京都SFフェスティバル2019レポート

大野万紀


 今年の京都SFフェスティバルは、10月12日(土)〜10月13日(日)に開催された。場所はいつもと同様に本会は京都教育文化センター、合宿は旅館さわや本店だ。
 去年も台風が接近していたが、今年は超大型の19号がまさに東日本へ上陸しようとしており(19時に静岡県へ上陸)、今度こそ中止になるかと思われたが、無事に開催が決定された。とはいえ、新幹線も止まり、東日本からは来られない人が大勢いた。残念だけど、こればかりは仕方がない。
 以下は、記憶に頼って書いています。もし間違いや勘違い、不都合な点があれば、訂正しますので連絡してくださいね。

 本会の最初は、「実験小説を語る」。ともにアメリカ文学者で翻訳家の木原善彦さんと藤井光さんとの対談である。ここでいう「実験小説」というのは、どうやら内容よりも文章の形式や本の装丁などの物理的な形式が通常でない実験的なものということらしい(いや、ぼくの思い違いかも知れない)。
 同じ実験的な小説でも、人によって好みは違うという話から、まずは木原さんの、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』は実験小説として読めるのだという話。速記文字、手紙、蝋管に録音されたものまで、いわゆる小説の文章ではない様々なテキストが組み合わされていて、それがリアリティをかもし出すという。
 また藤井さんは、活字になった物語がどこまでリアルなのかという点に、実験小説は疑義を唱えるのだという。難解な実験性よりも、決まり切ったものをどんどん切り捨てていく爽快感が楽しい、ということで、藤井さんが訳された、サルバドール プラセンシア『紙の民』を紹介される。これは一種のメタフィクションで、作者と、書かれる対象の登場人物が対話しつつ、そのやりとりの中でレイアウトもおかしくなっていく(組み方が変わったり、黒塗りになったり)。
 その後もプロジェクターを使いながら、二人でそういう「変な」本を次々と紹介された。木原さんが紹介したのは、箱入りのカード形式で、自由な順番に取り出して読んでも良い本。最初と最後は固定だが、主人公が昔のできごとをパラパラと回想するような話なので、どう読んでも大丈夫なのだそうだ。マーク・Z.・ダニエレブスキーの『紙葉の家』(これは話題になりましたね)もレイアウトが凝っており、読んでも面白い。藤井さんが紹介されたのは、本の形が変わっていて、3つに分解するが、マグネットで1つにくっつくというもの。また木原さん紹介のジョナサン・サフラン・フォア(『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の著者)『暗号の木』という本は、まるで立体彫刻のような本で、切り抜きがいっぱいあり、元のテキストを切り抜いてその下の文章を見せ、それが別の話になっているという、すごくインパクトのある本だ(ここに動画があります)。
 また文章そのものや、そのレイアウトがヘンテコな小説の話。藤井さんは、ルーシー・エルマンの1000ページを越える小説(『ダックス、ニューベリーポート』)では、何百ページにもわたって1つの文章が続いているという。スティーヴ・エリクソンの『エクスタシーの湖』では、普通の小説の中に、横一列の長い長い一文が挟まれている。木原さんの紹介する福永信『アクロバット前夜』は、横書きで、1行目の文章がずっとページをまたがって進んでいき、終わりまで行くと今度は2行目に続く。
 また違ったパターンとして、藤井さんの紹介するディーパク・ユニクリシュナン『テンポラリーピープル』には単語だけがずらっと並んでいる章があり、木原さんはご自身が翻訳して昨年翻訳大賞を取ったウィリアム・ギャディス『JR』では、一体誰が話しているのかわからない会話ばかりが延々と続く。
 他にも、小説だけど事典でもあるミロラド・パヴィチ『ハザール事典』の話題、ジェニファー・イーガンの、パワーポイントで書かれた章もある『ならずものがやってくる』や、ツイッターで連載され、140文字以下の短文で構成される『ブラック・ボックス』の話題もあった。
 紹介された小説の多くにSF的なモチーフや奇想があり、また非常識で、色々と変わった面白そうなことをしようという姿勢にもSFと通じるものがあるように感じた。とりわけ切り抜き本はインパクトがすごかった。製本も大変だろうし、読む方もどうしたらいいのか悩むだろうな。でもとても面白い対談だった。

