続・サンタロガ・バリア  (第221回)
津田文夫


 4月からようやく毎日が日曜日ということになったのだが、まだ長い連休みたいな感じなので、いつものように過ごす。とりあえず映画でも見ようと地元映画館の上映作を調べてみたが、これというほどのモノは無かったので、しばらく前に季刊『CDジャーナル』に掲載の剱樹人の漫画コラムで知った松坂桃李主演『あの頃。』を見てみた。
 見た感想は、ジャンルはハロ・オタでもオタク集団のやることは、まだオタクという言葉が定着していなかった半世紀近く前のマニア集団と大して変わりはないことと、松坂桃李は演技が上手いということだった。それにしても、映画が松坂桃李がエレキ・ベースの基音をゆっくり弾きながら、早川義夫の「サルビアの花」を歌っているところからはじまったのには驚いた。とても2000年頃の若者とは思えない。半世紀前の高校生だった頃、ラジオのポプコン番組で女性ヴォーカルのカヴァーをよく聴いたなあ。

 1冊目を読み終わったところで、ようやく、ああ、そんなことになっていたのかと驚いたのが、門田充宏『記憶翻訳者 いつか光になる』
 創元SF短編賞受賞作「風牙」をデビュー単行本のタイトルとしていたのを、文庫化に当たってあえて外して「記憶翻訳者」シリーズとした理由は、読めば分かるし、それで正解だった。
 デビュー作「風牙」は、風変わりな受賞作や入賞作が多かった創元SF短編賞としてはサイコダイバーを現代的なテクノロジーで再生させた物語として、手堅くもやや古めかしい感じがあった。この新作追加の再編集版でも「風牙」で幕を開けるが、初読時よりブラッシュアップされた感じがあって、それは追加新作の造りの確かさにも現れている。
 ヒロインの珊瑚がここまで作者にとってまた読者にとっても厚みのあるキャラクターになったのは、ひとえに作者の執念のたまものであろう。連作のヒロインが充実することはレギュラーの脇役たちが充実することでもある。
 その印象は、門田充宏『記憶翻訳者 みなもとに還る』でも変わらない。前作がヒロイン珊瑚が記憶翻訳書として自我を確立するために助けてくれた人びとの難問を、珊瑚がその力を使って解いていく連作だったのに対し、こちらは副題どおりヒロイン珊瑚の出自に関する連作短編集となっている。連作短編4編で構成されていたデビュー単行本を解体して、新作4編を加えて文庫2冊にした700ページを超える分量から受ける珊瑚の物語は、デビュー短編「風牙」の頃からすると圧倒的な存在感を有している。
 柴田勝家が『アメリカン・ブッダ』で高く評価されたように、門田充宏はこの記憶翻訳者シリーズで柴田勝家以上に高く評価されても不思議はない。
 版元はこれをSF読者だけでは無く広く一般読者に届くよう宣伝すべきだろう。もちろん「気持ちよく泣ける」SFとして。

