続・サンタロガ・バリア  (第186回)
津田文夫


 春ですねえ。ここら辺では桜は3月中に満開、4月1日には散り始めの桜の下で花見をする人達がたくさんいた。

 3月のコンサートはNHK交響楽団の中国地方公演と地元アマチュアオケの広島ターフェルオーケストラを聴いた。
 NHK交響楽団は、倉敷・呉・山口・益田の4都市公演。曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲3番とドヴォルザークの交響曲8番「イギリス」。ピアノは2002年チャイコフスキーコンクールの覇者上原彩子。指揮はステファン・ブルニエというスイス出身で、ドイツの地方オケや歌劇場で実績を積んできたらしい。64年生まれというから中堅どころ。
 席は2階の真ん中後ろで、聴ければいいや程度で聴いたせいか、上原彩子がものすごい力を込めて弾きまくったラフマニノフが、燃えないNHK響に火を付けたかのようなパワフルな演奏だった。そのせいか、ドヴォルザークは巡航速度な響きで、8番は好きな曲だけれど、この演奏では眠気を感じて、というか寝た。
 一方ターフェルオーケストラは、開演前にギエルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』を見る予定で映画館に行ってみると、上映予定よりも30分遅くはじまったため、ロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル序曲」の途中から聴く羽目になった。
 会場の600人ホールは立ち見が出るほどで、70人を超える演奏者の関係者だけでたぶん500人くらいはいるのではないだろうか。かくいう自分もチェロを担当する友人を見に行ったようなものだけれど。2曲目はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、ソロはコンマスの人。録音やコンサートでは有名ソリストの超絶演奏ばかり聴いてきた曲なので、さすがにアマチュアの限界が感じられるけれど、ヴァイオリン自体は率直ないい響きがするので、ハラハラしつつも聴くことができた。アマオケの特徴として弦の人数が多く、そのため分厚い弦の響きが少々の難点を覆い尽くしてしまうことがある。このターフェルオーケストラもその典型で、プログラム後半のブラームスの交響曲3番では、この分厚い弦のおかげで聴いていて気持ちがいいというプロ顔負けの現象が生じる。ここの指揮者は当方とは高校時代の同級生らしいのだが、確かめたことはない(名前を見ても思い出せない、8クラスあったからなあ)。    
 映画の方は昔懐かしい半魚人ものだけれど、オタクの夢と社会的マイノリティへのオマージュになっていて、"グロテスクは美しい”という世界を謳いあげた1作。これがアカデミー賞を取るとは、オタク万歳がついに主流になったか。主人公の女性のお風呂シーンがあるので、R-15指定ですが、エロとは関係が無い。

 昨年の読み残しの1冊、キャリー・パテル『墓標都市』は、舞台が荒廃した未来の地下都市国家で、話の筋は警察小説のバリエーションという、あまり独創的とはいえないけれど、根性で捜査を進める女性捜査官ものとしてはそれなりに面白い。続編があるという割には、主要な脇役が片付けられてしまったりして、やや首をひねるけれど、次巻で復活してもあまりビックリはしないだろう。

 1月に《創元海外SF叢書》として出たリリー・ブルックス=ダルトン『世界の終わりの天文台』は、作者の小説デビュー作ということだが、SFを書きたかったと云うよりは、書きたいものがSFシチュエーションを必要としていたという感じの、静謐な書きっぷりの物語。訳題はかならずしも物語を正確に表してはいないけれど、プロローグ的にはまさにそんな感じの物語が綴られている。
 北極圏の天文台で一人残った老天文学者(プラス謎の女の子)と原因不明の地球の(電波コミュニケーション的)沈黙に急遽地球を目指す惑星探査船の乗組員の話が交互に語られる。通信機の全バンドを試して応答を待つ老天文学者と同じく必死に地球とコミュニケートしようとする探査船。小説としては十分読ませるけれど、SFファンとしてはちょっと物足りないというところ。

