2002/1/14 未公開画像を追加して再編集しました。

1997年6月29日、パリミッション会司祭のクロード・バスチ神父が、司祭叙階25周年の金祝を迎えました。
バスチ神父に導かれて洗礼を授かることができた私と妻、そしてその友人と協力して、記念の小冊子を作成しました。
このホームページは、日本で2千人を超える人々を神の道に導いた神父の業績を、広く知っていただきたいと思い、
その小冊子の内容をもとに作成したものです。
なおこれは私たちが個人として製作したものであり、教区・教会・宣教会等とは何の関係もありません。
小倉教会での金祝記念ミサ
バスチ神父の経歴
クロード・バスチ Claude Bastid
「私は異邦人のためにキリスト・イエズスに仕えるものとなり
神の福音のために祭司の役を務めている」(ローマ、15−16)

パリミッション(パリ外国宣教)会
Missions Etrangeres 司祭
印刷物とは若干内容が違います。1997年5月18日版
目 次
1924年1月29日 |
フランスのパリ西方郊外のヴィロフレ(Viroflay)市Gabriel
Peri通り34番地に、
当時弁護士をしていた父Raymond、母Suzanneの3番目の子供として生まれる。
バスチ家はフランス革命後、弁護士や裁判官を輩出した家系であった。 |
バスチ神父生家
幼年期
母と兄弟
(末弟誕生前)
 中央がバスチ神父
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兄弟は長男Olivier、姉Marie-Henriette、
クロードの下には弟二人であった。 |
中央右の少年 |
夏の休暇には家族でロワール地方カンタルの旧城(フランス革命後、先祖が旧貴族の城
を買ったもの。27部屋あった)で過ごした。 |
「学校についての思い出はほとんどありません。身体が弱くて病気ばかりしていましたから…」 |
1935年 |
ベルサイユの私立聖ヨハネ中高校に入学。 |

1940年 |
高校2年生の時、ドイツ軍のパリ侵攻を避けて、兄と自転車でロアール川まで南下し、
さらに電車でカンタルの別荘に逃れる。ここに4ヶ月滞在後パリに戻る。 |
1941年 |
聖ヨハネ高校卒業、
ベルサイユ教区大神学校に入学。 |
1944年 |
教区司祭になるよりも宣教師として歩みたいと考えて教区大神学校をやめ、
パリミッション会に入会し、パリのカトリック大学に転校した。この年パリ解放。 |
1947年 6月29日 |
パリのミッション会本部聖堂にて司祭叙階。
すぐにローマのカトリック大学に留学。 |
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ローマ留学は3年の予定であったが、中国共産主義
の政策により、外国人が入れなくなる危険があったためピオ12世教皇の命令により、中断して中国への派遣が急遽決定された。
ピオ12世(当時、中国は共産党による革命が進行中で、すぐに派遣しないと今後の宣教師入国が難しくなると
判断された)
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「私のグループは、中国に最後に入ったカトリック司祭団です。」 |
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一旦フランスに戻って家族との別れを惜しんだ後、マルセイユから船で香港へ向かう。
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一時帰国した実家で |
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このころ一時、髭を伸ばす |
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 共に中国に旅立った神父たち
後列左端がバスチ神父
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この時、同じ船で香港に向かった神父達の中には、後に北九州で共に働く徳山神父とモーゼ神父
の姿もあった。 |
1948年1月 |
各地に寄港しながら約40日の船旅の後に香港到着。
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立ち寄ったサイゴン(現ホーチミン)の聖堂前で
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香港から列車で広州に入り、さらに2000km離れた赴任地貴陽へ向かった。 広州から長沙までは貨物列車での移動であった。途中、停車中に荷物をすべて奪われ、
着の身着のままとなり、長沙から貴陽までは、車や人力車を乗り継ぐ旅となった。
約5ヶ月かけて貴陽に到着。約1年間は中国語の研修を行う。
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貴陽の町並み
貴陽の司教座聖堂
「6ヶ月過ぎた夏のある日、田んぼに囲まれた村に行った時のことでした。
夜、集会場に4〜50人の老人を集めて祈っているところで、先輩の神父様から
『説教をしなさい』と言われました。まだ中国語はあまりできなかったので、
困りながらも一生懸命説教しました。みんな一生懸命聞いていたように思え、
うれしかったです。ところが後で先輩神父様に聞くと、集まっていたのは
少数民族のミャオ族ばかりで、みんな中国語は解らなかったのだそうです。」 |