 筒井康隆『ジャックポット』は、80歳を超えた著者の最近作を集めた短編集。『新潮』や『文学界』に掲載したものが多く、現在の著者の立ち位置を示している。
 とはいえ、収録作は「昔ながらの著者の芸風」ともいえる実験作が見られる一方、回顧録的な作品も収められている。
 冒頭の「漸然山脈」は、言葉づくしと地理・歴史の連想ゲームのような形で進んでいくが、最後に著者の作詞作曲になる「ラ・シュビドゥンドゥン」が歌詞及び楽譜で締めくくられている。『脱走と追跡のサンバ』以来の著者の文学と音楽の組み合わせの最高位に位置する作品となるかも知れない。さっき検索したら、著者と山下洋輔の共演版が3年前にYouTubeにアップされてたんですね。
 「コロキタイマイ」も言葉づくしタイプだけれど、こちらは関西弁で文学史をネタにしている。
 「白笑疑」は今現在の世界の状況を映した終末世界もの。『黙示録3174年』を思い出す。バラードだっていいんだけれど、筒井康隆のような叙情性はないからなあ。
 「ダークナイト・ミッドナイト」はラジオの深夜放送DJの語りを借りて、著者が好きな昔ながらの「ジャズ」曲を紹介しつつ、死への想いと先に逝った知己友人に思いをはせる一編。
 収録作品全般にわたって著者の年齢の自覚と死への想いを、楽曲への言及が頻出するという点を含めて、筒井節で作品に仕立てたものが多い。その中で、死期の近い老人の妄想的だぼら話「縁側の人」と、その後に置かれたリアルに著者の青春時代を回顧する「一九五五二十歳」は強いコントラストをなす。前者は典型的な筒井作品だけれど、20歳の頃を回想した後者は映画・演劇に熱中していた筒井康隆を見せて新鮮である。
 そして、新型コロナウィルス禍をエスカレートさせた、直截的なSFとして作品化されているのが表題作で、ハインラインの古典的短編「大当たりの年」の原題からタイトルが採られている。著者もハインライン作品の手法で書いたと結末で解説しているし。
 著者の音楽/楽器遍歴を作品化した「ダンシング・オールナイト」に続いて巻末に置かれたのが、今でも話題作としてインタビュー記事が出る「川のほとり」である。親の痛恨を綴って、著者の叙情性が強く現れているので、それも当然か。装画に亡くなった子息の作品が使われていることも話題性を強化している。

 最終巻を迎えたフレドリック・ブラウン『フレドリック・ブラウンSF短編全集4 最初のタイムマシン』は主にショートショートを集めて68編からなる330ページの1冊。
 こうしてみるとフレドリック・ブラウンのSF短編は思ったほど多くは無かったなあ、云う感じがする。バラード全短編やヴォネガット全短編と分量的には少ないかどっこいどっこいなんだなあ。まあバラードは長い中編も多いし、そんなものか。
 前にも書いたけど、時代的にブラウンは半世紀以上前に活躍した作家で、そのアイデアやウィット/サーカズムはすでに古典的/原型的なものとしてほぼ消費され尽くしてしまっているが、その影響力はたとえ作家の名前が忘れられても、ずっと響き続けている。典型的なものは、この巻に収められた有名なショートショート「回答」だ。いま現在も実際的なホラーの対象として消費され続けているコンピュータ・エイジ最初の強迫観念を、これほど簡潔に表現した掌編も無いだろう。
 ショートショートを含め創元推理文庫のSFとして1960年代に翻訳された『天使と宇宙船』、『スポンサーから一言』、『未来世界から来た男』を、60年代末に中高生SFファンとして読めたことはいま思えば幸運だったと云えようか。もっともそのお陰で、安原和見さんのすっきりした訳で読んでも、脳裏に刻まれた当時の印象(とタイトル)は修正されないのであった。
 とはいえ初めて読む短編にも素晴らしい作品はあるもので、解題を担当した牧眞司さんも褒めているように冒頭の短編「緑あふれる」などは、古いタイプの異星冒険SFであっても、その面白さで現代のエンターテインメントSFに劣ることは無いのだ。
 今回は牧眞司さんの解題初出データが面白くてじっくり読ませていただきました。

 今頃になってバラードの“THE DROUGHT”©1965が創元SF文庫で翻訳されるとは、嬉しい驚きで、なにはともあれ飛びついて読んでしまった。山田和子さん、ありがとう。
 J・G・バラード『旱魃世界』は320ページに詰め込まれた中期バラードの魅力が横溢する官能的な1作。いや、改めてこの頃のバラードの「人嫌い」が作り出す幻想/妄想世界の楽しいこと。特に前半第一部はニヤけて読んでました。海岸に出て再び町に戻る第二部以降は幻想性に覆われてやや耽りすぎな感じがあるけれど、それでもこんな感覚は他の作家では味わうことが出来ない。
 数年前に出た全短編を読んでいたときは、まだバラードをSF作家だと思っていたけれど、今回この作品を読んで、バラードはSF界にいるけれども必ずしもSF作家ではないタイプの作家だったことに得心がいった。例えてみれば、バラードはイギリスSF界のカート・ヴォネガット・ジュニアだったのだ。イヤまあ、そりゃ大部作風は違うけれどね。立ち位置という話です。
 この『旱魃世界』をSFにしているのは、まずなによりも57ページから3ページにわたり主人公がラジオで聴く、ポリマーが海面を覆ったことで水分蒸発が止まり、世界が砂漠化しているという、地球状況の解説による。こういう形での砂漠化は衛星による地球監視が行き届いた現在では、アラル海の例があるにしても、起こりえないと思われるが、ポリマーをマイクロ・プラスティックに置き換えて、砂漠化を生態汚染に置き換えれば、その予言性はSFとして十分なロジックに支えられている。
 しかし、当然のことながらバラードの書きたいことはそんなことではなく、砂漠化する世界(というよりは海水のないラグーン/ヴァーミリオン・サンズ)の風景とそれを反映する登場人物たちの心象風景だったのだ。その意味ではこれはヴァーミリオン・サンズ・シリーズの唯一の長編ということになるかも知れない。そりゃ、魅力的に決まっている。
 でも『旱魃世界』というタイトルは、やっぱりちょっと座りがわるいかな。『旱魃』だけで、バラードの作風を代表する作品として単行本で一般読書人に訴えた方が良かったかも。

