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1200// (1999/04/02 13:27:45)
MAIL::いなば
高橋さんどうも、はじめましてかな?
大森荘蔵はそれでいいです。私以前の書き込みで「庄蔵」と書いた。はずい。
『哲学の迷路』に寄稿しているような、大森の薫陶を深く受けた人はだいたい広松にも影響を受けてますよ。名大をやめて浪人していた広松を東大駒場に呼んだのが大森だったと思います。東大に置籍していた人だけじゃなく、永井さんみたいな慶応とか他の大学にいた院生、ODも当然出入りしていたはずですね。
『はじめての分析哲学』のあとがきで大庭健氏は「本郷の倫理学教室に行くのは気が重くて、駒場の科学哲学に行くのが救いだった」と書いておられましたね。

1199//他の方のご意見(やや脱線) (1999/04/02 12:21:41)
MAIL::たかはし@DASACONスタッフ
>いなばさん
|他の方のご意見は?

そりゃあもちろん「差別的な物言い」についてはいなばさんの主張がもっともだと思いますが、うーん。
いなばさんの意見は、発言に際しての態度と言いかたの問題ですから、ここでの議論に対してはメタな発言なわけですよね。でも、それを今ここで展開してしまうと、元々の議論に対しては、いなばさんがまるで「枝葉末節にこだわって屁理屈をこねて自家中毒(?)」なSFファンを演じているように見えるかも、と思ったりします。もちろんそんな意図はないんでしょうけど。

(もちろん屁理屈ではないのは理解できますが、メタな議論を展開することが元々の議論を撹乱させるための高等戦術に思われたりするんじゃないかと。実際、#1197などでいなばさんが議論の内容だけではなく議論の進行についても意識的であることが示唆されてますし)。

>哲学とSF
で、さらに議論をそらしてしまうのですが……大森荘蔵(←この字でいいんですよね? これくらい変換しろよ>IME97)の影響を受けている人というのは「哲学の迷路」の執筆者とかだと思うのですが、広松渉の影響を受けている最近の人というのはどういった方々なんでしょう?

永井均はいくつか読みましたが、まさにこれこそ「魅力的な謎」と「論理のアクロバット」(といってもロジックが狂ってるわけではない)の実践というか、まるでSFミステリ:-) でした。

>溝口さん
バカSFと言えば、三浦俊彦「エクリチュール元年」の表題作なんてのもバカさ炸裂で楽しいSFでした。「文系向けバカサイエンス・フィクション」とでもいうべき? :-)
三浦俊彦も「虚構世界の存在論」とか、SF度の高い哲学(論理学?)をやってる人という印象があります。

>で、本題
に戻ると、私も「第三勢力」などとまるで「想像の第一・第二SF共同体」があるかのごとき振舞いを演じたりしているので、それなりに思うこともあるのですが、時間がないのでまた今度書きます。

1198// (1999/04/02 10:27:22)
MAIL::いなば
俺の差別理解が別に変わってなくて穏当であるってことの傍証になるかな?
労働経済学(日経文庫の大竹文雄さんの教科書が安くて手に入りやすい)の方では労働市場における性・人種差別についての古典的な理論として「統計的差別理論」ってのがあって、もう名前を見れば内容はだいたいおわかりだと思うけど、企業の採用行動において、担当者は別に差別するつもりはなくて偏見も抱いていなくても、労働市場における情報が不完全で、就職希望者についての判断材料が少ない場合、カテゴリカルな情報、たとえば人種集団とか性別集団についての統計的情報に頼っちゃう、というわけ。その結果、そのつもりがなくても、情報の制約のおかげで、きちんと個人を個人として見ず、カテゴリーとしてくくるという採用行動が実現し、人種・性差別が結果として労働市場においても実現する、っていうの。
で、いまの公共政策の方向ってのは、労働市場で十分に個人を個人としてみる余裕が企業にないってのは百も承知で、それでも無理矢理に、人種・性別と言ったカテゴリカルな情報を採用行動において用いちゃいかん、とやってるわけでしょ。これってある意味で(古典的な経済学の立場からすれば)非合理的なんだけど、たとえばアメリカとか一所懸命これでやってるわけですよ。

あるいはジョン・ロールズ『正義論』の「無知のヴェール」なんてのはどうでしょね? いかなる社会が公平な社会か、について適切に判断をするには、理性的な人間として生きているという以外の他の一切の自分の性質、置かれている状況を括弧にくくって忘れよ、ていう。(川本隆史『現代思想の冒険者たち ロールズ』講談社がわかりやすい。)

1197//とゆーかまあ (1999/04/02 09:54:23)
MAIL::いなば
どうして、「はあなるほど、世間ではそういう差別の定義があって、その規準でもって批判されることもあるんですか、勉強になります」とか、「なるほど世間にはそういう考え方もあるんですか、でもそれっておかしい、納得できないなあ」という風に議論をすすめないんですか三枝さん?
まあ、ここの趣旨には合わないけどさ。

1196//うーむ (1999/04/02 09:41:07)
MAIL::いなば
やはり三枝さん、根本的にわかってらっしゃらないんだなあ。
私は意図じゃなくて効果に、結果責任に焦点を置いている。別にこの辺は差別論のイロハで、私の独創や思いこみじゃないしね。
事実を指摘する言語行為の効果は、情報の発信だけとは限らないですよ。というか、そうじゃないことの方が普通。
まあ別に、このボードではあなたは、的外れなこと言っても深刻な人権侵害をやってるわけじゃないから、いいかなとも思うけど。
率直に言ってあなたは人権感覚が希薄だと思うけど、現実に悪いことしなきゃ、それはそれでいいもんねえ。
ま、あたしが間違ってる可能性だってあるしね。他の方のご意見は?

1195//おはようございます。 (1999/04/02 08:53:05)
MAIL::三枝貴代
大森さん、
すみません、あちらでの掲示板比較広告は止めさせていただきます。
ここにいらっしゃる大部分の方の論理的な話し方は、私には「納得しやすい」という個人的な好みにすぎないのだと、思っていただいて結構ですと、念のために。

いなばさん、
私は差別的な物言いをしたことはありません。ですから、反省する必要など、どこにもないと思っております。
私自身、白人と会って話すたびに、自分が「なんでも曖昧に笑ってすませる日本人」だなあと、実感することは多いです。兄にせよ、弟にせよ、仕事相手の米国人、中国人、豪州人と話すたびに「確かに、国民気質」というものはある、と言います。
差別とは、「違いがあるという事実を指摘すること」ではありません、「違いを理由に、特に意味もなく不当な扱いをすること」です。

1194//またながいよう (1999/04/02 08:49:36)
MAIL::いなば
ええと、ちょいと基本的なことを書きますと、これはピーター・シンガーが『実践の倫理』(昭和堂)で述べている例なんですが、たとえば性別によってとか人種によって、たとえば知能に差があるという事実があったとする。これが性差別とか人種差別を正当化するか? しない。なぜか? 第一に、そのような差はカテゴリー間の統計的なもので、「男なら・白人なら必ずこう」というようなものではない。そのような情報は、具体的な個人(ここでは知能)について判断する材料としては役に立たない。第二に、カテゴリー間であれ個人間であれ、そもそも知能の差が差別、処遇上の不平等を無条件に正当化するわけではない。なにより、特定の能力とか性質上の差が人格的差別を正当化する理由がない。これで問題ありますか? もちろん『人間の測り間違い』でのグールドのように、「知能」というスケール自体の意義を疑問に付すこともできましょう。

それからSFファンという「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』NTT出版)について考えてみましょう。宮崎さんが言うようにステレオタイプは外側から押しつけられるとは限らない。内側から自己定義として用いられる場合もある。と言うより、予め「外」と「内」の区別があるわけではない。ステレオタイプを用いたレッテル張りの所作、それは境界付け、線引きの所作であり、そのことによって初めて「外」「内」の区別が生じる。線引きの主体が自分を「外」におく場合もあれば「内」におく場合もある。そして絶えざる線引きの反復によって、ステレオタイプを具現化した実体としての集団ができてくる場合もあれば、単にイメージだけが神話的に強固になるだけで、生活実態の変容は伴わない場合もある。

さてここで、たとえば「SFファンってこうじゃん」との批判的コメントが発されたとする。その場合発話者は自分を「SFファン」の内側に入れている場合もあれば外側に出してる場合もある。
「内側」の場合、これは単なる自虐の場合もあれば、「自分の愛するSF界がこんなんじゃいやだ、なんとかしようぜ」の呼びかけの場合もある。
前者は省略して後者の場合のみについて考えよう。この場合、この呼びかけの所作は同時に、呼びかけの対象の内少なくとも何人かを同じ「SFファン」の仲間に入れようという所作に他ならない。
で、呼びかけられた場合、肯定的に「うん、あんたのいうとおりだな」と反応した者は自らを同じ「SFファン」の仲間として確認したことになる。
「何言ってんだい」と反発する反応はもう少し複雑で、第一に、その反応は最初の発話者の意図を、自分を同じ「SFファン」の仲間に入れようというものだと解釈し、第二に、その意図に従うことを拒絶して、自分を「外側」におく所作である。
「何言ってんだい」のケースは更に分化する。徹底した個人主義の立場をとってステレオタイプを終始拒絶する場合と、「SFってのは、SFファンってのはそんなもんじゃない」との反発をもっと大きな声で、他人への呼びかけとして行う場合。これに賛同する者が増えて新たな集団ができる。内ゲバのケースである。これによってとりあえず別々の「SFファン」ステレオタイプに基づく複数の「SFファン」集団ができる、と言えるが、「SF」の看板を取り合ってやり合い続ければ、その紛争自体が世界を「敵」「味方」「ギャラリー」に分ける一つの線引き行為となる。ここで最も重要な線引きは果たして「味方」と「敵」「ギャラリー」の間のものなのか、それとも「味方」「敵」と「ギャラリー」の間のものなのか? が興味深い論点である。
それからもちろん、この呼びかけに対して最初から単に他人事として処理し「へーそーなんだ」程度の反応しか示さない場合。これはそもそも最初から呼びかけを自分に対してのものとは受け止めない。発話者が自分に呼びかけたとは感じず、単に自分をギャラリーとして、終始「外側」にいるものと理解する。その場合も更に複数のパターンがありえて、あくまでも他人事として、発話者の発言内容や意図、態度に対していろいろな評価を下し、「なるほど鋭い意見ですねえ」とか「ちょっとひどい決めつけなんじゃないの」と批評する。
では今度は、発話者が自分を「SFファン」の外側においていた場合。やはり反応は複数通りありうる。もちろんまず最初に、自分を最初から「外側」におく場合がある。それから、呼びかけに素直に反応して反省する場合。これは素直に自分を「内側」におく。第三に、「何言ってんだい」と反発する。その反発にも二通りあって、「SFファン」という自己定義によって仲間、徒党を組むことはナンセンスだと考え、個人主義を貫く場合。それと、「SFってのは、SFファンってのはそんなんじゃない」と反論して、別の自己定義を押し出して抵抗する場合。
最後のケースでは、発話者の立場ってのはサイード的な意味での「オリエンタリズム」にかなり構造的に近くて、反発するSFファンってのは原理主義者ないし戦略的本質主義者ってことになりますか。
で、発話者が反発食らって、それに対して「いや、そういう人が多いと言っただけで、決めつけたわけではない」と弁明したとする。ただそのような弁明も、個人主義者に対してと、原理主義者ないし戦略的本質主義者に対してとでは、全く違った意味を持って来ちゃうのではないかな?
このボードでの三枝さんへの反発は、おおむね個人主義の立場から来てますね。私はそれを「SFファンという「想像の共同体」を内側からでっち上げるのはなんか気持ち悪いな」というかなり健全な感性の現れではないかと思います。

1193// (1999/04/02 06:01:01)
MAIL::いなば
>日本人が「白人は色が白くて、鼻が高くて、そばかすがあって、髪が茶色い」と言っても、たぶん白人は「そん
>な奴、俺の周りにはいないよ」と言うと思いますよ(笑)。

いまメルボルン在住なので、今度聞いてみましょうか誰かに。でも「白人」ってじゅっぱひとからげな言い方、問題だよなあ。

>日本人同士で比較すると「眼鏡をかけて、出っ歯で、おじきをしてまわる」日本人ってとっても少ないですが、
>日本人のいない地域にしばらく住むと、もう、露骨にわかるそうです。

全然わからないなあ。メルボルンはシドニーよりは日本人少ないはずなんだけど。それでも多い方に属するのかしら。
それにしてもギリシア人が百万もいるほかイタリア人もウクライナ人もごろごろ、その上中国人にベトナム人も当たり前、のこの街でその手のエスニックギャグはとても怖くて言えないなあ。人種・民族偏見がない、と言うか、少なくとも決して表には出さないという礼儀が徹底していてとても住みやすい街だし。

1192//ながくてごめんよう (1999/04/01 23:31:59)
MAIL::いなば
1187を読んでも三枝さんには全く反省が見られないようなので、少しきつい言い方をさせていただきます。

>「私は違う、ひとまとめにするな」と言われても、外部から見ると一つであることは確かなのでして。
>そんなふうに言われても、「オレは眼鏡をかけていないし、出っ歯でもないし、お辞儀をしてまわるわけでもな
>い。日本人はみんなそうだと言うのはやめろ!」と、外国人に絡んでいる人のようですね。
>こちらの返事として提出できる答えは、一つでしょう。
>「オレはあんたの話をしているのじゃない。どういったタイプが多いかの話をしているのだ

を、三枝さんは単なるたとえ話としてされているのではなく、

>日本人同士で比較すると「眼鏡をかけて、出っ歯で、おじきをしてまわる」日本人ってとっても少ないですが、
>日本人のいない地域にしばらく住むと、もう、露骨にわかるそうです。
>その意味では、SF好きの人とばかりつきあっている人に、SF好きの人の特徴ってわからないものかもしれま
>せんね。

とあるように、このような日本人についてのステレオタイプを振り回すことを居直って正当化しておられるのですから、確認します。

私は既にこう書きました。
>たとえその手のステレオタイプの記述内容が、たまたま事実だとしても、つまり、統計的に見てそういう性質を
>備えた個体が日本人という集団の中には、他の集団と比べたとき、有意に多い、ということが言えたとしても、
>その事実がつねに「日本人ってそうだ」という発言を正当化する訳じゃないですよ。たとえば、三枝さんも認め
>ているだろうように、そういう統計的事実をたてに、たまたま日本人であるある一個人に、「どうせあんたもそ
>うなんだろ」と言うことは、ただの差別発言でしかない。