 お昼をはさんで午後からの2コマ目は「アリスマ王vs魔術師 小川一水×小川哲対談」と題して、小川一水さんと小川哲さんの対談企画。小川一水さんはもう京フェスの常連ですね。しかし今回の注目は何といっても小川哲さん。その濃いキャラクターにはびっくりです。
 ハヤカワSFコンテストの授賞式には毎回出席しているという哲さんの話。1つ上の柴田勝家さんはあんまり先輩風でなく、草野原々さんは周りに4人以上人がいるととたんにポンコツになり、ひと言も話さなくなるとのこと。コンテストの審査員である神林長平さんのトークショーで、俺を怒らせたやつが伸びるんだ、草野原々とか小川哲とか、と神林さんが言ったとか。
 同じくコンテストの審査員である小川一水さんは、神林さんがひと言いった作品が注目作となると語る。哲さんはデビュー作の時からやたら完成度が高かったのだそうだ。
 そして哲さんの家族の話。これがめちゃくちゃ面白い。
 お母さんは小学校の音楽教師で、宮部みゆきファン。それが宮部さんのマンションを推理して探し出し、そのことを本人に会ったとき話そうとするので、哲さんが必死で止めたとか。
 哲さんいわく、お父さんは「やばい」人。とても本好きだが友達がいない。家中に父の本があり、哲さんの部屋にもトルストイの本があって、読もうとしたが読めなかった。日本の本ならと思って、やはりお父さんの蔵書の筒井康隆を読み(中学生のころか)、面白かったからこの人の本もっとない?と聞いたら、「東海道戦争」も読まずに筒井を読んだと言うな!と怒られた。
 一水さんが、『嘘と正典』にも3つの話に恐ろしいお父さんが出てくるが、と話を振ると、父親の話を書こうとしたわけではない、とのこと。父親の占める割合は小さいはずだったが、意識せずに結果として出てきてしまうのだそうだ。
 『ユートロニカのこちら側』では「民意」との戦い、圧制や監視が大きなモチーフとなっている、と一水さんの指摘。それに対して、哲さんの答えがまた驚くべき家族の話だった。
 哲さんの家は左翼家庭だった(まさに『ユートロニカ』!)。お祖父さんが80代になって書いた自伝によると、お祖父さんは京大を出たが貧乏で、共産党員になり、あげくに治安維持法で逮捕されたという。そんな哲さんの家では、5歳の哲さんに母親が「君が代」は歌うなといい、スポーツでの国歌斉唱を見て、熱心に国歌を歌う選手はダメだから応援しないと言われる。父親とはほとんど没交渉で、本の話とPCの話以外はしないのだそうだ。
 その話を聞いて一水さんも、母親が某宗教団体に入っていて、あやうく青年会に入れられそうになり、その宗教が大嫌いになったと語る。哲さんはそこで、デビュー前から『天冥』が好きで読んでいたが、科学へのポジティブな信頼感があると感じていた。今の話で、それが宗教への反発から来ているのではと思ったと応じる。
 マンガはどんなものを読んでいたかという話では、一水さんは伯母さんの影響で、少女マンガ(「あすか」や「ララ」)を読んでいたそうだが、哲さんは、サッカーをやっていたので「スラムダンク」や「H2」を読んでいたと言う(すごく普通!)。
 全然普通じゃないのは、大学に入ってからの話。哲さんは中高生のころは読んでいたが、大学ではほとんどSFを読んでいなかった。というのも「面白い小説を読むことに罪悪感(!)があった」からだとか。その代わり何をしたかというと、岩波文庫を全部読む計画を立て、1日1冊、半年くらい続けた(一水さんも「ブルーバックス」をまとめて読もうとしたことはある」そうだ)。
 本を読むことで苦しい思いをしないといけない、面白い本を読んではいけないという苦行を続けたあげく、読者がどこで心が折れるのかがわかった気がするという。そんな恐ろしい読書体験のあと、マンガはまだダメだけど、SFくらいなら許せるだろうと、今度は生協にあった青背を全部買って1日1冊読むというのを始めたそうだ。まあ、何というか・・・・・・。
 創作の話。哲さんは高校生のころ、筒井っぽいシュールなものを書こうとして、ヤマザキパンのバイトから帰ってきたら、本屋の中で砲丸投げの世界大会が始まるという(?)話を書いた。それを実家のPCに保存していたのを、母親が勝手に読んで、本人に無断で知り合いの編集者に送った。すると(哲さんが22歳のころ)その編集者からメールが来た。俺って才能あるかもと思った哲さん、今ならもっとすごいのが書けますと返信する。そうして書いたのが(何しろ岩波文庫読破で筋トレしていたもので)、大学生が主人公で友人が自殺するといった、いかにも文学青年が書きそうなつまらない純文学作品。これで芥川賞間違いなしと思ってそれを送ったら、昔の方が全然面白かったと切って捨てられた。そのあと、小説に対するアプローチを根本的に変え、本気で作家になろうと思って書いたのが『ユートロニカ』だった。
 『ゲームの王国』のとき、書きながら話が分岐するところで、とりあえず一番先がなさそうな設定で書いてみる。ほとんどが行き止まってボツになり、それから迂回したりして何とか道を見つけるのだ。だから書いた量は完成した量の数倍になるという。でも、締切が設定されるようになってからは、時間がなくてそんなことはできなくなった。
 一水さんも『天冥』は最後の三冊が、放り投げていた宿題を全部片づけないといけないので、なかなか完成せずきつかったという(お金の面でもきつかったそうだ)。
 最後に今後の予定の話。一水さんはツインスターの長編化とか色々あるが、「巨大女性型建造物内の都市での日常」という何だかわからない話が興味深い。哲さんは「戦時中の検閲官の話」「戦前の女性マジシャンの話」「クイズ王の話」が計画にあるという。哲さんの独自の記憶理論を書こうとする「クイズ王の話」って、すごく面白そうだな。

