エッセイ3-2 : 最近、考えたこと(12/14/00) - 林 玲子NYを去る!?の巻 -

 そんなわけで、ソーシャルワークに興味を持ち、その道に進むにあたって自分の専門分野を決定することになりました。そこで、わたしはソーシャルワークとひとことでいううものの蓋を開けて見れば、そのエリアは非常に幅広いことを知りました。かなり、的を絞るのに迷いました。しかし、大きく二つの分野に的を絞りました。ひとつは、てんかんを持った子供達と一緒に働いていくことでした。しかし、これは、正直ってわたしにかなりハードルが高いエリアでした。前述の通り、おおむね、精神的にも身体的にもこの病気を克服していると言っても良いものの、正直、目の前でわたしがかつて経験したような発作や、症状を目のあたりにしたら冷静に対処できるかどうか当時は自信が持てず、まだ、時期尚早であると判断をして、選択肢から外しました。もう1つのエリアというのは、高齢者福祉の分野でした。これは、単純にわたしは、両親を始め、我々、若い世代の為に、今のように物資に恵まれず、また、テクノロジーなども発展していない時代にもかかわらず忍耐強く次世代のためによりい社会をつくりあげようと頑張って来てくださった方々に素直に感謝の気持ちを表したいと思ったからです。つまり、彼らが年老いたときでも、今まで以上に彼らが幸せを感じながら家族や友人と慣れ親しんだ地域で生活が送れるような社会をつくりたいと思ったのです。産まれた瞬間はひとりで歩くこともできず、何も知らない、何も持たない状態であった私たちが、今、こうして、毎日の日々を過ごすことができるのは今まで、我々の為に一生懸命働いてきてくださった人々のおかげだと私は信じています。その人々というのは、両親だけでなく、自分と直接的、間接的に関わる人々、全てをさします。そんな方々へいつか、わたしの方法で、彼らを尊敬し、彼らの意を尊重し、自分の感謝の気持ちを表現したいと思っているわけです。今、色々、日本の高齢化社会に関する問題について見聞きしていると、わたしが目指していることは、意外と「言うが易しおこなうは難し」なんですよね。
 NYにくる大決心をして、何も無い状態、、、ホントにあるのは身体ひとつと借金のみの状態でこの街にやってきてはや2年半が過ぎました。まだまだ勉強したりない気分で一杯であるものの、NYで高齢者福祉を学び、新たに色々な出会いがあり、色々な新しい課題を乗り越えることによって自分に対する自信が少しずつ身についてきているように思います。そして、機会あるごとに自分の人生について、また、わたしを温かく見守ってくれる家族、友人について考えています。そして、新しい知識、経験を積む毎に、更に自分に必要なことは何なのか?今度はどんな選択肢を選ぶべきかということもどんどん考える必要性に迫られます。
 そして、実は、今回の日本帰国で、わたしは又、大きな決意を固めました。ずぼらな更新にも関わらずわたしのNYからのエッセイを楽しみにされている方には大変申し上げにくいのですが…結論から言うと私は日本に帰ることに決めました。決心した大きな理由は3つあります。1つめは、11月の日本帰国の際に、ひとりの娘として両親の傍で親孝行をしたいと強く思ったこと、2つめは、日本の高齢者福祉の動きを正確に自分自身で見聞きし、取り残されないようにしなければいけないと痛感したこと、3つめは、自分が好ましいと思ったアメリカのプログラムの数々を日本で適応するためには今までの私が持っていなかった知識やネットワークを日本国内で獲得していく必要があると思ったことです。
 決心が固まったら、フットワークは死ぬほど軽い林 玲子ですので、すでに帰国準備を始めています。このホームページを継続するかどうかについては現在、検討中です。実はホームページビルダーも購入して、HPを全面改装しようと何度も試みたのですがうまくいかず、ちょっとくじけ気味ですが、そこらあたりを解決したらまた、ちょっとタイトル変更してみなさんとの交流を続けていきたいと考えています。
 わたしの未熟なエッセイに対して、みなさんからの励ましのメイル、ご相談のメイル、時には辛らつなご指摘、どれもこれもわたしにとっては非常にありがたいもので、それらを読むたびに自分自身のフンドシをぐいっ!と絞める思いになれました。(ちょっと表現がお下品かしら?)日本に帰ってからの私の就職先はまだ詳しいことが決定していないため今ここでお伝えすることはできませんが、また、いつかご報告できるようHPの準備を整えておきます。
 貴重なお時間をわたしのエッセイのために割いていただきありがとうございます。わたしは、大きな決断を下すときに色々悩みますが、結構、その瞬間を楽しんでいます。何故なら、その時期というのは本当に一生懸命に色々なことを考えるので、その結果、色々なことがクリアーになってくるからです。たとえば、自分にとって本当に大事なものや人は何なのかとか、ということがはっきりと分かってくるのです。また、もともとAとBしかない選択肢からひとつを選ばなければいけないという状況から、一生懸命考えた結果、AのよいところBのよいところをすべて兼ね備え、かつ、AよりもBよりもよい条件を併せ持った新しい選択肢「C」を作り上げ、それを選ぶことができる状況も作ることもできるからです。この考え方はわたしがNYで知り合った大事な友人から教わりました。選択肢が2つしかないと人はどうしても「どっちかを選ばなきゃいけないっ!」と思い込みがちだけど、そこで、考え方を少し変えて、それら二つの選択肢の良いところをかけ合わせ、プラス何らかのメリットも付け足した、新しい選択肢を頭を使って考えみてはどうか?そして、その選択肢を選んでも周りが納得するような環境を自分で作り上げる努力をすることの方が与えられたものを選ぶよりも時には難しく、その先の人生において大切かもしれないとその友人は言っていました。私は、大きな問題にぶつかったり、大きな決断を迫られたとき、この考え方を思い出して、そして、エッセイ2でお話したような、わたしの持論、「自分の強みと弱みについて」考え、常に自分にとってベストな選択ができるようにこれからも心がけていきます。
最後に、わたしのエッセイ公開にあたり多大なるご協力を頂きました小山先生に心よりお礼を申し上げます。また、皆様、近いうちにお会いしましょうね!