三枝さんが「言ってもいないことを言っているように書かれた」とおっしゃっているのは、いったいどこなのか、ご説明がないので精確にはわかりませんが、愚考するに、「三枝さんも認めているだろうように」という但し書きがどこにかかっているのかが若干不明瞭でわかりにくかったために、「そういう統計的事実をたてに、たまたま日本人であるある一個人に、「どうせあんたもそうなんだろ」と言うことは、ただの差別発言でしかない。」を誤読して、「私はいなば個人をどうとも決めつけていないのに、決めつけたかのように書かれた」と怒っておられる、という解釈が可能ではないかと思います。
確認しますと、ここで私は「三枝さんもそのような決めつけが差別発言であることは認めているだろう」と述べているだけです。ところでこの「決めつけ」は、たとえ統計的に見て日本人にその手のステレオタイプを満たす個人が有意に多いとしても、許されるものではない、ということはおわかりですよね。
で、問題にしているのは、「オレはあんたの話をしているのじゃない。どういったタイプが多いかの話をしているのだ」という発言が、「オレは眼鏡をかけていないし、出っ歯でもないし、お辞儀をしてまわるわけでもない。日本人はみんなそうだと言うのはやめろ!」への反論としてどのような意味合いをもつのか、ということです。仮に「統計的にそういうタイプが多い」という事実が成立していたとしましょう。だからといってこのような発言が常に正当化され、許容されるというわけではない、と私は言いたいのです。
そもそも、このような事実についてたまたま日本人である一個人にわざわざ語るという文脈がどのようなものか、意図がどのようなものか、私には理解しがたい。国民性についての比較研究をしているならわかる。そこでは事実を記述するだけ、他に何の意味もない発言が十分に意味を持つ。しかもそもそもその場合は「オレは眼鏡をかけていないし、出っ歯でもないし、お辞儀をしてまわるわけでもない。日本人はみんなそうだと言うのはやめろ!」なんて文句自体が最初からお門違いの大ボケであり、責められるべきはその間抜けな日本人でしょう、普通は。
しかしそうではない場合には? たとえば罪のない茶飲み話のネタとしてこういうやりとりになってこの発言が出たとする。で、問題の発話者がただ単に事実を述べる以外の意図を全く有していなかったとする。しかし、それを聞いた日本人の方は相手の意図をどう理解すべきか、悩まないでしょうか?
まあ、いろいろな解釈の可能性があります。「この人はひょっとして、自分にとって何であれ新しい情報を得ることはプラスになる、とおもんばかってくれて、それで新しい情報をくれているのか?」それとも「この人はただ単に、意味もなく言葉を投げることによって、スキンシップ的な会話の継続をはかっているだけなのか?」あるいはそれどころか「この人ただ単に事実について知ってることを言うこと自体が好きで、こちらがどう思うかなんてお構いなしなのか?」……等々。でも、もっとありうべき解釈は、一種の邪推、つまり相手は単に事実を記述することが目的なのではなく、言外の意味を込めることこそがその本意である、というものでしょう。
で、問題はその言外の意味です。これもいろいろでありうるでしょう。その中で先に私が書いた二つについて、改めて説明します。第一に、本当は最初の「日本人はみんなそうだ」発言に「あんたもどうせそうなんだろ」的な決め付けが含意されていたという場合に、それをごまかすためのその場しのぎの言い逃れとしてのみ「オレはあんたの話をしているのじゃない」と言っているという可能性。そして第二に、「なるほどあんたはそうではないかもしれないが、同じ日本人として無関係ではあるまい。だからやっぱりそれはあんた問題でもあるんだ」とほのめかしている場合。それから第三に、今思いついたんですが、「なるほどあんたはそうではない、だから日本人の多数派のことをおれと一緒に安んじて他人事として話題にすることができるだろう?」というほのめかしの可能性もありですね。
第三の解釈の可能性について検討してみましょう。「安んじて他人事として話題にする」とはこの場合、話題が話題ですし、言われた日本人にしても最初は怒って絡んだんですから、やっぱり、日本人の多数派を笑いものにする、ということでしょう。で、切り替えされてこの第三の解釈をとって安心した、たまたま日本人である個人が、いっしょに日本人を笑いものにする楽しみにふけったとしましょう。これはやっぱり醜い、広い意味での差別あそびだと私は思います。たまたま日本人であるけれど、自分だけは違う、と思って他の日本人を差別している。しかし私はこれが醜い理由を、自分自身も日本人であるという事実を棚に上げているから、とは考えません。そんなこととは関係なしに、他人を偏見で見て笑いものにする醜さが問題だ、と思います。
で、改めて第一の解釈と第二の解釈について見ましょうか。第一の解釈をとるなら、文句なく相手は自分を決めつけて差別している、ということになります。第二の解釈をとる場合は、いくつかの対応の仕方があります。言われた日本人が、日本人という集団への帰属意識と責任感が強い場合には、「なるほどそうかもしれない」と考え込むかもしれません。しかし私は違います。関係はあってもそれはごく薄いものだし、責任は基本的にはない、と思います。そして、「同じ日本人として」なんていう奴は、日本人であろうとそうでなかろうと信用しません。
さて以上、長くなりましたが、ある外国人がある日本人に「日本人はこうだ」と言ったら「俺は違う決めつけるな」と反論されて「あんたのことを言ってるんじゃない」と更に応じた場合の「言外の意味」についての、日本人からの解釈の可能性をいくつか検討しました。問題は、最初の発話者である外国人の意図と、日本人の側の解釈とのずれです。ここで、外国人には本当にただ事実について語る意図しかなかったとしましょう。そして日本人の側は、それについて誤解しているのだとしましょう。どちらが悪いのか? 相手の意図をちゃんと組めない奴が悪いのか、それとも、誤解される危険のあることを無頓着に言う奴が悪いのか? ケースバイケース、と言うのが一番安全なのでしょうが、もう少し進みましょう。普通差別発言が問題とされるのは、発話者の意図のレベルではなく相手の解釈のレベルです。これは傷害行為などにおいて、たとえ過失であってもとにかく結果的に相手を傷つけた場合には責任が問われる場合と類比的に(あくまで類比ね。傷害行為は法ですぐ裁かれるけど、差別発言はとりあえずは関係団体に糾弾されるだけだし)考えることができるでしょう。あくまでもアクションを起こした側の責任が通常はまず問われます。
三枝さんは単なるたとえ話としてではなしに、日本人についてのステレオタイプを不用意に振り回したわけです。しかしここで具体的に「あんた日本人だからこうじゃん」との決めつけをしたわけでもないし、またそうとられかねないことを言ったわけではない。しかし、ステレオタイプ的な発言のやばさに十分気づいていない、という、いわば人権感覚の弱さを露呈したわけです。
その上で本来の文脈であった、SFファンについての話に戻りましょう。例のたとえ話の「日本人」を「SFファン」に戻して、「めがねで出っ歯でお辞儀」を「枝葉末節にこだわって屁理屈をこねて自家中毒(?)」に入れ替えればいいんです。それで、海法さんや柳下さんやきくちさんはまあ「私は違う、ひとまとめにするな」と苦言を呈して、三枝さんは「オレはあんたの話をしているのじゃない。どういったタイプが多いかの話をしているのだ」と言って切り返そうとしている。で、それって切り返しになるのか? と私は疑問に思う。つまり三枝さんの意図はどうあれ、先の第一、第二、第三の解釈の可能性が出て来ちゃう。私はそういう誤解(?)の危険は当然予測してものを言うべきだと思うんだけどな。それに本当に誤解なんだろうか。私はこの場合第二の解釈、すなわち「あんたらもSFファン仲間としてちょっと反省しなさい」はかなりきちんと三枝さんの意図を読んだものになると思うんだけどな。で、そういう物言いはナンセンスだと私は思う。
まあ宮崎さんみたいに「内側」なんてことを不用意に認めちゃう人もいるから困るんだけどね。そこんとこはっきり批判しますよ、宮崎さん。そういうステレオタイプの自己適用は「オリエンタリズムの鏡像としての原理主義」への道なのよ。ほほほ。
まあ、ことがSFファンの問題だから、ここで人権感覚云々の話をするのは大人げないだろうけど、同じ論法を「日本人とは」「白人とは」とかやったらこれはもう大問題すよ。くそったれ人権思想の徒である私としては愚鈍な左翼として振る舞う用意ありありっすよ。はい。

ええっと、参考までに、私のこの議論をではどうやって批判したらよいか? も申し上げておきましょう。私があげた三つの可能性を、それがあたかももっともありうべき解釈であるかのように論じた私の論法は恣意的であり、他にもこのような解釈の可能性が同じくらいもっともらしいものでありうる、と例示するのが早道でしょうね。

1191//科学コンプレックス? (1999/04/01 22:13:48)
http://www.ltokyo.com/ohmori/ MAIL::大森 望
>>三枝様

>特にSFが急激に売れなくなったように「見える」理由が知りたいので、SF特有の現象
>「科学設定にこだわる」が、理由の一つではないかと考えてみました。

そんなことはありません――と言いたいところですが。作家・出版社側が「SF」という呼称を嫌う理由の一つになってる可能性はありますね。
「科学的に正確じゃないとSFじゃない」という思いこみは、むしろ送り手側にあるのかも。SFを書いてるのに「SFを書いてます」と言わずに「SFっぽいものを書いてます」という作家が少なくない。編集者も「今度のはちょっとSFっぽいんですけど」とか。
ただしその背景には、「科学的にまちがっているというツッコミをSFファンから受けた」という過去の経験が横たわってたりするので。

「間違いを指摘された作家さんが、大変恥ずかしく思ったり、以後同じ間違いをしないようにむやみに神経質になるような部分」はたしかにあったでしょう。
その結果、とりあえず「ファンタジー」と言っておけばミスをつつかれずにすむだろうと、SFと名乗るのをやめたりとか。
でも、ミステリだってそういうことはいっぱいあるわけです。佐野洋の『推理日記』で警察関係、法医学関係のまちがいを指摘されるとか。
なのに科学の場合のほうがリアクションが強い感じがするのは、やっぱり小説家のあいだに科学コンプレックスが強いせいなのか。調べればわかるのはおんなじなのになあ。

ところで、細田さんとこの掲示板(http://web.topchoice.com/~ktsoft/bbs04/hosoda/brd01.htm)の議論は興味深く拝見してるんですが(ここの議論と微妙にパラレルなところもあったり)、こっちの掲示板と比較してどうこういうのはできれば勘弁していただけるとありがたいです。

関係ないけど、ここしばらくの議論を見てると、S派とF派とか、過去の歴史的なSF論争が思い出されて感慨深いことでした。昔は文系理系ってあんまり言わなかったんだよね、なぜか。

1190//売れるに越したことはないんだけど。 (1999/04/01 22:10:10)
http://www.ltokyo.com/ohmori/ MAIL::大森 望
>>浅暮さま

「マスで売れるのが(少なくともSFファンにとって)おもしろい小説」では必ずしもないことは明白でしょう。
「マスで売れるのがおもしろい小説 という幻想」ができあがってるわけじゃなくて、むしろ、「活字は文化であり、売れない本にも良書はある」というのが本好きのひとの共同幻想だと思います。その延長に、
「SFには独自の価値があり、売れる売れないはSFとしてのおもしろさに無関係。むしろ、たくさん売れるSFには、非SF読者に迎合的で、SFとしては満足できないものが多い」
みたいな考えかたがあって、梅原さんはその選民思想を、「売れるSFこそいいSFである」という極論で批判してるんだと僕は理解してます。

「売れているとしても3万や5万の部数の世界に、絶対なマーケティングはないはずです」
ってのはまったくその通りで、僕もSFを翻訳するときはそれ以上の読者層のことなんか全然考えてない(笑)
ただ日本SFに関しては、過去にミリオンセラーを記録した実績があり、現在でもマスで売れている日本SFは存在するのに、それがSFと呼ばれないのはなぜか、ってことが出発点なので。

カルヴィーノは『冬の夜ひとりの旅人が』がメタフィクションですね。考えたらそれだけなのか。
サーバーやボルヘス、カルヴィーノあたりは、ふつうはSFと思われてないでしょう。昔は、SFファンの守備範囲――というか、一般了解だった気がしますが、最近はどうなんですかね。ファンタジー系や現実密着系(サイエンスホラーとかサイエンスミステリーとか呼ばれがちな種類のSF)が「SF」から分離するのと同時に、文学系もどんどん分離している(最初から別物という考えかたもあるけど)ような印象もあったり。

1189//読者の分業 (1999/04/01 11:18:01)
MAIL::三枝貴代
浅暮三文さん、丁寧なお返事ありがとうございます。

浅暮さんのおっしゃるタイプの読者は、実際にずいぶんいるでしょうし、たぶんそうできる(「そうする」ではない)ことが、読書というものの本質的な喜びでしょう。
しかし多くの読者には、それだけの時間、読書冊数がとれないのも、実状です。
フルタイムで勤めを持っている人間は、年に50冊の小説を読む(「本を50冊読む」のではない。小説以外の本も読みたい)のが、おそらく物理的な限界だろうと思います。それに対して、小説の出版点数は、あまりに多い。
その場合、ベストセラーリストのような売り上げ冊数的データは、「制限のある状況下で、はずれをひく可能性を低下させる」という意味において、常に重宝されつづけるだろうと、私は思います。

売上冊数を参考にする以外で、はずれを減らそうと考えるなら、私なら「自分のカン」よりも、「書評家」や「マニア」の意見を重視します。
私はそれを、人間の社会の根本「分業体制」と、考えているのです。
自分の好きなジャンル(もしくは好きな作家の本)は、全部読み、その情報について正直に他者に伝えます。それを聞いた他者は、こちらの読んだ本の内、「これはおすすめ」と言われたものだけを読むようにするのです。逆も同じ。自分が得意でない分野に関しては、いわゆる「通」の人が特におすすめしてくれる一冊のみを読むようにするのです。
今の時代、読書を効率よく進めるには、この方法しかないでしょう。
その場合には、いわゆる「通」の人、プロの書評家やマニアとして長い人が、すすめる本を間違ってしまたら、その分野の衰退がおこってしまう可能性も否定できないと考えるわけです。
SF作家・青山智樹さんは「自分は賞は重視していない」とおっしゃってらっしゃいますが、その意味で、私は全くの逆なんですね。私は「文学賞」とは、その分野に詳しい、要するに「通の中の通」の「おすすめの一冊」だと考えてしまうのです。
だからやはり、読んでみたい。

もちろん、浅暮三文さんはきっと、読書を「効率よく進める」という考え方などはなされないのだろうなと、了解させていただいている上での、よけいな感想なんですが。

1188//SFバカ本 (1999/04/01 10:45:39)
MAIL::T.Mizoguchi
溝口@書物の帝国です。

SFバカ本については別のところで色々と感じたことを書いたのですが、
バカの意味をなんだか取り違えているのではないかと。牧野修さんの
「踊るバビロン」とかオッケーなんですけど、下ネタ=バカというのが
定義なのかな?SFエロ本まではいかないですけど、あれはちょっと
人には薦められないなぁ。

1187//日本人論関係(笑) (1999/04/01 09:03:34)
MAIL::三枝貴代
RE:1177 ヌケサクさんへ、
》ぜんぜん求められてなくても売れてしまうってえのが世の中っていう気がせんでもねえーっす。

人はなぜ、そのように「金をどぶに捨てる」ようなことをするのでしょうか?
私なら、どうせなら、自分が好きな物に捨てたいと思ってしまうので。

RE:1178 いなばさんへ、
》「言ったつもりはないがそうもとれることを指摘する」つもりでありましたが。差別発言のケースと同じですが、発言者の意図がすべてではありません。「そんなつもりではなかった」ではすまない場合もございます。

ということは、ご自分が「言ってもいないことを言ったように書いた」という御自覚はおありのようですね。
差別より、冤罪の方が、人権侵害としては、より一層悪質だと思います。

RE:1179 須藤さん、
日本人が「白人は色が白くて、鼻が高くて、そばかすがあって、髪が茶色い」と言っても、たぶん白人は「そんな奴、俺の周りにはいないよ」と言うと思いますよ(笑)。
日本人同士で比較すると「眼鏡をかけて、出っ歯で、おじきをしてまわる」日本人ってとっても少ないですが、日本人のいない地域にしばらく住むと、もう、露骨にわかるそうです。
その意味では、SF好きの人とばかりつきあっている人に、SF好きの人の特徴ってわからないものかもしれませんね。
1171で宮崎さんがおっしゃってらっしゃいますが。

1186//東京創元社ウェブサイト (1999/04/01 08:45:44)
http://www.tsogen.co.jp/ MAIL::大森望
ここ↑です。
SF系のコンテンツはまだあんまりありません。
検索機能も実装されていない模様。
htmlデザインにはやや文句がありますが、とりあえず無事オープンしたのでめでたい。

1185//第20回ニュージーランドSF大会 (1999/04/01 05:55:00)
MAIL::宮崎恵彦
これから、こちら(NZ)の年次SF大会(下記URL参照)に行ってきます。
http://conquest2.sf.org.nz/

今年のゲスト・オブ・オナーはアラン・ディーン・フォスターだそうですが、去年がニール・ゲイマンで、おととしがパット・キャディガンだったことを考えると、この国のSF者の嗜好を把握するのは、なかなか難しそうです。

考えてみれば、この「SF大会」というのも、外部にはなかなか理解しがたいSFファンの習俗なんでしょうね。

1184//浅倉様 (1999/04/01 05:17:15)
MAIL::いなば
浅田氏は東浩紀氏の登場をもって「『構造と力』は過去のものとなった」とおっしゃってます。東氏のデリダ論は優れた業績ですが、多くの弱点もあります。
私としては浅倉さんと全く反対に、ここ10年でようやく日本において、横のものを縦にする「お勉強」や、いたずらに深遠ぶって相手を煙に巻くのでもない、論理と言葉を大切に一歩一歩思考を紡ぐ哲学の営みが文化として定着しつつあると思っています。
要するに今はなき広松渉、大森庄蔵の薫陶を受けた世代が学界の中核をになうようになって、随分雰囲気は変わってきたということです。