 3コマ目は「ホラーとSF 「未知」を描く2ジャンルの交点」と題し、日本ホラー小説大賞からデビューされた、小林泰三さんと矢部嵩さんの対談。
 小林さんは最初に「ぼくの書いているものは全部SFのつもり」と語る。矢部さんは逆に「何を書いてもホラーのつもりで書いている」。こんな感じで、最初から話がかみ合うようなかみ合わないような不思議な雰囲気で始まる。基本、小林さんが話を振って、矢部さんが答えるというスタイルなのだが・・・。
 矢部さんのホラー小説大賞を受賞したデビュー作『紗央里ちゃんの家』について、小林さんは、少年が死体を見つけるが、ほぼストーリーはなく、解決もない。謎が解けないからミステリーではないが、ホラーならそんなこと気にしなくていい、と語る。『魔女の子供はやってこない』については、矢部さんが、ホラーのつもりで書いたのだけれど、ホラー+魔法少女であり、さらにタイムトラベルもからむ。でもSFにしようという気持ちは無かったという。小林さんは『保健室登校』について、こんなイヤな話が書けるなんてとても良かったといい、矢部さんは、本家にそういってもらえるとは・・・と答える。
 ハヤカワSFシリーズJコレクションで出た『[少女庭国]』については、小林さんが「SFだった」といい、矢部さんは「レーベルはそうだけど、あれはSFといっていいのですか?」と聞く。それに対して、SFファンがSFだと気づくのはレーベルを見て、だからと小林さん。さらに、なぜ『[少女庭園]』がSFかというと、部屋が無限にあるのだから、扉を開けずに壁を壊して目覚めない肉体を資源として使えば、奴隷制なしに文明を築くことができるから、と持論を語る。その場合、少女を奴隷として使うのではなく、物質として、資源として使うのだと、いかにも小林さんらしい鬼畜なアイデアだなあ。
 矢部さんも、小林さんはホラーの人だという認識だった。人を殺したり破壊したりするのが面白いのですか、とストレートな問いかけ。小林さんは、大体の小説って、そうじゃないですか。名探偵コナンだって人は死ぬと答える。読者サービスなのだそうだ。
 ふたたび『[少女庭国]』の話。この作品はあまりホラーっぽくないという小林さんに、ハヤカワから声をかけられたとき、ホラーの延長でデスゲームを書いてみようと思った、と矢部さん。デスゲームはルールがややこしい。でも無限のメンバーによるデスゲームという発想はSFだ、と小林さん。矢部さんも、一人だけ勝ち残るという話が書けないので、農業をしたりして中で暮らす話を書こうと思ったという。そのためには死体がたくさん必要になる。一人目はどうやって目覚めたのか、という小林さんに、考えていないと答える矢部さん。残りの少女は裏で作られているのか、それとも初めから無限にいるのか、という問いには、作ってはいないんじゃないかという答え。また少女を主人公や視点人物にすることのこだわりについて聞かれると、デスゲームを書くとき、男女比半々とか、チーム構成的なものにしたくなかった。腕っぷしの強い男や頭のいい男を書きたくなかった。アニメの「名探偵ホームズ」が動物だけなのが楽しくて、全部女の子にしたら例え話的でいいのでは、と思ったとのこと。
 客からの質問で、フィジカルな生理的嫌悪感を描こうとするのはなぜかと聞かれ、こう書けばみんな喜ぶかなと思ってサービス精神で書いていますと答える小林さん。その小林さんをパクって、読者が油断しているところに、気持ち悪いものをぶつける。イマジナリー小林泰三を妄想しながら書いていますと矢部さん。
 矢部さんの独特な個性が目立つ対談だった。

