使わなくてはいけなかった記憶があって、マインスイーパーを起動した。これが間違いだった。上級版でなかなか300秒が切れない。こんなはずではなかったと、マウスの反応に苛立ちながらムキになって続けるうちに手首が痛くなった。ほぼ終日、こればかり。**(家内)は呆れていた。

 XPをインストールした時にゲームを載せなかったのは正解だった。ただでさえ矢のように過ぎて行く人生の日曜日の午後のほとんどをゲームに費やして終わってしまいそうだ。こんどO/Sを乗り換える時もゲームは絶対に載せないことにしよう。(8/20/2011)

 あさ起きた時はまだムンムンする蒸し暑さが支配していた。予報では雨の振り出しはお昼前。降り出す前にと8時回るとすぐにウォーキングに出た。歩き出した時はまだ熱風だった。8時半過ぎ、風向きが変わった。東風、そして北東風。爽やかな風。前線が通過する前ぶれとして、それでも2時間くらいあとだろうと思った。黒目川沿いを往復し、押出し橋の交差点を渡るころはまだ雲の色はさほど変わってはいなかった。エクストラコースを歩くと30分。「まだ大丈夫」。

 東京病院まで来た時、遠くから雷の音が聞こえたような気がした。そしてポツッと雨粒が肩に落ちた。それからは早かった。竹山団地にさしかかる頃には普通の降りになった。家に着くのと沛然たる豪雨になったのはほぼ同時。気温も室温も一気に下がった。

 ナスを漬けるのにミョウバンがないと廣枝が言う。年末の「ほろ酔いコンサート」の申込金も前の方の席を取るためには早く送りたいとも。ETFの分配金を受け取りもある。窓から雨の降るさまを見ていたら、なんだか急に雨の中を歩きたくなった。私道はもう海のようになっていて通りにくい。サンダル履きだからどちらでもいいのだが舗装道路を通って郵便局へ。こちらも冠水して踝まで水に浸かる。

 たたきつける雨でハーフパンツの裾まで濡れる。気持ちがいい。「ああ、このまま、秋になってくれたらなぁ」と思うが、そう甘くはないだろう。

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 「さあ、システムを落として寝ようか」と思ったところへニュース速報。ニューヨーク市場でドル-円が75円96銭をつけたとか。(8/19/2011)

 暑い。ちょっと呼吸困難に陥りそうな感じさえする。「焼けたトタン屋根の猫」状態。・・・と書いても別にあの映画の筋立てとは関係ない。たんに生きる気力が萎えそうな暑さというていどの意味。

 夕刊連載の「ジャーナリスト列伝」、半月ほど前から「原寿雄」を取り上げている。いまのところ、この2月に岩波から出た「ジャーナリズムに生きて」をトレースしたような感じ。

 原寿雄、ではなく小和田次郎という名前で親しんでいた時代があった。「デスク日記」新聞記事を(後にはテレビニュースも)書いてあることだけではなく、ありそうにもかかわらず書かれていないことも読み取る意識と眼を身につけた。いまこうして思い出してみると、「デスク日記」は「噂の真相」に通ずるものを持っていたような気がする。

 原の同僚で、菅生事件の犯人戸高公徳(なんと現職の警察官。確定判決においては「爆弾の輸送を行ったこと」のみが認定されている。面白いのは戸高が逃走中、アパートを借りる際に使った偽名が「佐々淳」ということ。さらに戸高にフレームアップを命じた大分県警に、当時、あの有名な「佐々淳行」が配属されていたこと)を追い詰めた斎藤茂雄はこんな言葉を著書に残しているそうだ。記事から書き写しておく。

 私はそれまで、格好よく特ダネも書く有能な記者だと自分で思いはじめていたわけだけれども、どうも自分がやってきたことは・・・お巡りさんの持っているネタをいただいて、それを右から左に書く。よその記者がただ知らなかったというだけのことにすぎないのに・・・実にたわいのない記者だったんだな、とこの事件を通じて考えさせられた。

 耳が痛いマスコミ関係者は多かろう。もっとも最近では「耳が痛い」という自意識すら持たないマスコミ人が大多数となっているようだが。いや、その状況が格別「最近」だけ限ったことではなかったことをこの連載はあきらかにしている。(8/18/2011)

 泊原発3号機の営業運転がきょうから再開。運転そのものは既に5カ月以上も定期点検後の調整運転をしているのだから、仮免を本免に切り替えるようなものといえなくもない。経産省は福島の事故以前に定期点検を終えたことを理由にストレステストをパスすることとし「営業運転OK」を出している。ただ事前に道知事に「挨拶」がなかったとして高橋はるみ知事がゴネたためにきょうになっただけのこと。

 もともと高橋は原発の養分をたっぷり吸収して育った旧通産官僚出身、原発が嫌いなわけではない。いや、Wikipediaなどで見る限り、土建業界とはベッタリ(おかげで北海道民は知事の「黙認」の下、はびこる談合により約300億円も損をしている由)、退職金は北海道の財政状態を考慮し、万が一にももらい損ねることのないように(大嗤い)一期ごとにがっちり受け取るなど、いかにも高級官僚らしい手堅さを示す御仁のようだ。そのくせ北海道経済は一向に浮揚する気配がないのは「有能さ」を発揮すべき場所を間違っているからに相違ない、呵々。

 意地汚い知事さんのことはおくとして、原発に関するいろいろな主張の中に「安易に脱原発と言うな」というものがある。逆だろう。正しくは「安易に原発再稼働と言うな」だ。

 福島第一原発がどれほどの事態を引き起こし、どれほどの捨て金を発生させようとしているか、考えてみるがいい。もし、フクシマがなければ、我々のいまの気分はもっと明るいものだったろう。原発の事故処理のために蕩尽されているカネはすべて本物の復興のために使われていたはずだ。(バカな奴は「いや、原発事故特需もある」などと言うのかもしれぬが、たわけた話だ)

 フクシマはこの国の手足に重い鎖をつけた。おかげでこの国は今後数十年以上、場合によっては百年以上、生産的投資にまわせるカネが減り、環境を保全するのではなく改善することに取り組まねばならず、いずれジワジワと顕在化する保険料率の負担に耐え、目に見えない形で現れる遺伝障害と戦い、・・・貧しい想像力では列挙すらできない重大なハンディキャップを背負い込んだ。

 この上、もし、フクシマ以外の原発で同様の事故が起きれば、日本は完全に破綻するだろう。

 「安易に脱原発と言うな」という奴らは「宝くじの特等に繰返し当ることはない」とタカをくくって、「まず電気を確保しなければならない」と言っているのだろう。しかし原発事故は「地震」と「津波」だけで起きるとは限らない。いまは誰も気付かない罠にはまったら、また「想定外だった」と言うつもりなのだろうか。

 福島で一連の原子炉爆発が起きる前に市原のコスモ石油では爆発と火災が発生した。半年が過ぎたいまコスモの現場では原因究明が終わり、おそらく本格的復旧が始まろうとしている。極端な話をすれば、石油化学プラントでの「想定外の事故」は許容範囲だ。だが原子力災害は次元が違う。「想定外」だとしても許容できない。人間が引き受け可能なリスクではない。(ちなみに「リスク・マネジメント」の世界ではリスクを引き受ける-特別の対策をしないことを指す-ことを「リスク保有」というが、「保有」してよいのは「発生頻度が低く」かつ「リスクが現実化しても損害が小さい」場合だけだ。原子力村の詐欺師どもがどれほど愚か者ぞろいかはこれで分かる)

 発電方法は原子力だけではない。もっと他に引き受け可能なリスクの範囲で発電する方法はいくらでもある。好んでロシアン・ルーレットに賭ける意味は断じてない。チェルノブイリ事故から5年ほどでソ連は崩壊した。そのことを想起すべきだ。今度「想定外」の一撃を食らったら、この国も間違いなく沈没するだろう。「安易に脱原発と言うな」という言葉がどれほど愚かな言葉か、よほどのバカにも分かっていいはずだ。(8/17/2011)

 朝刊にノルウェー連続テロの犯人アンネシュ・ブレイビクのプロフィールについてのレポートが載っている。好青年。礼儀正しくスーパーでの買い物にも笑顔で礼を言う。トルコ移民が経営する店で食事をしても丁寧に礼を言い、反イスラムの感情を隠しているとは見せなかった。服も靴もブランド品。1歳の時に両親が離婚したそうだが、北欧では離婚はこちらで想像するほどのことではなかろう。オスロ西部の高級住宅地に育ち名門の小学校に通った由。

 読みながら「<癒し>のナショナリズム」において上野陽子が調査した「史の会」(いわゆる「新しい教科書を作る会」の神奈川県支部有志団体)の卑弱なメンバーたちを連想した。

 保守主義というのは基本的に太陽ではなく月のようなものだからやむを得ないことなのだが、彼らの特性は「サヨク」や「アサヒ」(ブレイビクの場合は「多文化主義」と「イスラム」)に対する憎悪だけを思考の「燃料」にしている「サイレント保守市民」だということ。自分の思考を活性化するのは「アンチ**」という感情が中心で、それ以上のものは希薄というのが特徴。

 この種の人々は大きく分けるとふたつの道を進むことになる。ひとつはどこまで行っても「太陽の光によってのみ自らの存在が照らし出される」ことを甘受する道。もうひとつは「太陽を憎悪してこれを攻撃する」ことによって充足感を得る道。ほとんどの「サイレント保守市民」は前者で満足する他はないのだが、自分が多数派であるという「希望」が適えられるにしたがって問題が発生する。多数派として力を得れば得るほど「太陽」の輝きが減じ、そのために照らされている自らの輝きが減じてしまうというディレンマ。もっとも、これといって「知恵」も「野心」も「大望」も持たない普通の生活者にとっては陽だまりでの日光浴は悪いものではなかろう。

 しかし、小賢しい「知恵」や身の程に似合わぬ「野心」や「大望」をもつ者は後者の道をとる。もともと「あるがまま」しか考えられないていどの「知識範囲」と「分析能力」しか持ち合わせない以上、ただひとつのひとつの「仮定」に立って「太陽光線」中の特定の「色」(「アカ」といえば分かりやすいか、呵々)を憎悪し、これを攻撃すればすべて(さすがにそれほど単純ではあるまいが)とは言わぬまでも、世の中の多くの「問題」は解決の方向に向かうと信じるわけだ。(そういう点では、最近のテロが恐怖から効果を引き出そうとしているのに比べて、今回のようなテロは「古典的」だということになる)

 記事にはブレイビクの幼なじみという記者の言葉が紹介されている。「彼が狂っていたとは思わない。社会の産物であり、私たちの一人だ」。いまのところこの国にはまだブレイビクは登場していない、赤報隊の一連の事件を除けば。だが時間の問題かもしれない。まあ、無差別テロよりはこういう古典的なテロの方がましという気もしないではないが。(8/16/2011)

 あさのNHKニュースで取り上げられていた話。

 敗戦を間近にした1945年7月14日と8月9日、アメリカ軍は釜石市に対し洋上から艦砲射撃を加えた。この砲撃により弟を失ったのが昆勇郎だった。戦後、市役所に勤める傍ら、地元での聴き取り調査、行政に残る被害記録、米軍側の文書にあたるなど資料の収集にあたった。ニュース映像には地図にまとめられた着弾地、被害状況の記述があった。昆の調査によると死者は756人、砲弾は5346発という。

 その昆は3月11日に被災した。自宅1階にいた夫婦は津波により亡くなった。精魂をかたむけた資料は3階にあったため大半が遺された。遺族の意思により資料は釜石市に寄贈されることになった由。

 遺された本にはこんな言葉が書き込まれていたそうだ。「歴史は過去の囈語(ぜいご)に非ず、現在の警策にして、未来の指針なり」。いまだに「敗戦」を「終戦」と呼び代えて歴史に真正面から向き合う気のないこの国の人々にとって、きょう、敗戦の日に、噛みしめたい言葉だが、もう一、二度、手ひどいめにあわなければ、そんな気にはなれない、それが最近の雰囲気のようだ。(8/15/2011)

 よる9時からのNHKスペシャル「圓の戦争」を観た。

 日中戦争、太平洋戦争の戦費がどのように手当てされたか、それがこの番組の主題。

 台湾を植民地として持ち、朝鮮を併合した時点で、日本の版図には三つの中央銀行(日本銀行、台湾銀行、朝鮮銀行)が置かれ、それぞれ独立に「円札」を発行していた。朝鮮銀行総裁であった勝田主計(松山出身、秋山真之、正岡子規らとほぼ同年)は中国大陸全体に「円」による経済圏を広める意図があり、初期の関東軍が行った「火遊び」の資金を朝鮮銀行券でまかなうことに積極的であった由。

 やがて軍事行動が拡大し戦費が増大するに至って編み出された手法が「預け合」というものだった。満州はともかく華北にまで流通を強制するようになると朝鮮銀行券の「朝鮮」という部分は反発を招く。そこで占領地域に傀儡銀行を作り、この銀行に占領地内で流通する「円」(たとえば「中国聯合準備銀行券」略して「聯銀券」)を発行させる。その裏付けとして(いわば信用保証)朝鮮銀行との間で「預け合」という契約を結ぶ。おおもとの資金は政府の「臨時軍事費特別会計」で管理されているカネだが、このカネは傀儡銀行には渡されず、朝鮮銀行に「預けて」おくという契約。すごいのは朝鮮銀行もそのカネを保有せず日本政府に戻してしまうというところ。つまり、臨軍費は見せ金としてのみ使われ、その見せ金の分だけ中国現地の傀儡銀行はお札を印刷して流通させるということ。日本政府の懐は一切痛まずに戦費を調達できるというわけだ。(番組では石原莞爾の「戦争をもって戦争を養う」という言葉が紹介されていたが、まさに中国の経済力を「円」に取り込むことによって中国を侵略したということ)

 番組はいったんここで中国からズームアウトする。日中戦争当時、既にドルやポンドなどの外貨準備が不足していた大日本帝国は保有する金を取り崩して石油などの戦時物資の買付を行っていた。もともと日露戦争における戦費の調達状況を見てもわかるように、この国の戦争は欧米からの資金の借入と戦時物資の調達によって遂行されていた。しかし中国権益にこだわり始めた侵略戦争により、伝統的なこのルートは絶たれることになってしまった。結局、日中戦争そして太平洋戦争の戦費は朝鮮銀行が関東軍のために編み出した「預け合」をより大々的に行うことによって調達された。「日中戦争の開始から終戦までの戦費は、分かっているだけで7,559億円。現在の価値で300兆円を超える。少なくともその4割が預け合いによってまかなわれていた」のだそうだ。

 見終わっての印象。うまくまとめてあり面白かった。とくに「預け合」という手法については初めて知る話で非常に興味深かった。だが、これは「通貨」による戦争の表の部分だけを伝えたもので、裏の部分についてももう少し掘り下げてもらいたかったように思った。たぶん1時間という制約の中では難しかったのだろう。ならば「前・後編」の二回構成ということでもよかった。

 裏の部分とはなにか。番組の中ほどに蒋介石が発行した「法幣」(元)の話が少し出てきた。これが蒋介石の反攻の武器になったという説明があったが、その意味を理解するには予備知識が必要だ。「元」のバックにはポンドがあった。1939年3月の「英中法幣安定借款協定」がそれだ。

 見せ金が信用保証になっている「円」と1000万ポンドという有力国の通貨が信用保証になっている「円」。経済原理からすれば実態のある信用保証のついた「元」の方が強い。大日本帝国の軍事的優位があってはじめてあるていどの「バランス」が成立したとするのが正しいのではないか。「円」は必ずしも強くはなかったし、軍もそれを承知していた。だからこそ陸軍登戸研究所の指揮により行われたニセ法幣作りという謀略が実行されたのだろう。要するに大量のニセ札を中国でばらまくことにより、法幣(ひいては蒋介石政権)への信頼性を失わせ、中国経済を混乱に導き戦争を有利に持ち込む。のみならず、そのニセ法幣によりアメリカなどから軍事物資を購入することも目的のひとつだったかもしれない。この工作は「杉工作」と呼ばれ、その実行には阪田誠盛という陸軍嘱託の組織した「阪田機関」によって行われた。

 これらのいわば「圓の戦争」の裏の部分についても視野を広げて欲しかったというのが正直な感想。(8/14/2011)

 「都の人はことうけのみよくて実なし」。

 先日来の大文字送り火騒動のニュースを聞きながら、この一節を思い出していた。

 もともとは京都とは別の大分の美術家の提案によるものだった。陸前高田の景勝として知られた松原が津波被害を受け一本を残してすべてなぎ倒された。その松を送り火の薪にしてはどうか。京都の大文字保存会は提案を受け入れ、陸前高田では木々を集め地元民にひとこと書いてもらうなどした。ところが京都市の一部から放射能で汚染されているかもしれないではないかという疑義が出る。腰の浮いた京都市は中止を決定。件の薪から放射能は検出されず陸前高田で迎え火として焚かれる映像が報ぜられるや京都市内のみならず全国から非難・抗議が京都市に寄せられる。恐れをなした京都市と保存会はあらためて陸前高田から薪を取り寄せ使用することにした。ところが取り寄せたものから放射性セシウムが検出され京都市はまたまた中止を決定。