 第1作がとても面白くて笑えたダーク・ジェントリー・シリーズの第2弾が早くも登場。ダグラス・アダムズ『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所 長く暗い魂のティータイム』がそれだけれど、こちらは前作と打って変わって、タイトルどおりくらーい話になっていて、なによりダーク・ジェントリーがスランプなのが悲しい。
 もっとも北欧神話の神様が落ちぶれた奇人として現世イギリスの地上に住んでいるというアイデアは、ニール・ゲイマンの『アメリカン・ゴッズ』の原型とも云うべき面白さを醸し出しているし、ワルハラ城へと移るシーンはファンタジーとしてもそれなりに魅力的ではある。事故で早世せずにいたらもうちょっと面白い第3作が読めたのだろうか。

 長編のひとつも書かず中編2作だけで日本SF史にその名を刻んでしまった草野原々『最後にして最初のアイドル』は、表題作に「エヴォリューションがーるず」そして書き下ろしという「暗黒声優」の中編3編を収録。
 表題作は再読か3読目だけれど、大分読みなれたせいもあってなかなか楽しめる。解説で前島賢が「オタク文化とハードSFの融合」と原々の志向を表現しているけれど、この3作品を読んでいると、ハードSFというよりは、オーソドックスな理科的知識のおさらいをしているような気分になる。それはそれで超ユニークといえないことはないけれど、もし原々が長編を書くのなら、これら3作の延長ではないものを期待したいなあ。

 J・G・バラード『J・G・バラード短編全集5 近未来の神話』は短編全集最終刊。アレっと思うのは、ここには濃縮小説の多くが収録されていないことだ。バラードにとっては『残虐行為展覧会』に収めた作品は取捨選択の対象だったのだろうか。
 1970年代末から1990年代半ばまでのバラードの短編は、もはや爛熟期のものと云って良いかも知れない。アイデア的には以前の作品を踏襲するようなものもある一方で、「戦争熱」のように伊藤計劃の作品を先取りしたいかにもバラードSFらしいようなものまで、バラード印はますます濃くなってきている。
 80年代初期にノヴェレットの3部作として書かれたという「太陽からの知らせ」「宇宙時代の記憶」「近未来の神話」は、バラードが内宇宙SFを唱えてから20年後の実作としてバラード印満載の作品群といえる。この感性がフィットするかどうかでバラード好きかどうかが分かりそうな気がするが、この3部作はあまり好きではない。
 バラードの短編がほぼ全部読めるという意味ですばらしい短編全集ではあるけれど、セットで2万円近いのでは若い人には読めないだろうから、これから文庫になることを期待しましょう。
 岡本俊弥さんが全5巻の応募シールを使ってバラード・トートバッグを貰い、その外観を紹介しておられましたが、欲しいかといわれるとウーンというところ。まあ、読み終わった巻がどこにあるか探せないので、どちらにしても貰えそうにないですね。

 宮内悠介『宮内悠介短編集 超動く家にて』は、帯にわざわざ「深刻に、ぼくはくだらない話を書く必要に迫られていた」と作者の言を引用しているけれど、この作者は「くだらない話」にも蘊蓄の重みを乗っけてしまうので、そこら辺はやや苦しいところ。そのほかにも「アニマとエーファ」や「弥生の鯨」などは普通によく出来た短編で、前者が山野浩一の「レボリューション」短編を思わせることは前にも書いた。
 もちろん「星間野球」に代表される「くだらない話」が面白いことに変わりはないんだけれど、大森望が『本の雑誌』で書いていたように「今日泥棒」みたいな会話だけで落としてみせるような作品が拾いもの的に楽しい。

 その「くだらない話」ではない系統(?)の、宮内悠介『ディレイ・エフェクト』は、表題作が「たべるのがおそいVol.4」、「空蝉」と「阿呆神社」が「オール讀物」に掲載された中編3作からなる薄い1冊。
 表題作が芥川賞候補だったらしいけれど、現在の家に戦時中のご先祖の状況が重なるというのは、直接は関係ないとしても、星新一の「午後の恐竜」を思い出してしまう。表題作の現代におけるアクチュアリティは、星新一と違ってややタメするものが強く、力業ではあるけれど、時代性を色濃く持っているところが逆につまらないと云えばつまらない。
「空蝉」は、解散したロックバンドの神話で、昔から漫画なんかではおなじみの物語だけれど、ネガポジが反転するところはそれなりに印象に残る。
「阿呆神社」は舞台は東京らしいけど、関西風スラップスティックな人情小話で、断筆宣言前の筒井康隆か、かんべむさしが書いていそうな話。

