内 輪   第367回

大野万紀


宮澤伊織さん 溝口力丸さん

 3月のSFファン交流会は「異世界×怪談×百合SF? 『裏世界ピクニック』を語ろう!」と題して3月20日、Zoomでの開催。ゲストは作家の宮澤伊織さん、早川書房の溝口力丸さん、司会は鈴木力さんでした。
 ちょうどアニメ版がテレビで放映されていたこともあり、小説版だけでなく、アニメとのコラボや、子供向けにリライトされたジュニア版の話、さらにコミック版やオーディブル(朗読)版も含めてのお話となりました。
 もともとはラノベ企画としてスタートしたが、ラノベでは採用されず、最初に早川に持って行ったとき、ストルガツキー兄弟の『路傍のピクニック』(『ストーカー』)やジェフ・ヴァンダミアの〈サザーン・リーチ・シリーズ〉(『全滅領域』、『監視機構』、『世界受容』)のような話をやりたいと言うと、「SF作家ってみんなストーカーを書きたいっていうんですね」と言われたそうです。でもそれをいい意味にとったとのこと。よくわかります。
 溝口さんはそれを引き継いだのですが、当初のプロトタイプ案を公開してくれました。基本は変わらないけれど、今とキャラクターが逆転していたりして面白い。
 他にも色々と楽しい話が聞けましたが、ぼくが興味深かったのは「SFとしての裏世界ピクニックと百合としての裏世界ピクニックは同じものか」という問いかけに、「それは別のものではない。ジャンル名は単なるタグなのでSFであり百合でありホラーであるという3本柱は変わっておらず、読者が興味のあるタグに引っかかってもらえばそれでいい。SFを知らずに読んで『ストーカー』などに興味を持ったという読者がいて、とても嬉しかった」との発言でした。
 『戦闘妖精雪風』を恋愛ものとして読む、という話もあり、『雪風』は「AIと人間のバディものだが、AIは人間的な思考を持たないにもかかわらず、二人が他に類のない関係性をつないでいる」それが同様に空魚と鳥子の関係にもつながるのではないかとのことでした。他にも、そろそろ空魚も大学3年で、就職活動しないといけないが、鳥子はどうするのか、ちょっとヤバイといった話も。
 今回はいつものSFファン以外に、アニメなどから来た初めての参加者が多かったようで、ちょっと違った雰囲気の「SFファン交流会」でしたが、とても面白かったです。
 

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
 今月もいろいろあって本を読むペースがスローダウン。読み終わったのは3冊だけです。

