内 輪   第332回

大野万紀


 逃亡して因島に潜伏していた脱獄犯の泥棒が広島で捕まったというニュース。凶悪犯ではないせいか、不謹慎ながら興味本位に見てしまいました。捜査員が来ているのを屋根裏に隠れてやり過ごしたり、海を泳いで渡ったり、ずいぶんとドラマチックです。きっとほとぼりがさめたら映画かTVドラマになるんでしょうね。そして泥棒さん本人も、刑期を終えたらタレント(防犯に詳しい専門家?)としてデビューするのかも。

 NHKのローカルニュースで、小松左京の昔のマンガ作品が新たに発見されたというのをやっていました。「小松さんが生前住んでいた神戸市内の自宅で、漫画の作品を改めて確認していたところ昭和25年ごろまでに描かれたとみられる漫画の作品6枚が新たに見つかりました」とのことで、「詳しいストーリーはわかっていませんが、時代劇風の作品で、小松さんが愛した猫が憎めないキャラクターとして描かれています」とのことです。2色刷の、ずいぶん立派な感じのマンガでした。

 あずまきよひこ「よつばと!」の14巻が、ほとんど2年半ぶりに発売されました。このマンガはぼくも大好きです。5歳のよつばがとても可愛い。
 前にも書いたと思うけど、よつばは現実の幼児ではなくフェアリーなのです。リアルな現実を異化する視点としての存在。これでもかというくらい細かく描き込まれた郊外の都会の風景と、どこかにありそうなマニアックな日常。でもとーちゃんといい、よつばといい、周辺の人物といい、リアルな普通の生活とはどこか微妙にズレがあるのです。小さなズレだけど、現実に重なるもう一つの世界に生きているような感覚。実際のリアルを巧妙に隠しているようで、不可思議だけど、気持ちのいい世界です。あと、よつばは、食べ過ぎ。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『超動く家にて』 宮内悠介 創元日本SF叢書
 帯に、「深刻に、ぼくはくだらない話を書く必要に迫られていた」とあり、著者あとがきでは「ようやくある種のカミングアウトができた」「馬鹿をやるというのはぼくにとって宿痾(しゅくあ)のようなもの」と書かれていて、さらに酉島伝法の解説には「そういった盆暗純度の高いものが短編小説としても書かれ、デビューから現在に至るまでの間に隙あらばと送り出されてきた。それらをまとめ、軌道上を漂っていた「星間野球」で蓋(ふた)をしたのが、この『超動く家にて』――俗称、宮内悠介バカSF短編集である」とまで語られる。
 そうくるともう期待せざるを得ないじゃないですか。純文学からSFまで、幅広くシリアスで奥深い作品を書く作者の、内からあふれ出るナンセンスのマグマ、おおっ面白そうだと思う。「トランジスタ技術の圧縮」「エラリー・クイーン数」「かぎ括弧のようなもの」「クローム再襲撃」と、タイトルを見るだけでもワクワクするような作品が、16編収録されている。さらに著者あとがきと、酉島伝法の解説つき。このあとがきと解説も、本文と同じかそれ以上に読み応えのあるものだ。
 で、結論からいえば、期待に違わない楽しく読める傑作短編集だった。とはいえ、バカSFばかりかといえば、ちょっと違うと思う(バカミステリの方が数からすれば多いようだが、そういう意味じゃないよ)。どちらかといえば、カシコすぎてぶっ飛んだという感じ。とにかくひたすら熱く、マニアックで、そして知的だ。
 本書には普通にシリアスに読める(バカ要素の少ない)作品も含まれている。
 「アニマとエーファ」は物語をつくる人形、アニマと、物語を生きる少女、エーファの物語で、未来の寓話ともいえる傑作だ。人工知能と人間の会話だけで書かれたショートショートの「夜間飛行」も、ほんのりとした微笑みの中に切なさの残る作品で、オチも秀逸。「弥生の鯨」は離島ファンタジーというか、土俗的で古代的な男女の風習を扱っているが、この切り口は著者の新境地に見える。タバコのPR誌に書かれたという「スモーク・オン・ザ・ウォーター」もさわやかで明るい、しみじみとした傑作。
 一方ギャグ要素、ナンセンス要素の強い作品にしても、宮内悠介のギャグはとにかくクールで知的だ。彼のいわゆるバカSFは、ぎゃははと大笑いするようなものじゃなくて、ふふふ、おぬしできるな、と微笑を浮かべるようなものなのだ。
 大学の文学部で文学を醸造するという、円城塔ともやしもんを足して発酵させたような「文学部のこと」とか、「俺か、俺はZ80だ」という一言から始まる「エターナル・レガシー」(ちなみにZ80というのはかつて一世を風靡した8ビットマイコンのことで、ぼくもお世話になったものです――でも、ストーリーはコンピューター囲碁を巡って、いたってシリアスに進む。〈MSX三部作〉という構想があるそうで、ぜひ読んでみたい)や、村上春樹(「パン屋再襲撃」)の文体でウィリアム・ギブスンの「クローム襲撃」を再話してみた「クローム再襲撃」など、いかにも知的な遊びといえるだろう。
 いや、ここにあるのは、そんなクールなギャグばかりではない。熱血スポ根ものがちょっと観点をずらせばギャグにしか見えないように、本書でも熱い熱い戦いが描かれる。何でそんなバカなことに夢中になるのかとふと思ったときに感じるギャップが苦笑を誘うような作品だ。分厚い〈トランジスタ技術〉誌から広告ページを抜いてひたすら圧縮することを競う「トランジスタ技術の圧縮」や、宇宙ステーションの中で繰り広げられる野球盤を使った二人の男の熱い勝負を描く「星間野球」などがそうだ。しかし、読者はここで「そんなことに夢中になるなんて、バカなの?」と冷笑や苦笑を浮かべるよりも、その熱い勝負魂に打たれ、共感をよせるのではないだろうか。
 本書のもう一つの特徴は、作品中でのルールがしっかりしていることだ。ミステリ系の作品やゲーム的な作品ではもちろんだが、もっとバカ系の話でも、ルールというか、変なアイデアが発展していくやり方が、独自のルールあるいは論理に従っているということだ。そういう話(バカミステリでもバカSFでもいいが)の極北にあるのが「超動く家にて」であり、「法則」「エラリー・クイーン数」「かぎ括弧のようなもの」だろう。ぼくはミステリに詳しくないので、もしかしたらその面白さのピントを外しているかも知れないのだが、これらもまた、外側から見れば「なぜそんなところにそこまでこだわるのか」というような、内的なルールに徹底し、熱くこだわった作品だといえるのではないだろうか。
 他にも、もっと普通に読めるユーモア・SF・ミステリ的な作品や、不思議な気分になる日常系のショートショートもある。前者では「ゲーマーズ・ゴースト」が面白かった。ごちゃごちゃとからまりあう登場人物たちの複雑な関係が、少しSF的な発想の元にきれいに整理され収束していくのが見事だ。後者では、日めくりカレンダーを誰が破ったかを追求する「昨日泥棒」も良かったが、ぼくはシュレディンガーの猫の誕生を扱った「犬か猫か?」が大好きだ。ほんと、「シュレディンガーの犬」にならなくてよかった。だって、犬だったら可哀そすぎるもん。わん。

