黒澤・幻の企画『松風三十郎』?


 『用心棒』と『椿三十郎』で三船敏郎が演じた浪人・三十郎は、黒澤の生み出した数々のキャラクターの中でも最も人気の高い人物の一人だ。腕っ節が強く痛快な活躍を見せるばかりでなく、とぼけたユーモアも兼ね備え、それでいて心の奥底にはやさしさを秘めている。その人物造詣には、三船自身の個性も反映されており、まさに三十郎・イコール・三船ともいえる当たり役である。『用心棒』は1961年(昭和36年)に公開され、その大ヒットで東宝から続編を要請された黒澤は、もともと堀川弘通のために脚本化していた山本周五郎原作の『日日平安』を『椿三十郎』に書き直して映画化する。翌年公開された『椿三十郎』も大ヒットして、会社は更なる続編を要請したと思われるが、「三十郎」物はこの2作の後は製作されることはなかった。ただし黒澤が「三十郎」を主人公にした続編を検討していたことは以前から関係者により証言されていた(出典が思い出せないのだが)。
 2014年に出版された松田美智子著「サムライ 評伝 三船敏郎」には、その具体的な内容の一端をうかがえる記述があり、大変興味深い。松田(故・松田優作の元妻)は三船プロダクションの重役だった田中壽一(後にプロダクションから俳優を引き連れて独立)とのインタビューで、1965年(昭和40年)の『赤ひげ』以降、共同の作品がなく不仲説も伝えられている当時の黒澤と三船が実は親しい関係だった事実を示すエピソードとして、『椿三十郎』の続編の企画について語っている。それによれば、1976年(昭和51年)頃に黒澤が三船プロを訪問して、娘・和子の結婚費用の借金を依頼した(訪問時、三船は不在だった)。当時の黒澤は、前年の1975年に1年半に及ぶソ連での『デルス・ウザーラ』撮影を終えて作品を公開したところだった。借金の担保に何がいいかと黒澤は聞き、田中が三十郎の脚本はどうかと言うと、「それならあるんだ」と答えたという。以下は黒澤が田中に語ったアイデアである。
 ファーストシーンは、峠の茶屋である。沿道の遠くから「下に、下に!」という大名行列の声が聞こえてくる。やや、あって、大名行列の前に賊が現れ「お命頂戴!」と叫ぶ。だが、大名が乗っているはずの籠から、用心棒が出てくる。「何者だ」と賊に聞かれたとき、松かさがブァッと落ちてきた。三船演じる用心棒は、その景色を見て「松風三十郎」と名乗る。
 予算を聞くと黒澤の返事は5億円であった。早速田中は東宝に行き、黒澤作品の製作を多数手がけた藤本真澄に話をして、東宝が7億円を出資することになる。その時点で『赤ひげ』から10年近く黒澤は三船と映画を作っておらず、2人の久しぶりの作品となれば、大きな話題となる可能性が大きかった。また黒澤は『どですかでん』と『デルス・ウザーラ』をカラーで撮影しており、新作も当然カラーとなるだろうから、黒澤・三船コンビの人気娯楽作がカラーで復活となれば、興行価値も大きい。三十郎を演じることになる三船敏郎はどうだったか。1920年(大正9年)生まれの三船は当時50代半ばで、年齢的にはすでに「三十郎」どころではなかったが(『用心棒』製作時は40歳)、テレビでは時代劇に主演しており、まだまだ三十郎を演じることは可能だった。関係者の期待が大きく高まったことは想像に難くない。
 ところが、しばらくして出来上がった脚本は約束の「三十郎」ではなく、『乱』であった。(「全集黒澤明 第六巻」の年譜に『乱』第一稿の脱稿が1976年3月19日とあるので、時期はその前後だろう。)話が違うと田中が抗議すると、黒澤は「いや、今は、書きたくて仕方ないから書いてみたら、こうなったんだ」と言う。予算として黒澤は10億を提示したが、脚本の内容から20億か30億はかかると思われ(実際26億円かかった)、金額を聞いた東宝は製作を断った。この後、紆余曲折を経て、黒澤は『乱』実現のために、似たような戦国物の大作でより娯楽性の高い『影武者』を製作することとなり、「三十郎」の話は立ち消えになってしまった。