『大日本帝国の銀河 1』 林譲治 ハヤカワ文庫JA
 新シリーズである。第二次大戦下の世界と日本を舞台にした架空戦記と、ファーストコンタクトSFを合体した物語だ。作者の得意技二つの合わせ技ということで、これは期待できますよ。
 日華事変が深刻さを増す昭和15年、京大教授の天文学者でかつ空想科学小説作家でもある秋津は、電波天文台を建設しようと潮岬にいたが、中学の同級生で海軍中佐の竹園から要請され横須賀の海軍施設へ向かう。そこには火星から来た火星太郎と名乗る謎めいた人間が幽閉されていた。会話した内容の矛盾から、秋津はその男が火星人ではないことを看破するが、すると男は、それならオリオン座の方角から来たので、オリオン太郎と呼んでくれと言い出す。彼は日本海軍の陸攻に似た、しかし数十年は進歩した大型機で横須賀へ飛来し、海軍機を撃墜した上で着陸したのだ。乗員はもう一人いたが射殺され、解剖の結果はほとんど人間だが、違うところもあるというものだった。
 話はヨーロッパにとび、日本の客船がフランスの近海で偶然、イギリス軍の空母とドイツ軍の戦艦との遭遇戦に巻き込まれる。そこへやはり謎の大型機(今度はドイツ空軍を偽装している)が飛来し、イギリス空母を撃沈しさらにドイツ戦艦も沈める。客船に乗っていてそれを目撃した日本海軍のダミー商社社員、猪狩は、日本の使節団の一員としてベルリンに到着し、ドイツ空軍の基地に招待されるが、そこにまたあの大型機が現われ、20期ものドイツ軍機を撃墜して着陸する。しかし大型機から出てきた二人の人間はその場で射殺されてしまう。
 こうして物語は日本と欧州で、数十年あるいはそれよりはるかに進歩した技術をもつ謎の勢力(オリオン方面から来た異星人と思われるがまだ明らかではない)とのファーストコンタクトとして、軍隊組織の内部で密かに進んでいく。ドイツでも日本でも軍隊は一枚岩ではなく、それぞれの思惑が交錯し、複雑に展開する。ここでも作者の他の作品と同様、組織やシステム、運用の問題が大きく扱われており、どこまでが史実かはともかく、とてもリアルな印象を与える。
 異星人(と一応しておくが)は人類側の情勢をかなり詳細に理解しているようだが、とんちんかんなところもある。今のところ生き残って話をしているのは(どうも人造人間めいている)オリオン太郎一人だが、背後にはそれなりの集団があるようだ。彼らが繰り出してくるのは当時の技術からいってはるかに隔絶したものではなく、当時でも理解でき、数十年あれば開発可能と思われるものばかりだ(21世紀の現在から見ればいずれも実現されているものである)。
 とにかくまだ話は始まったばかりで、これがどう展開していくのかは想像もつかない。期待がふくらむ。