エッセイ 3-1:最近、考えたこと- わたしをソーシャルワークへ導いたもの -

 しばらくご無沙汰でした。その間、わたくしの周りにも色々な動きがありまして、大きな決断を下さなければならない状況となりました。というわけで、今回は、また、前回の予告を大きく裏切って今の自分の心境をみなさんにお伝えするエッセイを書かせていただきます。

 サンクスギビング・デーが近づいた11月も後半、私は家庭の事情で日本に帰国することとなりました。
来年4月で70歳になる父が手術をするにあたり、付き添いが必要と言うことで1年半ぶりに故郷の地を踏むことになったのです。考えてみれば、父と二人きりであんなに長い時間を過ごしたのは初めてで、最初はなんだか少しこっぱずかしくて、戸惑う気持ちもありました。手術の経過は良好で、思ったよりも早く退院ができ、今は一安心しています。しかし、今回のこの帰国を通して、自分の今までの生き方そしてこれからの生き方について深く考えさせられました。

 よく、初めてあった方から、何故、ソーシャルワークに進んだの?と尋ねられることがあります。わたしが、ソーシャルワークに関心を持ったのは、色々な動機が関与しています。しかし、最も大きな理由のひとつは、自身が14歳のときから「てんかん」という病気に罹っていたことです。てんかんという病気はあまり、世間一般に正しく認知されていないため、根拠のない差別や偏見が今だにはびこっている病気です。私自身も、14歳のときに、両親から「自分がその病気であることを絶対に人に言ってはいけない、できるだけ隠しつづけなさい、でなければ、おまえがツライ目に合うからね」といわれました。この両親の指示は、まだ、14歳という精神的にも未熟だったわたしにとって理解するのに非常に難しいことでした。なぜ、自分の病気のことを人に言っちゃいけないのか?私がこの病気に罹ったのはだれのせいでもないのに、なぜ、わたしだけが差別されたり、人に変な風に誤解されるのか?などなど、幼いなりにも色々と考えることがありました。そして更には自分には誰にも味方がいないんじゃないか?誰にもこんな気持ちわかってもらえないんじゃないか?とさえも考えることもありました。しかし、色々考えるうちに、私同様、もしくは私以上にツライ思いをしている人がいることに気づきました。それはわたしの家族、とりわけ父と母でした。思春期のわたしにとっては、何もかもが自分中心にしか考えられなかったため、このことに気づくのには少し時間がかかりました。彼らはうるさくあれこれ心配するような言葉を口に出してわたしを過保護に扱ったりせず、常に、わたしの意を尊重し、わたしが独立して自分の人生を思いきり楽しめるように適度な距離をおいて、適度なサポート体制を整えて私をいつも見守ってくれていたように思います。