 いまのこの国の心根をよくよく表わしている話で、別に政治家だけが根性も信念もなくウロウロしているわけではないことがあらためて確認できた。「頑張ろうニッポン」だの、「勇気をもらいました」だの、チャラチャラと口ばかりのやりとりばかりが行き交って、いい人ごっこをやっている・・・。

 「ことうけのみよくてまことなし」なのは別に都人ばかりではない。薄っぺらな感情にまかせて気分のままを「意見」とする根無し草のような人々、そんな人々を対象に頻繁に行う「世論調査」の数字に右往左往する政治家、その様を面白可笑しく解説してウケを狙う識見はもちろん定見もないタレント、その言葉に自家中毒でもして、後先も考えずに「もう菅じゃダメだね」などといっぱしの口ぶりで語るバカども・・・これらすべてが「ことうけのみよくて」根性も覚悟もない連中そのもの。尭蓮上人ならどのように弁護なさることだろうか。(8/13/2011)

 NHKの「追跡!AtoZ」を観た。

 福島原発第一原発で3月から5月の間に事故処理に当った作業員のうち143人と連絡が取れず内部被曝の検査が行き届かなくなっているという。全員が第三次下請け企業所属ということになっているのだが、容易に想像されるように、それは東京電力がオフィシャルに認めているのが三次下請けまでだからの話。実態は四次、五次、六次、七次、・・・下請け「企業」というよりは手配師に集められた作業者。彼らは下請け企業や手配師からは三次下請け企業の社員だと名乗るように言い含められて現場に入る。

 番組には手配師をやっている人物が登場した。腕に入れ墨のあるりっぱなヤクザ屋さんだ。「背中には龍」などと自慢げに語ってからの証言。「(原発に人を送るのは)10年くらい前からやっている。愛媛の伊方、福井の原発、福島もありますよ。4カ所くらい。・・・我々の言うシノギで、原発に一人送るたびに月に150万ほど入るんです。3月11日の事故が起きるまでは一人7万から8万だったんです。期間は問いません。とにかく福島に行く人間を探しているわけですわ」。

 3月末に東京新聞に「『日当40万円出すから』原発作業員確保に躍起」という記事が載っていた。東京電力はそれこそ「躍起になって」この記事を否定した。しかし「事故までは一人7万から8万だった」という部分などはみごとに符合する。事故処理費用は凄まじい額になるだろう。東京電力も大変だなどと思うのはお人好し。その費用は丸ごと電気料金に上乗せできるというのが現在の法律だ。人のカネなのだから東京電力は鼻歌でも歌っていればいいのだ。これが発送電一体、電力会社の独占体制を認めた電気事業法というものだ。

 インタビュー側が「どんな人が行くのか」と尋ねると、ヤクザ屋さんはこう答えた。「借金作ってる人間です。一千万とか借金抱えたら行かざるをえんでしょう」。こう説得するのだそうだ。「お前、どやねん。しゃないやろ。60過ぎてたら、あと何年生きられるねん。あと生きても、10年かそこらやろ。それやったら2、3年辛抱して嫁さんにカネ残したらんかい」・・・まことに情理を尽くした説得だ。オレがその立場だったら、コックリとうなずくだろう。

 番組は、先月22日、警察庁の指導で開催された「福島第一原子力発電所暴力団等排除対策協議会」の情景を映した。登場した東京電力の武藤悟司総務部長はツラッとして「暴力団から狙われる可能性があります。反社会的勢力との関係遮断を強化して参りたいと存じます」と言ってのけた。まだ暴力団の活躍によって事故処理が進められているという「現実」は発生していないというタテマエに立っているのだ。鉄面皮とはこういうことをいう。こんな事故が発生していない大昔から原発は暴力団の活動に支えられて運転を継続してきた。

 東京電力を含めて原発に依存している電力会社が三次下請けまでしかオフィシャルに認めない理由は簡単だ。その下のことは、我々は一切知らないし、責任がありませんと言い逃れるためなのだ。ウソと不正なくしては原発の運転はできない。そのことと(みかけ)クリーンな会社であること、この矛盾を解消する手品のタネがこれだ。

 番組の中に、宿泊する宿から作業者たちが第一原発に向かう映像があった。「HITACHI」の文字の入ったマイクロバスだった。そうか、いつぞや**くんがメールに書いてきた「ラドウェストのシステム屋のプロです」という自慢話は「放射性廃棄物の除去に関する技術的プロフェッショナル」という意味ではなく、「放射能汚染処理をなるべく見えない形でごまかす組織的プロフェッショナル」という意味だったようだ。

 大日立の技術屋さんが書いてきたから、「放射能汚染事故」を的確に処理できる部隊がいるんだな、頼もしいことだと誤解をしていた。なんだ、こんなことかい。(8/12/2011)

 12時42分頃、ネットワークが切れた。直営(使わせてやるというNTT精神を体現した言葉)ONUの故障なのか地域全体にわたるものかを知りたくてもネットが機能しないのではどうにもならない。問い合わせようにもネットが不通の時はひかり電話も不通。こういう時は昔の黒電話が懐かしくなる。

 携帯から104の番号問合せ、問合せ窓口0120-116-000を教わり、そこで0120-242-751へかけてくれとのお達し。やっとBフレッツ/ひかり電話の故障窓口へ。

 ONUの電源を落としてくれとか、どのインジケーターが点灯しているか確認しろとか、いいように使われてから、お宅の電話は埼玉管内ではなく東京管内なのでそちらに引き継ぎをして処理に当るとのご託宣。ところが引き継いだはずの東京管内の故障センターから携帯に連絡が入ったのは小一度間も経ってから。別に復旧したわけではない。「お客様のエリアでは現在ネットワークがつながらなくなっております」という言われなくとも分かっている連絡。

 さすがにカチンと来て、ひとこと言ってやった。「引き継いだら引き継いだ旨の連絡ぐらいすぐしろよ。その上でなにが起きていて、おおむね何時間ぐらいかかる見込みですくらいのことは伝える。その時間内に復旧すればよし、その時間になっても復旧しない時は改めて連絡を入れるくらいのことはしろよ」。「為替取引などやっていて際どい時にはネットがダメなら別の方法を考えなきゃいけないんだから」と言ったけれど、分かっているのかどうか。

 やっと復旧したのは3時45分頃。その間に豪ドルは78円22銭から71銭まで動いていた。もともと臆病だからあまり際どいことはしていないが起きる時はいくらでも不運なことは起きる。教訓、取引をする時にはそういうことも頭の片隅にはおいておくべきだということ。(8/11/2011)

 ニューヨークは429ドル92セントも上げて終わった。先々週来の下げトレンドで相当の「下げストック」があったということなのだろうが、なにもうちが投信の買い増しを入れた日に反発しなくてもいいのにと思うと、なにかバカにされたようで無性に腹が立つ。まあ「酔歩」というのはこういうものなのだと頭では分かっているのだが・・・。

 とにかく暑い。熱帯夜の連続。朝から呼吸困難に陥りそうにムッと来る空気。きのうの熱気にきょうの熱気がアドオンされる感じ。ウォーキングもさすがにこの条件では500メートル4分30秒も相当きつくなる。平均時速6.5キロをキープするのもけっこう難しい。

 こういう日は正直なところ出かけたくはない。だがきょうはこれから幹事引継会名目の飲み会。立替金が3万ほどあるが別に急ぐわけではないし、いま引き継ぎをしたところで来年に向けての活動をすぐにスタートさせるというわけでもなかろう。だいたい来年度幹事は代表2名の参加だ。**くんや**くんも出席してもらえばいいのに。要はいつものメンバーで仲良く飲みたいことばかり先に立っているように見受けられる。

 ・・・などと書くのは、暑いなか出かけるのが嫌で文句ばかりが先に立つせいか。そろそろ出るか。(8/10/2011)

 懸念以上にニューヨークは下落した。634ドル76セントの下げ。1万1千ドルを割り込んで10,809ドル85セント。週明けの市場対策として行われたG7の電話会議はほとんど無視された格好だ。

豪ドルはウォーキングに出る直前は79円ちょうどを少し切るあたりでウロウロしていたが、戻ってシャワーを浴びてシステムを立ち上げると76円台になっていた。78円か77円50銭あたりで待ち構える心づもりだったが、つもりでいるうちにそれをあっさり突き破られると、逆にそこで新規に注文する勇気は持てない。中国の消費者物価指数前年比+6.5%で市場予想よりも強かったにもかかわらず、インフレ懸念からの下げだという。春以来の米ドルパリティ割れ。

 東京市場は、金曜が359円30銭、きのうが202円32銭下げた。前場は8,700円を割った。少し忙しいとは言いつつ、ここで買いを入れるかどうか。デイトレードをやるなら買いなのだろうが、安く仕入れたいというスタンスでは、震災直後ほどには確信を持てないところが悩ましい。

§

 結局、東証は9,000円を割って8,944円48銭。153円8銭の下げ。案外たいした事はなかった。それでも投信も各セグメント、国内債券も含めて、軒並み下げて評価損はおととしのスタート時以来最悪で、12%を超えた。

 夕刊の「人脈記」、いまは「私の中のアキバ」。おお、きょうは柴田翔の「ロクタル管の話」で始まるではないか。貴重な小遣い銭をジャンク屋で擦ってしまった経験はいまとなれば「いい経験」と思えぬでもないが、誰にも言えない泣きたいほどの「経験」だった。あの小説は柴田の実体験なのだと思う。

 いま、寝る前の最終チェックと思ってのぞいたら、ニューヨークは上げで入った。186ドル86セントほど。このままプラス圏で推移するのか、絶好の逃げの条件になってマイナス圏に戻るのか。(8/9/2011)

 週刊現代今週号の広告はすごい。大見出しで「メディア最大のタブー/東電マネーと朝日新聞」。リードは「東電が朝日に出した年間広告料2億3,000万円(推定、電事連等は除く)。それだけじゃない。朝日有力OBグループは東電のPR誌を作り、それをすべて買い上げてもらっていた。その額、年間1億4,000万円!」となっている。

 朝日新聞の記者だった志村嘉一郎は「東電帝国その失敗の本質」の「第2章 朝日が原発賛成に転向した日」に朝日が原発容認に社論を転じた経過を書いていた。簡単にまとめると、オイル・ショックにともなう不景気の中で目減りした広告費が欲しい広告部門の意向を汲んだ編集部門担当専務の渡辺誠毅が「原発推進の意見広告が出稿された場合はこれを受ける」とし、(志村の推測によると)東大同窓の木川田一隆にこれを伝え、木川田が原発推進のマスコミ工作のために電事連広報部長として抱え込んだ業界紙出身の鈴木建を使って仕掛けたということ。

 1974年7月から月一回のペースで朝日に1ページの3分の2を占める意見広告が載り始める。さっそく読売が「原子力は私どもの正力松太郎が我が国に初めて導入したものだ。なのに朝日にPR広告を取られたのでは面目が立たない。なんとか私どもにもくれないか」とねじ込んできた。電事連は朝日に遅れること数カ月で読売にも同様の広告を掲載することになった由。当時、原発に批判的、かつ「政治を暮らしへ」というキャンペーンで消費者運動を積極的に取り上げていた毎日には、「キャンペーン」が終わったら来いとナゾをかけて広告掲載を拒否した。読売に遅れること1年で毎日にも電事連の原発広告が掲載されるようになったそうだ。

 朝日新聞と読売新聞の広告費は高かった。全国版なので一ページ丸ごと広告を入れると、一回あたり数千万円はした。年間にすると七、八億円にもなってしまう。地方紙を入れると十億円にもなる計算だ。広報部のこれまでの予算ではとても出せない。特別に予算をとるしかなかった。鈴木は、毎月一度開く九電力会社の社長会に出て、「原発PR予算は建設費の一部だ」と訴えたのであった。九社の社長は、黙ってうなずくばかり。
 原発のPR関係費が、一基つくるのに三千億円以上もかかる原発建設費の一部として認められた、瞬間だった。

 週刊現代よ、遠慮することはない。東電が朝日に出した広告料や工作費だけなどとみみっちい記事ではなく、各電力会社、電気事業連合会が、朝日以外の新聞社やテレビ局にどんなカネをばらまいて、原発神話の捏造と再生産をしているのか、その全貌を暴いてくれ。我がマスコミが骨の髄から原発マネーに汚染されているさまを白日の下に晒してくれ。そうだね、週刊誌の中にも原発マネーをもらってチョウチン記事を書いているとおぼしき何誌かがある。ガンバレ、現代。

 ところで年間1億4,000万円もせしめた「朝日有力OBグループ」とはどんな連中か。大熊由紀子などは確実にその仲間にいるだろう。彼女の師匠筋にあたる岸田純之助もまだ生きているようだから同じ穴の狢なのだろうか。大熊などは別にして、岸田の書いた偕成社の「新しい科学の話」(というタイトルだったと思う)などで育ち、伏見康治などの著作と翻訳書に育てられた者としてはいささか複雑な気持だ。

 開いたばかりのニューヨーク市場、いま、189ドル86セント下げている。アメリカ国債の格下げがどのように影響するか、興味津々。同時に恐怖感もちょっと。(8/8/2011)

 きのうの朝刊、社会面にこんな記事。

見出し:原発再開 佐賀知事「首相がリスク」/九電作成メモに記述

 九州電力の「やらせメール」問題で、九電が作成した佐賀県の古川康知事の発言メモに、原発の運転再開につなげるため、佐賀県議会議員に働きかけるよう要請していた記述があることがわかった。再開に向けた懸念材料として、菅直人首相の言動を「危惧される国サイドのリスク」とも指摘した。九電側はメモ内容と実際の知事発言は異なるとしている。
 古川知事は、6月21日に原発部門トップだった前副社長ら九電幹部3人と知事公舎で会談。幹部は会談時の知事の発言をメモにまとめ、原発再開のためのテレビ番組に賛成意見を投稿するよう指示した電子メールに添付していた。メモを朝日新聞出版の週刊誌「アエラ」が入手し、複数の九電関係者が内容を認めた。
 メモによると、古川知事は停止中の玄海原発2、3号機を早期に再開するため、幹部に対し「いろいろなルートで(県議会の)議員への働きかけをするよう支持者にお願いしてほしい」と要請した。その理由として「議員は支持者からの声が最も影響が大きい」とした。6月26日放送のテレビ番組については「発電再開容認の立場からもネットを通じて意見や質問を出してほしい」と求めた。
 こうした段取りを進めるにあたっての懸念材料として、「危惧される国サイドのリスクは『菅総理』の言動だ」と指摘した上で、「首相の言動で考えているスケジュールが遅れることを心配している」としている。
 古川知事は記者会見で、やらせの指示は否定したが、県議への働きかけや菅首相の批判部分には言及していない。
 九電の第三者委員会は実際の発言内容と食い違っていないか調べている。

 このメモによると、古川知事はなにがなんでもすぐに玄海原発再稼働を実現したかったようだ。単なる「原発大好き知事さん」、あるいは「知事さんの異常な愛情」とは思えない。核燃料税による税収に魅力があったからか、それとも原子力マフィアから報奨金でも出ていて喉から手が出るほどその金が欲しかったのか。そういう想像でもしない限り、九電の幹部相手に「ああしろ」「こうしろ」などと直接に指図することも、「考えているスケジュールが遅れることを心配している」などという言い方をすることも、いかにも不自然な気がする。

 少なくとも、この知事さんにとっては県民が原子力災害のリスクに晒されることなどは屁でもないらしい。佐賀県民はこれほど独善的な知事を選んだことをいまどう思っているのだろうか。(8/7/2011)

 やっとスタンダード・アンド・プアーズのみがアメリカ国債の格下げを決めた。

 「やっと」だ。「独立系」格付け会社などはとっくの昔にアメリカ国債が格下げされるべき状況にあることを指摘し大手格付け会社3社に公開書簡を送っていた。去年の春の話だ。公開書簡の主であるマーティン・ワイスが主催する格付け会社ワイスは既にアメリカ国債を「C」(スタンダード・アンド・プアーズでいうところの「BBB」)としているそうだ。

 夕刊には「米政府は強く反論」という見出しでこんな舞台裏を紹介している。

 S&P側が米財務省に格下げを通告してきたのは5日午後2時前。財務省は、S&P側の今後10年での債務残高の推計に誤りがあり、2兆ドルほど多めに見積もっていたことを見つけたという。財務省の指摘に対し、S&P側は誤りに同意したものの、結局、格下げを断行した。

 先週来の流れを見ていると、どうも事前にシナリオがあって、政府と大手3社はそれを演じているのではないかという疑念がぬぐえない。

 まず2社(ムーディーズとフィッチ)は早々と格下げしないことを宣言する。そんな中で1社だけが格下げを断行する。ただその発表の中に敢えて瑕疵を作っておき、政府はそれを指摘するが格下げは強行される。少し「フライイング」の匂いを残して・・・これがイメージ的な「激変緩和措置」だとすれば、猿芝居もいいところ。

 独立系格付け会社と違って大手3社は格付け対象からカネをもらって格付けをする。もともと国債についてはそうした依頼があるわけではないから依頼格付けほどの手間暇をかけるものではないというのが実情らしい。むしろ監視当局である政府に阿ることは十分に考えられる。