 夕食はまたいつもの十両へ行ったのだが、さすがに風がすごかった。雨がそれほどではなかったので助かったけれど。
 さわや旅館へ行って、大広間でオープニングを待つ。今年の京フェスは、台風のため(と、東京で劉慈欣を招いたイベントが予定されていたため)、大森さんも小浜さんも欠席。恒例の参加社紹介は、その場にいた古手により回り持ちとなった。
 オープニング後、ディーラーズ(ただ大広間に机を並べただけだが)が設置される。青心社の営業もやっている細美さんは、また青心社の本を広げ、ついでに自分の訳書(『銀河核へ』)も並べていた。また、注目の創元SF短篇賞審査員賞の受賞作家三人(織戸久貴、千葉集、谷林守)による同人アンソロジー『あたらしいサハリンの静止点』も販売され、見る見る売れていった。

大広間で青心社の本を売る細美さん 『あたらしいサハリンの静止点』の販売
英語圏SFの部屋 ここまで訳した「×××」

 合宿企画で、最初に行ったのは橋本輝幸アニキの「英語圏SFの部屋」
 この企画はWEB上(スクラップボックス)に資料があり、各自PCやスマホでそれを見ながら話を聞くという、なかなか面白い体験となった。英語で書かれているが、英米以外の人々による、英米以外で出版されているSFを読もうというコンセプトである。
 まずはインド・パキスタンなど南アジア。パキスタンの大学で比較文学を教えているNudrat Kamalさんの書いた「南アジアSF概論」(What South Asian sci-fi can tell us about our world)という、パキスタン、インド、バングラデシュ、スリランカのSFについての話。また、インドSFの入手法について。アメリカやイギリスに在住しているインド人の作家によるSFについて。現代のインドは宇宙開発も盛んだが、火星探査を題材にしたSF映画など、じわじわ来ているという。他にもムガール帝国をモチーフにしたファンタジーとか、なかなか面白そう。
 つづいてナイジェリアのSF。ナイジェリア唯一のSF専門誌「Omenana」について。映画『第9地区』でのナイジェリアの扱いに対する怒り。『Lagos2060』というSFアンソロジー。Tade Thompsonという英国生まれナイジェリア育ちのSF作家によるアーサー・C・クラーク賞受賞作の話など。ダブリンの世界SF大会に参加しようとしたナイジェリアの作家たちが、ビザが間に合わなくて参加できなかった件。
 それからトリニダード・トバゴやジャマイカ、バルバドスといった中米における英語圏SFの話。
 シンガポールの英語SF。日本や中国に題材をとったファンタジーというのが面白そうだった。森見登美彦『有頂天家族』のアニメに影響されたという『カッパカルテット』(Kappa Quartet: A Novel )という作品など、めちゃくちゃ楽しそう。
 とにかく話が面白く、SFがワールドワイドなものとなっていることを改めて感じた企画だった。