『中国・アメリカ 謎SF』 柴田元幸・小島敬太編・訳 白水社
 朗読劇『銀河鉄道の夜』をやってきた仲間である柴田さんと小島(小島ケイタニーラブ)さんが、中国とアメリカのほとんど紹介されていない作家のSF作品を集めてアンソロジーを作ろうということになり、柴田さんがアメリカ、小島さんが中国の面白くてSF的な小説をそれぞれ集めて翻訳したという短編集。中国側が3人4編、アメリカ側が3人3編の7編と、柴田さんのまえがき、柴田さんと小島さんの対談が収録されている。
 「謎SF」という謎なタイトルがついているが、二人が独自に選んだ作品を読んでみるとそこに共通なモチーフが浮かび上がり、それが「謎」というキーワードだったという。
 ShakeSpace「マーおばさん」は中国勢の第一弾。作者は中国名が遥控(ヤオコン)。77年生まれでアメリカ留学経験があり上海在住。本編は2002年のデビュー作で、銀河賞受賞作だという。人工知能や集合知性を扱ったアイデアそのものはよくあるもので、特に「謎」という話ではないが、ユーモラスな語り口と、あっけらかんとして明るく前向きな描き方にとても好感が持て、楽しく読んだ。十分に複雑であればどんなものにでも知性が生じるという考え方は単純だが力強い。
 ヴァンダナ・シン「曖昧機械―試験問題」。アメリカ謎SFの第一弾で、作者はインド出身の物理学者。本編は2018年に刊行された短編集の表題柞である。2014年5月号のSFマガジンには「異星の言語による省察」が翻訳されている。本編を読んで最も印象的なのは、時空を超える謎の表象、あるいは曖昧機械というSF的というか幻想的なイメージの存在を扱いながら、まるで円城塔を読んでいるかのような、数学的で冷徹な論理がうかがえることである。ハードSF的なものではなく、イタロ・カルヴィーや、テッド・チャンの一部の作品のように、寓話的で幻想的な物語であるのに、あたかも厳密な数学の方程式を導いていくかのような印象があるのだ。タイトルが「試験問題」というように、3つの事例が述べられ、受験者はそれを検討し考察しないといけない構成になっているが、課題となる事例そのものが面白く、さらにその文章はとても美しくて魅力的である。この人の作品はもっと読んでみたい。
 梁清散「焼肉プラネット」はタイトル通りのドタバタコメディで、田中啓文かと思わせるが、でもダジャレがないから(翻訳だから仕方がない)田中契文の勝ちかも。作者は『時のきざはし』に載っていた「済南の大凧」が大傑作だったが、同一人物と思えないほど作風が違う。いやこっちも傑作だ。気温800度という灼熱の惑星に一人不時着した主人公。頑丈な宇宙服で守られており酸素は心配ないのだが、救援が来るまで食べるものがない。しかしこの惑星には良く焼けた豚バラ肉そっくりな生物が存在し、彼の空腹を刺激する。いや、とてもうまそうなのだ。しかし熱いオーブンの中のような惑星で、宇宙服を脱いで食べるわけにはいかない。それでも何とか工夫してそいつを宇宙服の中に入れるが、その熱で火傷はするは、服の中に入ったそれを口までどうもっていくか、読んでいるだけでうずうずしてくる。隔靴掻痒どころじゃないもどかしさ。宇宙服という枷に囚われた肉体という感覚が痛烈に伝わってくる。
 ブリジェット・チャオ・クラーキン「深海巨大症」。作者はアメリカ人で、2019年に発表されたこの作品が活字になった唯一の作品だという。原子力潜水艦に長期に乗り込んで、海修道士(シー・マンク)を探す調査に出た4人の女性と1人の男性管理者の物語である。女性のうち3人は科学者だが、主人公のルビーは一般人で、バチカンからの勅書を海修道士に渡す任務を依頼されている。他に乗務員や船長もいるはずだが、ほとんど姿を見せず、物語はしだいに迷宮に閉じ込められて外部との接触を断たれた人々の不条理劇の様相を呈してくる。男性管理者は胡散臭い軽薄な男で、女性科学者たちもその本心はわからず、いらだちや疑心暗鬼が高まる。この潜水艦は大きな窓から海中が見えるように展望エリアが作られており、ライトに照らされてそこに姿を見せるのは、巨大な水生生物や、腐っていくクジラの死体などばかり。派手な事件が起こるわけではないが、様々な隠喩に満ち、いわば深海を進む潜水艦という内宇宙への暗い旅行記となっている。
 王諾諾「改良人類」。作者は1991年生まれ。これは2017年の作品だそうだ。難病を患い冷凍睡眠で6百年後の未来に目覚めた主人公はユートピアのような未来世界を見せられる。だがそこには欺瞞があった。多様性を失い一つの価値観に囚われた未来人たち。その美しい笑顔に隠されていたものは――。科学技術の描写は今日的だが、まるで50年代のアメリカSFのような既視感のある物語である。ディックなどが典型的だが当時のアメリカSFといえば、いわばパラノイアの時代であって、冷戦下の疑心暗鬼や、核兵器を始めとする科学技術への期待と懐疑が、重苦しく作品世界を覆っていた。現代においてそのような物語が再び脚光を浴びているということは、まさに中国・アメリカ(そして日本)が、ディック的悪夢の中へ入り込んでいることを示しているのではないだろうか。この作品でユートピアを脅かしているものは変異するウィルスである。それがまたコロナの時代に同時性を感じさせるのである。
 マデリン・キアリン「降下物」も良く似た設定の話だが読後感はずいぶん違う。2016年の作品で作者はアメリカ人の考古学者。この作品がデビュー作だそうだ。カプセルに入って未来へ時間旅行した主人公が現れたのは、核戦争後の荒廃した世界だった。放射性の降下物により人々の肉体は変異し、目や耳ももろくてすぐに落ちてしまう。そんな中に健康な肉体で現れた主人公は皆の注目を集める。彼女が出発したアメリカ東部ブラウン大学の廃墟で、好奇心あふれる一人の若者が彼女と行動を共にし、過去の遺物について想像力のままに語り、時間旅行者に期待を寄せる。荒廃した世界で、彼女の孤独は高まるばかりだ。この行き詰まりの寂寥感。それでも人々は生きている。自称考古学者の未来人の若者がとてもいい。
 王諾諾「猫が夜中に集まる理由」は可愛らしいショートショートだが、猫集会にシュレディンガーの猫をからめ、さらに多宇宙の世界にまで広がっていく。世界の謎を知っている猫たちの話としては、フリッツ・ライバーの「猫たちの揺りかご」がまさに猫集会SFだが、そういえば岡本俊弥にも猫集会の話がありましたね。他愛ないといえば他愛ないが、こういう話は大好きだ。
 最後に編訳者二人の対談がついていて、作品選択についてや、中国とアメリカのSF的な想像力の文学についての現状が語られる。とても興味深かったが、小島さんによる中国SFの紹介が現場の雰囲気も伝えていて面白かった。「(登場人物の)”小物”感をしっかり紹介しなければ」という小島さんの言葉が気に入った。