 閑話休題。日本時間のけさ、クローズしたニューヨークは60ドル93セント上げ、11,444ドル61セントで終わったが、時間内には11,139ドルちょうどまで下げていた。週明けの各国市場がどう動くか、なにより月曜の朝のオセアニア市場で為替がどの水準で始まるか、かなり心配。

 いわゆる大恐慌は1929年10月24日「暗黒の木曜日」で始まったが、それを世界的に拡大したのは2年半後、1931年5月11日オーストリアのクレディート・アンシュタルト銀行の破綻だった。大崩壊は必ずしも一気に起きるものではない。

 2007年ごろから始まっている世界的な金融危機が、波風はあってもなんとか鎮まるのか、もっと凶悪な相貌を現わすようになるのかは、相当の経済学者でも分からないだろう。リーマンショック後の株の暴落から2年半した去年の5月にはギリシャ国債をはじめとするいくつかの国債の信用問題が浮上した。その暗合に震え上がってから1年3カ月。災厄の発生間隔が半分、そして半分と詰まってきているのではないかと思うといささか恐い。

 状況はリーマンショック時点よりもはるかに悪い。08年にアメリカ政府がヘジテーション・チャタリングを起こしたのは公金でウォール街を助けることに対する国民の反発だった。財政出動する能力そのものに不安があったわけではない。しかし、現在の状況は財政状況そのものが逡巡の大きな原因になっているからだ。(8/6/2011)

 きのうの夜、就寝直前、開いたばかりのニューヨーク市場は140ドルほど下げていた。けさ、「NY株、一時370ドル下げ」という見出し、しかし実際の終値は11,383ドル68セントで、512ドル76セントの下げだった。1日の下げとしては2008年12月1日以来の大きさだったとか。きのう23.38だった恐怖指数(VIX:Volatitlity IndeX)は31.66に跳ねあがった。

 こういう日は狙い目。ウォーキングに出る時間を少し遅らせて、**(家内)から頼まれていたシャルレの他、JFE、花王に買いを入れた。花王は際どいところで買えなかったが、シャルレとJFEは値ブレのおかげで指し値以下で首尾よく買うことができた。まあ、ここ数カ月、いま一段の下げがあるような気もするが、最低単元株レベルで何回かトライすることにしよう。

 きょうは東京市場も359円30銭下げ、9,299円88銭。投信も国内債券以外は大幅に下げた。久しぶりにおととし4月のスタート金額を割り込んだ。70歳から79歳までの生活はひとえに70歳までの投資運用に成果に依存する。まだ7年半ほど余裕があるとはいえ、やはり「原価」を下回るというのは心穏やかではない。

 東海テレビがきのう午前中にオンエアした番組の岩手県産米を視聴者プレゼントするコーナーで「汚染されたお米(の当選者の方は)セシウムさん」などと書いたテロップ画面を流したとか。リハーサル用にスタッフが作成したテスト版が間違って放送されてしまったらしい。

 その昔、アメリカにレーガンという大統領がいた時、ラジオ演説のマイクテストとして「親愛なるアメリカ国民の皆様。たったいまソビエト連邦を抹殺する決定に署名しました。爆撃は5分後に始まります」としゃべった。内輪のマイクテストで留まれば、ラジオ局スタッフ向けの「また、やってるぜ」というジョークに留まったのだが、今回の東海テレビ同様の「手違い」で全米のみならずアメリカの宣伝放送VOAを通じて全世界にこれがオンエアされてしまった。

 貧しい精神の持ち主は冗談もまた貧しい。この仲間内ならば「岩手のお米はセシウム汚染米」というジョークは絶対に一同一気にヒクことはない「スベラナイ話」そのものだ。このテロップを作成した御仁がそう確信するような空気が東海テレビというテレビ局には蔓延していたということだろう。貧困なるフジサンケイグループの精神にカンパイ。(8/5/2011)

 日立製作所と三菱重工とが事業統合するというのが、今朝の日経のスクープだった。

 ニュース映像ではインタビューを受けた日立の社長が「午後に会見を開きますから」と言っていた。しかし夜に至るまで続報はなかった。両社のサイトにアクセスしてみた。

 こういう時にはだいたい「本日の一部報道について」というタイトルで文書が掲載される。予想通り日立の「ニュースリリース」にはPDF形式で文書が掲載されていた。そっけなく「本日付の一部報道にて、当社と三菱重工業株式会社の事業統合に関する記事が掲載されましたが、そのような事実はありません」とあった。これは正式発表前の常套句だから、記事を全否定しているわけではない。

 一方、三菱重工のサイト。こちらは「重要なお知らせ」に「本日の一部報道について」のほかに、もうひとつ「当社に関する一連の報道について」というのが掲載されている。「本日の一部報道について」は「本日、当社と株式会社日立製作所との統合に関して、一部報道がありましたが、これは当社の発表に基づくものではありません。また、報道された統合について、当社が決定した事実もありませんし、合意する予定もありません」といささか饒舌に否定している。三重工という会社の常套句がいつもこういうものなのかどうかは知らない。

 興味深いのはわざわざ「当社に関する一連の報道について」を掲載していることだ。こんな文言になっている。「当社と日立製作所との統合に関する報道が引き続きなされておりますが、既に当社からお知らせしておりますように、これは当社の発表に基づくものではなく、また、報道された統合について合意する予定もありません。にもかかわらず、統合について合意する予定があるかのような誤った報道がなされることは、当社及び関係者にとって極めて遺憾であります。当社としては、これら一連の報道が当社の発表に基づく正確なものではないことをあらためてお知らせいたしますと共に、このような報道については、断固抗議してまいります」と懇切を極めている。ここまでくると単に饒舌だということではなく、報道機関に対する怒りというよりは「誰がリークしたんだ」というニュアンスまでが込められているような気さえしてくる。

 経営職ないしは経営職をサポートするような職位にまでは至らなかったから、以下は一介の管理職経験しかない者の勝手な想像だが、火のない所に煙は立たない。また日経記者がいい加減な記事を書いたということも考えられない。

 リーク元は日立の「高官」なのではないか。日経記者は裏取りに向かっただろう。それに応じた三重工側の人物がどのていどの職位の人物かは分からない。事前に漏れ出た人事は無効。会社勤めを経験した者ならば、そういう「つぶし方」があることを知っているだろう。どのような形であれ「統合」について否定的な考えをもっていたその人物は「破談」を願って少しトリッキーな答えをしたのではないか。もっと深読みをすれば、規模は大きくとも環境条件が不利である日立を追い込む「意地の悪い仕掛け」であったかもしれない。

 日立と三重工の統合が市場環境への対応に強いられたものだとすればその流れは消えないのかもしれないが、日経朝刊が伝えた「13年春に新会社」という時期も、そして「経営統合」というちょっと前のめりに過ぎる話も、相当に遠のいてしまったのではないかと思う。

 きょう、政府・日銀は円売り介入に踏み切った由。豪ドルを3月末に決済してからFXからカネを引き上げている。80円界隈まで降りてくるのをひたすら待っていて、きのうの夜、寝るころには82円10銭くらすまで下がってきていたのだが、あっという間に84円台に戻ってしまった。ここのところ一日の上下動が大きい。小遣いを稼ぐにはいいのだが、それではギャンブルそのものと思い我慢している。秋までにはもう少し調整されるだろう。しかし豪ドル-米ドルはうちが決済した直後にパリティを超えて、ずっと水準を維持している。ドル安-円高というフィルターの機能をどう見るべきなのか、FXの取り引きの実態に踏み込んでイメージを作り直した方がいいのかもしれない。(8/4/2011)

 結果的にアメリカ国債のデフォルトは回避された。

 月曜の朝、民主・共和両党間で債務上限引き上げについての合意が成立したというニュースが流れた。アジア市場が開く前までに合意し、時を措かずに大統領発表に持ち込んだのは、なんとか「アメリカ発の世界不況」を回避したいという思いがあったからだといわれる。現地時間の31日夜のことだった。

 しかしそのまますんなりと下院で議決されるかどうかは分からなかった。なにしろ共和党には「前科」がある。リーマンブラザーズ破綻の混乱を拡大したのは、共和党が多数派を占める下院が金融安定化法を否決したからだった。今回も茶会派のことを考えると、楽観はできなかったが、1日、下院は債務引き上げ法案を可決した。反対は共和党側で66人、民主党側で95人だった。

 懸念とはおおいに異なって民主党に反対議員が多かったのは、債務上限引き上げに対する反対というよりも、合意された財政改善策に富裕層増税が含まれておらず、単なる支出削減のみで達成するという明らかな問題先送りに我慢がならなかったからだろう。

 問題先送りとはいえデフォルト懸念はとりあえず解消されたにも関わらず、1日のニューヨーク市場の引けは先週末から10ドル75セント下げた。そして、上院が可決した2日の引けに至ってはなんと265ドル87セントも下げた。8営業日連続、トータルで857ドル79セントの下げは、原因がけっしてこの問題だけではないのではないかと思わせる。

 嗤えるのはこんな状況でも、ムーディーズとフィッチはアメリカ国債の格付けを最上位の「AAA」に維持すると発表したこと。わずかに見通しのみを「ネガティブ」として、もしもの時のエキスキューズとしているが、アメリカ以外の国の国債については躊躇なく格付けを下げる片一方で、自国(フィッチは「純血アメリカ種」ではないらしいが)の国債となるとグズグズと手心を加えるようでは格付けそのものの意味がない。もっとも、この二社にスタンダード&プアーズを加えた連中はサブプライムローン債権に破綻の直前まで「AAA」の格付けを与えていたことで、とっくの昔に信頼性の低いただの「口利き屋」だということはばれている。本来、この三社など、エンロンの不正会計処理の片棒を担いでいたアーサー・アンダーセン同様に解散して然るべきだったはずなのではないのか。(8/3/2011)

 赤焼けした膝と二の腕の皮膚が白くなり剥けてきた。月面のクレーターのような感じ。少し痒い。

 来月の釧路ツアー、前後に札幌に泊まることにして、とりあえずホテルのみを予約。いつもの東横イン「すすきの南」はシングルメニューがなくなったらしく、「すすきの交差点」にした。「すすきの南」は、若干、歩かされるのが難点だったが広々とした部屋でよかったのだが、さすがにこのご時世、あの部屋をシングルユースにするのはもったいないということになったのだろう。

 ツアーの方は、**くんからのメールによると、参加者は関東から6名、札幌からは10名。顔ぶれはおおむねいつものアクティブメンバーだが、**くんが参加するようだ。**くんと**さんのところは夫婦での参加。関東地区同期会に不参加で会えなかったメンバーもいる。彼らに会うのも楽しみだが、それ以上に鮭児が楽しみ。そう簡単にはお目にかかれないという話だから。(8/2/2011)

 朝刊トップの見出し。「節電さまさま/電力危機まずは回避」、そして「家庭の電力推計2割過剰/政府の節電要請根拠に疑問符」。要するに、37年ぶりの電力使用制限令を発動して鳴り物入りで迎えた7月だったが、供給力に対する使用率が90%を超えた日は一日もなかったというお話。そもそも資源エネルギー庁が真夏のピーク時の電力量を推定するために東京電力が提出したデータそのものが「ドンブリ」だったということ。記事にはこんなくだりがある。

 エネ庁が、電気料金と使用量との関係を調べる目的で、推計とは別に実施した調査によると、昨夏ピークに在宅世帯で1千ワットで、今回公表の数値より200ワット少なかった。シンクタンク「住環境計画研究所」も、エネ庁の委託で2004~06年度に電力需要を調べた。夏のピーク時に世帯平均670ワット、管内全体では1200万キロワットというデータが得られたが、エネ庁はこの数値を今回の推計に使わなかった。・・・(中略)・・・東電企画部によると、電力使用量の詳細は大口契約の一部しかデータがなく、エネ庁に出した数字は様々な仮定をおいて推計した。「家庭の使用分は実際より大きめの可能性がある」(戸田直樹・経営調査担当部長)と説明する。エネ庁は東電のデータを検証せずに使ったという。担当者は「あくまで推計の世界」と話している。

 東京電力が「実際より大きめの可能性がある」と自白した、「平均的家庭の電力使用状況」というのはこんなモデルだという。

 例えば「午後2時の在宅率6割」「約3分の1の家庭にペットがおり、留守でもエアコンを使う」。近年の機種なら10~15畳(16~25平方メートル)用に相当する「消費電力831ワット」のエアコンが「2.6台」。家庭用最大級の冷蔵庫でも冷却は100ワット程度だが、「368ワットの冷蔵庫が1.2台」とする。

 多くの日本人の例に漏れず、オレも我が家を「中流」の「中」の暮らしと思い込んでいたが、このモデルが「平均」だとすれば、我が家は「下流」、その中でも「中」もしくは「下」にあたるらしい。そうだね、年金収入で暮らす、貧乏所帯だものね、呵々。

 資源エネルギー庁と東京電力とはもともと「原発推進」というバイアスのかかったことしか考えられない。「資源に乏しいわが国が安定的に電力を確保するためには原子力発電は欠かせません」というPRを連発するうちに、いつの間にかそれがただの「方便」だということを忘れてしまったのだろう。

 その「原発推進」というウソを支える、あくまでも「仮定」であったデータを東京電力は資源エネルギー庁にそのまま提出し、資源エネルギー庁は一方にもっと少ないデータがあることを知りながら「いつものように」ウソのデータを算出の根拠にしたということだ。

 最悪の場合を想定してあるていどの見積裕度を見込んでおくということは必要なことではある。予想を超えるようなことがあっても「想定外」などという言い訳を連発しないためにも・・・。惜しむらくはその慎重さを原発という幼稚な技術の適用に際しても十二分に発揮してもらいたかったものだ。(8/1/2011)

 きのう、Office Personal 2010 アップグレード優待版を追加購入した。**(家内)のPCでのレスポンスがすごくいいから、その気になってしまった。Core2DuoのE7500でメモリー2GBなのに、我がCore2Quadの9450でメモリー4GBマシンよりもキビキビ応答してくれるような気がする。

 Office 2007はエクセルもワードも最悪だった。別名で保存するために別ドライブを選択すると、「フォルダーを初期化しています」などといって待たせる。エクセルでは、時に、寝ているのではないかと思うほどレスポンスが落ちた。ワードでは、けっこうの頻度で「消し残し」が発生し、ごく稀に「気が狂った」状態になった。ちょっとした規模以上の「メーカー」ではあり得ないほどのできの悪さ。ハードやシステムの問題ではない。ほかのアプリではこんな気持の悪いことは、一切、起きないのだから。

 Windows7もいい感じだ。見かけばかりのVistaの評判はさんざんだったが、同じカーネルながら滑らかな感触。2年ほど経って安定してきたこともあるのだろう。マイクロソフトはOSもアプリも「一代飛ばし」がいいようだ。Windowsについて言えば、98は正解だったがMEにはなんの取り柄もなく、XPは大正解。VISTAは試作品で7が完成品という感じ。

 Officeについては、95から2000ないしXP、ひとつおきと信じた2007はタコで、やっと2010で正解なのかもしれない。それにしても、この「リボンインターフェイス」だけは腹立たしい。せめて以前のコマンドインターフェイスも選択してくれるようにして欲しい。使いにくくてイライラさせられる。(7/31/2011)

 九州電力の「やらせメール」事件を受けて、経産省は過去5年間、計35回開催された国主催の原子力関係シンポジウムを対象に電力7社に調査を依頼したところ、中部電力と四国電力から「原子力安全・保安院の担当者から自社および関連会社に対して参加者の動員、肯定的な発言などをするよう依頼がありました」という報告がなされた由。朝刊には電力7社の報告内容が表にまとめられている。

保安院からの依頼 動員 やらせ質問の依頼
北海道電力 × 情報提供 ×
東北電力 × 要請 ×
東京電力 × 要請 ×
中部電力 発言・動員 要請 ×
中国電力 × 要請 電力会社の判断で
四国電力 発言・動員 要請 保安院からの要請で
九州電力 × 要請 電力会社の判断で

 報告内容を額面通りに信じる人は世の中を知らない人だ。逆にいうと「四国電力、どうかしてるんじゃないか、こんなに真っ正直に報告して・・・」といぶかるのが、この国の常識だろう。

 しかし、朝刊記事にはこうある。

 新たに保安院のやらせ指示が発覚したのは、2006年6月に四電伊方原発のある愛媛県伊方町で開催されたシンポジウム。中部電と同様、使用済み核燃料をリサイクルして使う「プルサーマル発電」の是非をめぐる重要な説明会だった。
 四電によると、保安院から「多くの参加者を募り、質問や意見が多く出るように」と要請され、四電や関連会社の社員ら計364人に参加を依頼。地元住民ら29人には、例文を示しながら発言を頼んだ。
 四電は来場者の半数程度の約300人を動員。住民らが「プルサーマルを導入してもガスの発生などウランと変わらないと聞いてちょっと安心した」など、例文に沿って発言した。
 中部電のやらせシンポは、07年8月に中部電浜岡原発のある静岡県御前崎市であった。保安院の指示で社員や下請け業者、町内会長らを動員しており、中部電の水野明久社長は会見で「深く反省している。公正さに疑いが持たれることがないよう責任を持って指導していく」と強調した。
 ただ、中部電は会場でのやらせ発言については「法令順守の面で問題」と判断し、保安院の指示に従っていない。四電のシンポは報告事例の中で最も悪質といえるが、四電は「誤解を招く行為で申し訳ない。質問の内容は強制しておらず、やらせ行為にはあたらないと思う」(広報担当)と説明している。