『ゲームSF傑作選 スタートボタンを押してください』 D・H・ウィルソン&J・J・アダムズ編 創元SF文庫
 2015年にアメリカで出たビデオゲームSFのアンソロジー PRESS START TO PLAY から12編を抜粋・邦訳した短編集である。1編(コリイ・ドクトロウ「アンダのゲーム」は2011年5月号のSFマガジンに「エインダのゲーム」のタイトルで邦訳あり)を除き、全て本邦初訳である。名の通った作家やベテラン作家の作品もあるが、ぼくにとってはあまり知らない作家の、ユニークな作品も含まれていて、その点でも嬉しい。
 『ゲームウォーズ』や『アルマダ』のアーネスト・クラインが序文を書き、「ぷよぷよ」の作者としても有名なゲームクリエイターの米光一成さんが解説を書いている。さらに各編には編集部による簡単な解説がついていて、ゲーム特有の用語などもわかるようになっている。
 とはいえ、「もはやゲームをプレイするしないにかかわらず、ゲーム的感覚は我々にとって必須の習得能力のひとつ」と解説で米光さんが書いているとおり、本書で重要なのはゲームそのものというより、ゲーム的感覚の方だ。それは「誰かが作った固有のルール」に従った上で、その場その場の状況をプレイヤーが判断し、行動していくということだ。本書の作品はその基本を押さえた上で、様々なバリエーションを探っていく。
 桜坂洋「リスポーン」(これは元々原書に書き下ろされた作品で、日本語での公開はこれが初となる)は、ゲームそのものは出てこないが、主人公が殺されるとその殺人者に意識が乗り移って、次々と移り変わっていくユーモラスなタッチのSFである。プレイヤーの意識は連続しているのに、この世界をゲームとして見たとき、そのルールに従ってゲーム内のプレイヤーの立ち位置がどんどん変化していくのが、とても面白かった。
 97年にアシモフ誌でデビューしたデヴィッド・バー・カートリー「救助よろ」はオタクなボーイフレンドをゲームに取られたヒロインが、自分もそのゲームにログインして……という話だが、よくある展開ながら、オタクとパンピー(とはいえややオタクより)の意識差の切なさと、じわじわと深まるホラーな感覚がいい。
 02年にデビューし、YAファンタジーの分野で活躍しているというホリー・ブラック「1アップ」は友人の葬式で、彼の作ったテキスト・アドベンチャーをプレイし、死の真相に迫るという話で、オチは想像通りだったが、お話は面白かった。
 円城塔訳で『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』が出ているチャールズ・ユウの「NPC」は、ゲーム内に設置された存在であるはずのNPC(ノン・プレイヤー・キャラクター)が自らプレイヤーの感覚をもつという話で、不思議な読後感のある作品。
 ヒューゴー賞受賞作家であるチャーリー・ジェーン・アンダースの「猫の王権」は短いながら本格SF。新種の病気で脳に障害を負った患者たちが、猫の頭の形をした装置をつけて、認知能力の回復に効果があるというVRゲームを行うのだが……。近未来の介護とVRをからめ、さらに現実とゲームの関係までに迫る力作だが、このテーマはもっと長い作品で展開すべきではと思った。
 ロボット工学の博士号をもち『ロボポカリプス』で人気作家となったダニエル・H・ウィルソン「神モード」は、コンピューターゲームの研究をする大学生とそのガールフレンドの日常が、世界の変容と共に描かれていく。ディック的現実崩壊も、今風に描くとこうなるのかなという作品で、淡々とした語り口がいい。
 ゲーム開発者でゲームのノベライズもするというミッキー・ニールソン「リコイル!」はあちらでは大流行のFPS(一人称視点シューティングゲーム)を扱った作品。ゲーム開発会社でFPSゲームを開発している主人公が、リアルな襲撃者と銃撃戦になって……という物語だが、ありがちな展開ではあるものの、スピード感とリアルさがあって面白い。
 ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞のトリプルクラウンをもつ実力派、ショーナン・マグワイアの「サバイバルホラー」は異界のものが現代社会に入り込んで暮らしているというダークファンタジーのスピンアウト作品ということだが、ゲームオタクのいとこのせいで、怪しげなフォーラムからダウンロードした命がけのパズルゲームを解かされるはめとなった女の子の物語。異界のものが現実にいるという設定から、わりと日本アニメ的な雰囲気もあって、ユーモラスな語り口と相まって面白く読めた。
 ポストアポカリプスSFの三部作〈サイロ〉がベストセラーとなったというヒュー・ハウイーの「キャラクター選択」は、これもFPSゲームを扱った作品だが、本書の中でもずば抜けた傑作のひとつだ。夫がはまっているFPSゲームを、産休中に子どもを寝かしつけてからプレイする、もともとゲーム好きではない妻。だが彼女のプレイスタイルは夫には想像もつかない、独特のものだった……結末こそよくあるタイプの作品なのだが、解説で米光さんが書いているように、そのナラティブにはぞっとするほどリアルな切実さがあり、ゲームを越えて心に染みる。人がゲームしている後ろで、あーしろこーしろというこの夫みたいな人、イヤですね。
 『火星の人』のアンディ・ウィアーは「ツウォリア」。ショートショートの長さだけど、これもユーモアSFの傑作。交通違反の罰則金を払おうとした貧乏プログラマーに降りかかる異変……。ショートショートなのでそれ以上かけないが、野良AIって、本当にこんな口調になりそうだ。
 『リトル・ブラザー』他、ネット社会の未来を描いてきたベテラン、コリイ・ドクトロウの「アンダのゲーム」は、もちろん『エンダーのゲーム』を意識した作品。MMORPGのチームに加わった女子高校生が、リアルマネーを獲得するためのクエストに参加するが、その実体は……という社会派SFである。これなどもうSFの話というより、ほとんど現実の話であり、ということは『エンダーのゲーム』もまた、と思わせる。本書の作品でも、何編もの作品が『エンダーのゲーム』のモチーフを取り入れており、eスポーツがオリンピック競技になるかもという世界の現実を考えると、日本ではまだあまり現実感のないこのようなゲームとリアルの関係が、もはや世界的には当たり前のものになりつつあるのだなと思わせられる。
 本書の最後はケン・リュウの「時計仕掛けの兵隊」。未来の宇宙で、バウンティ・ハンターをしている女、アレックスが、捕らえた少年、ライダーの作ったテキスト・アドベンチャー・ゲームをついプレイしてしまう。それはゲームを進めるうちに、ライダーの正体と、依頼者である彼の父親との関係を明らかにしていくようなゲームだった……。昔なつかしいゲームブックのようなテキスト・アドベンチャーの進展と、意識を巡るSF的なテーマが絡み合い、最初に示された結末に向けてのエモーショナルな盛り上げが心を打つ。さすがケン・リュウというべき傑作である。