貴陽の司祭団
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貴陽滞在中は、北の重慶から南の雲南まで移動した。
2000m級の山の中、命懸けの旅で、戦時中のトラックで移動していた。 |
「坂道では運転手の手伝いで、一人が石をもってトラックの前後を走っていました。
車のブレーキが壊れていて、上り坂でエンジンが止まると、すぐに後ろのタイヤに
石をはめて輪留めをし、下り坂では前のタイヤに石をはめます。うまくはまらないと
そのまま崖の下に落ちてしまうかもしれません。何度も車から飛び降りて逃げたこと
があります。」 |
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1年の中国語研修を終えた頃、貴陽周辺を共産党が制圧した。 司祭は市外への外出を禁止されたため、市内の南党教会(2〜3000人の信者がいた)
の近くに住んでいる家庭を訪問し、その家族など未洗者4〜50人を集めて、毎日勉強会を開いた。
貴陽での宣教活動2年間で約40人に洗礼を授けた。
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1950年8月 |
宗教を否定し、自主独立をスローガンに西側との関係を絶とうとしていた中国共産党は、
中国国内のカトリック教会に対し、教皇庁との関係を絶つことを求めていた。 |
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これに対し
「教皇様と離れてはいけない」との説教を行った夜、中国官憲に逮捕される。朝鮮戦争の
頃でもあり、外国人はスパイ視されていた。 逮捕後、約6ヶ月間警察に拘留される。
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「その間、おもに夜中に取り調べを受けました。
昼間は暇だったので、唯一読むことを許されていた毛沢東語録を借りて中国語の勉強をしました。
一生懸命読んだけれども洗脳はされませんでした。」 |
1951年1月 |
簡単な裁判を受けて追放が決定した。中国滞在は約3年間であった。 |
「貴陽から離れるため車に乗った時、周りに兵士たちがいる中、
ある一人の、私が洗礼を授けた老婆が、勇気を出して私に近づき、1枚のハンカチをくれました。
そして『神父様、祈る時には、私たち中国人のことを思い出してください』と言いました。
そのハンカチは今も大切に持っています。」 |
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2人の兵士に護衛されて、貴陽から重慶を経て漢口へ船で向かい、さらに広州まで列車で向かった。 |
「この道中、朝から晩まで食事はタケノコしか与えられませんでした。
私はそれからタケノコが嫌いになりました。(笑)」 |
1951年春 |
列車で香港の国境までつれていかれ、国境の橋を歩いて渡って香港へ入る。 |
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香港には療養のためしばらく滞在する。 その後新しい赴任地として日本に行くよう任務を受け、香港から船で日本へ向かう。
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中国での軌跡
1952年5月1日 |
横浜到着。 |
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まず東京の宣教会本部に行くが、『ここでは必要ない』と言われ、静岡、神戸と移動し、
1週間後、やっと北九州に落ち着く。 |
「デシャンプ神父様が、進駐軍からもらったジープで迎えに来てくださいました。」 |
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進駐軍兵士と |
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当時の八王寺教会で、同じように中国から引き揚げて日本に来た神父たち(10人ぐらい)と日本語の研修を1年間受け、その後戸畑教会に赴任する。 それから46年間、北九州地区において、宣教と司牧の半生を送ることになる。
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1952年 |
戸畑教会に赴任(内2年間は八王寺から通う)
22年間司牧に携わる。 |
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同時に、カトリック幼稚園の園長。 特に天使園と明治学園の父兄を集めて宣教し、何百人にも洗礼を授ける。
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「戸畑では年に100人近く洗礼を授けました。しかし日本と言う大海の中では一滴に過ぎません。」 |

巡礼にて
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移動には、はじめは自転車に乗っていたが、その後オートバイに乗って北九州を駆け巡った。
50歳の頃、やっと車の免許を取り、以後は車で移動するようになる。 |
1974年 |
小倉教会に赴任、15年間司牧に携わる。 |
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同時に、カトリック幼稚園の園長。
小倉では年に30〜50人に洗礼を授けた。 |
1992年 |
戸畑教会助任司祭として赴任、2年間司牧に携わる。 |
1994年 |
休暇のためフランスに帰国する際、八王寺教会所属に移動。 |
1995年 |
フランスから戻った後、黒崎教会助任司祭(八王寺より通勤)。現在に至る。 |
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なお、八王寺教会は小教区から離れ、
パリミッション会施設となる。 |
「今は黒崎教会の助任司祭としてベリオン神父のお手伝いをしております。」 |
1997年 6月 |
司祭叙階50周年の金祝を迎える。 |
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宣教師としての50年間の正確な授洗者数の把握は困難であるが、2千〜3千人を数えるものと推定される。 |
フランスにて親戚の子供たちと
親戚の子供に洗礼を授ける
実家にて甥夫婦と
2002年 1月 1日
12時 4分
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新田原聖母病院にて帰天。享年77歳 |
著書:いずれも中央出版社刊
子供とともに人生を |
昭和52年10月20日初版 |
キリストの喜びの道 |
昭和S57年4月15日初版 |
ルカスによる救い主の福音 |
昭和62年3月10日初版 |
制作者 |
企画・取材: |
柳田 徹雄、 |
編集・構成: |
溝田 美恵子 |
資料・協力: |
柳田 麻里、 坂本 美智子 |
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