 これを見ると、四国電力はこれくらいのことは当たり前すぎて「なにが悪いんですか?」という感覚だから、そのまま「正直ベース」で報告したと考えた方があたっているのかもしれない。

 続く記事には「原発の説明会といえば、昔は反対派の発言が多かった。それが『世論』とは言いたくないので、動員で社員が参加したり、電力側の意見を言ってくれる人を用意したりするのは当たり前だった」という電力会社幹部の言葉が紹介されている。

 表面的に受け取れば、なるほどその通りということになる。ではなぜ、「説明会には反対派の発言が多くなる」のか。それは「原子力発電という技術」なり、「プルサーマルという技術」について正確な理解をすれば、ふつうの判断力があれば四分の三ないしは五分の四の確率で反対意見を持つに至るからにほかならない。残りの四分の一ないし五分の一とはどういう人か。サラ金からカネを借りても分不相応な生活をしたい人、麻薬ないしは覚醒剤がもたらす結果を知っていてもその誘惑を退けられない人、ふつうの人からは「性格破綻者」と見なされている人だ。ほかにほんの少し、件の電力会社幹部のように原発利権を享受している人もいるかもしれない。(7/30/2011)

 小松左京が亡くなった。26日午後、80歳だった由。

 SFマガジンをとり始めた時、始まった連載が星新一の「夢魔の標的」(たぶん星にとっての数少ない長編小説のはず)、それから時を措かずに始まったのが小松の「果てしなき流れの果てに」だったと思う。ついでに書けば、記憶では同じ頃に始まったのが光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」。当時のSFマガジンは名編集長・福島正実によりひときわ輝いていた。まあ、一中高生の印象に過ぎないが。

 小松左京というと、一般的にはまず「日本沈没」で、あとは「日本アパッチ族」、「復活の日」、「首都消失」というところで終わってしまう。SFを思考実験の小説ととらえるならば、「日本沈没」などはたしかに面白く書かれているが、時間と空間の中におかれた人間存在というものを考える「試み」としてSFをとらえるならば「果てしなき流れの果てに」こそ、まず始めに取り上げられて然るべき作品だと信じている・・・などと書いてきて愕然とした。小説の筋立てをほとんど思い出さない。

 本棚にはない。池園町から下井草に引っ越した時に**(父)さんが青春の証明たるSFマガジンをくず屋に出してしまったからだ。「**(弟)に訊いたら、『いらないって言うよ、兄貴』って言うから・・・」。恨んでるよ、**(弟)、**(父)さん。

 もう少しすると**(家内)のPCが届く。Windows7は初めて。夜までに、セッティング、終わるだろうか。(7/29/2011)

 中国版新幹線の追突事故。39人もの死者を出しながら、事故原因究明の手がかりのひとつになるはずの車輌を地中に埋めたり、早々と死者一人あたり50万元(日本円で600万円とのこと)の賠償金を一律に支払うと発表したり、さすがにどこかの国とは事態の処理に対するスピード感が違うと思わせた。

 しかし、ネットで批判が噴出するや、埋めた車輌を掘り出すわ、賠償金について遺族側の意見を聞く姿勢は見せるわ、右往左往するあたりはこの国のいまとまったく同じ。

 それにしても、「とにかく中国という国はひどい」というワイドショースズメのなぜかひどく楽しげな話しぶりを見聞きすると、いささか違和感を覚えずにはおれない。中国版新幹線の事故と我が原発の事故を並べてみると、細かなことを別にすれば、いくつか類似することがあるからだ。

 中国鉄道省は事故原因を「落雷」に求めている。「天災」だといいたいようだ。我が東京電力と原子力村関係者は事故原因を「千年に一度の津波」に求めている。珍しくもない「落雷」と「千年に一度の津波」では大いに違うと胸を張る向きもあるかもしれぬが、要するに「天災」に逃げ込んで自らの責任を回避したいという心理にかわりはない。

 早々とカネを払って済ませようというあたりはフクシマの事故では見られないようだが、原発の運転開始以来、約40年の間に原発での作業により被曝した作業者に対する姿勢は、「早くカネを握らせて、誓約書をせしめ、後は解決済み」と逃げをうつことで一貫していた。樋口健二「闇に消される原発被曝者(増補新版)」に多数実例が載っている)

 事故車輌を埋めるという手口などは平沼赳夫を首魁とする一味が主張する「地下原発」に通じていて思わず嗤った。要するに、事故の惨状を見せない、汚いものは目につかないように埋めてしまえばよいという子供じみた発想から来るものだろう。

 たまたまチャンネル切り換え中に見たので、ニュース原稿だったのか識者コメントだったのか分からなかったが、こんなくだりがあってこれまた大嗤いした。「・・・原因究明もされていないのに、既に運転を再開している・・・」。ひとつ、事故が鉄道事故ならば、この国でも二日もすれば運転を再開するのではないか?。ふたつ、もっとフェータルな原発事故を横目に、運転中の原発は運転を続け、休止中の原発の運転再開を当然としたのはどこの国だったか?。

 中国という国がひどいのと同程度にこの国もひどいのだが、人間というものは自分の体臭(口臭と書いてもいいが、ここは秋成に従っておく)には気付かないものなのだ。

 ・・・と書いてから、朝刊に載っている週刊文春の広告を見ていたら、こんな見出しを見つけた。「緊急警告:中国『パクリ最先端技術』次は原発が危ない!」。そうだよ、だからストレステストは中国・韓国を含む三カ国によるピアレビューでやれと書いたのだよ。死んでもできないだろうが、ね。(7/28/2011)

 **(家内)のVAIOの電源の差し込み口のところが壊れ、修理サービスに出した。差し込み口とマザーボード修理で38,640円、バッテリーも不具合だとかであわせて64,680円かかると連絡が来た。別にノートでなくては困るわけではない。日記で確かめると、これを買ったのは2005年1月のことらしい。6年半の使用。電源プラグのところはうっかりすると壊れやすいところ、コネクタの損傷でマザーボード交換というのはいささか設計上に問題があるのではないか。とはいいつつスピードの遅さ、**(家内)に言わせれば「わたしにちょうどあっている」とはいうものの、目立ってきたところ。ちょうど液晶モニタが浮いているのでコンパクトなデスクトップを買うことにした。エプソンダイレクトでCore2DuoのE7500、メモリーが2GB、キーボード付きで税込み44,475円。

 Officeをどうするか。プレインストールを指定すると21,000円。ハード括りつけは自由度がない。掛け捨ての保険のようなものだ。保険の価格設定はそれなりにリーズナブルなものだが、パソコンソフトは暴利そのもので腹立たしい。

 単体価格を調べた。Amazonでパーソナルの通常版が税込み24,131円、アップグレード版なら12,166円。当然のこと、かなりの価格差がある。それにしても「アップグレード優待」というネーミングは変だなと思って検索をかけてみた。どうも「クリーンインストールの場合、通常、必ず求められる前バージョンCDの確認ステップがない」らしい。そんなバカなことあるのと思いつつ、最悪の時は**(家内)用には買い直して、こちらのOffice2007のアップグレードに転用すればいいと腹をくくってトライすることにした。さて、うまくゆくかどうか・・・は着いて、作業してのお楽しみ。(7/27/2011)

 おとといは高曇り、きのうはそこそこ晴れていたが、富士は見えなかった。

 まず、おととい。しばらくぶりに目覚ましをセットして寝たが、5時少し前に目が覚めた。眠い。大島の時に比べれば、はるかに遅い出発にもかかわらず、とにかく、眠かった。家を6時ちょっと前に出て、ほぼ一時間で中野到着。**さんの車で木更津へ。首都高もアクアラインもまださほど混雑していない。8時過ぎにはマリーナ近くのコンビニに着き、おにぎり、飲み物などを調達。ざっと海図などを確認して9時15分、出航。

 適度に雲が出ていて、思ったより陽の光が柔らかい。湾内は凪いでいて絶好のコンディション。大島クルージングの時の僚艇ウィッツ号から譲り受けた(ウィッツ号、売却した由)というアルミ製のデッキチェアに腰掛けて爽やかな風を楽しむ。三浦半島を廻るところでうねりによる衝撃が来たがその時だけだった。逗子の沖あたりではヨットが群れをなしていた。旗の立ったブイがあり、近くに一艇ヨットがいた。レースの審判役かもしれない。風が心地よい。船酔いの薬を忘れたことも気にならない。

 初島には12時15分頃の到着。3時間ほど。意外に早い。マリーナで繋留手続き。大島の波浮は無料だったがここは有料、13,200円也。エクシブクラブのマリーナだから仕方がないようだ。上陸前にデッキで昼食。民宿に連絡するとチェックインは2時からOKとのこと。ブラブラ歩きで民宿街に向かい、チェックイン。なぜか、全員、疲れていたのか、島内を歩くでもなく、ゴロゴロ。そのまま夕食。対岸の熱海市で打ち上げられる花火を見物。民宿の部屋でささやかに飲み会。就寝。

 そして、きのう。日の出る前から蝉の大合唱で目が覚めた。それでもトリクル睡眠を続けて、起床はいつも通り6時半。朝食をとっていると予約した民宿の女将が岩海苔を持参して謝りに来た。最初に**さんが予約を取った民宿がダブルブッキングをして、この民宿に変更になったのだそうだ。知らん顔をすればそのままのところだが、わざわざ挨拶に来るところが丁寧。

 9時すぎにチェックアウトして島を散策。民宿に不満はなかったが(なにしろ繋留費で二人が一泊できる勘定)、それでもエクシブクラブの雰囲気ぐらいは味わおうかと送迎バスでホテルへ。ラウンジでコーヒーをゆっくり味わってからマリーナに戻り、11時半に出航。

 おとといに比べると天気はいいのだがうねりがきつい。陽射しも強く膝頭のあたりが火傷をしたように焼けてヒリヒリしてきた。たまらずにキャビンに逃げ込んだが、それがよくなかった。船酔い。デッキに出て船縁に張りついて二度ほどもどした。あまり食べていないのでほとんど胃液だけ。それで少し持ち直した。木更津到着は2時半ちょっと前。マリーナの事務所で休憩して逆ルートで帰着。月曜の夕方、首都高の渋滞などあり中野着は6時頃になった。

 海上から見る湘南、葉山、逗子、房総。思った以上に涼しい海風。気が置けないメンバーでのどうということもない会話。クルーザーをもっている友人などというのはなかなかいないことを考えると、**さんには感謝。ちょっと、政治的な意見は違うけれど・・・。

 初島クルージングで浦島太郎をしている間に中国の「新幹線」で脱線事故があった由。事故車両を埋めたり、掘り出したり、なかなか興味深いことをやっている中国の可笑しさよ。そして、それに飛びついて大はしゃぎしているこの国のワイドショーの可笑しさよ。一粒で二度おいしいとはこのことか。(7/26/2011)

 こないだうちは快晴にもかかわらずなかなか見えなかった富士だが、きょうは、雲はけっこう出ているのにウォーキングコースからよく見えた。雪のない夏の富士は平凡。しかしなぜか富士が見える日は心が浮き立つ。あした海上から見えたら、もっとハッピーかもしれない。

 ノルウェーのオスロの政府庁舎前で爆弾テロがあった。現地時間で22日の午後3時半(日本時間では昨夜10時半)。死者数名と負傷者が数十名と速報を見て床に就いた。けさ、いつものようにニューヨークの市況(43ドル25セント下げている、きのうの朝は152ドル50セントも上げていたから利益確定が出たのだろう)と為替の終値を記録してから、続報を見ると死者が一気に数十人になっていた。

 相当大きな爆発だったのかと思いきやそうではなかった。オスロの西約30キロにあるウトヤ島で開催中だった与党労働党の青年集会に警官を装った男が訪れ、「オスロで爆弾テロが発生した。おまえたちを保護するために来た」と集会参加者に集まるようにうながしてから銃を乱射した由。BBCが伝えるところでは死者は80人を超えたという。乱射事件現場で逮捕された男が爆弾テロの実行犯でもあったらしい。まだ単独犯か、背後に組織があるのかなどは不明。

 あしたは久々に5時起き。船酔いが恐いから早めに荷物をパッキングして寝よう。(7/23/2011)

 きのうの「東電OL殺害事件に新事実」というニュース、読売朝刊のスクープだったようだ。読売は相変わらず官製ニュース、就中、警察・検察系に強いらしい。

 夕方、「一橋被告に無期懲役判決」というニュースが流れて、「なるほど、そういうことか」と独り合点した。例の英会話学校教師リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件の判決公判の日だったのだ。

 読売の最初の記事には件の事実を東京高検は22日にあきらかにする予定とあった。高検がわざわざ記者会見を開くなどということは考えにくいから、今回の鑑定を求めた弁護側へ結果の開示あるいは開示日程を伝えるくらいのことだったのだろう。しかし22日では「東電OL殺害事件」だけに関心が集中しかねない。悪くすると、「冤罪の可能性」、「DNA鑑定」、「足利事件」の連想から過剰に扱われることもあり得る。そこで事前に内容を読売ないしは特定の恩顧のある報道機関にリークし、英会話教師殺害事件の判決の日にぶつけることにしたのかもしれない。そんな想像だ。

 ならば、最初から22日を避ければいいような気もするが、その日程を動かしにくい客観情勢があったのかもしれない。たとえばDNA鑑定を依頼された側の報告日からあまり日をおくわけにはゆかないが、検察あるいは警察内部での何らかの「調整」時間は必要であるなどという・・・。

 実際、きのう、夕方、Jチャンネルに登場した元検事の若狭勝は「被害者の体内に残された精液のDNA鑑定をやっていないというのは捜査側の落ち度ですね」とコメントしていた。そういわれればその通りで、ゴビンダ有罪の材料となった「便所に捨てたコンドーム」の精液のDNA鑑定はやりながら、「被害者の体内」の精液のDNA鑑定はしていませんというのは、いかにも不自然な話だ。

 けさの朝刊には、捜査関係者の「言い訳」が載っている。「DNA鑑定については警視庁が法医学者に鑑定を依頼したところ、『微量過ぎてできない』と言われたという」と。足利事件は1990年、東電OL事件は1997年のことだ。足利事件は「微量過ぎてできない」という科警研の技官に無理強いして鑑定をやらせている。

 「できない」と言われたのでやりませんでしたというのはウソだろう。この場合、ウソのつきかたにはふたつの場合が考えられる。ひとつは「鑑定を行ったが、ゴビンダを犯人とするには都合が悪い結果が出たので隠し、いまは『鑑定をやりませんでした』というウソをついている」、もうひとつは「ゴビンダが犯人なのだからDNA鑑定をしてダメを押すなどと言うことは思いつきもしなかった」どちらもいかにもありそうな「自然な話」に聞こえるというところがコワイ。(7/22/2011)

 空気が入れ替わった。梅雨明けと同時に雲ひとつない晴天の日が続き、真夏日と熱帯夜、夏休みにもならぬのに一気にステップ応答を求められるような感じだったから、ホッとする。しばらく、この涼しさが続いてくれればいいのだが。なにしろ、まだ、7月の下旬になったばかりなのだから。

 東電OL殺害事件に新事実というのが、昼のニュースのトップだった。被害者の体内から採取された精液のDNAと現場から採取された陰毛のDNAが一致したという内容。別に大騒ぎするほどのことではない、被害者と行為に及んだ男がいれば、体内に精液は残すし、体毛が部屋に落ちていても不思議ではないだろう。だが、問題はこの単純な事実を警察も検察も確認しようとしなかったし、これ以上ない杜撰なスピード審理を行った東京高裁は「現場に被害者といた男が犯人だ」としたことだ。

 ところが無期懲役刑に服しているゴビンダ・プラサド・マイナリのDNAとは一致しない別人のDNAが現場から出て来てしまった。確定判決となった東京高裁判決は、状況証拠だけを積み上げて犯人である確率が高い人間がいたら、その人物を犯人としても間違いはないという「画期的な」(一般人にとってはじつに「恐ろしい」)判決だった。高裁判決の「総括と結論」に被告を有罪とする根拠として認められていることが列挙されているが、その7番目の項にはこう書かれている。

(七)他方、被告人の言うとおリに、本件犯行が行われる以前から、喜寿荘101号室の出入口の施錠がされないままになっていたとしても、右アパートに係わりのない被害者が、同室が空室であり、しかも施錠されていないと知って、売春客を連れ込み、あるいは、被告人以外の男性が被害者を右の部屋に連れ込むことは、およそ考え難い事態であること