『私の恋人』 上田岳弘 新潮文庫
 2015年の三島賞を受賞した短い長編を1冊にした文庫版である。いわゆる純文学小説だが、お話はとてもSF的だ。主人公は10万年前のシリアの洞窟に住んだクロマニヨン人の「私」、その「私」が転生した二人目の「私」は第二次大戦中、収容所で餓死したユダヤ人のハイインリヒ・ケプラー、そして三人目の「私」が、平成の日本でサラリーマンをしている井上由祐である。
 一人目の私はとても知能が高く、世界と人類の未来を極めて正確に予測し、洞窟の壁画に刻んでいた。二人目の私は悲惨な境遇の中で、過去と未来の知識を持ちながら淡々と生き、迫害に甘んじて死んでいく。彼らが求めて得られなかった究極の「私の恋人」は、ついに三人目の井上由祐の前に現れる。一人目の私によって「純少女」であり「苛烈すぎる女」となり「堕ちた女」となると想像された彼女こそ、その人、キャロライン・ホプキンスである。彼女はメルボルンで日本人の医師、余命幾ばくもない重病で、世界を巡る一人旅を続ける高橋陽平と出会い、「行き止まりの人類の旅」について知る。
 人類は行き止まりの旅を繰り返している。一周目はクロマニヨン人=ホモサピエンスがあまねく世界の果てまで広がった旅、二周目は、大航海時代を先駆けとして、原爆によって終わった、世界を支配する制度、原理、ルール(資本主義、民主主義、自由主義)を定める旅、そして三周目は、Windows95の発売によって始まり、現在も続いている、ヒトが次の存在に心を譲ることとなる旅(シンギュラリティが先にある?)だ。
 高橋陽平の死により、日本へ来た彼女は、反捕鯨運動をしながら井上由祐と知り合い、彼女こそが三人の「私」の追い求める「私の恋人」だと知った井上とつき合うようになる。
 こういった物語が三人の「私」の意識が混ざり合うままに時空を前後しつつ語られる。SF的と思うのは、転生したクロマニヨン人の物語ということもあるが、「私」の「恋人」という個人の物語を語りながら、主語がとても大きく、大文字の人類そのもの、あるいはそれを遥か上から見下ろす超存在のようなものとなっているためだろう。まさに10万年の人類史を語っているのだ。
 キャロラインも三人に劣らぬ知性と才能にあふれた超美人で、実行力もありながら、どんなに成功しても、あるいは麻薬にはまって泥沼のような生活に落ち込んでも、つねにふと「そうかしら」と自問し、次の生活へ移っていく。「純少女」であり「苛烈すぎる女」であり「堕ちた女」である、まさに私の理想の恋人だ。
 時空を超えた短い断章がつながっていき、超越した個人の視点から大きな物語を語る、そこにぼくはヴォネガットのSF的な作品と似たものを感じた。「そうかしら」のようなパワーフレーズが繰り返されるのもヴォネガット的と感じたところである。とても面白かった。