1183//展開その二 (1999/04/01 05:00:06)
MAIL::浅暮三文
現代では哲学が死んでしまったとの記述は確かに言葉足らずでした。
ここ十年、日本では隆盛ある哲学がなかったと書き加えます。ちょ
うどSF冬の時代と同期する年月でしょうか。それはSFに限らず、他
の小説についても同じことでしょう。加えて後述すればメタフィク
ションを受け入れてくれたのは、【日本では】SFのファンしかなか
ったと書き加えておきます。永井氏については未読ですが、確か
「逃走論」以降の浅田氏をして「逃走論」はここに終わったといわ
しめた作品ではなかったかと。いずれにせよ、哲学でありテーゼで
ありが、ここ十年、大きな意味あいをなくしていたのは正しくはな
いでしょうか。ついで三枝さんのご意見に補足します。たくさん売
れるということが、たくさんの人に求められ、必要とされており、
本屋で棚にある本を適当に買うよりも、ベストセラーリストに登っ
た本を買った方が、面白い物に出会える確率が高いと思えるとのご
意見ですね。確かに確率論としてはその方が、おもしろい本に出会
えると思います。しかし確率から漏れている本も存在しています。
SFは得てしてここに入る場合が多いのではないでしょうか。それは
本に対するバックアップの違いとも思われます。しかしゴッホの絵
は生前は誰にも認められなかった。若い頃のディレーニのように。
でも現在は、あれほどの大家、名作として認知されている。そして
本を読むという行為はマニアックであり、ミニコミュニケーション
であり、本好きは常に活字の迷宮を探索し続けるものではないでし
ょうか。より自分にぴったりの本、自分にフィットする表現者を探
し続けて、作家を消費しているように思います。そこには確率的な
意味あいよりも、好みといった極めて自覚的な参加行為や心理が存
在すると思います。その意味で作家と読者は出版という市場で同じ
位置にいるのではないでしょうか。送り手と受け手が一線上に存在
するといえばいいのでしょうか。三枝さんのご意見はマスの持つ良
い面の効果を取り上げられているのだと思います。確かにたくさん
売れることで良い本が、一層、効果的に多くの人の手に取られる効
果も否定できません。だから、ここからは私見です。論理はまたの
機会に組み立てて、展開させて下さい。さて僕にとって本を買う行
為は、ある程度、博打です。財布の中の千円プラスアルファのお金
を払い、その本が自分の狙った当たり目かどうか試している部分が
多いです。 そのとき、読者は、本の購買者は、作家も含めて、すべ
からくその本に対する評論家になっている。本屋で棚にある本を買う
行為に対して、競走馬にある程度の予測を立てて、タイトルや作者を
睨み、内容をさらっと立ち読みして、競馬新聞の予想と同じように直
線一気か、重馬場に強いか、実験小説か、ハラハラドキドキのエンタ
ーテインメントかを予測しながら馬券を買っている、それと同じこと
を私はしています。つまりおもしろい小説との出会いは僕にとっては
、発掘行為です。自主的な参加行為で、ベストセラーリストを辿る行
為ではありません。あくまで個人の行為ですが。 グレ拝
追伸、いなばさんの国民国家論については機会を見て記述させていた
たぎます。

1182//「SFバカ本」の話 (1999/04/01 01:52:17)
MAIL::KIYO
細田様
ネタの出所、忘れました。すみません。
重版どれぐらいかかっているか、今度にでも調べてみます。

個人的には「バカ話」は大好きなんでけどねえ。
自分でもああいうのを書きたいくらいなので、文庫で出して
いただいてとってもうれしいんですが。
投稿とか受け付けてくれないのかなあ?

ま、それはそれとして。
私は「バカSF」でも「メタ言語小説」でも「ハードSF」
だろうと作品内で理屈が合ってればOKなのであんまり気に
しません。

あ、それから私は眼鏡をしてますが、海外に行くと中国人に
間違えられます。(;_;)

1181//ハードSFと生化学 (1999/03/31 21:12:59)
MAIL::海法 紀光
書き途中で投稿してしまいました。すいません。

>海法さんにとって、ハードSFと、そのほかのSFの評価基準が大きく変化する理由が、私的には理解に苦しむのです。

そりゃ、話の主眼がどこにおかれているかが違うからですよ。
たとえば「虚数」と「重力の使命」に同じ評価基準を当てはめるのは馬鹿馬鹿しいと私は思うんですが、三枝さんは当てはめるべきだと思うのですか?

>私は生物学系の研究者なので、ハードSFの物理法則の間違いに大げさに突っ込んでいる科学設定マニアが、えてして同じ本の、生物学的もしくは生化学的
>な間違いにとてつもなく無神経であることに、白けることがしばしばあるからです。

一つ目には、それはゲームのルールの問題です。物理系ハードSFにおいては、「物理法則を重視しつつ、嘘をつく」というゲームをやっているわけで、それ以外のところはルールと関係ないから気にしないわけ。本格推理とかで、トリックのリアリティには気を使っても、大仰な名前とか無茶な舞台設定の嘘臭さとかにはこだわらない(こともある)…というようなもので。作品にもよりますが、科学的に完璧なことを要求しているのではないのです。いかにルールを守りつつ、面白いことをするか?ってのが主眼な場合も多いんですよ。

んで、二つ目ですが、もちろん拘ってもいいし、「生化学なハードSFが読みたい」と言ったり、求めたりするのは問題ないし、そういう批判が今後の作品に役立つこともあるでしょう。いいんじゃないですか?

三つ目に、もちろん批判が成立する作品もあるでしょう。で、生化学的におかしいと批判するなら、作品ごとに、どこまで意味を持つのかってのを示した上でキチンと批判するとか、あるいは個人的な見解にとどめておくのかするべきでしょう。
で、そこで問題のあるハードSFを仮に全部取り去ったとしても、生化学的な側面があんま関係ないハードSFも山ほどあると思うんですけど。「楽園の泉」って、何か生化学的に問題あります?別に自殺するほどのことじゃないでしょうに。

1180//ハードSFと生化学 (1999/03/31 20:56:15)
MAIL::海法 紀光
海法さんにとって、ハードSFと、そのほかのSFの評価基準が大きく変化する理由が、私的には理解に苦しむのです。


私は生物学系の研究者なので、ハードSFの物理法則の間違いに大げさに突っ込んでいる科学設定マニアが、えてして同じ本の、生物学的もしくは生化学的
な間違いにとてつもなく無神経であることに、白けることがしばしばあるからです。
ゆえに私は、「ハードSFであろうとも、科学的正確さにこだわるのは自殺行為」と、あえて言いたいです。
ごめんね。

1179//眼鏡出っ歯おじぎマン (1999/03/31 20:39:18)
MAIL::須藤玲司
あのー。わたしはこれまでの人生のなかで、直接にはおそらく数千人のひとと出会ってると思いますが、眼鏡をかけて出っ歯でやたらお辞儀をしてまわる人ってのは、思い返しても、せいぜい十数人ぐらいしか浮かばないんですが。忘れてる人を合わせても数十人ぐらいでしょう。

眼鏡かけてるひとはいくらでもいるし、お辞儀をするのも日本の社会慣習からいってあたりまえですが、「出っ歯」という条件は意外に厳しいですよね。人口の何%が出っ歯なのかは知りませんが、出っ歯でも眼鏡かけてないひとだって多いし。

そりゃ、欧米人からみると日本人の出っ歯の割合は多いでしょうし、唐草模様のほっかむりをした泥棒とかバナナの皮ですべって転ぶ人よりも統計的にずいぶん多いでしょうが、「日本人は眼鏡出っ歯お辞儀」とひとまとめにするのはやっぱり問題があるのではないでしょうか。
むかしオランダ帰りの帰国子女に「オランダ人ってみんな木靴はいてるの?」と聞いた友達が「あほ」とどつかれたこととか思い出しちゃったです。

まあ、たとえ話への揚げ足取りをするのもなんですが、あんまり不用意すぎるたとえを持ち出されると、どう読んだらいいのか困っちゃうので……。

ちなみに、マスコミへの露出だけをみると、眼鏡をかけている女性は、欧米人より日本人のほうがずっと少ないですよ、ええ。しくしくしくしく。
#しまった、へんな私情をはさんでる(笑)。

ところで、スラデック「遊星よりの昆虫軍X」って一大エンターテイメントの娯楽SFだと思って非常に楽しく読んだんですが、ひょっとして世間的ではそうじゃないのでしょうか。(^^;

1178// (1999/03/31 20:23:57)
MAIL::いなば
ええと、どの辺が「言ってもないことを言ったように書かれている」のでしょうか? やはり具体的に指摘していただきたいです。当方に落ち度があった場合は謹んで謝罪、訂正させていただきます。
私としてはどちらかというと「言ったつもりはないがそうもとれることを指摘する」つもりでありましたが。差別発言のケースと同じですが、発言者の意図がすべてではありません。「そんなつもりではなかった」ではすまない場合もございます。

1177//外部から見ると (1999/03/31 18:46:21)
MAIL::ヌケサク
「外部から見るとひとつだなんて目が曇っているからでは??」という反論は成り立たないんで? 日本人論も目が曇っているせいじゃあるまいかっつーのが大半な気がするし。多いといわれてもわたしのまわりにゃああんましいないし。偶然とか。

「マスに売れるとは求められているということ」なんてまるでSomethingELseをその音楽の質の高さゆえに求めている人しかこの世にはいないんだあ的な感じ。あくまでも感じです。ぜんぜん求められてなくても売れてしまうってえのが世の中っていう気がせんでもねえーっす。アルマゲドンもか?

1176//ごめんなさい (1999/03/31 18:30:14)
MAIL::三枝
さっきの発言、いなばさんの文章の引用が、下数行に残ってしまいましたね。ごめんなさい。

いや、あんまり見当違いな、言ってもいないことを言ったように書かれたもので、引用して、個別に反論しようかと思ったんですが。
文章全部が酔っぱらっていることに気付いて、その必要もなかろうと、止めました。

言っていないことには、訂正のしようも、謝りようも、考えの変えようもないです。

1175//いなばさんへ (1999/03/31 18:27:12)
MAIL::三枝貴代
質が悪いのは、いなばさんですね。なんか酔っぱらいに絡まれているみたいですよ。
「統計的に多い」なら、私の意見は間違っていないんですが。「多いのが問題」だと言っているのです。「いなばさんもどうせそう」などと、逆さに振っても、時間軸を曲げても、平行世界でもたぶん、言っていないことを理由に絡まれても、正直言って困りますよぉ。



「日本人ってそうだ」という発言を正当化する訳じゃないですよ。たとえば、三枝さんも認めているだろうように、そういう統計的事実をたてに、たまたま日本人であるある一個人に、「どうせあんたもそうなんだろ」と言うことは、ただの差別発言でしかない。

1174//後からつらつら考えるに (1999/03/31 18:15:58)
MAIL::いなば
>「私は違う、ひとまとめにするな」と言われても、外部から見ると一つであることは確かなのでして。
>そんなふうに言われても、「オレは眼鏡をかけていないし、出っ歯でもないし、お辞儀をしてまわるわけでもな
>い。日本人はみんなそうだと言うのはやめろ!」と、外国人に絡んでいる人のようですね。
>こちらの返事として提出できる答えは、一つでしょう。
>「オレはあんたの話をしているのじゃない。どういったタイプが多いかの話をしているのだ

海法さんも怒ってるけど、たち悪いなあ。
「外部から見ると一つである」ってどういうことですか? 俺って自分のこと実はSFファンとは思ってない。ロボットアニメ好きのゲームフリークと言った方がまだしも。純文学ファンでもないし。でも三枝さんの「外部」からはSFファンと「一つ」なのかしら?
と言うわけでSFファンたる当事者意識にかけている私としては、日本人として話をしてみましょうか。で、日本人は「外部から見ると一つである」って、どういうことでしょ? 日本語話して、日本風の生活様式してるから? 違いますね。在日外国人の人たちはどうなるんでしょうか? それとも何ですか、「血」ですか? 日本人特有の遺伝子でもあるんですか? ばかばかしい。さがしゃあるかもしれませんがね、それを見つけたところで何か意味ありますか? 結局日本人の同一性を保証するものって、日本国籍以外にないでしょう? で、そのことがどうして、たとえば「めがねで出っ歯でお辞儀をして回る」といった類のステレオタイプを正当化するんでしょうか? 関係ないよね、まったく。
たとえその手のステレオタイプの記述内容が、たまたま事実だとしても、つまり、統計的に見てそういう性質を備えた個体が日本人という集団の中には、他の集団と比べたとき、有意に多い、ということが言えたとしても、その事実がつねに「日本人ってそうだ」という発言を正当化する訳じゃないですよ。たとえば、三枝さんも認めているだろうように、そういう統計的事実をたてに、たまたま日本人であるある一個人に、「どうせあんたもそうなんだろ」と言うことは、ただの差別発言でしかない。
では、「オレはあんたの話をしているのじゃない。どういったタイプが多いかの話をしているのだ」の場合は? もし私が誰かにそんな風にいわれたら、「じゃあ何でそういう話を今ここでしなきゃいかんのだ、別に俺たちゃ国民性についての国際比較調査とかしてるわけでもないのに? ただの茶飲み話のネタとしちゃ下品じゃないか?」と切り返しますね。更にハラの中じゃこう疑いますね。「結局こいつは日本人に、そして俺にもしょうもない偏見を抱いているけれど、つっこまれたんで言い訳してるんだな」と。
あるいはそいつが言ってることにはこういう解釈もありうる。「なるほどあんた自身ははそうじゃない。でもあんたも同じ日本人である以上、同胞にそういう連中が多いことに無関係というわけじゃあるまい。ひょっとしたら、日本人にそういう連中が多いことには、その自分自身は一人ではないとは言え、あんたにもちょっとは責任があるのかもしれないぞ」とね。でもこれも私は言いがかりととりますね。無関係じゃないかもしれないが、責任はないすよ。そんなことまで責任おわされたらかなわんですよ、まったく。私は戦後生まれの日本人に第二次世界大戦の戦争責任はない、と考えてますしね。

1173//RE:1168 マスで売れる。 (1999/03/31 17:42:31)
MAIL::三枝貴代
》マスで売れるのがおもしろい小説という幻想が出

浅暮さん。
私には、たくさん売れるということは、たくさんの人に求められている、必要とされているといったことのように思えるのですが。違うのでしょうか?
本屋で棚にある本を適当に買うよりも、ベストセラーリストに登った本を買った方が、面白い物に出会える確率が高いように、私には思えたのです。

1172//こだわっているように見えるんですね (1999/03/31 17:10:18)
MAIL::三枝貴代
RE:1165 海法さん、
海法さんにとって、ハードSFと、そのほかのSFの評価基準が大きく変化する理由が、私的には理解に苦しむのです。
私は生物学系の研究者なので、ハードSFの物理法則の間違いに大げさに突っ込んでいる科学設定マニアが、えてして同じ本の、生物学的もしくは生化学的な間違いにとてつもなく無神経であることに、白けることがしばしばあるからです。
ゆえに私は、「ハードSFであろうとも、科学的正確さにこだわるのは自殺行為」と、あえて言いたいです。
ごめんね。

RE:1167 大森さん、
》「キャラにこだわる奴」とか「アイデアにこだわる奴」のほうが確実に多いでしょう

そういう奴は、ほかのジャンルのファンにもたくさんいるので、気にはならないのです。
特にSFが急激に売れなくなったように「見える」理由が知りたいので、SF特有の現象「科学設定にこだわる」が、理由の一つではないかと考えてみました。
他のジャンルでの似たようなこだわりは、歴史小説における「考証マニア」だと思います。
たとえば、ミステリマニアのトリックへのこだわりや、ヤングアダルトフェアのキャラ立ちへのこだわりなんかは、その小説内、小説のマニアの間だけに収めることができます。
しかし、SFの科学設定と、歴史小説の時代考証は、下手をすると、「一般教養上の問題」と考えられかねない性質を持っているので、間違いを指摘された作家さんが、大変恥ずかしく思ったり、以後同じ間違いをしないようにむやみに神経質になるような部分があると思うのです。

》「書評家がそこにこだわりすぎるとSF読者を減らす」ってことは多少あるかも。

そうですね。どんなにこだわろうが、それが大きな声で聞こえなければ問題がないわけで。
うーん。やっぱSFMとか、SFの通信上の会議室とかで、しみじみ物理公式とか書いていたのが、私のトラウマになっているのかもしれません。
「それ、面白いか?」とか、私個人は思っちゃったので。

1171//「SFファンは××である」 (1999/03/31 12:05:33)
MAIL::宮崎恵彦
しばらく留守をしていた間に、ずいぶんと議論が進展していますね。

思うに、むしろ重要なのは、「SFファンは××である」という言説の真偽ではなく、そのような言説がステレオタイプとして社会(というか、ふつうの小説読者やオタクのあいだですね)に流通しているかどうかということではないでしょうか。私としては、そのようなステレオタイプがどの程度存在するのか、そしてそれが「日本SF冬の時代」と関わりが有るのか無いのか、に非常に関心があります。