 今回の鑑定結果は、この最後の一節、「被告人以外の男性が被害者を右の部屋に連れ込むことは、およそ考え難い事態である」ということを否定するものだ。

 高裁判決のロジックは、犯行現場に被害者を連れ込み、性交後に殺害できたのは被告ゴビンダ以外にはいないとしか「考え難い」のだから、他の状況証拠を考え合わせれば犯人はゴビンダである、というものだ。しかし被害者の体内に残された精液のDNAと一致する陰毛が現場にあったということは、高裁判決を下した裁判官には「考え難い事態」かもしれないが、事件当日その精液と陰毛の持ち主が現場にいたことを証明している。もちろんその男が真犯人とは断定できない。だがその男を真犯人と断定できないという理屈は、そのままゴビンダを犯人と決めつけられない理屈にもなる。(そもそも、ゴビンダは、事件当日は、被害者とは「やっていない」と主張している)

 東京高裁判決は2000年12月22日に下された。その日の日記にはこんな風に書いた。

 状況証拠の積み上げだけで有罪とできる裁判官の「蛮勇」に乾杯。いつの日かこういう名前の裁判官がいて、驚くべき論理によって、かくも愚かしい判決を下したことがあったんだよと嗤うために、裁判長の名前を記録しておこう。その名は高木俊夫という。陪席2名の裁判官名は報道されていない。

 きょう、判決文を検索して、陪席2名の裁判官名も分かったので記録しておく。飯田喜信、そして芦澤政治という。飯田喜信は、その後、東京地裁、さいたま地裁、大津地裁・家裁を経て、昨年6月から東京高裁部総括判事、また、芦澤政治は、最高裁調査官、名古屋地裁・簡裁、東京地裁・簡裁を経て、今年の4月から東京地裁部総括判事とそれぞれりっぱに出世しているようだ。

 高木裁判長はこの判決の翌年定年退官し、2008年には亡くなっている由。この高木という人物、あの足利事件の二審の裁判長でもあったのだが、こうして死後、粗雑な判決であったことがボロボロ出てくるとなるともらったはずの勲章も色褪せるのでは・・・と、思ったが、検察に阿った判決で出世、叙勲したとすれば、本人自身が自らの「罪業」については自覚していたかもしれぬ。(7/21/2011)

 台風が一時的に太平洋高気圧を撃退し、オホーツク高気圧を呼び込んでくれたらしい。天気はよくないが、気温が一気に下がった。梅雨明けから雲ひとつない好天が続き、一気に夏本番へとステップ応答を求められ、さすがに少し気力が萎えかけていた。だから、このホッと一息つく感じがじつに有難い。

 きのうとおととい(正確に書くと、きのうときょうの午前零時から)録画しておいたBS世界のドキュメンタリー「無実の告白-冤罪はなぜ起きたのか-」の前・後編をまとめて観た。

 1997年7月、バージニア州ノーフォークで強姦殺人事件が起きた。洋上勤務を終えて帰宅した新婚まもない水兵が妻の死体を発見、同じアパートの隣家に住む水兵仲間に知らせ警察に通報してもらった。捜査開始早々、被害者の友人女性が警察に対し、「通報をした彼は彼女に興味を持っていたようだ」と証言、冤罪のタネがまかれた。この証言を信じ込んだ刑事が通報した男を逮捕、長時間(11時間連続)の威圧的な取調べが始まった。心理的に追い込まれた彼は「いずれ証拠が出れば容疑は晴れるに違いない」と思い迎合的な自白をしてしまう。

 彼の判断は半分正しかった。現場から採取されたDNAと彼のDNAは一致しなかったから。しかし、半分は間違っていた。取り調べた刑事は単独犯というシナリオを変更し、別の共犯がいるはずだという見通しの下に虚偽の自白の上塗りを求めたからだ。こうして新たに別の水兵仲間が逮捕され、最初の彼同様の取調べが始まった。もちろん二番目の彼のDNAも犯行現場から採取されたDNAとは一致せず、警察は第三の共犯者をあげるよう二番目の彼を長時間取り調べる。そして三番目の彼が逮捕され、またDNAは一致せず、四番目の彼が逮捕され、・・・、なんと七番目の彼までが逮捕されるに至る。もちろんDNAが一致するはずもない。そればかりか七番目の容疑者にはアリバイまで成立してしまう。

 そうこうするうちに、なんと別の事件で逮捕された容疑者が真犯人であることが判明、DNAも一致する。しかもその男は「オレが一人でやった」と自白。

 ここまでボロボロになれば、警察も検察も見込み捜査の誤りを認めて、終わると思うのが常識というものだが、ここで警察・検察はこんなシナリオを主張した。「7人は被害者を襲おうとしたが、部屋には入れず駐車場にいた。そこに彼らとは面識のない真犯人である男が現れ、彼女の知り合いだから、オレがいっしょに行けば部屋に入れてもらえるという。8人はうちそろって被害者の部屋に入り、強姦殺人を行った」というお話。

 こんな荒唐無稽な検察側の主張が通ったのは、7人の中で一番性格の弱い二番目の彼が「司法取引」によって検察側の主張に100%添う証言を行ったから。そして陪審員が「やりもしない強姦殺人を自白する者はいない」という「常識」から逃れることができなかったから。

 四番目の彼がいったん応じた「司法取引」を取り下げたことと、七番目の容疑者にアリバイが成立したことなどから、有罪となったのは4人。まことに恐るべき話で、これと足利事件を比べれば、悪質と思えた日本の警察・検察などはじつに誠実な方だと思えてくる。

 しかしさすがにここまでデタラメな事件ともなると有名になるもののようで、やがて彼らは「ノーフォークの4人」(まるで「ハリウッド・テン」みたいだ)として全米に知られ、いくつかの弁護士事務所が支援に乗り出すようになった。そして今年4月連邦控訴審は一番目の彼の有罪無効を確認、今月にも無罪が確定する見込みとか。残りの3人もバージニア州最高裁に有罪無効の訴えを起こしている由。

 バージニア州は全米で死刑執行数のベストスリーに入る土地柄。そのため、弁護士は死刑回避のために安易に「司法取引」を依頼人に勧める傾向があるらしい。アメリカ盲従型の人々の間で「合理的な制度」として支持する声の大きい「司法取引」なる制度が、どんな危険をはらんでいるか記憶しておきたい。

 今夜は久しぶりにエアコンを入れずに寝られそうだ。(7/20/2011)

 台風6号が近づいている。断続的に強い雨。ウォーキング中止。**さんの告別式の日以来。連続記録は62日間でストップ。ちょっと残念だが、どのみち来週の初島クルージングの両日は余り歩かないだろうと思い諦めた。こういう日こそ、残された仕事、欠席メンバーと無回答メンバーへの名簿・近況一覧の送付作業をすればいいのだが、どうもやる気になれない。ドメイン・アンノウンで不達になった**さんの分を含めて79通。誰に急かされているわけでもない。ゆっくりやろう。

 何かしなければいけないことがあるのに、というか、あるからこそ、本が読みたくなるというのは、一貫した「悪癖」だ。高校受験を控えた時はヘッセの「車輪の下」。大学受験の時はゲーテの「ファウスト」。卒論の時はドストエフスキーの「カラマーゾフ」だったろうか。可笑しいのは、こういうモードになると、かなり退屈でふつうならば未読で終わりそうなものまで読めてしまうこと。「若きウェルテルの悩み」などはそういうタイミングだった。(こうしてみると、最近はさっぱり小説の類を読まなくなった)

 もうひとつの「悪癖」は平行読書。いまも「移行的混乱」「経済成長は不可能なのか」「エネルギー論争の盲点」「中国新声代」「闇に消される原発被曝者」を食い散らかしている。きょうのような日にひとつずつ、読み終えてゆかないといけないのだが・・・。(7/19/2011)

 失敗した。典型的なタイガースファンのように「観たいけど、観ると負けそうだ・・・」、その心理と未明3時すぎからの中継ということもあって、生中継は観なかった。返す返す、失敗だった。

 女子サッカーワールドカップで「なでしこジャパン」がアメリカを下して優勝した。前後半を終わって1-1、延長前後半を終わって2-2、PK戦になって3-1。

 予選リーグで唯一イングランドに0-2で負けた。この敗戦で決勝トーナメントの相手が開催国ドイツになった時、「ベストエイトと言えばたいしたもんだ」という、いつものパターンだと思った。だが、そのドイツ戦を延長戦に持ち込み1-0で制した。もうここからは観るべきだったのだ。

 スウェーデン戦も3-1で勝った。ドイツ戦よりは目があるのではないかと思っていたが、「よし、勝てるぞ」と思うと裏切られるのが「なんとかジャパン」の特質。むしろ、こうなると、せっかくの「勝ち運」を失うのが恐くなる。そういう意味では「実力」を信じ切れないところがあった。

 たぶん、ちゃんと3時すぎに起きてテレビの前に座り込んでも、最後まできちんと観られたかどうか。ビデオで観ると、よく追いついたものだと思う。PK戦に入るところで、決着はついていたのかもしれない。まさか日本相手にPK戦にもつれ込むとは思っていなかったアメリカ。対するに、こちらは「来ちゃった、ここまで」の気分。ビデオで観るせいもあるのだが、表情(心理状態)の違いは明らか。

 キャプテンの沢穂希はMVPと得点王にもなった。彼女と幾人かの選手(なにしろ名前を知らない)のインタビューを見聞きするうちによく分かったこと、それは「純粋にこれが好きだからこれをやってるの」というのが一番強いのだということ。彼女たちには国内での試合(なでしこリーグというのがあるのだそうだ)、そして9月にはロンドンオリンピック出場権のかかったアジア最終予選が待っている由。マスコミが彼女たちを「壊さない」ことを祈りたい。(7/18/2011)

 おととい、プリンタインク(新しいPX-G930はインクの消費量が若干多めという印象)や事務用封筒などを買いに出た折、再版を待っていた樋口健二の「闇に消される原発被曝者」をリブロで発見、さっそく買ってきて読み始めた。(この本が三一書房から出版されたのは1981年のこと。品切れ、版権移行、絶版を経て、やっと今月になって八月書館から「増補新版」の形で出た)

 すぐに、いわゆる原発の「安全神話」にはふたつあることを教えられた。ひとつは原発では深刻な事故など起きないという「安全神話」だが、もうひとつは深刻な放射能障害を受けた原発作業者は皆無であるという「安全神話」だ。

 前者がまさに「神話」に過ぎないことはいまや日本国民で知らぬ者はいないというほどに明らかになったが、後者の「神話」はまだ「安全神話」として君臨している。この本はこの「安全神話」がどのように作られているのかをあきらかにしたもの。

 原発はコンピュータ制御され、「清潔で照明のよい」中央管理室ですべてが行われていて、他に何も人間の手が必要な場所はないなどということがあるはずがないことは、常識的な想像力が多少あれば分かるだろうが、アゴアシ付きの原発見学をして、おみやげのひとつも持たされると、コロリと騙されて帰ってくるのだから嗤える。定期点検時のみならず稼働時も原発を運転するためには放射線量の高い場所で人間が作業を行わなくてはならない。

 その作業に従事するのは、当然のことだが、電力会社の正社員ではない。ほとんどすべてが下請け、孫請け、時には、ひ孫請けの会社雇いの人間だ。彼らの被曝量は各電力会社ないしは日本原子力発電によって管理されているが、それは被曝量を記録、積算管理しているというだけのことで、彼らの健康管理などはやっていない。彼らが痒み、痛みなど体の不調をうったえて受診しても、原発城下町の町医者や病院では、ほとんどの場合、医者は「単なる皮膚病」、「単なる食中毒」としか診断しない。想像通りのメカニズムが機能しているからだ。・・・これに続く話は読んでいるとハラワタが煮える。

 長い間、そういう労働管理をやって来たからこそ、今回の事故で、線量計が作業員の数の三分の一にも満たないとか、現場確認に出るのに長靴が用意されておらず、不用意に排水ピットに足を突っ込んだために被曝してしまっただのということが頻発したというわけだ。

 増補部分にあたる冒頭「原発大惨事に思う-まえがきにかえて」にこんな一節がある。

 三月二四日、福島第一原発三号機のタービン建屋内で電気ケーブルの敷設作業をしていた三人の下請け労働者が、一七〇ミリシーベルトから一八〇ミリシーベルトという高線量を浴びたため、病院に搬送された。このうち二人の労働者が水たまりに短靴で入ったため、くるぶしから下が直接汚染水に触れたとして、三人は当初、福島県立病院に入ったが、最終的に千葉市にある放医研 (放射能医学総合研究所) に移送された。待ちかまえていたマスコミを避けるように天幕が張られ、被曝者をいっさい表面に出さずじまいで、彼らからのコメントを封じたのである。被曝者の実態をさえぎるこの行動は、原発社会の閉鎖的な状況を如実に示している。それにしても、長靴も用意していない東電という会社の危機管理能力のなさは厳しく問われていい。
 三月二八日、放医研は「被曝はしているが、低いレベル」であるとして、三人を一時退院させた。三人の被曝はベーター線被曝と疑われていたが、間違いなくベーター線熱傷に相違ないと思う。かつてベーター線熱傷で苦しんだ故・岩佐嘉寿幸さんの姿が頭をよぎる。

 何かというとウンコにたかる銀バエのように蝟集するマスコミだが、あの三人を追跡報道する新聞も、テレビも、週刊誌すらもなかったのは、じつに不思議なことだ。彼らは、きょう現在、健康で生きているのだろうかという疑問が浮かんだ。

 一ページ繰るごとに本を置いてしまう。読み進まない。ハラワタが煮えくりかえるからだ。

 ウソなくしては運転できぬ原発は、放射能障害による廃人を作らずには運転できない施設でもある。(7/17/2011)

 メジャーリーグのオールスター戦はいつだろうと思い、ネット検索してみた。今週火曜日(日本時間では水曜日だったのだろう)、もう終わっていた。マスコミが静だったのは、ことし、日本選手の出場がゼロだったためらしい。島国根性が未だに我がマスコミからは抜けていないのを思い知って、つくづく底の浅い連中だと嗤った。イチローが出るからとか、松井が出るからとか、大騒ぎするなよ。ひとりふたりの日本人選手が出るか出ないかでオールスター戦の面白さが変わるわけではあるまい。

 11年連続出場をめざしたイチローはファン投票で落選し、選手間投票にも監督推薦にも引っかからなかったそうだ。うなずける話だ。当たり損ねが内野安打になるのをオールスター戦で見たいと思う野球ファンはそんなに多くはない。10年連続200本安打といっても見栄えのしないヒットのイメージが強いから近づきがたく凄いと思う同僚選手もいない。なによりもチームの勝利数への貢献が低い選手をオールスター戦で使いたいと思う監督もいないだろう。とすれば、ある意味、当然。

 それにしても最近イチローはやたらコマーシャルで目立っているなぁと思っていたら、オールスターに落選するような成績だからだと分かった。オールスター明けの2試合も連続してノーヒット、イチローが活躍しないからきっとマリナーズは連勝していると思いきや、チームも6連敗とか。つまり、スポーツニュースでお目にかからなかったから、余計にコマーシャルで目立って見えたわけだ。スポーツ選手がコマーシャルで目立ち始めるのは、本業が下り坂に差しかかった時だ。

 そういうことから書けば、石川遼くん、君も気をつけた方がいい。最近コマーシャルが目立ち過ぎている。それで、全英オープン、予選落ちだ。イチローのようにピークアウトを迎えつつある選手なら何も言わないが、君はまだそういう歳には遠い。

 イチローの特徴は「クレバー」というところにある。いまの君には目立たないが、たまに如才のなさに計算が見える気がして、「こいつ、イチローに似てるな」と思わせる時がないわけではない。まあ、作為の目立つイチローの言葉に比べれば、君の言葉は凡庸だが。

 競技においてクレバーであることは悪いことではないが、オフタイムもクレバーという選手には天井が早く来てしまうような気がする。遼くん、本業にまっすぐに取り組んで、最初にグリーン・ジャケットを着る日本人になってくれよ。(7/16/2011)

 アメリカの格付け会社の一角、S&Pがアメリカ国債の格付け短期見通しを「安定的(ステーブル)」から「弱含み(ネガティブ)」に引き下げた由。すでにムーディーズが引き下げ方向で見直すと発表しているが、両社とも格付けそのものについて変更したわけではない。きょう現在、S&Pの格付けはまだ「AAA」だし、ムーディーズも「Aaa」のままだ。数日前にアイルランドの長期国債の格付けを「投資不的確」としたのに比べるとお得意のはずの「スピード感」が足りない。いまだに短期見通しすら発表しようとしないフィッチを含めて、アメリカの格付け会社は自国の国債に対しては必要以上にモタモタしているのが嗤える。なんのかんの言って、彼らも身内には甘いのだろう。

 アメリカ国債のデフォルトは8月2日に迫っている。我がマスコミは「民主党と共和党が対立し、国債発行上限枠の引き上げがままならない」と解説しているが、実際には「民主党、共和党A、共和党Bが三つ巴状態で対立し・・・」というのが正しいらしい。共和党Aというのは従来型のウォール街の手先、共和党Bというのは新興の茶会派。民主党と共和党Aの間ならば、社会保障費と増税についての意見対立は深刻であっても国債のデフォルトを避けることでは一致するのだが、共和党Bは「社会保障ノー、増税ノー」を実現するためならば「国債のデフォルト? いいじゃないの、ショック療法になるよ」と固く信じているらしい。

 では法定の上限まで国債を発行しなければならなくなったのはどうしてか?