『アルマダ』 アーネスト・クライン ハヤカワ文庫SF
 作者の第一長編、以前に翻訳された『ゲームウォーズ』がスピルバーグの映画「レディ・プレーヤー1」(これは原題そのまま。ちなみに、カタカナで書くとよくわからないけど、Ready> Player One ってゲーム機の初期表示だ)となって先ごろ公開された。その原作も一部ではすごい人気だったけど、本書はその作者の第二長編である。
 前作もそうだが、とにかくオタクな(ギークな)小説である。ストーリーは(最後に大きなひねりは加えられているものの)すごく単純。前作は仮想現実なゲーム世界の話だったが、こちらはゲームが現実に侵食してくる、というか、現実がゲームだった、みたいな物語。父親を亡くし、オンラインゲームにのめり込んで、異星人の侵略と闘うVRシューティングゲーム〈アルマダ〉で全世界6位の腕前となった、高校生ゲーマー、ザック・ライトマン。彼は、教室の窓からぼんやり外を見ていて、何とゲームに出てくる敵の戦闘機が現実の空に現れるのを目にする。初めは幻覚かと思うのだが……。それは現実だった。翌日、学校の校庭に、地球防衛軍のシャトルが着陸し、ザックを呼び出したのだ。宇宙戦争は本物で、〈アルマダ〉はその戦士となる人材を養成し、選び出すためのシミュレーションだったのだと……。かくてザックは、世界中から選ばれたゲーマーたちと共に、異星人の侵略と戦うことになる。実際に戦うのはドローンで、彼らはそれをVRでゲームと同じようにコントロールするわけだが。
 SFファンなら当然『エンダーのゲーム』を思い浮かべるだろう。というか、『スタートボタンを押してください』でも、同様のテーマの作品が多かったし、ゲームとリアルの同一化というのはもう一つのジャンルとなっているのだろうと思う。後はひたすら異星人との戦いである。その間に、彼の父の謎や、恋や、戦友たちとの友情や、勇気や献身が描かれる。そしてこの戦いそのものへの疑問も……。
 基本、一直線なストーリーなのだが、細かなエピソードをたくさん描くことで、飽きさせず、面白いエンターテインメント作品となっている。しかし、何よりも、作者の特長となっているのは、作品中にぶちまけるリアル世界からのギークな引用の圧倒的な量だ。SF小説、SF映画、テレビドラマ、コミック、特撮、そしてとりわけ80年代のミュージック・シーン(戦闘のBGMとしてマクセルのカセットテープに手書きで書き込まれたセットリストが出てくる)、ひたすらそんなディテールに、オタクな楽しみが満ちているというわけだ。とはいえ、あまりにもオタクの願望充足な世界に思えて、ちょっとついていけないな、と思うところがあるのも事実だ。最後など、絶対もう一ひねりあると思ったのだが。まあこれはこれで楽しく読めたから良かったといえるだろう。