個人的印象としては、「SFファンは××である」というステレオタイプは、「ミステリファンは××である」や「魔女っ子アニメファンは××である」といったものに比べて、はるかに根強いように思えるのですが、私も内部の人間である以上、実際のところは良く解らないのです。三枝さんとは逆に、個々のSFファンと個々の作品についてしか語れなくなっていますので。

1170//ついでに (1999/03/31 09:35:54)
MAIL::いなば
大森さんとは同世代だから結構わかるなあその気持ち。ボルヘスとかガルシア=マルケスの名前を初めて知ったのは私の場合、『別冊奇想天外』のベストテン企画でのアンケートでの伊藤典夫氏の解答ですからね。バースの名はメリル『SFに何ができるか』からだし。古本屋を回って銀背をあさり、高いハヤカワの海外SFノヴェルズに涙し、集英社の『世界の文学』でボルヘスやザミャーチン、ブルガーコフを読み、部活や生徒会がなくて早く帰れた日はサンライズのアニメを見る、という高校時代であったことよ。
ちなみに『影武者徳川家康』を読んだときは日本SF最高の達成と思ったっすよマジに。久々に「センス・オブ・ワンダー」つー奴を感じました。
ところで浅暮さんの「現代では哲学は死んでしまった」というのはもちろん嘘ですね。現代ではアカデミックな哲学の方がよほど「センス・オブ・ワンダー」でございますよ。英米系に限ってもざっと思いつくところで、ロバート・ノージックのメタ・ユートピア論(『アナーキー・国家・ユートピア』)とかデレク・パーフィットの人格同一性論(『理由と人格』)とか。日本では永井均の<私>論(『<魂>に対する態度』)とか。(ちなみに永井氏も中高生の時代極度のSFファンだったそうで。)パトナムの啓蒙書『理性・真理・歴史』なんかも相当SFですよ。

1169//ユートピア文学とSFについては (1999/03/31 07:58:41)
MAIL::いなば
手前味噌ですがこちらに私見を述べてます。
http://www.e.okayama-u.ac.jp/~sinaba/ronza.htm
http://www.e.okayama-u.ac.jp/~sinaba/scifi~1.htm

1168//展開 (1999/03/31 04:21:06)
MAIL::浅暮三文
大森兄さんの胸を借りるつもりで討論を展開します。スラディックは
おもしろいではないか、だけでは反論にならないとのご意見は確かに
ごもっとも。感想に連動する小説の論理を展開せよとの命題だと受け
取り以下にディベートします。論点を根本に戻すとするならば梅原理
論における「エンターテインメント至上主義をどう捉えるか」に対す
るメタフィクションの立場の反論となるでしょう。確かに小説はおも
しろくなければ意味がないのは正解だと思います。しかしその小説の
おもしろさなるものは、くせものでして、必ずしも梅原理論のジュー
ヌ・ベルヌやコナン・ドイルのおもしろさだけに限る物ではないと感
じています。小説のおもしろさは常にドラマツルギーに縛られるしか
ない、とは少々疑問です。小説は本来自由な形式、散文であるはずで、
方法論は常に解放されているはずです。そして前者二人は本当にエン
ターテインメント至上主義の作家かと考えると私には疑問です。この
ログでいくつか文系にとって理解しがたいSFという言葉が生まれてい
るように、現在のSFに比べて、かつてジューヌ・ベルヌやコナン・ド
イルは実は文系の思想を根本に持っていたと思います。その神髄は社
会批判、つまりは哲学、テーゼ。SFは社会批判という文学的な側面、
つまり哲学を持ち、小松左京氏が「日本アパッチ族」に書いたように、
開口健氏が「日本三文オペラ」に書いたように、現代文明に鐘を鳴ら
す役割を担っていたように思います。その血脈がディックにも流れて
いるのでは。SF作家が作品中に秘めた思いとは実は、このような政治
的な、共同体に対する思考実験と言い換えてもいいと思います。ルー
ツには羊が人間を喰い殺すと書いた「ユートピア」にあるエンクロー
ジャーへの批判、「ガリバー旅行記」は帝国主義への批判。ところが
現代では哲学は死んでしまった。新たなテーゼを発見できなくなって
いる。「逃走論」以降、新たなテーゼが生まれていない。そこがおも
しろい小説についての論議を「エンターテインメント至上主義をどう
捉えるか」だけにしてしまっている根本だと思います。さてメタにつ
いての擁護を続いて。確かに言語実験小説やメタフィクションをSF
に含めるかどうかは問題です。しかしこれらの小説を受け入れ、それ
を世に提出したのはSF業界しかなかったのです。純文学でも駄目だっ
たのです。ここがSFの懐の深いところではないでしょうか。僕はルー
ツに「虹を掴む男」のサーバーを持っています。そしてマーク・トゥ
エイン「ヤンキー」も。どちらもSFだったのではないかと考えていま
す。そこにはおもしろいものは、おもしろいとしてセンス・オブ・ワ
ンダーを受けとめるSF業界もしくはファンの広い感受性があったの
ではないでしょうか。「面白いだけで良いじゃないかと素直に言えな
いSFファン」という言葉の裏に、マスで売れるのがおもしろい小説
という幻想が出来上がってしまっているのではないかと危惧します。
もちろん私の処女作は別として。しかし初めて小説を出版して、広告
業界にいた人間として感じたことは出版とは実は、ミニコミュニケー
ションだったのだということです。だって初版五千〜一万。重刷り
がかかっても何十万という世界は、新聞や雑誌の発行部数には及び
ません。テレビの視聴者数は言うに及ばず。注目率の違いは確かに
あるでしょうが、露出ではマスとはいいがたい。つまり売れている
としても3万や5万の部数の世界に、絶対なマーケティングはないは
ずです。それだけに自由なはずです。私は今、ペレーヴィンの書く
世界に注目しています。メタフクションはやっぱりおもしろい。

追伸:ボルヘスは別としても、カルヴィーノはメタフィクションでは
ないでしょう。僕はカルヴィーノは大好きです。しかしメタフィクシ
ョンには含まれないと思う。ただタツミさんがカルヴィーノをメタに
含めて、おもしろいのに、どうして受け入れてくれないのだと怒って
いる気持ちは、気持ちとしてなら分かります。(何故、怒るのかは分
かりませんが……)グレ拝

1167//科学設定にこだわる奴ふたたび (1999/03/30 23:30:04)
http://www.ltokyo.com/ohmori/ MAIL::大森 望
>>だって多いんですよ。科学設定にこだわる奴。
多いか少ないかで言えば、「キャラにこだわる奴」とか「アイデアにこだわる奴」のほうが確実に多いでしょう(SF系の個人ウェブサイトを30個ぐらいランダムに巡回してみればすぐ了解できると思います)。
どのみち、なんにこだわるかはひとそれぞれなので、他人に価値観を押しつけないかぎり問題ないんじゃないですか。

だいたい「××にこだわる」のは、特定ジャンルのファン(ミステリでもホラーでもエロゲーもやおいでも魔女っ子アニメでもTV時代劇でも)に共通するメンタリティです。
というか、「面白いだけで良いじゃないか」派のひとは、特定ジャンルのファンにはならないでしょう。だって、こだわりがないんだもん。
ジャンル的なこだわりが、そのジャンルのファンじゃないひとに理解不能なのはSFにかぎらないわけで。
「ミステリファン」「純文学ファン」「時代小説ファン」「ファンタジーファン」「ホラーファン」と比較して言うなら、「SFファンは他ジャンルのファンにくらべて、自分のこだわりを他人に押しつける率が高い」ととか「こだわり度が異様に高い」とか主張しなければならないのでは。

「科学の進歩がはやすぎるので小説の科学的正確性にこだわってもろくなことはない」説については、その説の当否はさておいても、どっちみち読者の側の楽しみ方の問題なので、SFの衰退には無関係だと思いますが。
「書評家がそこにこだわりすぎるとSF読者を減らす」ってことは多少あるかも。でも基本的に、コアな本格読者(あるいは書評家)の一部がトリックのオリジナリティにこだわるのとおんなじでしょう。あるいはコアなホラー読者がスーパーナチュラル性にこだわるとか。

「科学にこだわること」自体はジャンルに悪影響を与えないし、価値観の押しつけによって生じるマイナスは、すべてのジャンルに共通の問題だろうというのがぼくの結論です。


1166//メタ言語ふたたび (1999/03/30 23:29:04)
http://www.ltokyo.com/ohmori/ MAIL::大森 望
>>メタ言語
梅原さんがこの言葉で言ってるのは、要するに、「プロットやキャラクターを中心としないSF」のことじゃないですかね。だから「文系的に難しいSF」かも。
(そうするとディックが除外されちゃうけど、ディックを敵視してるのはなにかのまちがいか、最晩年の作品のみを念頭に置いているせいだと思う)
たいていの娯楽小説はストーリーテリングとキャラクターを主な娯楽要素としているので、そうでないものは大衆エンターテインメントではないと言うのは理解できます。
ぼくにとってSFの本質はキャラやプロットじゃないんだけど、そういう「本質」があると考えること自体まちがいのもとである、というのが梅原説なので、『虚数』を誉めたりすると怒られる(笑) いや、『虚数』かどうか知りませんが>誉めて怒られた作品。
その意味では、僕も、三枝さん言うところの「面白いだけで良いじゃないかと素直に言えないSFファン」ですね。「面白いだけのSFをきちんと評価できないSFファン」ではないと思ってますが。

したがって、スラデック面白いじゃん、とか言っても反論にはならないでしょう(いや、梅原さんじゃなくても、スラデックが娯楽SFだという人は少ないだろうと思うけど(笑))。

#「『バブリング創世記』は『ソリトンの悪魔』より売れてるじゃん」と言えば反論になるかも(笑)

しかし、小林さんの言うとおり、言語実験小説やメタフィクションをSFに含めるかどうかはまた別の問題ですね。
ボルヘスやカルヴィーノをSFマガジンで知ったぼくらの世代のSFおたくには、オレも含めて、そのへんもSFの仲間だと思いがちなところがありますが、非SF読者の了解を得られるかどうかは謎。

いずれにしても、梅原さんの主張は、SFという名称は「プロットやキャラクターを中心としないSF」にあげるかわり、プロットとキャラ(+ガジェットや疑似科学)のSFはサイファイとかサイフィクトとか名乗りましょうという話なので、前者のSFを愛する人にはなんの問題もなかったり。

1165//そりゃ科学にはこだわりますがね (1999/03/30 23:10:05)
http://www.amecomi.com/ MAIL::海法 紀光
わたしゃ、外国人によっては

>「オレは眼鏡をかけていないし、出っ歯でもないし、お辞儀をしてまわるわけでもない。日本人はみんなそうだと言うのはやめろ!」

…って文句を言いますけど、三枝さんは、そうしないんですか?

外部から見れば、SFファンの科学に対するこだわりは、作品の面白さを素直に受け止めることもできない連中が、偉そう重箱をつついて、延々、訳のわからんことをほざいてるように見えることでしょう。そりゃそうかもしれない。
だから、そう言われたら私は「実際はこんな感じなんだけどな?」と返すわけですが、それは事実を認めないことになるんすか?
SFファンの中に、割合として科学設定に「こだわる」人間が、非SFファン集合に比べて割合的に有意に多い、ってことなら誰も反対してませんって。

三枝さん、あなたは「科学的正確さにうるさいSFファンを批判する」と書きました。私はそれに対して、「科学考証にうるさいといっても、いくつかパターンがあり、全部一概に批判するのは間違いだ」と答えました。誰も、野尻さんを無かったことになんかしてません。

個々のSFファンと個々の作品について議論してほしいってのは、科学設定へのこだわり方が、それによって違ってくるからに他なりません。

ラファティが科学的じゃないからSFじゃないとか駄作だって評価を押しつけるSFファンがいたら、三枝さんが批判するのも当然だし、私だって批判しますよ。
んでも、ハードSFについて、スタンスを明らかにした上で、考証の吟味/批判をするのは私は当然の行為だと思うわけで、それを三枝さんが、一緒に批判するのなら、反対します。

三枝さんが、それをごっちゃにしたまま、どんどん話を進めるから、「個々のSFファン、個々の作品について語らないと意味がない」っていう議論が出てくるんですよ。外部からこう見えるってだけで、十把一絡げに批判するとしたら、そりゃあんまりでしょ?

1164//「SFバカ本」って (1999/03/30 21:46:41)
MAIL::三枝貴代
実のところは「SFエロ本」じゃなかったですか?
本当にバカだけの話を書いていたのは、火浦功さん(きゃ〜ぁ☆)くらいで。

1163//「SFファン」とひとまとめに言うのは (1999/03/30 20:56:41)
MAIL::三枝貴代
「SFファン」と、十把一絡に言ってしまうのは、もちろん「ミステリファン」とか「純文学ファン」とか「時代小説ファン」「ファンタジーファン」「ホラーファン」とかがいるからであって、それとの比較を想定しているからですね。
「私は違う、ひとまとめにするな」と言われても、外部から見ると一つであることは確かなのでして。
そんなふうに言われても、「オレは眼鏡をかけていないし、出っ歯でもないし、お辞儀をしてまわるわけでもない。日本人はみんなそうだと言うのはやめろ!」と、外国人に絡んでいる人のようですね。
こちらの返事として提出できる答えは、一つでしょう。
「オレはあんたの話をしているのじゃない。どういったタイプが多いかの話をしているのだ
だって多いんですよ。科学設定にこだわる奴。
野尻抱介さんをいないことにはしないで下さいね。良くも悪くも、ああいった作家さんが存在できるのが今のSFです。

だからその事実を認めて、考えて欲しいんだけど。
あるものを「無い」と言うのは止めて、さ。

1162//いんたるーど (1999/03/30 20:07:49)
http://village.infoweb.ne.jp/~fwht4814/ MAIL::ふーまー@電悩痴帯
SFなみなさん、はじめまして
むかしSFファン、いまはミステリファンのふーまーともうします。
ゆきつもどりつのSF論議楽しませていただいております。
むかしSFだと思って読んでいた「石の血脈」などの作品が
最近は別のレッテルで売られているので、私がむかし本当に
SFファンだったのかどうか自分でも疑問に感じているのですが。

このたびは、SFファンのみなさんに挑戦すべく書き込みさせていただきました。
私の管理するミステリサイト「電悩痴帯(Foomar's みすてり会館)」で、
現在、第6回ミステリクイズをUPしました。
今回のクイズにはSF的なアイテムが登場しますので、SFなみなさんにも
楽しんでいただけるのではないでしょうか?
われと思わん方はぜひぜひチャレンジしてみてください。
問題文はHTML、PDFのふたつのタイプでUPしております。
お好きなほうをダウンロードしてください。

いっときますけど、かなり難しいですよ〈おっ挑戦的(笑)〉。

こんなんSFとちゃう、とSFなみなさんにはお叱りを受けそうですが……。

1161//メタとその他 (1999/03/30 11:39:37)
http://www.inac.co.jp/~maki/result/99/ MAIL::たかはし@元みすりん
>小説大賞1999
実はすでに結果を発表しておりまして。URLは以下の通り。
http://www.inac.co.jp/~maki/award/99/result/

>みすりん&北大推理研
担当者変更そのほかのため移転したそうです。新URLは、
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4349/index.html
です。旧URLはいきなり使えなくなるかもしれませんので、
リンクの変更よろしくお願いします(_O_)

>メタ言語(的)SF
梅原さんは「メタ言語(的)SF」を「(梅原さんにとって)
意味不明な言葉が頻出するSF」みたいな感じで使っていて、
決して「メタフィクション」とも「メタ言語」とも直接の関係は
なかったように記憶しているのですが、違いましたっけ。

小林さんが言ってる講談社のそれはメタ(フィクションっぽい)
ミステリのことですよね? まあ叙述トリックで解決されてしまう
ようなものはともかく、一部はSFかもしれません。

#でも「作中作をちょっとひねってみました」程度の小説は
#SFとは思いたくないです。はい。

1160//『SFバカ本』に関する質問再び (1999/03/30 09:21:37)
MAIL::細田
>「SFバカ本」は元々のハードカバーをジャストシステムが出して
>ましたけど、ジャストシステムの業績悪化に伴い、出版部がなくな
>ってしまっていて、シリーズが続けられなくなっていたのを、
>廣済堂出版が文庫で再販したのです。

おお、それはどうも。そのことに関しては、どこから得た情報なんでしょうか? ジャストシステムは今年の2月にも一太郎・ATOK関係の本を出してはいるので、出版部の規模を縮小したか、傾向を変えたんでしょうね(SFが売れなかったため変えたのかどうかは不明ですが…)。