 クリントン政権によって解消された連邦政府の赤字は、ブッシュ政権の「テロとの戦い」によって以前以上に大きなものになった。そして住宅バブルの崩壊(サブプライム債権のデフォルト)。火中の栗を拾ったオバマはイラクからは手を引くことにしたが、ブッシュ政権の「テロとの戦い」という「幻の戦争」からは逃れられずアフガンで出血中だ。

 けさの朝刊トップ記事は、アメリカがNATO加盟国とヨーロッパに配備する戦術核の完全な撤去を協議しているというものだった。記事はもっぱらオバマの「核のない世界」という政策目標と結びつけているが、これが実現すれば、当然、歳出は削減される。歳出の削減はアメリカのみにとどまらない、アメリカの核配備のためにそれなりの関連軍事費を負担しているNATO各国もまた無意味な軍事支出の削減分を財政赤字の改善のために使えるようになる。(もともとはアメリカによって引き起こされた経済的混乱。アメリカ合衆国こそ「すべての厄災の震源地」、「悪の帝国」なのだ)

 もう一度、アメリカ国債のデフォルトに話を戻せそう。

 田中宇によると「(民主・共和)両党間で合意が成立しても、それを上下院で法案化して審議して可決し、オバマが署名して法律になるまでに10日ほどかかる。米政府が求める8月2日までの赤字上限の引き上げを実現するには、米議会は7月22日の金曜日までに赤字上限を引き上げる合意に至る必要がある」とのこと。来週の金曜日だ。

 世界大恐慌を長引かせたのは、その時すでに世界経済に大きな責任を負うに至っていたアメリカの無自覚だったという。そして2008年の「リーマンショック」の際は、リーマンブラザーズの破綻直後に緊急にまとめられた金融安定化法案を下院の共和党が主になって否決したことが混乱をより大きくした。

 アメリカ国債のデフォルトは当然として、それにつながるファニーメイ(連邦住宅抵当金庫)やフレディマック(連邦住宅貸付抵当公社)などへも影響が出る。そうでなくともアメリカの不動産市場は経済の地盤液状化をもたらしている状況。もし、みんなが「最終的に何とかなるさ」と思っているところへ「ブラックスワン」が登場したら、回避したつもりの21世紀の世界大恐慌が現実化するかもしれない。(7/15/2011)

注)ここで「ブラックスワン」とは、ニコラス・タレブの「ブラック・スワン」という本の内容を意識しています。映画「ブラックスワン」ではありません。

 久しぶりに我が意を得た気分になる記事を朝刊に見つけた。「社説余滴」というコーナーだ。

 読売のようなナベツネ独裁新聞(きのう書いた「老人の跋扈」そのもの、猖獗を極めた読売も「極まれば転ずる」フェーズに差しかかっていることは間違いない)を別にすれば、通常の新聞の社説は論説委員が集まってそれなりの議論をし方向付けをした上で執筆担当が書くというスタイルをとっている。

 当然のこと、必ずしも自分の考え方と常にぴったり一致するわけではないこともあろう。「社説余滴」は社論統一の過程で少数意見として容れられなかった論説委員個人としての考え方を書いてもいいという場所らしい。けさは政治社説担当の松下秀雄がこんなことを書いていた。

 とにかく早く辞めろ、さあ退け、の大合唱だ。私たちの論説委員室でも、声量はしだいに高まっている。この「菅おろし」の過熱ぶりに、私は強い違和感を覚える。
 菅直人首相の続投を唱えているのではない。「退陣三条件」を整え、来月には辞めてもらうしかないだろう。それでも、ふだんは立場の違う政治家やメディアなどが寄ってたかって引きずりおろす様子は、溺れる犬をたたくようにみえて気にくわない。こんなやり方に、日本政治の病理が見える。
 原発を例にとろう。「いずれは脱原発」と考える私からみれば、菅さんの言っていることは、そうずれてはいない。自然エネルギーの普及は急務だし、原発のストレステストもやるべきだ。
 もちろん文句はある。指示が遅い、内閣の足並みをそろえてくれ……。それを批判するのは当然としても、「とにかく辞めろ」と騒げば、原発を守りたい人たちと同じ動きになる。脱原発に向かう次のリーダーの目星もつけずに菅おろしを急げば、原発推進派を利する。合理的ではない。
 「けしからん」の一点のみで手を組むのは危うい。典型例が戦前のドイツだ。多くの政党が政府を倒そうとするばかりで、議会は首相を選べなくなった。その混迷をついて、ナチスが台頭する。おそらく現代の日本も、同じ罠にはまりかけている。
 先月の内閣不信任騒動を思い出そう。自民党とともに、民主党の小沢一郎元代表のグループも不信任案に賛成しそうだった。でも政策がまったく異なる両者の共闘は、たぶんそこまでだ。ドイツの例となんと似ていることか。
 思えば、民主党は最初から罠にはまっていたのかもしれない。自民党を政権からおろして、とって代わる一点で集まった政党だから、政権に就くと目標を見失い、まとまれずに自壊している。次の政権を「つくる」ための議論より、「おろす」ことに血道を上げる。そんな理性的でない対応こそが、日本政治の病理であり、短命政権と政治の混迷を招いてきた。
 ドイツは戦後、過去を反省して、後任を決めないと首相を不信任できない「建設的不信任」制度を設けた。日本も、その精神に倣ってはどうか。ポスト菅は誰か。新首相のもとで与野党はどう協力し、何を実現させるか。菅おろしに明け暮れるより、「次」の議論を進めるのだ。

 この記事で「建設的不信任制度」というのを知った。とかく無責任な「お遊び」に成り果てた「内閣不信任案動議」のバカバカしさにあきれ果てた眼で見ると、採り入れるべき制度のような気がする。(7/14/2011)

 梅雨明け宣言があって以来、雲一つない晴れの日が続いている。こうして書斎の窓から空だけを見ているとなんだかもう秋のようにさえ思える。部屋を出れば、ねっとりした肌に絡みつくような暑さが襲ってくるのだが。

 はやりの「緑のカーテン」にしようと屋上にゴーヤを三鉢置いた。なかなかいいぐあいに繁り、数日前からあちこちに小さな実がつきはじめた。書斎に射し込む西日の緩和にはまだ少し物足りないが、エアコンの室外機に直射日光が当るのは防いでくれている。

 同期会のDVDが***くんから送られてきて一週間ほど。せっかく郵送料をかけるのだから、住所や電話番号、メールアドレスなどの公開ポリシーを取り直した名簿と出欠回答に寄せられた近況一覧も同封したい。近況はスキャナー読み取りでは修正が多く、手入力。集中力が続かず、なかなかはかどらない。近況の内容に手が止まってしまうせいもある。

 「親の介護があるから」というのが存外多い。そういう年代なのだ。これには我が身の幸せが身に染みる。「本当に潔い親だった」と感謝するばかりだ。大病はないものの足腰が痛いの、体力の衰えを覚えるのというのも多い。思いの外、完全リタイア族は少ない。

 仕事を持っていることがどこか社会につながっている感覚のよりどころになっているのだろう、幻想に過ぎないのになぁ・・・と思うのは、早々と年金ナマケモノ生活に逃げ込んだこちらのひがみ。

 しかし、ね、「もっとも有害なのは青年の過失ではなく老人の跋扈である」という言葉は正しいよ。青年と同じ気分で張り合う血の気の多さにスポーツのような爽快感を味わっているのではないかと想像したりする。それは手前勝手というものじゃないか、と思う。人間、自分のことが一番分からない。大いに迷惑になっている可能性に少しも気付かないとしたら処置なしだ。お人好しで気付かない奴もいるだろう。はたまた、知性の狡知で気付かない奴もいるだろう。もっとも厄介なのはすでに能力は欠片もないのに、政治力だけがある老人。そういう匂いのプンプンする奴もいる。

 まあ、めんどくさいことが大嫌いな年金ナマケモノ生活者にはどうでもいいことだが・・・ウーン、そうでもない、こんな老人が跋扈する会社の株をもっていたら、青年でなくとも、迷惑する。(7/13/2011)

 朝刊を一覧してビックリ。きょうも週刊ポストの広告が出ている。広告対象は「7.22/29号」。きのうの広告対象と同じ号だ。下段広告とはいえ全国紙に新聞休刊日をはさんで2連チャンとなると、広告費だけでもバカにならないはず。しかも広告レイアウトはおとといのものとは違う。こんなぐあい。



おととい、7月10日朝刊掲載広告




きょう、7月12日朝刊掲載広告

 上がおととい、下がきょうのものだ。きょうの広告のレイアウトの方が洗練されている。メインは「大特集:『恐怖の放射能』の嘘を暴く」で変わらないが「不安をあおるデタラメ報道大罪を糺す!」のサブタイトルは削除されている。

 真ん中に「シンチレーションカウンターを使って東京23区公園40海水浴場7の線量をきちんと測ってみた。怪しげなガイガーカウンターとはまったく異なる数値が出た」という見出し、右の肩に「あるいは専門家の指導の下」とある。さらに吹き出しがつけてあり、そこには「お母さん方、ぜひ読んで下さい」。ここで尻尾が見えた感じがした。

 おととい、「50年前の『放射能汚染地図』を公開する」となっていた見出しには、前後にこんな文章が追加された。前段、「日本人よ、ここらで落ち着いて考えてみよう。いま必要なのは正しい科学的知識と冷静な議論ではないか」、後段、「いまよりわが国ははるかに汚染されていた。それから何が起きたか。歴史から学ぼうではないか」とある。

 ポストの大特集の論旨はこういうことのはずだ。・・・一部週刊誌は、ガイガーカウンターなんかを使って放射線量を測り、ガン、奇形、知能低下障害が起きると騒ぎ立てているが、大気中核実験がさかんに行われた50年前の放射能地図を見れば、いまとは比べものにならないほど汚染されていたことが分かる。小誌は怪しげなガイガーカウンターなどではなく、信頼性の高いシンチレーションカウンターを使って測ってみた。そうしたら、50年前のデータよりはずっと数値は低かった。50年前の汚染度でも何も起きなかったのだから、それよりずっと低い今回の汚染では何も起きないに決まっている・・・。前提として、「ガイガーカウンターの計測値はシンチレーションカウンターの計測値よりも大きめに出る」と言いたげのようだ。いいだろう、そうだとしよう。

 しかし、ほんの少し知識があれば「ン?」と思うだろう。「シンチレーションカウンター」と呼ばれる装置は50年前、つまり1960年代はじめには試作に毛が生えたていどだったはずだが、いかがか? 携行が可能なていどにコンパクトで信頼するに足る精度の線量計として完成したのは80年代になってからのことだったはずだが、いかがか? つまり、「50年前の『放射能汚染地図』」におけるデータのほとんどは、ポストが「怪しげ」かつ「計測値が大きめに出る」と主張する「ガイガーカウンター」によって計測されたもののはずなのだ。

 ポストの主張どおり「ガイガーカウンターの計測値は怪しい」とすれば、その「ガイガーカウンター」で測った「50年前の放射能地図」もまた信頼性の乏しい「怪しい」ものではないのか? そんな怪しげなデータを根拠にして、「あれで何もなかったのだから大丈夫」と結論しても信頼できるのか? 過大に計測される「ガイガーカウンターの計測値」と、それよりは小さく計測される(本当か?)ポストご自慢の「シンチレーションカウンターの計測値」を比べても意味はあるのかな? ずいぶん滑稽な「矛盾」。

 まあ、こんな週刊誌にカネを払うようなレベルの読者ならば、ひとつひとつの記事に目を奪われて、複数の記事の間の矛盾には気付くこともないのかもしれないが。

 ポストよ、「歴史から学ぼうではないか」と偉そうに書く以上は、まず自分の論理を支える「放射線モニタの歴史」くらいはしっかり「学んだ」上で、その計測値を評価し、その意味するものをしっかり考えなければ、数字に騙されるだけのことだ。「落ち着いて」それらのことを「考えてみ」れば、外国の核実験による汚染と自国内で起きた原発事故による汚染とが同列に語られるものではないくらいのことは、よほどのバカでも分かるのではないか。

 残りはいかにも週刊誌ネタのクズ記事だから記録はしないが「大特集」として囲んだ枠の一番左端に,おとといの広告には出ていなかった抱腹絶倒の「釈明」が載っていて嗤わせる。曰く「反原発活動家や煽りメディアから『安全デマ雑誌』と批判される『週刊ポスト』ですが、どちらが正しいか、判断するのは読者の皆さんです」とおいでなすった。バカな奴だ、「週刊ポスト」が「安全デマ週刊誌」と思われていたのはきのうくらいまでだったよ。ポストの今週号ははほぼ間違いなくどこぞの「買取広報誌」になったと、この2連チャンの広告が「自白」しているではないか。

 ポストよ、買収されたなら「買取広報誌」らしく無料で配布したらどうだ。こんなもの、400円も取るなよ、売り物じゃないだろう。どこから、いくらカネをもらったのか知らないが、タダで各戸配布したらどうだ。もっともかつてヘアヌードだけが取り柄で売った週刊誌としての「悪名」が「お母さん方」に染みついていて、郵便受けから紙くずカゴあるいは「悪書ポスト」に直行しかねないという危惧は十分にあるが、呵々。

 週刊ポストはいまや「やらせメール」ならぬ「やらせ週刊誌」に堕した。「やらせ」のスポンサーが東京電力なのか、電気事業連合会なのか、はたまた内閣官房なのかは不明。あえて書けば、今週号掲載の「覆面官僚座談会」など、カネの出元を推定する立派な手がかりになっているように思うが。

 ・・・ここまで書いて、文章だけではこの二つの広告の鮮やかな対比が分からない、後々のために、写し取っておこうと週刊ポストのサイトを見てまたまた驚いた。ポストのサイトには、けさの朝刊に載っている作り直し版の洗練された広告ではなく、おとといのどちらかというと垢抜けないいつもの吊り広告がそのまま載っていた。不思議な話だ。ひょっとすると、「週刊ポスト」の忠義ぶりを喜んだ「さるすじ」あたりがわざわざ新規に広告を作って宣伝してくれたということかしらね。(7/12/2011)

 福島の南相馬産の牛肉から国の基準(1㎏あたり500ベクレル)の3~6倍を超える放射性セシウムが検出された。牛肉はBSE対策でトレース体制が整っているからだろう、問題の肉の流通経路はただちに明らかになった。問題の肉は南相馬市の緊急時避難準備区域内の畜産農家が出荷した11頭のものと分かった。ところがこの11頭はすべて出荷に際して義務づけられている体表面の放射線量検査(スクリーニング)では数値ゼロだったことから、餌ないしは水から体内被曝したものと推定。続く報道では、出荷時には「餌は震災前に収穫していたものを与えていた」と申告していたものについて、県当局がきのう行った聞き取りでは「原発爆発時には屋外に保管していた」と答えた由。

 一般の農家のレベルでは放射能汚染への理解はこのていどなのだろうと思いつつ、きのうの朝刊の広告のことを思い出した。いつもは月曜日の朝刊に載る週刊ポストの広告。きょうが新聞休刊日ということで日曜の朝刊に広告を打ったのだろう。

 放射能汚染地域の牧草を食べた牛が体内被曝し、その肉が放射能汚染されたというニュースを見聞きしながら、週刊ポストの見出しを読むといささか気の毒になる。ポストの広告にはこんな見出しが躍っていた。まず、「覚悟の提言大特集」と来る。デカ文字で「『恐怖の放射能』の嘘を暴く」、そして「不安をあおるデタラメ報道大罪を糺す!」と大変お怒りのご様子。そして「50年前の『放射能汚染地図』を公開する」という見出しに続けて「日本全土が現在よりもはるかにひどく汚染されていた。だがこれで何かが起きただろうか?」と書いてある。

 うん、なるほど、50年前といえば、米ソのみならず英仏、そして少し遅れて中国も加わって、大気中核実験がはなやかに行われていた。放射能雨に直接あたると禿げになるという話がまことしやかに語られていた。当時の汚染量がどのていどのものだったかは記憶にないが、ポストがこれだけ自信満々に見出しを掲げるところを見るときっと当時は今の汚染量の何十倍も何百倍もあったのかしらね、ホントか?