 突然出たという感じのD・H・ウィルソン&J・J・アダムズ編『ゲームSF傑作選 スタートボタンを押してください』は、SFファン的には玉石混淆のアンソロジーで、SF的にはやや濃度が薄いので、期待したほどは面白くなかった1冊。
 桜坂洋「リスポーン」は、タイムループの代わりに精神転移ループが完成する話で、読んでる最中は、先行きがどうなるか気になるうまいアイデアだ。ゲームSFとしては、解説を読まないと、出だしのピンポンゲーム誕生話がなんなのかわかりにくいが。
 読みやすさという点では、解説で「テキストアドベンチャー」とされたホリー・ブラック「1アップ」とケン・リュウ「時計仕掛けの兵隊」がよくできている。ケン・リュウは、昔懐かしいゲームを彷彿とさせる書きっぷりだ。
 コリイ・ドクトロウ「アンダのゲーム」は標題を見ただけで「エンダーのゲーム」のパロディということはわかるが、まさか「政治的に正しい」版とはねえ。アンディ・ウィアー「ツウォリア」が、宮内悠介ではないが、「くだらない話」で落とし話として楽しい。
 そのほかにも読ませるものはあるが、SF的飛躍にとぼしいものが多く、うち2作はゲームを切り抜けたら政府機関のスカウトがあったという結末。

 新・ハヤカワ・SF・シリーズ 第4期 第1回配本のケン・リュウ編『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』は、期待を遙かに上回るハイレベルなアンソロジーだった。これが現代中国SFのショウケースとすると、中国のSF読者は結構幸せであろうと推測される。
 女流作家郝景芳(ハオ・ジンファン)の表題作は人口過剰な北京の街そのものを折りたたんで3交代で生活するというバカSF的アイデアを、現在の中国の現状に合わせた冒険/メロドラマで展開することによってシリアスな作品へと転換させた作品。なかなかスゴイ。おなじ作者の「見えない惑星」は恋人同士の会話の中で架空の惑星の生活が次々と集められて語られる。やはり女流作家の夏笳(シアジア)の「百鬼夜行街」「龍馬夜行」は、宮崎アニメ的な感触があるものの東アジア的ファンタジーの魅力を醸している一方、「童童の夏」は介護ロボットを描いて、山本弘や小川一水や宮部みゆきを彷彿とさせる。
 巻頭の陳楸帆(スタンリー・チェン)「鼠年」は再読だけれど、今回読んだときの方がシリアスな衝撃度が高い。スタンリー・チェンのディストピア志向は他の2作品にも顕著で、現代の日本SFにはない激しさと云っていい。また馬伯庸(マー・ポーヨン)の「沈黙都市」は標題どおりのディストピアSFだ。
 大トリは、『三体問題』でヒューゴー賞を取った劉慈欣(リュウ・ツーシン)。「円」は古代中国秦王朝で人間2進法が開発されたというバカSF。「神様の介護係」もスケールの大きいバカSFで、現代中国SFがいかに洗練されているかを痛感させる1作。これもスゴイ。
 ということで、このアンソロジーは日本のSFファンが衝撃を受けるに十分な作品を集め得た強力なアンソロジーといえる。立派。

 昨年の積ん読のノンフィクション、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』がいつの間にか新書大賞を取っていた。昨年5月刊で手元にあるのが8月で8刷。
 いまさら面白いという必要もないのだけれど、自らの危機的状況を面白おかしく書いてみせる腕前はなかなかのもので、ややあざとい感じはするものの、モーリタニアのバッタ事情と日本のポスドク事情はよくわかった。この作者を書き手として育てた編集者は嬉しかったろうな。


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