『ピエタとトランジ〈完全版〉』 藤野可織 講談社
 遅ればせながらやっと読んだ。とても面白かった。芥川賞作家の藤野可織さんといえば、京都SFフェスティバル2014での岸本佐知子さんとの対談が強烈に印象に残っている。ヤバイ小説を次から次へと俎上に上げつつ、「何といっても『聖書』がヤバイ。ソドムの滅亡なんてひどいよね、すぐ滅ぼすよね、街ごとね。神って一番ヤバイ」とか、「現実はきらい。何で小説でリアリズムを読まないといけないのか。ただの文字なんだから、何でもいいじゃないか」とか、「ゾンビ歴はどれくらいですか?」と聞かれて「ゾンビは勉強中ですね……ゾンビは可愛いとは思わない。あいつらをたたきつぶすのがいい」とかいう発言がとても印象的だっただけに、本書はまったく納得のいく作品だった。そういえば本書の帯は岸本さんが書いていますね。
 ピエタもトランジも西洋美術史から来ている名前だが、二人の本名は明かされない(途中、塗りつぶされた記述がある)。本書は女子高生だった二人の出会いから80代になるまで、ずっと変わりなく迷いもなく確信をもって続く、友情というかバディというか腐れ縁というか、いずれにせよ性的ではない(つまり生物学的意味での人間性からは遠い)二人の最強の関係性を言祝ぐ物語である。またシャーロック・ホームズに触発されたとは言っているがほとんどミステリとはいえない探偵小説であり、あるいは倫理観の変化と世界の終末についてのSFであり、日常生活やファッションや、都会や自然の鮮やかな描写を愛でつつ、不条理な死と暴力と、非常識な妄想と行動の活力に溢れたヤバい小説である。あと超絶に頭のいい(まあシャーロック・ホームズだから)人物たちの弁舌の冴を(ただしロジックの詳細は語らないのでそのエッセンスだけを)楽しむ小説でもある。ぼくはそこで田村由美のコミックを連想した。また感染症やゾンビもののパニック小説の要素もある。
 とはいえ、もちろん中心にあるのはピエタとトランジの、死を身近なものとし、残酷な暴力や殺人事件を引き寄せ、社会や道徳の押しつけを無視し、自分の好きなように生きるドライで勢いに満ちた(二人にとって)とても幸せな関係性である。世界はその二人の周りで回っていく。ピエタの手記の形で、物語は二人の出会いから大学時代、社会人となり、やがて探偵事務所を開き、さらに日本を飛び出して、変化し滅びゆく世界の中での孤独なペアとしての二人を描いていく。その間にどれだけの人々が死んでいくことか。まるで疫病のように。しかしそこに感染源としての感傷や感情はなく、それはそういうものだという軽い諦観があるだけだ。〈完全版〉の最後で「死ねよ」と言うトランジに、ピエタは「おまえが死ねよ」と幸せな気持ちで言い返す。〈完全版〉はそこで終わり、続けて最後に、最初に書かれた短編、高校時代の二人の出会いを描く「ピエタとトランジ」がプロローグかつエピローグとして続くのだ。


THATTA 395号へ戻る

トップページへ戻る