 放射性物質が気体状あるいは細かい粒子状になって大気中に漂う状態を「放射性プルーム」という。これが雲のように浮遊し、雨などによって地上に降り注ぐ。必ずしも均一の濃度ではないし、雨などがなければその多くは浮遊し続ける。たまたま高濃度のプルームが通過中に雨が降ると、その場所が近隣地に比べて格段に放射線量が増える。これがホットスポットだと説明されている。

 とすれば、汚染源が何千キロも離れた場所にあるのか、数十キロしか離れていない場所にあるのか、その違いはどうなるか。あるいは大気中核実験のようにあるていどの高さで行われ、キノコ雲に象徴されるように高高度から放射性物質をばらまいた場合と、地上施設の爆発によりばらまかれた場合の違いはどうなるか。「震源」が海を隔てた場所であったか、陸続きの場所であったかによる違いはどうか。さらに、現在のところはほとんど取り上げられていないが、地下水への放射能汚染をまったく考慮しないでいていいのか。あまり問題視されていないのが不思議でならないが、海水の放射能汚染がまずプランクトンに影響し、小魚に影響し、大魚にも影響しという、かつて有機水銀汚染で見られたような「食物連鎖による毒性の濃縮」という現象を起こすことはないのか。そういう現象は「震源」からの遠近により大きく違うのか、さほど違わないのか。こういうさまざまな要因について、件の記事はどのていどしっかり考察しているのだろう。読まなくても分かる。断言しよう、こういう考察などはどこにも書かれていないと。

 思い出すのは「水俣病」のことだ。まず、なぜ同様の製造プロセスで戦前は発症が「なかった」のに戦後になって発生したか、同様に製造している他工場での発症が「ない」のに水俣でだけ発生したのか、これを根拠に「チッソは無罪」と主張され、「何もしなくともよい」という判断がまかり通った。実際にはチッソの工場では「狂い猫」により「水俣病」は立派に「再現」しており、チッソはその実験結果をひた隠しに隠していたのだが・・・。「以前は平気だったのだから大丈夫」などという屁理屈は冷厳な現実の前では色褪せるものだという貴重な教訓だろう。

 週刊ポストの「覚悟の提言」によれば、「福島原発による放射能汚染のレベルは核実験華やかなりしころの数値に比べれば屁でもないのだから騒ぎ立てるんじゃない」・・・とこういうことだ。小学生の夏休みの観察並みの「考察」だが、「小学館」の週刊誌とあればこんなものかもしれぬ。

 それにしても「核実験による大気放射能汚染で何も起きなかった」と断言するのはいささか早計ではないか。被曝線量が年間100ミリシーベルトを超えるとガンによる死亡確率が0.5%アップするそうだ。50年前の日本人の死亡原因と最近の死亡原因のベスト5を比べてみればいい。日本人の死亡原因に占めるガンの割合が着実に伸びていることが分かるだろう。もちろん生活水準の向上が疾病統計に影響していることは事実だろうが、ガンによる死亡率の直線的な「高度成長」ぶりの中に「50年前の『放射線汚染地図』」の寄与がない断言できるか。

 週刊ポストの愚かさは我が政府の狡猾さに通じている。その我が政府が3月以来、決まって使う枕詞がある、「ただちに健康に被害が及ぶものではない」。言葉としては間違っていない。きょうやあした、すぐにガンになるわけではないし、すぐに死ぬわけでもない。仮にガンによる死亡確率が0.5%アップするとしても200人に1人のことに過ぎない。くじ運に強い(弱い?)人がガンという当たりくじを手に入れやすくなるというだけのこと。くじ運に恵まれない(?)残りの199人はこれまで通りのガンの発症率の中にいる。つまり、どんなデタラメをしゃべっても、にわかにデタラメとばれるわけではない。なにを書いても5年や10年は恥をかくことはない。ポストが狡猾な我が政府を真似て「ただちに・・・ではない」という論理に寄り掛かれば「覚悟の大提言」などと大見得を切るのはたやすいことだろう。

 確実に言えそうなことはこういうことだ。フクシマの事故により長期的にはガンの発症率はこれまで以上に上がる、それにより生命保険の保険料と健康保険料は確実にアップする、国民負担は確実に増えることは間違いなかろう。そして新生児の奇形率も顕著に上がらないまでもやはり上昇はするし、特定の地域では「ヒノエウマ現象」も見られるかもしれない、最悪の場合、これまで以上に出生率は低下するかもしれない。これらのもろもろのことがらは、この国の基礎体力を徐々に奪ってゆくだろう。この国の斜陽化は着実に進むだろう。このバカ週刊誌の主張するように「どうせ何も起きやしない」とタカをくくって放射能汚染のリスクをないことにすることが正しいのか、フクシマの事故がなければ発生しなかった新たなリスクとして認識して真正面から取り組むことが正しいのか、答えははっきりしている。

 閑話休題。東北も梅雨明けした由。ことしは長く暑い夏になりそうだ。(7/11/2011)

 カラリと青空。まさに夏。ウォーキングは8時スタートにした。これくらいの青空ならば富士が見えるかと期待したが見えなかった。やはりこの季節は湿度が高く、視程は伸びないようだ。

 蒸し暑さの中をいつも通りの速歩。黒目川沿いの遊歩道には500メートル毎にプレートが打ち込まれている。この間を4分30秒というペースで歩く。行き帰りもいれると約10キロ弱、所要時間はおおよそ1時間半前後。

 たっぷり汗をかいて帰宅したら、書斎のエアコンを起動してからシャワーを浴びる。午後のピーク時間帯になる前にシフトをして部屋の温度を下げておき、ピークになると考えている2時ごろには設定温度を少し上げることにしている。

 世はあげて節電コールに余念がないが、問題はただ一点、最大電力量のピークがまかなえるかどうかだけだ。一律に昨年比で15%の削減などというのは単細胞もいいところ。こわいのはピーク時の瞬間電力量が供給電力量を上回ることであって、深夜の時間帯にいくら節電したところで現下の問題の解消にはなにも寄与しない。

 「とにかく節電しています。その代わり、節電してる分、午後の一番暑い時にはエアコンをガンガン効かせてます」とか、「涼しくなった夕方になったら、我が家自慢のIHヒーターと電子レンジをフルに使って夕ご飯の用意をしてます、なんと申しましても宅は東電お薦めのオール電化住宅ですの」などというのは愚の骨頂。

 逆に洗濯・乾燥などは深夜にやってもらった方が東電さんは泣いて喜ぶはずだ。ピークとなる時間帯以外は電気を使ってあげた方が東電さんのためなのだ。肝心要のところの理屈がきちんとPRされていないから、バカバカしい「節電」だけが独り歩きしている。熱帯夜の夜にも関わらず節電のためエアコンを切っていて熱中症で死亡などという笑えない事故がニュースにならないように祈りたい。(7/10/2011)

 関東も梅雨明けした。平年よりも12日早いとのこと。暑い、長い夏になりそうな予感。

 福島原発の廃炉までに数十年かかるというニュースに**(家内)が「そんなにかかるの」とつぶやいた。数十年で済めば「御の字」なのだが、事情を知らない者にしてみれば「そんなに」なのだろう。

 日本における廃炉実績となっているのは、熱出力10~200Wていどの「研究炉」を別にすれば、原研のJPDR(Japan Power Demonstration Reactor:日本動力試験原子炉)の解体だった。事前の準備に5年かかり、解体作業には10年(1986年~1996年)を要した。そのJPDRにしても熱出力は90MWに過ぎなかった。

 2年ほど前、NHKスペシャルで「原発解体:世界の現場は警告する」という番組がオンエアされた。記憶によればヨーロッパ各国が原子力施設の廃炉作業(それと放射性廃棄物の最終処分法だが)に手こずっているという内容だった。各国ともJPDRのようないわゆる「実験炉」の解体経験をベースに比較的安易な予想のもとに廃炉を開始するが原子力発電所のような容量の大きな「商業炉」となると「想定外」の問題が続出し、大苦戦しているというものだった。つまり、事故など起こさず、当初予定通りの「退役」をしても「商業炉」ともなると「実験炉」に要した十数年ていどでは解体できないということ。ましてフクシマは・・・。多少とも現実を知っている者には福島原発の廃炉が「数十年」なら「御の字」と思えるが、実際どうなることか。たぶんこの答えをオレは見届けられないと思う。

 ・・・と、ここまで書いて「NHKスペシャル」を見たくなり、ビデオの山と格闘したが出てこない。最初から録画しなかったのかもしれないし、レコーダーの買い替えにともなって整理してしまったのかもしれない。「ない」となると意地になる。NHKオンデマンドをサーチしてみたがダメ。

 この番組はオンエア後にネット右翼筋から「偏向番組」として猛攻撃を受けたらしい。オンデマンドのメニューにないのはその成果もしれぬ。番組批判に火がついたのは、あの石川迪夫が「WILL」やら「桜チャンネル」で「間違いだらけ」と主張したからのようだ。

 どんな「主張」をしたのかは知らない。石川には「原子炉解体-安全な退役のために-」という著書がある。JPDR解体の知見を作業が完了する前の1993年に出版したものだった。まさか石川が「実験炉」の解体に携わったくらいの知見で「間違いだらけ」と言ったとは思いたくないが、ご宗旨には忠実なセンセイのことだ、自分の経験を大げさに主張したために、知識もなければ知能ていども低いネット右翼の皆さんはコロリと騙され、こぞって「偏向報道」と決めつけたのかもしれない。あるいは、双方とも電事連あたりから「対策費」をたんまりもらい「やらせ」イベントとして騒いだ可能性もありそうだ。(「桜チャネル」とは「サクラ」さんのチャンネルだったのか、呵々)

 NHKさん、再放送をするなり、オンデマンドでの有料公開をしませんか。福島原発の事故処理の将来を考えた時、「平常の手順による廃炉」における課題と現状をあらためて再認識しておくことには十分な意味がありますからね。ついでに書けば、「偏向番組」と決めつけたブログのほとんどには、フクシマの事故後「お前の方が偏向してるぞ、バカ」という書き込みが溢れかえっております、もちろん石川センセイから伝授されたはずの「理論的反論」は見た限りでは皆無。これは石川センセイの主張が役立たずだったからか、それとも、ブログ主の理解力がプアだったからか、いずれだろう?(7/9/2011)

 九州電力の「やらせメール」騒ぎのニュースを見ながら軽い既視感(デジャヴ)を覚えた。

 小泉政権末期、2006年9月2日に開催された「教育改革タウンミーティング・イン・八戸」で教育基本法改正に賛成する主旨の発言を一般市民を名乗るサクラちゃんに「やらせ質問」をさせていたことが発覚したことがあった。タウンミーティングでの「やらせ」はポピュリスト・コイズミの得意技だった。「教育改革」のみならず「裁判員制度」をテーマとするものでも「やらせ」が常習化していたことまで露見し、内閣府のタウンミーティング室はお取りつぶしとなった。

 無理筋を通そうとする時、組織というものはこの手の「やらせ」作戦に飛びつくもののようだ。今回も先月28日の株主総会で退任が了承された原子力発電担当の前副社長→原子力発電本部副本部長→部長級社員→課長級社員という命令系統をたどって指示がなされた由。「副」がついていたり、「**級」と報ぜられたりするところを見るといわゆる「参謀役」の人々の「犯行」だろう。

§

 「報道ステーション」の「原発一言集」、きょうは平沼赳夫だった。前段にドンガバチョのような「オレは通産大臣も経産大臣もやったからエネルギーには詳しいんだ」という自慢話があって、「ほほう、それならどんな知識に基づく知恵が出るのかな」と期待していたら、「これからの原発は岩盤をくりぬいて、そこに作ればいい、」との「ご高説」。なにもわざわざ公共の電波を使って、所詮、文科系の人間はバカそのものだということを証明してくれなくてもいいのに・・・。

 ものごとはシンプルに考えべきだ。岩盤をくりぬいて原発を作るだけのカネがあったら、コンバインドサイクル発電所を建設する方がはるかに安くかつ安全な発電所ができる。この一言で済んでしまうよ。これにトリジェネまでの検討案をつければ、よほどエレガントな解答になるさ。

 わざわざ、強固な岩盤を探査するカネをかけ、その岩盤に至るまでの穴を作り、岩盤をくりぬき、冷却水を引くための地下配管を作り、発生する放射性廃棄物の搬出口を・・・、いったいいくら税金を無駄遣いしたいのか。ほんとうに文科系のド阿呆につきあうのは骨が折れる。平沼、バカは黙れ!!

§

 先ほど配信された田中宇の「日本の脱原発に向かう」の末尾に「誰がストレス試験をやれと言ったか」というくだりがある。田中の見方は「アメリカが言ったのかもしれない」として、孫正義の自然エネルギー開発推進や三木谷浩史の経団連脱退の判断はアメリカの有力筋から「日本を脱原発に向かわせたい、日本は脱原発せざるを得ない」という情報を得ているからかもしれないとしている。アメリカか、IAEAか、いずれかは分からないが菅直人の急ハンドル、反対しがたい案とはいえ自民党筋のストレステストへの姿勢、なんでもカンでも「じり貧・菅直人の醜い延命策」と決めつけるのはサンケイ新聞なみの単細胞と言っていい。

 きょう、中国、四国、近畿、東海、梅雨明けした由。きょうの感じでは関東の梅雨明けも早そうだ。(7/8/2011)

 月曜日に九州電力に対し、玄海原発2号機、3号機の運転再開を容認する旨伝えた玄海町長の岸本某が、緊急記者会見を開いて再開容認を撤回することを発表、九電に撤回の電話をかけるところを撮影させた。撤回の理由はきのう政府が運転再開に際しては「ストレステスト」(安全性評価)を行うことを決めたからであり、そして、あの「密室聴聞会」の開催時に原発再開賛成メールを送るよう九電が原発下請け会社4社に依頼していることが露見したからだそうだ。

 たしかに岸本にしてみればハシゴを外された上に満座の中で赤恥をかかされた気分であろう。恥ずかしさに身もだえる気持ちはよく分かる。夕刊によれば、彼は「(ストレステストの実施が)私が九電に再開容認を伝えた2日後の表明ということは、我々は信用されていないということだ」、「私の判断は無駄だった」と語ったそうだ。

 前段はそうかもしれないが後段には疑問が残る。そもそも「再開容認」という「私の判断」の根拠はなんだったのか、ということだ。単なる定期点検が終わり、経産相が来て「運転再開をお願いしたい、国が責任をとるから」というだけのことで「安全性が確保されている」と考えるていどのことが「私の判断」というほどのものなのか。福島原発はその手続きで運転していてあのていたらくに陥ったのだ。岸本よ、身もだえるほど恥ずかしいのは自分のバカさ加減ではないのか。「センセイがいいというから、いいのだと思いました」では子どもの使いだ、バカそのものだろう。

 もっとも、岸本某だけを嗤っては気の毒というものかもしれない。新聞各紙を縦覧してみれば、ハンコで押したように「なぜ突然にストレステストと言い始めたんだ」と書いている。浜岡以外の原発は順次運転を再開すると政府が言った時に、「なぜ突然に運転再開と言い始めたんだ」と書いた新聞はなかった。新聞各紙もテレビ各局も岸本某なる低能町長の粗雑な頭脳と五十歩百歩だったわけだから。

 EUではすでに5月25日に域内14カ国に散在する143期の原発に対してストレステストを実施することを決め、6月1日から順次実施、来年4月までに報告をまとめることにしている。フクシマ級の事故が起きたわけではないにもかかわらず・・・だ。ついでに書けば、EU非加盟のロシア、ウクライナ、アルメニア、クロアチア、スイス、トルコ、ベラルーシの7カ国もEUに倣ってストレステストを実施することが決まっている。もし、我が国がストレステストもせずになし崩しに原発の運転を再開したら、世界中は日本人の知能ていどを疑うだろう。岸本某並みだと思われては迷惑だ。

 我がバカマスコミのなかにはストレステストを菅直人の政権しがみつきのための思いつきだと報じているものがあるが、ストレステストの実施はIAEAあたりからの「指示」ないしは「アドバイス」によるものではないかと思う。

 EUが行っているストレステストの特徴は自国の検査だけではなく他国の専門家も加わった相互評価、ピアレビューだということだ(非EU7カ国も同様)。ソフトウェア品質について関わった者にとって、ピアレビューは常識的な手法だ。我が原子力村にとってもピアレビューは目新しい話ではない。勤めていた時、JANTI(日本原子力技術協会)が実施するピアレビューにオブザーバーとして参加したことがあった。まあ、原子力村の仲間同士がやるのだからピアレビューも和気藹々、品質保証の立場にある者から見ると「ちょっとユルイね」という印象を持つようなものだった。(JANTIのホームページには、福島第一原発を対象に行った際の概要報告が掲載されている。どんなユルイものか、誰でも確認できる。そんなピアレビューでも、福島第一は2006年1月に実施した時には14項目もの「要改善事項」が指摘され、2007年5月にフォローアップレビューを行うことになった。足かけ12年間に84回実施されたピアレビューで、フォローアップレビューを実施したのは福島第一原発だけだった・・・ということは記憶しておいた方がよいだろう

 経産省主導では死んでもそんなことはできないだろうが、できるなら今回実施するストレステストはEU方式を採用した上で、隣国である韓国と中国の専門家が参加して実施すべきだ。当然、韓国と中国の原発に対してもストレステストも実施し、我が原子力村住民もピアレビューワーとして参加する。

 なぜそんなことが必要か。まず、我が国についてはいい加減なストレステストにさせないためだ。そして、韓国と中国については両国のいずれかでフクシマ級の原発事故があれば、放射能の影響は確実に我が国に及ぶからだ。毎年春の黄砂のことを思い出せば、玄海町の町長ていどに「頭の不自由な人」でも、その理由は瞬時にして分かるだろう。

 夕刊に連載されてきた「水俣は問いかける」がきょうで終わった。ミナマタとフクシマ、チッソと東電、そして経済・産業を常に環境に優先させるという病理、じつによく似ている。(7/7/2011)

 7月6日は、まず、**(父)さんの命日。そして、**(家内)の初回手術からまる5年。最近はこちらが先に逝ったときのために、投資状況を誰でも分かるようにしておいてなどと言い始めた。すっかり「逃げ切った気分」でいるようだ。あの年は大変な年だった。