日本人の感性として、「泣かせ」のSFは売れるんですが、「笑わせ」のSFが売れた例を知らないんですよね。それから、「コンビニに置いてある」から「売れている」ということの証拠、というわけでも、必ずしもありません(本の場合は)。初版のばらまき具合よりも、重版のかかり具合のほうが重要だったりするわけで。

1159//メタ言語SFについて (1999/03/30 03:00:23)
MAIL::浅暮三文
討論を楽しく拝見してきました。ただ、メタ言語SFに分が悪い展開
になってきたようですので、発言させていただきます。過去のログ
でメタ言語SFは実験性が先に立って、小説のおもしろさは二の次に
しているといった発言がありましたが、本当にそうでしょうか。
私、バーセルミやスラディックなどの、いわゆる一般的にメタ言語
SFと思われる作家の作品はとてもおもしろいと感じています。彼らは
おもしろさのためにメタフィクションを選んだのであって、実験性の
ためではないのではないかしら。メタフィクションは概して実験性の
みを語られますが、本当は小説の楽しさのためにはなんでもやるとい
う姿勢の現れなのではないかと解釈していますが。また小説の実験性
が一概に否定されるのも疑問を感じています。実験性の目標が小説の
おもしろさに焦点されるとき、作品は初めて今までにない表現を得る
のではないでしょうか。ポルノでおなじみのウノコウイチロウ先生も
かつて早稲田文学でジョイス的ポルノを発表されていました。それは
二段組で上が男性、下が女性の段組みで、同時に同じ行為をどう感じ
るかを描いたドラマでした。おもしろかった。こんな楽しさはメタ手
法つまりおもしろさを見つめた実験でないと描き得ないと思います。
メタフィクションは決して新しい方法論ではなく、漱石の猫の原本で
あるスターンの「トリスタラムシャンデ」から続く、小説の一手法と
ご理解いたたぎたい。 グレ拝

1158//「SFバカ本」の売れ行き (1999/03/29 21:56:41)
MAIL::KIYO
to 細田様

「SFバカ本」は元々のハードカバーをジャストシステムが出して
ましたけど、ジャストシステムの業績悪化に伴い、出版部がなくな
ってしまっていて、シリーズが続けられなくなっていたのを、
廣済堂出版が文庫で再販したのです。
廣済堂文庫では井上さんの「異形コレクション」と、「SFバカ本」
はメインの売れ筋シリーズです。

嘘だとお思いであれば、近くのコンビニにでも行かれれば、この
2シリーズは置いてありますから。

あ、梅原さんちの近くのコンビニにはないかもしれない。
(↑わざわざ、喧嘩売るなよ。<自分)

1157//げ、またやっちゃったよ (1999/03/29 20:01:21)
MAIL::細田
オレの掲示板に書いたあとに、こちらに書くとヘマしちゃうなぁ。ということで、『SFバカ本』のセールスに関する質問発言をしたのは、ここの掲示板の管理人(大森氏)ではなく、「細田」です。

1156//『SFバカ本』って売れてたんですか? (1999/03/29 19:59:15)
http://www.ltokyo.com/ohmori/ MAIL::大森 望
版元が変わったのには、何かそれなりの事情があったのかな、と思ってたんですけど。

別にあれこれ言うわけじゃなくて、真実が知りたいだけですが。

1155//「SFバカ本」はSF? (1999/03/29 17:57:41)
MAIL::KIYO
「SFバカ本」が売れてる、ってことは、結局
「ごちゃごちゃいうより、作家が書きたいもの
をなんでも書いてオッケー」
というのが、読者に伝わったからだと思いますけど。

もちろん「狭義のSF」じゃないですけど、そう
いうのはこの論議には当てはまらないのでしょうか?
少なくともタイトルに堂々と「SF」と書いて売れている
んですけど。

1154//だってラファティはSFでしょ。 (1999/03/28 19:33:26)
http://www.ltokyo.com/ohmori/ MAIL::大森 望
海法くんがだいたい書いちゃってますが。

んーと、1パーセントと言ったのは「科学的に正しいものしかSFと認めない人」のことで、オレがそこに堺三保を含めていないことは(ふつうに読めば)自明。
自明なことがわかってないようだから、「被害妄想」と言ってるわけです。まあ、せっかく「偏屈おやじ」としてキャラが立ってるんだから、その方向で突っ走るのもいいと思うけどさ。

ちなみに「科学的にまちがってるからこれはSFじゃない」に類することを公言することはオレだってたまにあるわけ。『OKAGE』とか『ガイア伝説』とか。SF読み慣れてない人にそういうこと言っても理解してもらえないのは経験上わかってるし、言うだけ無駄どころか有害なんだけど、どうしても言いたい。なんでもSFでいいじゃん、って基本ポリシーとは矛盾してるんですが。したがって、あえて言う場合は「これはオレのSFじゃない」と言うようにしてますよ、と。

SFの科学考証について、「スタンスの差があるのを理解せずに一方的に批判する人」はきっぱりオレの敵なので、「切り捨てるような発言」をしてもべつに問題があるとは思いません。堺三保がキャラ萌え至上主義者撲滅を唱えるように、オレは科学的整合性至上主義者撲滅を唱えてもいいよ。
「ディックやラファティは科学的にでたらめだからSFじゃない」と言われりゃ、そりゃ戦いますわな。「『虚数』はキャラ萌えしないからSFじゃない」と言われたって戦うけどさ(笑)
しかし、あたかも大森が「科学萌え野郎撲滅」を主張したかのように受けとって過剰反応されても困りますね。
マック/ウィンドウズのアナロジーも、格闘技のアナロジーも、#1128でオレが書いたこととは全然違ってます。ていうか、書いてあることをちゃんと読めよ。

1153//ツッコミ体質 (1999/03/28 17:03:37)
MAIL::須藤玲司
科学やSFの話に限らず、論理が間違っているものを発見したら指摘したくなるのは人としてしょうがないことだと思いますが。特に論理を重視する作品の場合には。ボケられたらツッコミを入れないと失礼というか。
ってのはわたしがツッコミ体質だからなのかなあ。(おまえ言動はボケてばっかりやないか、ってのはおいといて)

少なくとも、世の中にツッコミ体質の人がいるのは事実だし、べつに困ったことじゃないでしょう。
理系のひとはツッコミをいれる教育を受けてることが多いですが、ツッコミ体質の素質自体は理系・文系をそれほど問わないかも。

それに対して「そんなのツッコむなよきっついなあ」と思う人もいるでしょうが、マジボケにツッコミを入れてくれる人さえいなくなったら、トンデモ化する運命が待ち受けてます。あ、この場合は「芸のボケ」と「マジボケ」をはっきり区別してくださいね。
芸のボケやホラ話は大歓迎で、まさにそれがSFの醍醐味ですが、マジボケばっかり繰り返してツッコミも入らないと、天然系として売り出すしか道はなくなっちゃうのでは。「黒豹スペース・コンバット」とか。それでもファンがついて儲かって黒豹執筆基地とか作れればいいのかもしれないけど。

こないだビデオでカナダ映画の「CUBE」を見て、面白かったので友達にも薦めてるんですが、「いやーあれよかったよ、アイデアはすごいし美術はかっこいいしヒロインはめがねっこだし。暗号解読のところで明らかに2ヶ所ぐらい理屈が間違ってるんだけどね」とか、つい余計な一言を付け加えたりしちゃいます。もちろんそのあと「それでも面白いよー」とフォローするんですが。

ツッコミだって、やさしくチョップするのもハリセンで思いっきりぶっ叩くのもあります。ボケっぷりがかわいい、って芸風もありますし。あまりにひどいマジボケだと本気でグーで殴ることもありますが。
まあ、ツッコミがきびしすぎて何人も殴り殺してるひとがいたりしたら、さすがにちょっとひいちゃうでしょうね。

1152//磨けば光るSF (1999/03/28 16:06:57)
MAIL::野尻抱介
私、けっこう科学的文句をつけるほうですが、海法さんの分類だと1と2が多いですね。
ブレイン・ヴァレー、レッドマーズ、夏のロケット、スタープレックスとか……最近電卓を叩きまくったのは『天獄と地国』ですが、間違いが見つからなかったので文句は言ってません(^^)。
「愛情の反対は憎しみではない。無関心である」という言葉どおり、文句をつける気になった段階でオレ的には及第点以上の作品といえます。また、文句をつけているうちにますます惚れ込むこともよくあります。それは多くの場合、SFというよりハードSFと呼ぶのがふさわしい。
最近の例ですとスタープレックスに登場した緑の恒星。私は誤りだと思ったけど、現代科学ではそうと言い切れないそうで、「ソウヤーのやつ、いいとこ突いてきたなあ」と惚れなおしたりするわけです。

偏見かもしれませんが、読書界というのは基本的に文系帝国なので、作品の評価としてきっちり答えの出るものは少ない。その片隅に、電卓叩きながらブイブイ文句をつけるジャンルがあっていいでしょう。
きっちり答えが出て、間違いは間違いと断定できる。設定をあれこれ変えて、動かして遊べる。「よし、こいつは科学的に間違ってないし実に素敵な展開だ。こんな未来が作れそうじゃないか」と元気が出ることもあれば、逆に本物の恐怖を味わうこともある。嘘が混ぜてあれば「この嘘さえクリアすれば動くんだな?」と永く心に引っ掛かる――そういう明晰な楽しみが得られるのはハードSFしかない。

私はハードSFを科学的に吟味する楽しみを捨てるつもりはありません。
これを偏狭だとか難しいとか「SFはこわい」なんて言う人は、いつでも繁栄している文系帝国に引き返せばいいでしょう。
うかつなことを書いたらビシバシ叩かれる――そういう風土のなかで磨かれてきたハードSFは、単なるフィクションであることを越えて、現実の未来に働きかける力を持っています。私は小説など読まなくても生きていけますが、ハードSFを摂取せずには生きられません。ハードSFあってこそ、SFはウェイ・オブ・ライフだと言い切れるのです。

1151//科学的に間違ってる! (1999/03/28 13:51:24)
http://www.din.or.jp/~kaiho/ MAIL::海法 紀光
たとえばSFファンが「科学的に間違ってる!」と熱く語る場合(って語らないSFファンも多いですよ)

1.間違い探しゲームを楽しんでいる

ハードSFとかは、科学的に細心の注意を払って世界や事件を構築する作者と、それを一つ一つ科学的に読み解き検証していく読者との知的ゲームの側面があります。こういう場合、丁々発止の議論をし、細かい重箱をつつきまくってるのは「作品を愛でること」であって、けなすつもりは全くない、ということがあります。

2.単に話題として指摘している

「この作品は面白いね/つまらないね。それはそれとして、ここの考証は間違ってるね」という場合です。批判じゃなくて単なる話題として、「この映画は面白いね。それはそれとして、この俳優は今、●●をやってるってね」ってのと同レベルで。
その話題で盛り上がっちゃうこともあるけど、別に悪意はない。

3.作品として問題があると指摘する。

科学考証をハナから無視している、あるいはミスがわかるけど面白く読める…という作品ならともかく。科学考証のミスに気づかなければ面白く読めるとしても、人によって気づくと興がそがれる、ということは確かにあるわけです。

SFに限らず、ある小説で、一地方都市の描写がいい加減だったとします。地元の人以外は知らないから気にならないけど、地元人にとってはむちゃくちゃ気になるって場合。描写の分量や作品の中で占める位置によっては、都市の考証不足は批判材料になりえるでしょう。たとえ、ほとんどの人にとっては関係ない欠点だったとしても。
都市の考証が科学考証や、他の色々な専門考証に変わっても、同じことはいえます。

どこまでが批判材料になりうるかってのは微妙な問題でスタンスが関わってきます。個人の好みの範疇だとか、「SFとしては」問題があるとか、「作品として」問題があるとか、「論外」だとか、まぁ時と場合で色々。当然、自分の批判を誰に語っているかでも違ってくるでしょう。
上記の地方都市の例なら、一般に語る時は別に批判しないけど、同郷の人と話す時は、気兼ねなくけなすってこともあるでしょう。

で、人によって、自分のスタンスを明確にしたうえで批判する人もいるし、スタンスの差があるのを理解せずに一方的に批判する人もいるでしょう。

この中で、最後の場合のように、問題のある人間もいないこたないでしょうけど、単に「科学的正確さにうるさいSFファン」を否定するというと、上の全部を混同しているように思えます。そういう混同は偏見だと思うし、今後は考慮していただけると幸いかと>三枝さん
んでもって、己のスタンスを示した上で、科学的考証に大きくこだわるのは、本人の勝手だと思います。どの小説のどの要素を一番優先して評価するかってのは、好きずきですから。同様に、個人がSFの定義を狭くするのも勝手。「この作品はSFじゃない」ってのは、けなし言葉とは限らんのです。そのへんをクリアーにして言ってる分には文句を言われる筋合いはない。

堺さんのおっしゃる「実践空手的、偏屈SFファン」は、「科学考証等に大きくこだわって評価する人」であって、大森さんの言う「1%のSFファン」は、「そうした評価を、TPO、スタンス、好みの違いを無視して、周りに押しつけまくる人(あるいは不本意にそういう印象を与えてしまった人)」の意味と考えます。
前者のスタンスに対して、「おまえは小説としての価値を無視している。科学考証が多少間違っていたって、これは話が素晴らしいからいいのだ」的な言動に迎合する必要は全くないと私も思います。
で、そういう押しつけが有害なのと同じ意味で、後者は後者で問題かと。

1150//SFはダメというけど (1999/03/28 12:41:41)
MAIL::いなば
売れ行き的にダメと言うより、社会総体への文化的インパクトが下がってきた、ということではないかと思うのですが。その辺私は山形氏と同じく「SFの歴史的使命は終わったんでもーいーじゃん」説かな?
売れ行き問題については以前の大森さんのご指摘もあったし、数字的に本当に減ったのかどうか? また、本の寿命が短くなったのはSFに限った話じゃないですね。
それから売れ行きで言うとSFはフォーサイスやクーンツやクランシーに負けてるだけじゃなくて、ピンチョンやバースにも(たぶん大江にも村上にも)負けてるんだから、「文学的冒険に走ったら売れない」というのは嘘ですね。
「SFはダメだ」について私なりにごくおおざっぱに言うと、日本の状況に限るなら、なぜSFプロパーから船戸与一や高村薫や隆慶一郎(のような作家)が出ないのか、でしょう? いずれもジャンル小説の書き手でありながら、それ以上の存在でもある。これって単なる偶然なのかな?
梅原さんの問題提起が、ジャンルとしてのSFの中核にガキ向けの娯楽がしっかり座ってなきゃいけない、という意味ならわかるんだけど、でもそのような娯楽SFの衰退がハードSFやメタSFとそれを褒めそやすマニアのせいだってのは嘘でしょう? それこそクーンツにも船戸にも勝てない、つまらない娯楽SF(の書き手とそれに自足したファン)の責任じゃないのかな?

1149//いう権利の無い人間の戯言です(だったら書かなきゃいいのに) (1999/03/28 04:47:48)
MAIL::あっぱっぱ
SFと非(それとも似非)SFの境界・・・・私にゃよく分からん。
個人的にはどれだけの科学的整合性を持って大ボラをふけば「SF」に
なるのか、という値('感覚?)が人によって様々ということなのかな?
(あ、文章変)。いっそのこと『作品中用語や論理のOO%迄科学的整
合性ガ確認されるものを{SF}とする』といった『共通SF基準値』でも
定めてみたらどうでしょう?(笑)

1148// (1999/03/28 04:27:26)
MAIL::堺三保
すいません。もういい加減で意志の疎通をあきらめているのは事実なので>よしこさん

なんかですね、単純に格闘技は「殴り合う」のがおもしろいんだと思ってるのに、
「格闘技って野蛮でいやーね」
と言う人がやってきたら、
「いやあ、格闘技は精神修養ですから。実践空手派にだって、いまは殴り合い自体が単純に好きな野蛮なヤツなんか1%もいませんよ。問題はその1%に会っちゃった人にはそう言ってもしかたないということですけど」
と、精神修養派の人が爽やかに格闘技を弁護するのを聞かされたような思い、ってわかりにくいですか?
いくら弁護してもらっても嬉しくもなんともないもんで。
野蛮であるということは悪いことなのデスカ?