 結局実現しなかった「三十郎」続編であるが、製作されていたらどんな内容になっただろうか。上記のアイデア部分だけでは物語の核心は何も分からないが、想像してみる材料はある。
 まず三十郎が大名行列の籠に隠れるという設定から、内容は『用心棒』のようなヤクザものではなく、『椿三十郎』のような武家ものと考えられる。黒澤の語ったファーストシーンが物語本編と関係ない可能性もあるが(例えば、007シリーズのタイトル前のアクションシークエンスのように)、黒澤作品で、本筋と無関係の飾りエピソードが最初に描かれたものはない。ファーストシーンはどれも物語の本質に深く根ざしたものとなるのがその特徴である。それに主人公が「松風三十郎」と名乗りを上げる場面は見せ場であり、それが飾りエピソードのためではもったいなさすぎる。
 一方、このファーストシーンの面白さは大名籠から三十郎が出てくる意外性であって、ほとんど出オチといってもいい。シーンにインパクトがありすぎて、この場面の後で背景の事情を説明し物語の本筋を始めるのは構成上難しいだろう。黒澤作品の多くは必要な説明を冒頭でまとめて行い(『悪い奴ほどよく眠る』や『用心棒』など)、物語を始めるのはその後である。もしこの場面を用いるとしたら、ファーストシーンではなく『椿三十郎』のように序盤の中ほどの方がふさわしいだろう。
 次に作品のテーマである。黒澤は「三十郎」を書くと言いながら『乱』を書いた。『乱』は後に黒澤が「ライフワーク」と語るほど思い入れの深い作品となるもので、執筆当時の黒澤の頭を占めていたテーマが色濃く反映されていると考えるべきだ。『乱』の発想の発端は、戦国時代の毛利元就の三本の矢の教えをもし三人の息子が守らなかったらとの想像だったという。となると、それを江戸時代に置き換えれば、大名家の三人の息子をめぐる家督争いというテーマが浮かびあがる。三十郎が大名籠に入っていたことから、三十郎は三人の息子の誰かに肩入れするのではなく、家督争いに悩む大名のために、例によって自由な立場から争いを収めるために活躍するということではないだろうか。(あいにく『乱』にはそのような人物はおらず、家督争いは血で血を洗う悲劇を生むが。)三十郎の他の登場人物は、大名、三人の息子、大名の正妻と側室、息子たちの妻または婚約者、家老はじめ藩の重臣、家臣、領民、隣国の大名(または幕府隠密?)など、想像すればきりがない。黒澤作品に度々見られる「師と弟子」のモチーフ(三十郎が亡き師の墓に詣で、思い出を語るとか)や、後期から晩年の黒澤作品の底に流れる山本周五郎的テーマも反映されたであろう。ラストでは、悪者は退治され、三人の息子は力を合わせて領国を治めることになり、大名も安堵し(笠智衆あたりが適役か?)、それを見届けた三十郎がどこへとも知れず去っていく。そんな物語も可能性のひとつである。
 しかし現実の黒澤には『松風三十郎』は書けなかった。アイデアはあったものの、『トラ! トラ! トラ!』降板騒動、『どですかでん』の興行的失敗、『デルス・ウザーラ』撮影の苦労といった辛酸をなめてきた黒澤には、能天気な「三十郎」ものは書けなかったのだろう。そもそも黒澤ははじめから積極的に「三十郎」を売り込んだわけではなく、聞かれた質問への答えとして、構想のひとつだった「三十郎」を語ったにすぎない。話が進み始めたので黒澤も検討したが、結局は書けず、一番書きたかった『乱』を書いたということだろう。とはいえ、「三十郎」の続編というアイデアには、黒澤ファンはじめ多くの映画ファンを引きつけるものがあるのは間違いない。
 かつて作家レイモンド・チャンドラーの遺稿の冒頭一章を引き継いで、ロバート・パーカーが「プードル・スプリング物語」を書き上げたように、この黒澤のアイデアをもとに『松風三十郎』が書かれることはないだろうか。
 

参考:松田美智子著「サムライ 評伝 三船敏郎」文藝春秋(2014年)

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15年3月9日作成