 まだ、小さな発作や年に一回程度の意識消失の大きな発作などがあったころはやはり自身に自信がもてず、自分がなんのために生まれてきているかなんて考える余裕もありませんでした。しかし、現在のわたしの病状は、適量の服薬さえつづけていれば一切、発作などは起こらない状態に5年以上落ち着いています。病状が落ち着くにつれて、わたしは段々と自分がなぜ、このような病気に罹ったのか?ということについて考え始めるようになりました。大げさな言い方をすると、自分の人生の使命は一体何なんだろうということを考え始めるようになったのです。

 そんなことを考え始めたころ、わたしの家族5人のうち2人が1度に長期入院をする事態を迎えました。どちらも、非常に深刻な状態でありました。自分がいくら薬学や医学の知識を少し勉強したからといっても、病院に行って自分の身内がベッドに横たわっているのを見た瞬間、ひとりの気弱な患者の家族になってしまい、お医者さん、看護婦さんだけが頼りの心細い心境に陥りました。しかし、わたしがそこで見たものは、忙しく日常業務をこなす看護婦さんから必要最小限の事務的な返答、傷口だけを見て患者や家族の心の痛みは見ようとしない先生の態度などでした。これらは大きく私を失望させ、また、ときにはデリカシーのない言動で大きく傷すけられたりもしました。しかし、ある意味、これは仕方がないなと思いました。毎日、何人もの患者を相手に少ないマンパワーで業務をこなさなければいけない人達に患者や家族の心のケアまでじっくり時間を取って看てくれというのも物理的にも難しいと思ったからです。彼らは彼らの業務をちゃんとこなしているのは私にもよく分かりました。しかし、わたしがそこで感じたのは、もうひとつ何か重要な役割を持った職員がいてもいいのでは、、、いなくてはいけないのではいけないのか?ということでした。当時はそれが、ソーシャルワーカーという職種になるのかどうかという難しいことは私にはわかりませんでした。

 ただ、私が感じたことは、病院にしろ、学校にしろ、地域にしろ、この世の中には助けを必要としている人がきっと大勢いるわけで、そして、本当に助けを求めている人の声というのはなんらかの障壁が邪魔をして聞こえにくい傾向にあるのではないかということでした。その障壁というのはときにはその人自身の問題であったり、あるいは、法律や社会の仕組みであったり、人と人の力関係の差であったりと色々だと思います。わたしは、限られた経験ではありますが、自分の経験を通して、わたしたちが生きている社会には助けを求めている人のタイプやその要求の種類も限りなく幅広ければ、その声を適所に届けることを妨げる障壁の種類や数も果てしないことを痛感しました。そして、そのとき、わたしは自分の人生の使命というのは、少しでもいいからこのあたりの問題を解決していくことにあるのではないかと思ったのでした。その人自身が病気を患っていなければならないとか、身内に入院経験があったからということは大きな問題や必須条件ではなくて、「どこかに何らかの問題がある!」と気づいた人がそれをすこしでも良くしていくようにしていけばいいのではないかと思ったのです。そんな思いから恐らくわたしのソーシャルワークへの興味が高まってきたのではないかと思います。

 正直言って、わたしは、おそらく、今だに少なからず自分の病気に対してコンプレックスを抱いていると思います。しかし、このコンプレックスは同時に、何かを始めるときのわたしの大きなエネルギー源でもあるのです。つまりもっと平たく言えば、「わたしはてんかんだからって人にネガティブな方向に差別なんて絶対させないぞ。てんかんというハンディはあっても、ハンディのない人以上の成果をあげてやるぞっ!」という感じです。そんな意味では、今、わたしは、いいものを天から授かったなと思ったりもするときがあるのです。元々、怠け者の私ですから、こんなもんでも持っていなければ、だらだらと毎日を過ごしていたかもしれません。

(エッセイ3−2につづく)






エッセイ2:自分の強みと弱み(Strength and Weakness)