 出版広告を見てあわてて注文したのが、山尾悠子『山の人魚と虚ろの王』。わずか140ページの函入りハードカヴァーでゴージャスと云えば云えるけれど、函が緩くて本体が抜け落ちるのが難。この間、書庫代わりのオンボロアパートで、45年前の学生時代に買った薄い函入りの福原麟太郎の『われとともに老いよ-ブラウニング随想』を開けてみたら、函から滑るように、白と緑の二色布張り中央合わせで繋ぎ目に黒のプロフィールがエンボスしてある本体が出てきて、ちょっとビックリした。いい仕事してますねえ。これで定価1300円だったんだから、やはり物価は安かったのか。
 収録作品は本体の表題作が120ページ。残り20ページに「短文」の命名されたスピンオフの掌編が4編収められている。
 「これはわれわれの驚くべき新婚旅行の話。ある種の舞踏と浮揚についての話。各種の料理、いくつかの問題ある寝室の件。大火。最終的には私が私の妻に出会う話。」というのが、冒頭に置かれた「語り手」の前口上。一方、函の腰巻の方には「風変わりな若い妻を迎えた男 秋の新婚の旅は〈夜の宮殿〉その他の街を経て、機械の山へ」とあるのだが、これは読後感からするとピンと来ない要約に思える。というのも、「語り手」はよく「回想」するので当方のような不注意な読者には、時制がよく分からないまま物語が進行してしまい、そのこと自体に山尾悠子という作者の仕掛けの魅力を感じている気配があるから(まあ読解力がないとも云う)。
 タイトルにある「山の人魚」は、「語り手」の伯母が「山の人魚団」という舞踏団を率いているからとうことが、読み始めてすぐに出てくるので分かりやすいが、「虚ろの王」の方は、この物語の最大の舞台である「夜の宮殿」でのエピソードがかなり進行してから説明される。
 しかし、本書のタイトルに関する最大の驚きは、「短文1」を読んだ時に生じるだろう。本編を読んだ後では、それが舞踏作品の台本のように読めてしまうが、もともと「山の人魚と虚ろの王」はこの「短文1」のために付けられたタイトルと思われるのである。おそらく本編の方がこの「短文1」のスピンオフなのであろう。