さらに言えば、「実践空手」派と「スポーツ空手」派の双方の言い分に耳を傾けてるつもりなのに、「実践空手」派の代表みたいに自分の名前をあげられるのはすげえ心外。

だいたい、格闘技は一人一流派が基本だと思っているので、一般論で「格闘技は」と言ってきた人に、一般論で返す格闘技側の人ってのは勘弁して欲しいわけです。で、あげくに「そんな人は少数」じゃね。

いや、統一柔道を作って世間にアピールした方が良いという考え方もあるでしょうが、わたしゃ**流柔術が好き勝手に乱立してる世界の方が好きなもんで。

そんなんじゃ滅びるって言われてもなあ。
延命するために自分の主義を曲げてもいいことないじゃん、仮に滅びるとしてだけど。
いや、梅原理論じゃないけど、実践空手の一流派からK1が生まれて繁盛してるんだし。


1147// (1999/03/28 02:56:02)
MAIL::堺三保
柳下さん、ありがとうございます。
そう言ってもらえると、胸のつかえが取れます。
もっとも、科学的整合性バカみたいな一面的な偏屈のレッテル貼られてもかまわんというか、そういう「SFの楽しみ方すべて」を無条件に擁護する気にもなってます。それもまた「SFの楽しみ方の一つ」なんだから、他人にどうこう言われる筋合いはないすからね、やっぱ。立場は違えど、お互い別の地点に「オレSF」の旗をたててるってことで。
いや、本当はいろんなとこに「ここも好き」って旗をたてたいんですけど、特に「偏屈科学オヤジ」の旗はでっかく振ったろかいな、と。

さて、諸星さん。
それが「メタ言語的作品」だか「むちゃくちゃ難解なハードSF」だかはともかく、それが好きなファンが何十万もいればですね、その人たちがどれだけ嫌われ者であろうと、そういう作品が嫌いな人がどれだけいようと、その作品は売れてるんだから問題ないわけでしょ?

つうか、何が、梅原さんや三枝さんの嫌う作品で、それがほんとに商売としてペイしていないかってのは、実は個々の作品について話をしないと意味ないわけですが、ただこれだけははっきり言えるのは、

マック・ユーザーの性格が悪いから、マックはウィンドウズにシェア争いで負けたわけではない!

ってことでしょう。マックはベータでもサターンでも可で、ウインドウズはVHSでもPSでもオッケー。

「いやーね。マック・ユーザーって、すぐわけわかんないこと言ってウインドウズ・ユーザーをバカにして。だからマックは嫌いなのよ」って言ってる人に向かってですな、
「いや、確かに中にはイヤなマック・ユーザーもいますけど、ボクも含めて大半のマック・ユーザーは良い人なんですよ」
なんて言ったからって、相手がマック買ったりしないでしょ。 ウインドウズ使って満足してるんだから。
ましてや、マックのシェアがウインドウズのシェアを抜き返したりは金輪際ありえない。

1ユーザーとしてできることは、いかにマックが優れているのか、誰もが納得できるように喧伝することだけであって、既存のユーザーの一部を切り捨てるような発言をしてまで、ウインドウズ・ユーザーにおもねることじゃない。

自分もマック・ユーザーのくせに、
「ウインドウズ・ユーザーさん、ごもっとも。マック・ユーザーの一部にはたちの悪いのがいまして」
なんて発言が許せますか? わたしゃ許せません。
その冒頭に自分のことが書かれてたら余計にね。

「SFファンは偏屈ばっかじゃないんだよ」
いいよ、偏屈で。


1146//僕のはハード? メタ言語? (1999/03/28 01:26:03)
MAIL::小林泰三
>メタ言語的SF=文系的に難しすぎるSF
>ハードSF=理系的に難しすぎるSF
>駄目なSF=「オレにとって」難しすぎるSF
>いいSF=「オレにとって」面白いSF(難しすぎないのが必要条件(十分条件ではない)
>SFが駄目になった理由=理系・文系的に難しすぎるSFを誉める人がいて、
>「オレにとって」難しすぎて面白くない、駄目なSFが増えたから。

ということは、その人にとって、「すべてのハード SF は駄目な SF」
ということになりますね。(^^;)
こういう人がいた場合、僕なら
(1) その人はたまたま駄目なハード SF を読んだ。
(2) その人にはハード SF が合っていない。
のどちらかを疑います。

ハード SF は SF の中核を占めてきたサブジャンル (というか、狭義の
SF) なので、ハード SF を否定した SF というのはそれこそ、別ジャ
ンルなのではないでしょうか?
#SF ファンで、ハード SF がつまらないと思う人って多いんでしょうか?

ところで、「メタ言語的 SF」って、どこかではっきり定義されてました?
具体的に言うと、「朝のガスパール」? だとすると、「メタ言語的 SF」
は SF の周辺領域ですね。
#て言うか、SF?

最近、講談社ノベルズから出ている一連のメタ言語的作品はここでいう「メ
タ言語的 SF」なんでしょうか? だとしたら、ああいうものは最近、むし
ろミステリの仲間に入れられているのでは? でも、ミステリって、人気あ
りますよね。

1145//なんだかな (1999/03/27 23:23:16)
MAIL::きくち
柳下氏のいう通りなわけで、”SFファンは・・・”とか、”SFとは・・・”とかさあ、十把ひとからげにしちゃうってのは無理よ。
前にも書いた通り、僕は作品ごとに評価基準を変えてるし、そんなの当然だと思う。バラードとクライトン(わたしゃ、どちらも好き)を同じ評価基準で議論できるわけがないじゃん。
メタ言語小説もバカSFも読んで、それを別に変だとは思わないけどねえ。
ひとくくりにして言い切ってしまえれば、そりゃ話としては簡単になりますけど、現実からは離れちゃうわね。

ちなみに面白い・つまらない、と、科学的に正しい・正しくない、は独立ね。
面白い作品なら、”面白いけど、ここが間違ってるんだよね”になるし、つまんないなら、”つまんない上に、ここが間違ってるんだよね”になるんじゃない?
というか、面白ければ間違ってたって気にならないし、つまんなければ間違いも際立つってことかもね。

僕も本当は今日から学会に行くはずだったんだが、体調が悪いので、明後日出発。
広島大学は不便なところにあるぞ


1144//んもお (1999/03/27 22:21:56)
MAIL::さいとうよしこ
ごめん。被害妄想に似てるって大森にゆったかも。
でも、怒っちゃうのがメインなのはだめだよう。
怒って相手に「はいはい」っていわせたら、また同じことあとで
いわれちゃうんだよう(笑)。なんか、わかりやすく説明することを
あきらめてる感じ。そうでもない? ちゃちゃだけでごめんなさい。

1143//1142は私です>「ハードSF」も「メタ言語SF」もともに戦犯ってことで、どうすか? (1999/03/27 13:24:15)
http://www.hf.rim.or.jp/~morrow/ MAIL::諸星友郎
1142の発言者は諸星です。
名前とタイトル欄、まちがえました(^_^;;

1142// (1999/03/27 13:22:08)
http://www.hf.rim.or.jp/~morrow/ MAIL::「ハードSF」も「メタ言語SF」もともに戦犯ってことで、どうすか?
1136
堺>でも、それでは、梅原理論とは結論は同じ(もうSFはダメだ)で、
堺>原因は正反対だ(梅原「メタ言語的SFとそのファンがいけない」、
堺>三枝「ハードSFとそのファンがいけない」)と言ってることになりませんか?

三枝さんの意見から離れますが、

メタ言語的SF=文系的に難しすぎるSF
ハードSF=理系的に難しすぎるSF
駄目なSF=「オレにとって」難しすぎるSF
いいSF=「オレにとって」面白いSF(難しすぎないのが必要条件(十分条件ではない)
SFが駄目になった理由=理系・文系的に難しすぎるSFを誉める人がいて、
「オレにとって」難しすぎて面白くない、駄目なSFが増えたから。

と、いうように考えると、メタ言語論SFも、ハードSFも、等しく悪者ですね(^_^;;

そのようなわけで、理系的にも文系的にも、極まったSFは、悪者だ、ということに
すれば、ハードSFファンも、メタ言語論的SFファンも、等しく悪者同士ということで
友に戦犯として同じ土俵で議論ができて幸せかも。

===
って、上の「オレにとって」の「オレ」は、諸星友郎のことではなくて、
「SFが駄目になっている!」と主張する人の人称代名詞でして、
別に私が上のような理由で、「SFが駄目になっている!」と思っているわけでは
ないんですけども。(とはいえ、梅原理論の分析には納得できなくても、「SFが
駄目になっている!」というおたけびをあげたくなるってのはわかる気がするかもです)


1141// (1999/03/27 12:11:55)
MAIL::柳下
>堺さま
くだらない冗談のネタにして申し訳ない。いや、別に「偏狭さをからかう」つもりはなかったのだけど。

ぼくとしては三枝さんが「SFファンは〜」と無闇にひとくくりにしてしまうのが非常に不本意だった。論じるなら個々の対象を論じていただきたい、だって個々の対象以外に「問題」はないのだから。じゃあ誰やねん、その「SFファン」って奴は? と書くところでつい冗談を入れたくなってしまったんですが。不愉快はお詫びします。いや、堺がそれ「だけ」の人間だと思っているわけではないですよ、もちろん。それにぼくはハードSFも、科学的整合性にこだわるハードSFファンも別に否定してはいないよ。なんせ「理系」だし。ただ、SFの本質はそこにあるわけではない、と思っているだけで。これは単なる価値観の相違、だよね。

1140//私が批判していたSFファン (1999/03/27 09:56:11)
MAIL::三枝
すみません。堺さん。
私、メタ言語小説なんて、論外、「悪いに決まっている」とか、思っています。
文学的価値や、文学的冒険なんてものが、その小説が面白いかどうかに優先しちゃあいけません。
いや、「いけません」と言うと、誤解を呼びそうですね。「売れるはずがありません」に、訂正しておきましょう。

私が批判しているSFファンは、メタ言語小説を持ち上げるSFファンや、科学的正確さにうるさいSFファンだけではありません。
面白いだけで良いじゃないかと素直に言えないSFファン、面白いだけのSFをきちんと評価できないSFファンです。

ううう。これからでかけないとまずいんで、お返事が必要なものも遅れると思います。ごめんなさい。行ってきます。

1139//うう、失礼しました、谷田貝さん (1999/03/27 09:10:42)
MAIL::ヌケサク
まあ、わたしがいいたいのは「文系の人は科学的整合性を好む」というのも実は「一部の文系の人は…」だということですし(一部と全体を混同しているのでは?と。帰納し間違えているのでは?と。私にも言えることですが)、当然訂正させていただいて「“一部の”文系は科学理論をまるで知らないのでツッコまないものです」とあいなります。数学とかプログラミングは純文系という話もありますが(論理学が入るし、実験が少ないとか一切ないとか)。「ツッコまないやつもけっこういる」ということです。文系の中にはそういうふうにしてSFを読み漁っている人はいくらでもいるでしょう、知り合いにもいます(だめかな、これも。誇張法になっているかもしらんですね)。文系・理系の別は不明だから止めようというのにも賛成ではありますが。

わたし誇らしげでした? けっしてそんなつもりはございません。m(_ _)m

1138//いや、いつも皮肉言われてるとね。 (1999/03/27 09:09:22)
MAIL::堺三保
おっと、私も怒りのあまり、話をずらし過ぎちゃいました。

よくよく考えてみれば、私はここでの議論に参加する気があるわけじゃないです。
なんでかっていうと、肩書きに「おたく」とか「SF何でも屋」を標榜して、それで原稿書いて生活している身としては、思想面でもビジネス面でも、「今のSFやSFファンがいけない」と考えている人とは、最初から会話が相容れないのは当然ですので。
そんなわけなので、三枝さんをはじめとしてこの議論に参加されている皆様、ここから先はこの件について意見を述べませんが、お許しください。あと、意見が違うからといって誰かに怒ってるということはまったくありませんので、そこもご理解いただけるとありがたいです。

じゃあ、なんに私が怒っているかと言えばですね。大森さんに「偏狭なSFファン」のステレオタイプとして勝手に人のことを書き込まれたことですね。私の立ち位置が菊池さんに近いというのは、いい加減わかってもらえてるはずだと思ったんですけど。それとも、菊池さんも偏狭なわけ?

つうか、自分が情けない。もう知り合いになってからそろそろ10年以上たつのに、結局そうかい、というね。
『チグリスとユーフラテス』のときは、きついジョークだと思って笑ってすましたんですけど。
最近、大森さんはなにかっつうと「いや、堺のSF観は間違ってるから」ってこうきますが、じゃあ大森望のSF観は絶対正しいわけ?
誰かのSF観が一番正しいなんてことがありえるわけ??
私のSF観のどこがどう間違ってて、大森的SF観のどこがどう正しいのか、いや、と言うより「なぜそんな断言ができるのか」一度詳しくお教えいただきたいものであります。

ていうか、SFとしてのおもしろさに科学的な正確さを直結させる価値観の何が問題なのか、明示されていない以上、納得できませんわな。まさか、「それを嫌がる人たちもいるから」じゃ、お話にならんでしょ。
そういうのが好きな人はそこを誉め、けなす。それもまた一つの価値観である。
一方でそこには関心のない人もいる。それも価値観である。
お互いに相手の価値観が変だと思ってる。
だからこそ「多様性」というモノは保持されるわけでしょう。
ハードSFのハードな部分にこだわるファンをスケープゴートにして「他の人はハードSFが好きな人だって、そんなことないんですよ」と懐柔策を弄するようなことは勘弁していただきたい。
それは、たとえ全SFファンの1%程度にしかすぎなくても(そんなに少ないとは私は思っていませんが)、ハードSFファンもまたSFを愛するファンの一部なのだから、それを不用意にトカゲのしっぽのように切り捨てるがごとき発言は、いくら遠回しかつオブラートに包んだようなものであっても、あんまりでしょう。
さらにいえば、私は各論においては反論もあるものの、基本的にはどちらの意見もそれぞれの価値観として容認する立場を取っているつもりなので、まるで片方の代表のような言われ方は、冗談としても非常に心外>大森さん、柳下さん

と書き込もうとしたら「被害妄想」ときましたか?
いや、ハードSFファンとオタクはいつも矢面に立たされちゃうもんで、って、いつもチクチク皮肉っといて、それはないんじゃおまへんか?
ついでにいうと、分けて書いてることのどちらに私が入るかは、明示してないと思うんですけど。
だから、「いや、確かに「眼鏡をかけたコーラ好きの大きな人」が「そこまで言うSFファン」かどうかは読者の想像にまかせるように書かれてるんですけど、そう読めるように書いてませんか? 」つって怒ってるんですけど。

1137//なんか被害妄想なんじゃないの。 (1999/03/27 08:43:00)
http://www.ltokyo.com/ohmori/ MAIL::大森 望

>>堺様

#1132は、「なんでこっちに飛び火しますか?」「どうしてそこで私に言及が及ぶのかが謎??? 」という質問に対する答えです。

さらに言うと、#1128は、#1122に対する反論を含んでいます。
柳下毅一郎が、「科学的に不正確なものを許せず、「こんなものはSFではない!」と成敗してまわっているSFファン」の唯一の例として堺三保を挙げたことに対して、「科学的まちがいを指摘する」行為と、「だからこれはSFじゃないと言う」行為を明確に区別したつもりです。
「典型的なハードSF嫌いのハードSFファン排斥的な発言」というのはいったいどこを指しているんでしょうか?
「科学的にまちがってるからSFじゃない」と言う論理はたしかに排斥してますが、ハードSFファンがそういう論理に代表される人たちだとは思えないのですが。

>話の流れが見えなくなったので、元に戻そうと思って書いてみたのですが。

見えなくなったのはあなただけでは。ログを読まなきゃ話の流れが見えないは当然だと思います。ここはべつに梅原理論検証ボード(笑)じゃないので、書き込む人によって当然どんどん話は変わります。

>というより、まずは梅原さんの主張について、もうちょっと徹底的に議論してくれた
>ほうが興味深いのですが。

みなさんがあなたの興味のために議論してるわけじゃないので、そんなことを言われても。議論したければ自分で議論してください。
でもあなたが#1131で書いてるようなことは、オレ的には青山掲示板の最初のほうとこことですでに書きつくしちゃった論点なので、それをまた蒸し返すつもりはありませんが。

>というわけで、「メタ言語な作品をSFとするSFファンがいかん」というのと
>「科学的整合性がどうこうと言うハードSFファンがいかん」という話を、分け
>てくれませんか?>オール

だれが見ても、ふたつの議論が分かれていることは自明だと思いますが?


1136//あれあれあれ? (1999/03/27 07:42:17)
MAIL::堺三保
ああ、そうか。
よく読むと、途中から、分けちゃってるのか?>三枝さん
それは失礼しました。
でも、それでは、梅原理論とは結論は同じ(もうSFはダメだ)で、原因は正反対だ(梅原「メタ言語的SFとそのファンがいけない」、三枝「ハードSFとそのファンがいけない」)と言ってることになりませんか?