 恵比寿の写真美術館で「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968」展を観る。「プラハの春」を押しつぶした旧ソ連のチェコ侵攻を記録した写真。

 1968年という年は、明確ではなかったけれどのちに歴史が折り返すときの要因となったものがいろいろなところに吹き出した年だった。いま、メディアは腐り果てた状況にある(特にこの国のメディアは)が、あのころはまだ権力はメディアを自分の中に取り込んで利用するところまでいっていなかったのではないか。だから、人々はメディアの働きによって未来をよりよく変えられると信ずることができた。別にこれは当時の言葉でいう西側だけのことではなかった。東側の権力も間抜けなことにあきらかに嘘と分かる公式情報と検閲という対応方法しか用いなかったから、ある時は語らないことによって、またある時は地下に隠れることによって雄弁に語ることができた。

 だからといって、ジョセフ・クーデルカの仕事が簡単なものだったとは思わない。勇気なくしてはこれらの「記録」は存在することも、存在を主張することもできなかったわけだから、彼の仕事はいくら賞賛しても過ぎることはない。しかし、この写真の中の何枚かには対象の深刻さには似合わない、ある種のほほえましさのようなものが感じられたりする。

 それとは別だが、とくに記憶に残った一枚。落書きを撮った写真。「ミュンヘン1938」と書いたすぐ下に「1968」と書いてある。おそらくそれはミュンヘンの宥和(妥協)のことを指しつつ、目前に起きている新たな「妥協」の許しがたさを訴えたものなのだろう。日本人にこのような落書きがかけるかしらと思いながら会場を出た。(7/6/2011)

 松本龍復興相が就任9日目にして辞任。

 話し言葉の内容を問題にするのではなく口調を問題にするのが「今様」らしい。まあ、「思考停止社会」なれば、内容などはどうでもよくて、もっぱら目つき、顔つき、言葉遣い(と言っても言葉そのものはボキャ貧バカがはびこる当節は口調ばかりがチェック対象らしいが)のどれかが気に入らなければ、「聴く者の心を傷つけた」と難癖をつけ、いくらでもバッシングの対象にできるというわけだ。

 松本復興相の「不祥事」の理由は、酔っ払って記者会見に臨んだからではない、岩手・宮城両県知事との会談の時に、①「知恵を出さない奴は助けないぞ、そのくらいの気持ちでやれ」と言った、②「(水産関係でも知事は集約すると言い、県漁連は反対だと言っている)それは県でコンセンサスをとれよ、そうしないと我々はなにもしないぞ、ちゃんとやれよ、そのぐらいのことは」と言った、③「客を呼ぶときは自分が入ってから、客をいれろ、長幼の序が分かっている自衛隊なら、それくらいのことやるぞ、分かったか」と言った。あとは会見場所の建物前で出迎えた岩手県知事に向けてサッカーボールを蹴って、「キックオフだ」とやらかした。これが「被災地の人々の心を傷つけた大問題だ、辞任する気はないのか?」のオンパレードの「理由」だ。

 いつぞや、小泉がキャンプデービッドにブッシュを訪ねたとき、どちらが先にボールを投げたかは忘れたが、そんなことがあった。当時、マスコミは「国民の心を傷つけた大問題だ」などと騒いだか?

 「『天は自ら助くる者を助く』と言う言葉があるだろ、そのくらいの気持ちでやれ」と言ったら「言われた方の心を傷つける大問題」か?

 「知事と漁連の意見調整ぐらいきちんとやってから話をもってこい」というのは当たり前田のクラッカーではないのか、それとも「まず仲間内の意見調整をやれ」と言ったら、誰かの心が傷つくのか?

 まあ、自分が粗略に扱われたからと言って即座に満座の前で遺趣返しをするのは、いささか大人げないことはたしかだが、映像で見る限り、大臣一行の向かい側の席には誰も座っていなかった。

 知事が遅れて入室することはあるとしても、通常、県側の一名か二名はすでに席についていて、「申し訳ございません、知事はお手洗いをすませましたら(まさか「多忙を極めておりますので」とは言えないだろう)、すぐに参ります」とでも言い、世間話のひとつ、ふたつでもしながら座持ちはするものだ。それなしで待たせるのは宮城県という県もたいした接客態度だ。逆に、これなど、「(国民の代表者である)大臣を粗略に扱うとは、全国民の心を傷つける大問題」ではないのか?

 なにもかも、バカバカしいことよと嗤いつつ、7時のニュースを見ていたら和歌山で震度5強の地震。どうも、間違いなくこの国は「地震活性期」に入ったようだ。(7/5/2011)

 予想通り玄海原発が再稼働原発第一号になりそうだ。玄海町の岸本英雄町長が九州電力に対し玄海原発2号機、3号機の運転再開を認める旨、伝えたそうだ。この時、岸本は原発再開の条件に「テロ対策」をあげたというところがえも言われず可笑しい。なんか条件などをあげて格好をつけたいが、地震だの、津波だのはまずい、ならば、はやりのテロ対策にしておくかというところ。田舎者町長のプアなセンスを補うために誰かが入れ知恵したのかもしれぬ。

 閑話休題。5月、原発立地自治体の首長の声が載ったとき、いちばん運転再開したそうな匂いをプンプンさせていたいたのが佐賀県知事の古川だった。しかし、さすがに九電社員として玄海原発併設のPR館館長を勤めた父親をもつ古川がいの一番に「いいでしょう」というわけにもゆかず、地元玄海町長から声を上げさせることにしたのだろう。いわば「出来レース」。

 玄海町で「地元、容認」の返事をもらった足で九電社長の真部利応は隣接する唐津市に立ち寄り、運転再開に理解を求めたとか。

 玄海原発の運転再開に向けて、先週、日曜日には経産省は説明会を開いた。開催場所は非公開、出席者は限定7名、質問は1回1分で回答は2分、中継は地元ケーブルテレビという「密室聴聞会」だった。その模様の一部はそれなりに報道された(いかにもウソくさい茶番劇のため、じっくり流したニュースはあまりなかった)が、同じ日の夜、玄海原発からの距離でいえば唐津市中心部よりも近い長崎県鷹島で開催された島民集会について伝えたのは、調べた範囲では、朝日と日刊スポーツだけだった。

 以下は朝日の記事。

 九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)から最短8キロの長崎県松浦市の離島、鷹島(人口約2400人)で26日夜、緊急の島民集会があり、定期検査で停止中の同原発2、3号機について「島民の納得なしの運転再開は認めない」と決議した。経済産業省原子力安全・保安院や九電に、立地自治体並みの説明も求めた。
 集会は、東京電力福島第一原発の事故後、農漁協や自治会の代表らが旗揚げした住民団体「玄海原発と日本のエネルギー政策を考える会」(90人)が主催。住民約120人が集まった。
 鷹島は原発の防災対策重点地域(EPZ)の10キロ圏内だが、松浦市と九電との間に安全協定はなく、原発の運転に住民の意見を反映させる仕組みがない。
 参加者の不満はここに集中。地元漁協の前組合長、板谷国博さん(70)は「漁業者にとって原発の存在は死活問題。国や九電に原発からの温排水などの問題を訴えても、鷹島は県外と無視されてきた」と訴えた。

 九電は原発立地県とは安全協定を結ぶが、いくら距離が近く影響度が大きくとも「県境をまたぐ協定の前例がない」とはねつけてきた由。もし事故が起きれば、おそらくこのあたりが袋叩きに(今回はこれを報じなかった新聞やテレビからも)されるだろう。起きないうちが花ということか、呵々。(7/4/2011)

 **(家内)のお伴で高嶋ちさ子のコンサート「ちさ子の部屋」。ゲストはクラリネットの赤坂達三。

 トークコーナーでは、高嶋が赤坂に「キラキラ星」のヴァイオリン演奏を教え、赤坂が高嶋にクラリネットの初歩を教える。赤坂はすぐに音を探って左手を動かす。ボーイングを教えている高嶋が「はい、教えたことだけ、やる」と叱る。クラリネットはなかなか音が出ず、若干かんしゃく持ちの高嶋、「わかりました、やめましょう。難しいんですね、クラリネットは」。これはこれで楽しい「コンサート」だった。

§

 朝刊のオピニオン欄、「ザ・コラム」を大野博人(朝日の論説委員だったはず)が、こんな話を紹介している。

 「原子力村」ならぬ「原子力教団」を作ろう、といった人がいる。
 宗教家でも原発関係者でもない。20世紀に発展した学問、記号学の研究者で、米国のインディアナ大学教授だった故トーマス・シビオク氏だ。1984年、米エネルギー省の諮問に答える報告書の中で唱えた。
 問いは、地下深くに建設される高レベル放射性廃棄物の処分場がとても危ない場所であることを、どうすれば後世まで伝えられるか、だった。知らずに掘り返したり開けたりすれば、その時の社会に深刻な被害をまき散らす。このゴミはかなりやっかいだ。なにしろ、放射能の毒性が弱まるまでの時間が半端ではない。エネルギー省が想定したのは・・・。
 1万年、あるいは300世代。
 それくらい先の人にもわかる方法はないかという。同じ長さを過去にさかのぼってみる。石器時代だ。

 ここでシビオクの専門である記号学が関わる。「どんな記号も、意味を持つのはその社会や文化という文脈があってのことだ。社会が変わるにつれて、意味することはどんどんあいまいになる」。ロゼッタストーン、マヤ文字、そしてインカの結び縄、・・・などを思い出せばいいだろう。「そこで教授は、教団のような組織を作り、メンバーが後継者を選びながら代々伝えるリレー方式を提案したのだ」。

 そういえば、「リグ・ヴェーダ」には核戦争にそっくりの記述があり、神道の「穢れ」はいささか極端な清浄意識ともいえるなぁ・・・。記事の末尾は痛烈だ。

 粛々と進む放射能の時間と迷走や暴走を繰り返す人間の時間。二つの時間に折り合いをつけるのはもっと難しくなりそうだ。
 2009年、米原子力規制委員会(NRC)はネバダ州に計画されている高レベル放射性廃棄物最終処分場について、1万年ではなく100万年後の放射線レベルまで考慮する方針を示した。100万年前といえば、原人ピテカントロプスの時代だ。

 こんどはキューブリックの「2001年宇宙の旅」の冒頭のシーンを思い出した。

 壮大な時間とあまりに短い人間の営み。原子力発電という「技術」のバカバカしさ、そして、そんな「技術」が真っ当なものだと考えている人々がどれほど愚かであるか・・・。これでも、哀しいことだが、分らない人は分からないんだね。(7/3/2011)

 石川迪夫はじめ原発利権屋の皆さんの「主張」は、まず「原子力発電がなくなれば、この暑い夏を乗り切れませんよ」という脅しに始まり、「電力供給が不足すれば、企業は海外に行かざるを得なくなり、産業は空洞化しますよ」というところに落ち着く。その他に「電気料金がとんでもなく上がりますよ」というのもあるが、福島につぎ込んでいる「収束のためのカネ」や原発被災者に払わざるを得ない「補償金」などが天文学的な額になることが予想される現在、よほど世の中を知らぬ人間にも、この主張は説得力がなくなってしまった。(それでも東京電力以外の電力各社は「原子力発電は安上がり」と言い、「原発の運転が認められなければ値上げされます」と言っているようだが、根拠を欠いた寝言でしかない)。

 いまや「節電ヒステリー」は天下に蔓延している。だが電気が余っている時間帯まで節電されて困るのはむしろ電力会社さんだろう。各社が「調整料金」枠を利用して「値上げ」しているのは、火力発電燃料の調達コストがかかるからより、「節電」により使用料が減り「使用段階」が思うように上がらなくなることを恐れての話ではないかと邪推する。高い電気料金の中に「原発対策費」(原発利権屋の方々への「お手当」を含む)をもぐり込ませてきた電力会社の後ろ暗い体質を考えれば、あながち「邪推」とは言い切れないかもしれぬ。

 東電他の株主総会の顛末が報ぜられた29日の朝刊の国際面に、こんな記事が載っていた。

 米国務省は27日、世界の人身売買の実態をまとめた年次報告書を発表した。日本に関しては、外国人研修・実習制度について「保証金による身柄拘束や行動制限、未払い賃金など、人身売買の要素がある」と指摘。日本政府に取り締まりや法的な処罰の強化を求めた。
 今回の報告書は、過去最大の184カ国・地域を対象に、人身売買をめぐる法整備や対策の状況を4段階で格付けした。日本については「売春や強制労働の被害に遭う男女や子どもらの目的地にも通過点にもなっている」とし、人身売買の被害者保護に関する最低限の基準を満たしていないと指摘。7年連続でよい方から2番目のグループに分類した。(ワシントン=望月洋嗣)

 大学進学資金を餌に志願兵を募り「保証金による身柄拘束や行動制限」をしてイラクやアフガンに貧困層の若者を送り込んでいるアメリカなんぞにこんな指摘をされるのは腹立たしいが、我が国が「外国人研修生」という名の低賃金労働者を「活用」してきたことは事実。

 半月ほど前のニュースだったと思うが、福島の縫製業者と茨木の農家が「空洞化」の危機に瀕しているということを伝えていた。原発事故により「外国人研修生」がいっせいに母国に帰国してしまった。つまり電力供給が不足しなくても原発事故により健康が損なわれる恐れが発生するだけで、我が国の産業の一部は立派に「空洞化を達成できる」ということだ、呵々。

 けさの朝刊「経済気象台」はこんな風に書いている。

 ・・・経済産業省は、「かつてない空洞化の危機」と位置づけ、これを回避するため、原子力発電の維持や法人税率の引き下げが不可欠と主張している。
 ただ、空洞化がさらに進むとしても、それは大震災が引き起こしたものだけではない。以前から存在していた問題が大震災によってあぶり出された結果、国内での存続が困難になった面も少なくない。
 外国人実習生や研修生の帰国によって生産継続が難しくなった企業の例が報じられているが、それは、国内での生産がそもそも成り立っていなかったことが顕在化したケースであろう。生産・調達の代替が短期間で実現するということは、海外における生産技術や労働力のレベル向上によって、いずれシフトが避けられなかったことを意味している。
・・・(中略)・・・
 空洞化を、「現状維持」のための脅迫材料として都合よく使うことは、真実を覆い隠すことになる。

 「中略」部分には問題の真の解決をどこに求めるべきなのかが書かれている。要するに「元の状態」に戻せばそれでいいのだという原子力村住民や原子力利権屋といった能なしどもの話など屁の役にも立たないということ。

 そもそも大きな空洞化はすでに福島第一原発の周辺地域で発生している。「産業の空洞化」などという生易しいものではない。「地域住民がいなくなった」という文字通りの「地域の空洞化」だ。石川センセイはじめ原発利権屋の皆さんは、「原発がなければ日本は空洞化する」という「屁理屈」を語る以前に、まずこの「地域の空洞化」について論ずるべきだろう。話をすっ飛ばしてはいけない。(7/2/2011)

 このごろ一週間が経つのが早い。勤めていたころには待ち遠しい思いのした金曜日があっという間に来てしまう。あさ、**(家内)に「もう金曜日だよ、なんか一週間が経つの、早いね」と言ったら、「こんな風にして、どんどん過ぎていって、終わるのかもね」と意外にシビアな返事。そうかもしれない。とすれば、人生の黄昏時をどれくらい楽しむことができるか・・・ということになる。

 **(父)さんと**(母)さんが遺してくれたくらいのものを、**(長男)と**(次男)、それぞれに遺して逝きたいと思っていた。遺された分を倍にするとなると、これはかなりきつい。理想的には年率3.79%のゲインを平均値で確保することなのだが、まず、自分自身の能力がもつのはここ数年と考えるべきだ。そして自分を取り巻く環境もこれまでのこの国を前提に考えることはできない。とりあえずは「恐ろしいスピードで社会が変化しつつある」などと書いておくが、衰退の兆候がこれだけ露わになっているこの国の現況を見れば、「きょうよりあしたはもっとよくなる」式の前提は成り立たないと考えるべきだろう。

 もともと「子孫に美田を遺さず」などというほどのものはない。彼らは彼らで**(父)さんと**(母)さんからはそれなりの遺贈を受けるようにしてファウンデーションはすでに与えた。彼らそれぞれにあるていどまとまったものを遺すことについてのプライオリティを一番にすることはない。運用の目標ゲインにこだわることもあるまい。とは書きつつ、これはこれで今のところなかなか楽しいゲームではあるのだが。

 日経平均が51円98銭あげて、9868円7銭になったのにもかかわらず、ポートフォリオの国内株セグメントは大幅に下がっている。「?」と思ってチェックをすると、なんとオラクルがストップ安をつけていた。(3,500円→2,800円)

 配当政策をがらり変えるという発表が、きのう、市場がクローズしてからあった由。このところ、毎日の株式ニュースチェックを怠っていた。まあ、見ていたところで一気にストップ安になるとは思わなかったに違いないが。それにしても100%近い配当性向だったものを一気に40%にするというのはすごい。今期決算配当に297円の特別配当を付けるというのはお詫びの気持ちなのか。内部留保してどうこうという会社ではないはずだが。それとも日本市場に特化したサービス開発でもやるというのか。(7/1/2011)

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