 次に行った企画は、「東北大SF研、中国SFを大いに語る」
 この企画は(色々と微妙な話があるので)詳しく公開するのは控えて欲しいというものだった。なので具体的な内容については書かないが、東北大学に留学している中国人のSFファンと、東北大SF研で中国SFを翻訳している下村さんが、『三体』も含め、現代中国の生のSF事情について赤裸々に語るという、とても興味深い企画だった。途中から小川一水さんも乱入し、そのやりとりも大変面白かった。
 いろいろと思うところはあったが、今の中国SFは日本SFの初期に似ているとか、まともな批評があまりにも少ないとか、ケン・リュウはあくまでも中国系アメリカ人であって、中国人とはいえないとか、そういう話がとりわけ印象的だった。

 3つ目は「ここまで訳した「××××」」
 これはツイッターで盛り上がって実際にやることになった企画だが、来るはずだった主宰のたこいきよしさん(キース・ロバーツの『Molly Zero』を私的に翻訳中)が台風のため来られず、らっぱ亭さんやH masaさんらが、それぞれ自分で訳したSFを紹介するという企画になった。なお、H masaさんは、神戸大SF研のOBで、ぼくの後輩にあたる。
 ラファティやウルフといった好きな作家の作品を、誰に見せるということもなく、ただ自分が読みたいがために訳す。とはいえ、人にも読んでもらいたい。昔はファンジンに載せて流通させるということが簡単にできたが、今はそれがなかなか難しい。WEBに掲載している人もいるが、版権のことを考えるとそれも問題がある。
 東北大SF研では中国の作品をファンジンに訳すのに、出版社に電話して直接許可を取ったとのことだ。また作者が存命で気さくな人だったら(SF作家にはそういう人が多い)、本人に直接メールして許可してもらったという話もある。商業出版でなければ気軽にOKしてもらえる可能性は高い。しかしエージェントが介するような場合は敷居が高いだろう。
 勝手にWEBに載せたりそれをツイートしたりすると、今は機械翻訳があるので、日本語だけで書いていても、すぐに作者やエージェントに知られてしまう。機械翻訳のせいで間違って誤解されたり、そういった怖さもある。
 まあこの問題はなかなか難しいですね。

 最後に「SF・海外文学読書会(仮)出張版 伴名練『なめらかな世界と、その敵』他」へ。
 この辺になると、眠くて意識がもうろうとしていて、あまり中身を覚えていない。大阪で月例の読書会を開催しているメンバーによる、伴名練の京フェス出張読書会である。
 これまでの伴名練の作品には純粋な三人称はないとか、タイトルネタから始まっているとか、色々と面白い指摘があったと思う。また理系の読者から、科学的に考えるとおかしいのだが、読んでいると全然気にならないとの発言もあった。とにかく文体のコントロールがうまく、結局のところ、彼の作品はSFへのラブレターだ、という結論になった。うん、納得。

 企画が終わって解散。そのまま同じ部屋にふとんを引いて寝る。最近はこのパターンが多いなあ。
 朝のクロージング後は、さわやを出てから、みんなでぞろぞろと朝の京都を歩く。いつも行っていた本能寺ホテルのホーリーカフェが復活していた。みんなで入って、また昼前までとりとめもなく話。いつも言っているとおり、ここまでが京フェスなのだ。

 今年もいつもながらの楽しい京フェスを堪能しました。実行委員長はじめ、スタッフのみんな、ありがとうございました。また来年もよろしくね。 

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