なのに、結論が一緒なので、梅原さんの主張を擁護するというのは、なんかよくわからんのですが?


1135//そこも同じでして。 (1999/03/27 07:33:18)
MAIL::堺三保
梅原さんが批判している「メタ言語なSFを愛するSFファン」と、三枝さんが批判している「科学的整合性にうるさいSFファン」は、別の層の人々であることが大部分なので、そこを分けて、それぞれで話してもらいたいのですが?>三枝さん

とまあ、セクト主義だから、嫌われるのか?>SFファン
でもまあ、気がついたら全部「ハードSFのファン」が悪いせいにされちゃ、たまったもんじゃないので。
いやあ、なんせ弱小勢力っすから。

1134//論点がずれていくのはなんだかなあ。 (1999/03/27 07:26:38)
MAIL::堺三保
>飛び火の文句は柳下毅一郎に言うように>堺様。
なるほど、これは読み過ごしていました。
じゃ、柳下さん、大森さん、わたしのことを何だと思ってるわけなんでしょう? バカ??
あと、「柳下くんだってやってるのに、なんでボクにだけ言うんだよお」みたいな、子どもみたいなこと言わないでくださいね>大森さん
そりゃ、問題がすりかわってて、私の質問には答えてませんがな。

>それにここしばらくは梅原理論から離れた話になってるので。
それが不思議だし、話の流れが見えなくなったので、元に戻そうと思って書いてみたのですが。
だって、梅原さんの「今のSFはいかん!」と違う三枝さんの「今のSFはいかん!」という話にどんどんずれていってるみたいでちょっと変な気がしたので。

というわけで、「メタ言語な作品をSFとするSFファンがいかん」というのと「科学的整合性がどうこうと言うハードSFファンがいかん」という話を、分けてくれませんか?>オール

それぞれ「梅原さんの主張」、「三枝さんの主張」として、別々に話していただけると、私は嬉しいのですが。
というより、まずは梅原さんの主張について、もうちょっと徹底的に議論してくれたほうが興味深いのですが。
「ハードSFがいかん」って話はもう聞き飽きてるし、アメリカじゃあいかわらず根強い人気があるし、日本じゃ昔から一貫して少数派なんで>ハードSF



1133//ども (1999/03/27 07:18:43)
MAIL::三枝
小林さん。丁寧なご解答(1125)ありがとうございました。
よくわかりました。
出かける前ですので、一言御礼だけで。

堺さん。私は「SF」批判をやっていたのではなく、たぶん「SFファン批判」をやっていたような気がします。この掲示板でのお話の進行具合によっては、やけにSFの定義とかにうるさい「一部のSFファン」批判に変更できるかもしれません。
それを期待しています。

1132//re:飛び火 (1999/03/27 06:59:20)
http://www.ltokyo.com/ohmori/ MAIL::大森 望
飛び火の文句は柳下毅一郎に言うように>堺様。
それにここしばらくは梅原理論から離れた話になってるので。
ま、「SFをダメにしたのはSFおたくである」説の検証のひとつと考えれば、延長線上にはあるかも。

1131//なんでこっちに飛び火しますか?(長文) (1999/03/27 06:20:36)
http://www.so-net.ne.jp/SF-Online/ MAIL::堺三保
あー、なんかすっごく気持ち悪いんですけど>大森さま

いや、確かに「眼鏡をかけたコーラ好きの大きな人」が「そこまで言うSFファン」かどうかは読者の想像にまかせるように書かれてるんですけど、そう読めるように書いてませんか?

それにしても、掲示板ってのは不思議なもんですね。
たしか、最初は三枝さんが、梅原さんの意見を擁護した上でSF批判を行っていたのに、他の方が議論に参加されていたように思ったのですが。
なんで、梅原さんの的にはあまりなっていないはずのハードSFに話がたどりついてしまったんでしょうね?

たしか、最初のうち梅原さんが批判していたのは、「メタ言語的な作品をSFと呼ぶこと」であって、クラークとかブリンとかニーヴンとかのいわゆるハード系の作家はオッケーだったんじゃなかったでしたっけ?(いや、今じゃハヤカワの青背は全部憎いみたいで困りものですが)

でもって、梅原さんが怒ってた評論家ってのは、大森さんを名指しであって、それは大森さんが梅原さん言うところの「メタ言語的な作品を他のSFと同列に論じて高い評価を与えている」点にあったのでは?

少なくとも、ハードSFが好きで、作品の設定的な部分のミスや錯誤にうるさいという理由からでは、私が梅原さんのやり玉に上がるとは思えない(そりゃまあ、私だって、神林長平とかディックとかバラードとかも好きだから、その点では有罪かも知れませんが)つう気がするのですが、どうしてそこで私に言及が及ぶのかが謎???

っていうか、大森さんのは典型的なハードSF嫌いのハードSFファン排斥的な発言でしかないような。
「みんなー、ボクはあんな偏屈とは違って、SFファンだけど怖くないんだよお」って、それじゃ、ニフティでどっかの誰かがアニメファンに向かって、大森さんを批判したときにやったのとおんなじ手でんがな。とほほ。

ちなみに、梅原理論って、傍証が間違いまくってる(「SFMは大赤字で某氏によって補填されている」とか「SF作家は皆50歳を過ぎるとSFを書かなくなる」とか「うちの近所の本屋にないのだからハルキ文庫はSFから撤退したに違いない」とか「アメリカじゃサイファイだ」とか「「ヘッド+」は高橋良平のようなSF関係者に原稿を書かせていたから潰れた」とか)のと、「SFはこうでないといけない」という断言になっているので、多くの人が「おいおい」と思ってるわけでしょ?

もし、これが野尻さんみたいに「私にとって」が頭についててですよ、「私にとってのSFとは、ファースト・コンタクトを描くことである」っていう言葉だったりしたら、「おお、がんばって書いてね」で終わりだと思うんですけど。

なのに、梅原さんは話を一般化して、敵の範囲をどんどん広げていってるところ(「メタ言語的な作品」とその作家>それを誉める評論家>それを載せる雑誌>それを許すファン=SF作家クラブ+SFマガジン+SFM読者+SF大会とその参加者>すべてのオタク)に、なんか非論理的な「敵愾心」が見えちゃうから、こっちは引いちゃうんですけど。

大森さんにはもっと堂々と「これこれこういう理由で私は梅原さんが批判している作品が好きなのである」っていう、しかもそういう者に対して偏見のある人たちにも「ああ、なるほど。こういう意見もあるのね」と1箇所でもうなづかせるような主張をしていただきたいものです。

そうやって、お互い相手の趣味を認め合ってこそ、美しい多様性を保つことができるのでは?

商売としてSFってどうよ? つう話は、ワシに言われてもね。結局、看板じゃなくて個々の作品が売れるか売れないかだけでしょ?
それに、私の場合、「SF」の看板あげてるおかげでなんとかメシが食えてるので、SF様々だからなあ。


1130//文系・理系 (1999/03/27 02:18:07)
http://www.asahi-net.or.jp/~gp4k-ytgi/ MAIL::谷田貝 和男
>1129.ヌケサクさん
>でも文系は科学ぜんぜんわかってないです

「あなたが」でしょ?(笑) 個人的な事情を一般化しちゃいけないっすよ(^_^)。

だいたい「文系」「理系」ってひどく曖昧な言葉ですね。
私立大学の文学部で統計計算をやらされていた(心理学科)わたしは
文系でしょうか?
経済学部を出てプログラマになったひとは?


しかし、常々疑問に感じてるんですが、
「オレって文学分からないんだぁ〜」と言うひとより、
「オレって数学や物理学分からないんだぁ〜」とか言うひとの方が
どこか誇らしげなのはなぜでせう?


まあ、わたしも高校時代、数学や物理学は赤点すれすれでしたが(笑)。


1129//わたくしスーパー文系バカとしては (1999/03/27 01:09:07)
MAIL::ヌケサク
文系の人間は「そもそも科学的不整合にツッコミを入れる能力がない」と思いますけど? 「そういった意味」で三枝さんの心配は杞憂では??、と私は考えます。これって三枝さんの意見を誤読してますか? 文系は科学的ツッコミはしないと思います。するようなひとはいてもたぶん、まれでしょう。だいたい文系人間には宇宙論も進化論も分からないんですけど。

たしかに知識が没入を妨げるということもありそうな気はします。警察小説読んでブチキレる警察官とか。でも文系は科学ぜんぜんわかってないです、ほんと。むろんわたくしもであります。わかんないから読まないというのもありそうだという気がしますが…。用語のハッタリ効果も消えたみたいな。後光効果っつうんですか? でも後光っつうかハッタリもおもしろい小説作法だよなあ、と。

1128//心の狭いSFファンの占める率について。 (1999/03/27 00:45:28)
http://www.ltokyo.com/ohmori/ MAIL::大森 望
>>SF好きな人は、SFの科学的間違いを指摘するのが好きだという印象が、私にあります。 正確には、
「SF好きな人の中に、SFの科学的間違いを指摘するのが好きな人もいる」
ですね。本格ミステリ好きな人の中に、「このトリックは物理的に成立しない」とか、「警察はこんな捜査はしない」とか指摘するのが好きな人がいるのといっしょ。
「眼鏡かけたコーラ好きの大きな人」以外にもこういう人はけっこうたくさんいますよね。NIFTY-Serveとかでやってるのは、作品をネタにしたSFファンの遊びだと僕は思ってましたけど。
作者が正しいと思って書いてて、読者がまちがった知識を信じてしまいそうな場合には、間違いを指摘するのも必要でしょう。
「正しい科学知識を得ようとSFを読む人はいないだろうが、まちがった科学知識を得ようとSFを読む人もいない」と言ったのはだれだっけ? まあそういうことです。

でも、「だからSFじゃない」とか「だからミステリじゃない」と言うのは行き過ぎだろうと思いますし、そこまで言うSFファン、ミステリファンはごく少数でしょう。
科学的正確性は一部のハードSFの必要条件かもしれませんが、そういうのと関係ないSFのほうが大多数。とくに日本SFに関しては、おそらく99パーセント以上、科学的正確性とは無関係なので。
作品世界の中できちんと論理が通ってればOKっていうのが、ふつうのミステリファン、SFファンの態度だと思います。したがって三枝さんの心配は杞憂かと。

とはいえ、「SFファンが世間にそういう印象を与えている」っていうのはある程度事実だと思いますね。つまり、あるふつうの小説読者が十年のあいだに百人のSFファンと出会ったとして、そのうちのひとりでも「あんなの科学的にデタラメでSFじゃないよ」と言ったら、ああ、SFファンってそういう人種なのね、と思っちゃうわけです。めんどくさくてこわいから近づかないようにしよう、とか(笑) だいたいわけわかんないことを滔々とまくしたてられたりしますからね。そもそもラグランジュ・ポイントとは……とかさ。
正しい科学知識を啓蒙することは個人レベルでもきわめて重要なことなんですが、それがSFの価値に直結しちゃうとたいへんまずい。しかも、そういう被害にあった人にいくら説明しても、「だってわたしの知ってるSFファンは……」と文句を言うばかりで納得してくれない。というような経験は何度かあります。柳下にそういう経験がないのは、SFファンだと認知されてないからに違いない(笑)

ハードSF教条主義者とおなじくらい、本格ミステリ教条主義者もたくさんいて、僕自身、「あんなの本格じゃないですよ。論理が穴だらけでしょ」と言われてむっとしたことが何度かありますが、そういう人がミステリで目立たないのは、本格を偏愛しているわけではないミステリファンがものすごく大量にいるおかげで、率的に無視できる範囲にとどまっているからでは。SFで1パーセントならミステリでは0.1パーセントとか。

むかし茶木則雄氏が、高村薫『照柿』の賭博シーンの誤り(ほんとにまちがってるかどうかはよく知らない)をしつこく指摘してたとき、「どうでもいいじゃんそんなの」と思ってたんだけど、一般読者にしてみれば、賭博知識の正しさも科学知識の正しさも、どうでもいいことにかけては大差ないのかも。
というわけで、科学的な「重箱の隅つつき」は明示的に宣言してから行うようにしてます。オレにつつかれるようでは情けなさすぎだが(笑)
ほんとはね、「世間ではSFと思われているようだが、断固オレは認めん」みたいなことはもはや成立しない時代なので(そもそも世間がSFと思ってくれないので)、「オレ的にはSFじゃない」と言っちゃうのはまったく無意味なんですが、どうして言うかな>オレ。

1127//SFの科学啓蒙機能 (1999/03/27 00:38:00)
http://www.hf.rim.or.jp/~morrow/ MAIL::諸星友郎
1124
>まあ、あえてそうすることで、科学への関心を
>高めさせようという意図があるのならまだいいのですが。

「『SFの存在意義は、科学啓蒙機能にあり』とは思わない」
ってのが、私のスタンスのつもりなんですが、1081で
60年代、70年代のSFブームは高度成長時代が支えていたのではないか?
と主張した以上、少なくとも
「60年代、70年代には『SFの存在意義は、科学啓蒙機能にあり』と
世間一般の人々は思っていた」と思っているってことになりますか。

>しかし、そのせいでSFの地位が低落していってるのだとすれば、
>悲しいことですね。

科学啓蒙機能のせいで、地位が低落しているのではなくて、
科学啓蒙機能のせいで、昔は、不当に地位が高かった、のではないか? と。

SFバブル、って言い方はどうかわかりませんが、SFは本来の実力以上の
人気があったのを、自分に実力があると勘違いしてきたんじゃないか、と。

「SFは売れない」「SFと呼ぶな」と毛嫌いされる理由はよくわかりませんが、
SFがあんまり売れないのは、そもそも売れないものが、時代の要請で、妙に
売れていたのが、正しいあたりに落ち着いてきたんではないか、とか。

#ってまぁ、私もどっちかというと「それはちがうでしょう」と否定して
#もらいたかったりするんですけどね、この発想(^_^;;

1126//「これってSFだけど、SFじゃないよね」 (1999/03/27 00:21:33)
http://www.hf.rim.or.jp/~morrow/ MAIL::諸星友郎
1125
小林>もちろん、「SF であるか、SF でないか」ということと、
小林>「優れた SFか、 駄目な SF か」ということは分けて考
小林>えるべきだと思います。

これを分けずに語ると
「この作品は、確かにSFかもしれないが、SFになってない」
という、例の「SFファンじゃない人には理解できない謎の台詞」
になってしまうんでしょうね。

けど「これって、SFなんだろうけど、SFになってないよね」
ってのは、非常によくわかる気がするなぁ。何故だろう。
「これは、SFであるが、SFではない」と書きかえるとあきらかに
変なのになぁ。

1125//科学趣味 (1999/03/26 23:57:31)
MAIL::小林泰三
>三枝 様
>SF とファンタジーの違いはどこにあるかというと、既存科学を超え
>る存在もしくは現象を、科学的な名称で呼ぶかどうかだと思うのですが、いかがでしょうか?
>
>が、正しい書き方ではないかと……。
>困ったな。小林さんの発言の意味がまったく変わってしまったような気がする。

不正確な表現をしてしまい、議論を混乱させてしまいました。申し訳ありま
せん。
で、「科学的な名称で呼ぶかどうか」という部分についてですが、名称だけ
科学的で文章に全く科学志向がない小説はあったとしても、それはとても例
外的なことでしょうから、
「既存科学を超える存在もしくは現象を、科学的な名称で呼ぶ」小説 ≒ SF
としても事実上問題ないような気がします。
#用語だけ科学的で、全く科学と無縁な内容の小説も書きようによってはメ
#タ SF として面白いかもしれませんが。

しかし、SF であることの本質的な部分は用語を使うかどうかではなく、
その用語を使う必然性にあると思います。
つまり、正しいか間違っているか、自覚的か無自覚的かに拘わらず、未知の
物事を科学的に見(せ)ようとする視点が SF の条件だということです。
#ただ、真の科学でない擬似科学でも構わないという意味では「科学的」と
#いう言葉より、「科学趣味」と言い換えた方が適切かもしれません。

もちろん、「SF であるか、SF でないか」ということと、「優れた SFか、
駄目な SF か」ということは分けて考えるべきだと思います。

1124//SFと科学 (1999/03/26 23:34:47)
http://plaza20.mbn.or.jp MAIL::葵珊瑚
この両者って、そんなに重大な繋がりがあったんですか?