 「英語もろくに分からないくせに、どうやって私を助けるっていうんだい!?」「すっ、すみません…」
1998年の8月下旬、私はNYに降り立ち、その2週間後から、学校のカリキュラムの一環で、投げ込まれるようにして低所得高齢者を対象に福祉サービスを提供している施設でソーシャルワークインターンとして働きはじめた。当時の主な職務内容は、低所得高齢者の生活全般にわたるサポートであった。(政府補助プログラムへの申請手続き援助、住居問題解決、医療問題相談、自宅訪問、その他)。冒頭の言葉は、インターンとして働き始めて間もない頃、私のクライアントの1人である70歳半ばの女性が、苛立たしい面持ちで私に投げた言葉とそれに対するわたしの情けない返事である。

 みなさんは、日頃、ソーシャルワークに限らず、困難なことにぶつかった場合、どのようにしてそれを乗り越えておられるのだろうか?人それぞれ色々な解決法があると思われるが、冒頭で、言葉〔英語〕を使ってクライアントとうまくコミュニケーションがはかれず、来米早々、いきなり難題にぶつかった日本人ソーシャルワークインターンは、一体、どうしただろうか?

 まず、みなさんのご想像通り、彼女は自己嫌悪に陥り「あー、やっぱり、知識も英語力もろくにないくせに、NYでソーシャルワークなんて所詮、無謀な考えだったんだ!」と家に帰って泣いた。しかし、あきらめの悪い彼女は、すぐ泣き止み、「英語ができないのは、現在のわたしの“単なる弱点”に過ぎない!」と認識し、その弱点をカバーする方法をいくつか考えてみることにした。英語の勉強をもう1度やり直すことはもちろん、それに加えて、「弱点をカバーするために、自分の長所を探してそれをうまく使えないかな?」と考えてみた。

 「自分の強みと弱み」について尋ねられた場合、みなさんはすぐ答えられるだろうか?どちらかはすぐに答えられるけど、もう一方はすぐに浮かんでこないな…とおっしゃる方が多いのではないか?私自身、当時、自分の「弱点」については色々リストアップできた。「英語がヘタ」、「社会福祉に関する知識が少ない」、「怠け者」、「浪費家」、「お調子者」、「無計画」「ネボスケ」…挙げ始めたら切りが無かった。しかし、長所となると、とたんに手が止まった。あまりに浮かばなかったので、結局、1番仲の良い友人に尋ねた。すると、その友人は意外な点を指摘した。「いつも、人の話を一生懸命聞こうとしている」「相手の気分を和らげる〔落ち着かせる〕明るい雰囲気を持っている」、この2点が彼女の挙げたわたしの長所であった。少し照れくさかったが、彼女のコメントで気を良くした私はもう1度、自分自身で自分の長所を探し始めた。すると、今度は自分でも長所(?)をみつけることができた。「粘り強い」「度胸がある」「スキンシップに抵抗なし!?」である。この5つの長所を自覚したとき、わたしは自分の中に大きな自信を感じ、「よし、私はNYでも頑張ってやっていける!」と確信した。

 現在、ソーシャルワーカーとして色々なタイプの高齢者と日々、関わっている。中には機関銃のように自分の要求を訴えてくる人、昔の思い出をえんえんと語っていくだけの人、明日の食事も困るほど金銭面でせっぱつまり、怒りを私にぶつけてくる人、耳が聞こえないため筆談でやりとりする人、あるいは、目が見えないまま1人暮しをしている95歳の高齢者など、本当に様々である。2年経った今、わたしはインターンではなく正社員として現在の職場(the Burden Center for the Aging, Inc.)で働いているが、いまだに英語との闘いは続いている。困難なケースにぶつかったときは、自分のソーシャルワーカーとしての経験、知識の少なさ、語学力に関するコンプレックスが、以前にも増してわたしに大きなプレッシャーをかける。しかし、そんな時は常に、ひと呼吸おいて「何故、これを困難と感じるのか?今の自分の強みと弱みは何だろう?どうしたら、わたしはスムーズに仕事ができるようになるのか?」「わたしに、今、出来ること、出来ないことは何だ?私に出来ないことは誰に聞けばいいんだ?」などといったことを落ち着いて考えるようにしている。すると、クライアントへの対応も、以前のようにビクビクした態度ではなく、余裕を持って出来るようになってきた。クライアントに不安な気持ちを与えないためにも、ワーカー自信の精神面をしっかり落ち着けておくことは非常に重要であるとわたしは考える。