『メカ・サムライ・エンパイア』 ピーター・トライアス 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 第二次大戦で枢軸が勝利した世界。アメリカは東西に分割され、大日本帝国に占領された西側はUSJすなわち『ユナイテッド・ステーツ・オブ・ジャパン』となったという前作の続編である。一部の人物は前作と関係があるが、基本的に登場人物も異なり、設定を同じくする連作長編という位置づけなので、本書を独立して読んでも問題ない。なお、同じ内容で巻の文庫版と同時発売である。
 ゲームオタクがリアルな兵器を操縦して戦うという物語を続けて読んだのだが、本書はむしろオーソドックスな歴史改変SFの要素が大きい。さらに前作より、巨大メカバトルとボーイ・ミーツ・ガールな学園ものというアニメ的なテーマが前面にフィーチャーされていて、エンターテインメントとして非常に読み応えのある物語となっている。とはいえ、世界設定がオタクの願望充足からはちょっと外れていて、色々と重苦しく厳しいダウナーな世界なので、巨大メカバトルも、主人公たちのロマンスも、お気楽に楽しむというより、かなり切羽詰まった、命がけで血みどろな、ずいぶんと重いものになっている。それだけに切実で、感情を揺さぶるシーンが多い。
 本書の主人公は、両親をテロで亡くし、高校に通いながらメカ・パイロットをめざす不二本誠。士官学校への入学試験で、テロ組織の陰謀に関わった親友の事件に巻き込まれ、失敗してしまう。そんな彼を拾ってくれたのが、民間の警備会社(といっても軍事的な色彩が強い)。そこで激しい訓練の日々を送ることになる。そして初めての出動、メカに搭乗しての列車警護で、ナチスの支援を受けたアメリカのテロリストの襲撃に遭う。激しい戦いのすえ、多くの犠牲を出しながらかろうじて敵を倒す。そうして彼は、周囲の人々の支援を受けて、念願の陸軍士官学校への入学を果たすのだ。
 高校時代の友人(超エリートで知力も戦闘能力も抜群のお嬢様、橘範子)や、誠とともに警備会社から生き残ってきた千衛子、前作に出てきた同名の人物の息子で、天才的な腕前だが問題児の久地樂らとチームになり、また高校時代に知り合った、日独ハーフの留学生グリゼルダと再会してのロマンスもある。学園ものの要素とともに、日独がいつ戦争になってもおかしくない状況の中での、軍事独裁政権下での社会の不安や恐怖も描かれる。そして物語は若い彼らしか残っていない基地への、ナチスの特殊部隊の急襲というクライマックスを迎える。
 死亡フラグが立った人物はきっちり死亡するし、お約束はちゃんと守られているのだが、戦闘シーンは迫力があり、ドキドキしながら読み進められる。登場人物たちには結末はちゃんとついているが、世界情勢はまだ不安定なままであり、続編が期待される。


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