 AIものらしいということで早速読んでみたのが、カズオ・イシグロ『クララとお日さま』。まあ、期待していたものとは大部違ったが、作者らしいと云えばその通りと云えるかも知れない。
 語り手はお店で販売用に陳列されている〈人工友達/AF〉のクララ。〈AF〉は太陽光をエネルギー源にしているらしいアンドロイドだ。
 第一部はクララが一世代前の型落ちになったけれど、クララはお店のウインドウから見える様子に興味を持ちあれこれ観察する〈AF〉としては変わった特性の持ち主で、あるとき、道路向こうで倒れている老いたホームレスらしき人が死んだと思っていたら日差しを浴びてから起き上がったところを見て、お日さまの力を確信する。このことが物語全体の核心をなすクララの行動を呼び起こす。
 物語は6部からなっており、売れ残りかけたクララは病弱な少女に気に入られて、郊外の家へと引き取られ、物語の全部は基本的にこの家とこの家族、そして周辺の人と場所で展開する。
 クララの物語を語る声には、『わたしを離さないないで』の語り手の声と同様な響きがあり、物語のSF的な進行も同作のスタイルを思わせる。SFとしてはアンドロイドの技術的説明はいっさい無いが、クララはある目的を果たすため、技術者である病弱な少女の父親から、自分のボディから液体を取り出す方法を聞き出している。
 作品としては、天下のノーベル賞受後第1作をAIものとして時流に乗りながら、クララの心を美しく造形していて何の不満も無い。
 SF読みとしてちょっと驚いたのが役割を終えたのちのクララを描いた結末で、日本なら「お紺昇天」や「さよならの儀式」あたりになりそうな話なのに、作者はクララの心を最後まで保持させているのだった。まあ、一応ヤング・アダルト的な作品ではあるからなあ。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズから早くも日本オリジナル編集=古澤嘉通さん編訳の4冊目が出たケン・リュウ『宇宙の春』。今回はショートショート2編を含む10編入りで、全部で300ページとやや薄め。前半の6編で120ページ程なので、後半に中編が配されている。
 表題作はSFが得意とするコマ落とし宇宙年代記。春節祝いにぴったりですね。しかし、次の「マクスウェルの悪魔」で、日本人向けには最初のショック療法的な内容が現れる。第2次世界大戦中、日本側の新兵器開発を探るため、アメリカで物理学を専攻した若く美しい日系人女性が、強制収容所から捕虜交換という形で日本へ送り返されて、凄惨な運命を迎えるというもの。なかなかキツい。
 「ブックセイヴァ」はちょっとピンとこないけれども、ネットで作品発表をしている作家が、オリジナリティの保護を訴えるが、所詮読者が面白いという作品が優れているのだという皮肉を扱っているようだ。平井和正の改竄話かと思った。
 「思いと祈り」はテロの銃撃で犠牲となった少女を持つ家庭の物語で、少女の母親のネット利用による犠牲者追悼運動が悪意のネット暴力集団に翻弄されて、一家が崩壊する話。これまたキツい話。
 「切り取り」は息抜き用のショートショート。
 「充実した時間」は、シリコン・ヴァレーのウィ・ロボット社に採用された文系女性が物語心理を利用してヒット商品開発に成功するも・・・というサタイア。主人公がヒドい目に遭う話だが、やさぐれた女性技術者が友達役で読後感は悪くない。
 中編と云っていい長さの「灰色の兎、真紅の牝馬、漆黒の豹」は、ある種の試薬を用いると人間が第2形態に変身する世界で、それぞれ訳ありの女性が表題の通りの姿になって活躍する話、出だしは兎の女性の話でよくできているけれど、その後の活躍はちょっとピンとこない。解説によると『三国志』のエピソードによるらしい。
 「メッセージ」は一瞬、テッド・チャン原作の映画のタイトルを思い出したけれど、これは宇宙のあちらこちらで遺跡を探査している男と、別れた妻の所からやってきた反発心満々の娘とが謎の遺跡を調査する話。ほとんど読者を泣かせるためだけの設定に見えるのがちょっと難。訳者の古澤さんは設定ミスの疑いを指摘してますが。
 「古生代で老後を過ごしましょう」も息抜き的なショートショート。タイムマシン不動産ものとしてわりとよくある話かも。
 巻末の「歴史を終わらせた男―ドキュメンタリー」はタイムマシンものと大戦中に満州で凄惨な人体実験を行った731部隊を結び合わせた、古澤さんも解説で書いてるように日本人読者には「マクスウェルの悪魔」よりさらにキツい話。でもタイムマシンで見に行った歴史の時間が消失するというアイデアは新機軸で面白い。考えてみると、ケン・リュウがこの手の話を書けるのは、アメリカに住んでいる作家だからということが浮かんでくる。おそらくこのままじゃ中国では訳されないだろうな。
 今回の作品集は古澤さんのセレクトが吉と出るかちょっと心配なところがありますが、いまどき珍しいショッカーではありますね。

 うーむ、ノンフィクションはまたの機会に。 


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