 この2年間、わたしはソーシャルワークを通して色々なことを学んでいるがその中でもわたしがいつも忘れないようにしていることは、常に自分の強み弱みを認識しておくことである。そして、困難にぶつかったときなどに、自分の強み弱みを振り返り、ベストな選択ができるように心がけている。困難を困難としか捉えないか、あるいは、それを次の自分の成長へのステップと捉えるかは全て自分自身の気の持ちようであるとわたしは思っている。そして、これはソーシャルワーカーだけでなく、どんな仕事をしている人にも共通して言えることではないかと思う。

 2年前のの私の課題(困難)は、乏しい英語力と社会福祉の知識でソーシャルワーカーとして働きはじめることだった。みなさんが今、仕事をしていく上での課題は何だろうか?そして、みなさんの強み弱みは何だろうか?もし、答えられなければ私のように何でも遠慮なく言ってくれる友人あるいは家族にでも尋ねてみると意外な自分の一面を知ることが出来るかもしれない。

最後に、あるひとから頂いたメッセージをみなさんにも紹介したい。このメッセージはわたしが、ソーシャルワーカーとしてNYでやっていく自信を失ったときに頂いたものである。非常に勇気づけられた言葉であった。
「言葉は単なるテクニカルな問題に過ぎない、努力すればそのうち解決する問題だから対したことないよ。大切なのは、耳をしっかり使って、相手が何を言おうとしているのか分かろうとする姿勢を持ちつづけることだよ。耳というのは、単なる“耳”だけでなく、あなたが使えるもの全てのことを指すんだよ。」- Mr. Chen- 30年間ニューヨーク市に勤めたケースワーカー。彼自身、中国からの移民であった。






高齢者問題と若者の関心

 大統領選の第1回ディベートがボストンで10月3日行われた。いくつかの問題について両大統領候補が声高くそれぞれの政策をのべていた。様々な問題が取り上げられていたが、そのうち、高齢者関連問題が占める割合は比較的大きかったように思われる。これは恐らく、日本同様、米国においても今後、高齢化が進み医療費や年金給付など、深刻な問題が生じてくるからであろう。
 わたしが気になったのは、このディベートの後に放映されたコロンビア大ロースクール学生のインタビューの様子である。ニュースレポーターは、若い世代の関心の多くは、中絶問題、環境問題にあると報じていた。確かにこの放映を通して学生達の関心が特に高齢者関連問題に注がれているという印象は私は受けなかった。
 実は、大学院でソーシャルワークを学んでいるときにも同じようなことを感じた。同じ、ソーシャルワーカーを志すものでも、高齢者問題に関心をもつ学生の数は、他の分野に関心をもつ学生よりも明らかに少なかった。(彼らの関心の多くは、幼児の問題、青少年問題、ゲイ・レズビアン擁護問題などに注がれていた)また、実地研修以外で、高齢者問題を取り扱う授業が思ったより少なく、落胆したのを覚えている。
 しかし、卒業後、実際に、日々ソーシャルワーカーとして、ケースを扱っていると、アメリカにおける高齢者の医療、介護費用問題の深刻さを身にしみて感じる。とくに、収入、資産審査でメディケイドの対象にならなかった高齢者は、特に深刻である。また、金銭面のみならず、独居老人数が増加していく中、高齢者の精神面でのサポートも大きな課題として感じる。これらの実状と今後の人口動態を考えても、もう少し、アメリカ人若年層の高齢者ケアに対する関心が高まってもいいのではないかと思う。
 それと比較して、日本では、高齢者に対する関心は随分高いほうだと思う。特に最近は、4月から導入された介護保険制度導入の影響も大きいと思うが、基本的にわたしは、やはりこれは、日本の「「敬老精神」」が大きく影響しているのではないかと思う。「敬老精神」は、日本人のもつ素晴らしい精神であり、世界に自慢できるものだと私は信じている。わたしは今後も、この精神を我々の親が我々に伝えてきたように、私たちも次世代にも伝えていく義務があると強く感じている。
 しかし、先日、ある書物を読んでいて“「安くてもよいから働きたい」という人が絶えず〔福祉・介護分野に〕参入し、絶えず人件費を押し下げる方向に働く。”という気になる記述があった。つまり、「敬老精神」をもった人々は、高賃金を期待して職を求めているわけではなく、給料が安くてもその仕事をしたいからこの分野にやってくるということで、結果、賃金の向上につながらないということであろう。
 この記述を読んで、“なんだか「敬老精神」を逆手にとられている?”と感じたのはわたしだけだろうか?確かに、福祉を目指すひとがか給料の問題でうるさくいうのは福祉のイメージとしてあまりいいものではない。しかし、このイメージ自体がわたしは、なんだか間違ったすりこみのような気がしてならない。(福祉に携わる人間だって給料は少しでも高いほうがいいに超したことはない!)
 先ほど、高齢者福祉に関心をもつ若者の数はアメリカの若者に比べ、日本の方が多いと感じると述べた。しかし、わたしはそこから更に、その「関心」を実際に自分の「仕事」に結びつける人物が一体、何人いるかということに非常に関心をもつ。もし、この数が、少ないとしたら、その原因は一体、どこにあるのか?
 わたしの、大学時代の就職活動をふりかえってみて、学生が自分の仕事を決める際、何をキーとしたかを思い出してみた。答えは2つでてきた。それは、給与額とやりがいのある仕事かどうかということである。もし、このどちらかに自分が満足できなかったら、その仕事を選ぶのを正直言って躊躇するだろう。もし、母親が介護で苦労する姿をみた学生がそれをきっかけに、福祉の仕事になんとなく興味をもち、その道に進んでみようかなと思ったする。しかし、調べてみて実は福祉の仕事が他職種と比較して、その待遇がかなり低いと知ったら、恐らくこの学生は考えを変えてしまうかもしれない。関心を持っていても待遇面を考えて、その職につかないことは十分考えられるし、こういったことは恐らく実際に起きているのであろう。面白いことに、アメリカでは全く正反対のケースを目にすることがある。つまり、特に高齢者福祉にそれほど興味がなくても、ケースワーカーとして2−3年働いて、お金を貯めて、その後、弁護士を目指してロースクールや心理学者になるために博士課程に進むといった具合である。このようなケースは決してまれではない。なぜなら、アメリカではソーシャルワーカーという職種が世間に十分認知されており、門戸も広く、給与も決して他の職種と比べ低すぎるということはないため、比較的アクセスしやすい職種だからである。
 今後、介護や福祉の人材不足をいかに解決するかが、今以上に大きな問題となるであろう。様々な解決方法が考えられると思うが、わたしは、高齢者の介護や福祉問題は身体的な介護だけでなく精神面でのケアーも深く関わっている以上、「敬老精神」を持った人々が満足した待遇のもとでのびのびと働けるような環境を他人に頼らず、自分たちで積極的につくりあげていく必要があると思う。そのためには、@若い世代への「敬老精神」の受け継ぎ(世代間交流の充実、関心をもたせるきっかけづくり)、A介護、福祉関係者の世間への認知度の向上、B福祉従事希望者への門戸を広げる(資格取得必須などの条件の緩和)、C給与額向上のための運動などに力を注いでいく必要があるのではないかと感じている。
 アメリカにいて、日本人の「敬老精神」の良さをあらためて実感しているわたしにとって、その日本人の長所がうまく活かされず、介護や福祉における人材が不足しているのは非常に残念に感じている。このような状態を一刻も早く改善するためにも、帰国後、上記に掲げた4つのポイントを活動課題として高齢者福祉の場で活躍していきたいと思っている。

<略歴>
1967年生れ。愛知県犬山市生まれ。名城大学薬学部卒業後、製薬会社に7年間勤務後退職。その後、国際医療リサーチャー、調剤薬局薬剤師を経て、さまざまな事情により高齢者福祉に関心を抱き、米国留学を決意。98年、ニューヨークに渡り、ソーシャルワーク修士課程を修了。在院中、ニューヨークの高齢者福祉サービスセンターおよび包括的医療施設、日米社会福祉サービスセンターなどソーシャルワークインターンとして働く。2000年7月より、非営利団体である高齢者福祉組織、The Burden Center for the Aging, Inc.に勤務。ソーシャルワーカーとして高齢者の福祉サービスに携わる。






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