ぼくは蛍光灯がなんで白い光を発するのか、なんでテレビは電波を映
像に変えることができるのか、そんなこともわからない無知なので、
SFを科学しようったって、できません。

よく思うんです。江戸時代にテレビをもってってつけたら、さぞ驚か
れるだろうなあって。
ステレオでもいいけど。
きくところによると、現代の科学は、現在から、宇宙誕生のン億分の
一秒後までは、解明しているというじゃないですか。そのころ宇宙は
エネルギーが高くて、いまはない物質がうじゃうじゃあったりして、
しかも、計算していくと、あと150億年後には宇宙は消えるんで
すって?
SFよりも信じがたいことが科学では起きちゃってるんですね。

じつは、SFって、ただ単に「希望」とか「期待」「予測」なのか
と思ってました。こうあればいい、とか、こうなるだろうとか。
作家のお仕事は、必ずしも真実を伝えることじゃないわけだから、科
学の解明したとおりにお話を書く必要はないでしょう、と。
「科学的におかしい」と感じたこともない。
正しいことばかりを追えばいいわけじゃないとも思うし。
科学は学問じゃなく、単に自然認識の方法にすぎないと思うから、そ
の威力が及ぶのは、自然が自然らしく存在できているところ――つま
りリアルな部分だけであって、フィクションであるSFに、そもそも
そういう議論を持ちこんじゃ、いけないと思う。
まあ、あえてそうすることで、科学への関心を高めさせようという意
図があるのならまだいいのですが。
しかし、そのせいでSFの地位が低落していってるのだとすれば、悲
しいことですね。

1123//何がおっしゃりたいのかわかりません。 (1999/03/26 22:29:34)
MAIL::三枝
》科学的に不正確なものを許せず、「こんなものはSFではない!」と成敗してまわっているSFファンがいっぱいいるようなんですが、ぼくは寡聞にして会ったことがない。

なんだか、柳下さんは、こちらの発言を歪めて読んでいらっしゃるようで、困惑しています。

SF好きな人は、SFの科学的間違いを指摘するのが好きだという印象が、私にあります。
「と学会」しかり、ウルトラマンを科学するといった感じの出版物しかり。ニフティの会議室では、SF系、科学系ともに「SFの科学的記述の間違いを指摘するための部屋」が、きちんと用意され、にぎわっています。
ミステリのファンが、推理の間違いや警察機構の描き方の間違いを指摘するための会議室を用意したとか、聞いたことがないので、それはSFファンと特徴なのだろうなあとか、思ったのですがね。

》「SFファンとは〜」と問題を立てることに意味があるんでしょうか?

なぜSFが面白いのか、なぜ人はSFを求めるのかが知りたいときには、SFファンというくくりを提出する以外に、ほかにどんな方法があるでしょう?

》>本当のところはSFファンは、SFに、科学的正確さなんか求めてはい
》>ないのだ、ということでしょうか?

という問いに、

》というか、誰のなんという作品が「科学的に正確でないからダメだ」と誰にけなされたのでしょうか?

という質問が出て来る理由は、さっぱりわかりません。

私は、もし、SFファンが科学的正確さをSFには求めていなければ良いなあと、切実に思っています。
なぜなら、指摘した通りに、科学的正確さをSFの重要な要素としたなら、SFは滅びるしかありませんし、私個人は、理論なんか滅茶苦茶で、しかも馬鹿っぽいSFの方が、いわゆる科学的に正確なSFよりずっと好きなんですよ。
自分が研究者になってからは、特にね。

1122//SFファンはどこにいるのか (1999/03/26 21:07:11)
MAIL::柳下毅一郎
なんだか三枝さんの書き込みを読んでいると、世の中には、科学的に不正確なものを許せず、「こんなものはSFではない!」と成敗してまわっているSFファンがいっぱいいるようなんですが、ぼくは寡聞にして会ったことがない。ひょっとしてその人はでかくってメガネをかけていて食事の時にもコーラを飲んでいたりしませんか?

その「SFファン」ってのはなんですか? ぼくはバラードを愛していますがSFファンでしょうか? 梅原克文氏はSFファンなのでしょうか? ぼくと梅原氏と(でなければ栗本薫のファンと、あるいはSFアニメのファンと)のあいだには共通の言葉はほとんど存在しないと思いますが、それでもどちらもがSFファンなのだとしたら、「SFファンとは〜」と問題を立てることに意味があるんでしょうか? ぼくには、とても意味があるようには思えない。

>本当のところはSFファンは、SFに、科学的正確さなんか求めてはい
>ないのだ、ということでしょうか?
というか、誰のなんという作品が「科学的に正確でないからダメだ」と誰にけなされたのでしょうか? 『アルマゲドン』? 『宇宙戦艦ヤマト』? ラリイ・ニーヴンは科学的にはデタラメかもしれないけれど、そうクサされたことはないですよねえ。

1121//RE:既存科学とSF (1999/03/26 19:59:48)
MAIL::野尻抱介
了解しました。それなら異議なしです>小林さん。以前うちの掲示板で同じ発言があったときから気になってまして。あの時は突っ込みそびれましたが。

しかし大森さんていろんな面で心が広いですね。ときどき感心します。

1120//RE:SFとか科学とか (1999/03/26 19:06:08)
MAIL::三枝貴代
すみません。印象批評で申し訳ないのですが。
菊池さんの御発言(1119)を読んで思ったことなんですが。
SFのファンは気に入らないSFをけなす時に、非常にしばしば、「科学的間違いが多数ある」とか言いますが、そういった言葉は、「けなす」という目的に便利なツールだからつかっているだけであって、本当のところはSFファンは、SFに、科学的正確さなんか求めてはいないのだ、ということでしょうか?

(えー、明日から4日間学会のため不在なので、この発言に関するコメントがあった場合の返事は遅れます。あらかじめ非礼をおわびしておきます。)

1119//SFとか科学とか (1999/03/26 18:03:52)
MAIL::菊池誠
白熱してますね。
おいらはフィルディッキアンなので、無茶なSFでぜんぜんオッケー。”ブレードランナー3”に形態形成場がでてきたって、単なるガジェットとして素通しだ(でも”ガイア伝説”みたいなのはだめ)。
スペオペなら超光速通信がでてきても、へっちゃらさ。宇宙空間で爆発音が鳴っても怒らない。
でも、その作品がハードSFなら、超光速にそれなりの理屈をつけてもらわないと許せなくなっちゃいますですね。”2010年”の映画で最後に爆発音が鳴ったりすると、やっぱ気になる。
というふうにですね、読む姿勢として、”これは科学に気をつけるSF、これは科学に気をつけないSF”と自動的に仕分けしてしまうのですが、普通はそうじゃないの?
ちなみに、いかにハードSFでも、それをSFにするのは、”科学的に正確な部分”ではなくて、”嘘”の部分だと思いますね。
問題は最新科学ネタを盛り込んだエンターテインメント系SFね。科学を科学として意識的に盛り込んでいる以上、おいらとしては、そのメインアイデアの部分くらいは科学的に正しくないといやだな。たとえば、2次元の水面にはソリトンが立たないとかさ(^^)

1118//アプローチと名称とは、別でしょう。 (1999/03/26 17:57:54)
MAIL::三枝貴代
》蛸型の知的なやつとか緑の小人を妖怪でも妖精でもなく宇宙人だと、登場人物なり作者なりが断定した段階で、科学趣味の条件は満たしていると思います。

ならば、

》SF とファンタジーの違いはどこにあるかというと、既存科学を超える存在もしくは現象に対して、科学的なアプローチがあるかどうかだと思うのですが、いかがでしょうか?

は、

SF とファンタジーの違いはどこにあるかというと、既存科学を超え
る存在もしくは現象を、科学的な名称で呼ぶかどうかだと思うのですが、いかがでしょうか?

が、正しい書き方ではないかと……。
困ったな。小林さんの発言の意味がまったく変わってしまったような気がする。

科学的用語を用いているが科学ではない「疑似科学」という例を考えるにつけ、「科学的アプローチ」と「科学的名称で呼ぶこと」とは、まったくべつのことではないかと、私は思うのですが。

念のため。
SFは科学的でなくてはならないとは、私は思っていません。
むしろ、科学的であることをSFの評価基準にすることによって、SFは自分の寿命を縮めるだろうと考えています。

1117//既存科学と SF (1999/03/26 17:08:04)
MAIL::小林泰三
>諸星友郎 様
>んがしかし、この「科学的」ってのをSFの定義に持ってくると、「ガジェット的SF基準」でSFと認定
>されたSFがことごとくSFから外れてしまうので、この、科学的SF基準は、あまり好きではありません
>。

僕が使った「科学的アプローチ」という言葉ですが、科学的
方法論によって成り立った小説のみを SF と呼ぶという意
味ではありません。「科学趣味に基づいたアプローチ」ぐら
いの意味ととってください。

大森>基準はけっこう簡単で、宇宙人、ロケット、タイムマシン、
大森>超能力、未来、パラレルワールド、改変歴史が出てくれば
大森>だいたいSFでしょう。吸血鬼、狼男、幽霊はだいたいホラー。

蛸型の知的なやつとか緑の小人を妖怪でも妖精でもなく宇宙人
だと、登場人物なり作者なりが断定した段階で、科学趣味の条件
は満たしていると思います。
で、この科学趣味を持ったアプローチはその趣味の部分が大事で
科学的な方法論から外れていても僕的には OK です。

>野尻抱介 様
>えっ、じゃあ『渇きの海』や『楽園の泉』や、小林さんの『天獄と地国』はSFじゃないんでしょうか?
>もしかして「既存科学」=「既存の知識」みたいな意味ならわかるんですが。

「既存科学」=「既存の知識」という意味で使いました。
#『渇きの海』や『楽園の泉』はともかく、原理不明の生体メカや
#物理法則に抵触しているようにしか見えない巨大建造物を成立さ
#せているシステムが登場する『天獄と地国』は既存科学の範囲外
#のような気がしますが。(^^;)

>俺的SFの王道は「既存の知識の範囲外を既存の科学で扱う」なので。

「既存科学の範囲外」と「既存の科学」の整合性に主眼を置いた
SF がすなわちハード SF ではないかと。

>大森望 様
>小林さんほど過激じゃないので(笑)『夏のロケット』もSFでいいじゃんとは思いますが、現実の科学、現実
>のテクノロジーとの距離が近いものほど、オレ的にはSF度が低くなる感じ。ただ、あんまり遠くなるとフ
>ァンタジーに近づいちゃうんで、オレにとってのスイートスポットがベイリーあたり、ってことですか。
>このへん、人によってスイートスポットが違うでしょう。

僕もそれほど過激ではありません。(^^)
『夏のロケット』は未読なのですが、地球近傍の宇宙空間はそろそ
ろ SF と冒険小説の境界になりつつあるのではと思います。
逆に言うと、南極点やエベレストの頂上を目指す小説が SF とし
て成立した時代もあったということです。
#でも、『ロケットガール』はなんとか SF ということで手を打
#ちませんか?
##あっ。結局、自分が好きな作品はとりあえず SF に分類して
##るのかも。

1116//RE:パラサイト・イヴとか (1999/03/26 17:06:03)
MAIL::三枝貴代
あの話の基本となる「細胞共生説」は、20年以上前の学説ですね。
「ミトコンドリア・イヴ」という説も、13年以上は、さかのぼれるはず。
今度の「ブレイン・バレー」で書かれている学説も、学説としては結構古いものが多いです。
だから彼の作品は、書こうとして、だがすでに何人もの作家が敗退していたテーマである可能性も高いです。
それゆえ、ちゃんとした作品に書いた瀬名さんが偉い、という言い方もできるかな。

あれは学者だから書けたのではなく、優れた作家だから書けたと言ってあげたいですね。

でもまあ、ネタとしては確かに諸星さんのおっしゃるように、一発ものですよね。
だからあれは、SFではなく、ホラーにしたところが偉いのだと思います。

1115//ロケット (1999/03/26 13:25:52)
MAIL::やぶにらみ
誰でしたが(カール・セーガン?)、
月ロケットの技術的側面は、ベルヌの時代にほぼ予測がついていたが、
月着陸の瞬間がTVで生中継されるとは予測できなかった、
と書いていたような記憶がありますが。
そういうギャップはどうしても出てくるのではないですかね。

1114//パラサイト・イヴとか (1999/03/26 13:00:49)
http://www.network.or.jp/~tomorrow/warp/warp.htm MAIL::諸星友郎
>昔と違って、「そのへんの専門誌に載ってる先端科学ネタ一発で
>長編一本書いて読者が感心する」ってのが成立しにくくなってる
>のはたしかでしょう。

私の認識では「パラサイト・イヴ」ってのは、まさしくコレなんですが(^_^;;
「パラサイト・イヴ」が売れたってのは、たまたま「成立した」例なんですかねぇ?

1113//SFの未来予測性 (1999/03/26 11:45:36)
http://www.hf.rim.or.jp/~morrow/ MAIL::諸星友郎
>「月旅行の次は、当然火星旅行だろうと思われていたのに、
>宇宙ステーションの方が先に出来てしまうような時代だから、
>SF作家は困っちゃう」という話だったのですが。

パーソナルコンピュータの発達を予測できなかったのは、SF作家の失敗かもなぁ、と思いますが、月着陸が1960年代に国家主導のプロジェクトで実現してしまったのは、SF作家の予測ミスというよりも、ケネディが無茶をしたのが悪いんだと思います。(「A.C.クラークをはじめとしてSF作家達は、月面着陸が国家プロジェクトで60年代に実現するとは予想だにしてなかった」って話(どこで仕入れた話だったか、失念)を鵜呑みにして書いてますが)

そういうわけで、「自然科学的整合性で未来予測ができる」ってのも60年代末でお払い箱な発想なのかもなーと思います。

まー、「社会科学的に未来予測ができるか?」ってのも、かなりあやしいと思いますけども(ぼく、りけいくんだから、ぶんけいのがくもんのこと、わかんなーい)。

ハリ・セルダンと愉快な歴史心理学者たちが登場しなきゃ無理なんじゃないかなーと思います。

というか「SFが(自然・社会)科学で未来予測をする」のはいいんですけども「その未来予測が外れていたら、外れた瞬間にその予測(を含んだ作品)の価値が消滅する」ってのが、無しなんじゃないでしょうか。(誰もそんなことを言ってない気もしますが(^_^;;)

1112//RE^2:SFとか、科学とか (1999/03/26 06:56:10)
MAIL::三枝
》「月旅行が実現してSF作家は商売上がったり」みたいな議論は昔からあるわけで、

いえ、私が言っていたのは、「月旅行の次は、当然火星旅行だろうと思われていたのに、宇宙ステーションの方が先に出来てしまうような時代だから、SF作家は困っちゃう」という話だったのですが。

1111//re:SFと科学とか (1999/03/26 02:09:02)
http://www.ltokyo.com/ohmori/ MAIL::大森 望
オレ的SFのど真ん中はラファティとかベイリーとかワトスンとかなので、現実の科学の最先端と整合性があるかどうかはわりとどうでもよかったり。
「科学的論理」が基盤にあって、非日常的光景を見せてくれる小説、かな。オレSFには認識的異化作用(センス・オブ・ワンダーともいう)が重要だけど、それを「SF」の条件にはしません。ガジェットSFも容認なので。
小林さんほど過激じゃないので(笑)『夏のロケット』もSFでいいじゃんとは思いますが、現実の科学、現実のテクノロジーとの距離が近いものほど、オレ的にはSF度が低くなる感じ。ただ、あんまり遠くなるとファンタジーに近づいちゃうんで、オレにとってのスイートスポットがベイリーあたり、ってことですか。
このへん、人によってスイートスポットが違うでしょう。

あと、SFで「科学」っていうとだいたい自然科学(とくに生物・物理)をイメージするみたいですが、社会科学系の流れも厳然としてあるわけで、このへんはあんまり現実のテクノロジーの影響を受けないかも。
「月旅行が実現してSF作家は商売上がったり」みたいな議論は昔からあるわけで、もちろん現実の科学・技術の発達の影響をもろに被る種類のSFもあるでしょうが、オレの好きなSFはわりとそこからはずれてますね。

昔と違って、「そのへんの専門誌に載ってる先端科学ネタ一発で長編一本書いて読者が感心する」ってのが成立しにくくなってるのはたしかでしょう。

関係ないけど、この掲示板では、映画の「スター・ウォーズ」には必ずナカグロを入れてください>鳥居様。厳守すべきローカル・ルールなので(笑)

1110//「楽園の泉」は (1999/03/25 18:15:00)
http://www.hf.rim.or.jp/~morrow/ MAIL::諸星友郎
『楽園の泉』
スリランカが赤道直下にあるから、不許可、とか?(^_^;;
(スリランカ、とは明記してないんでしたっけ?)

どうしてもスリランカに軌道エレベータを建てたいがために、
スリランカの方を赤道直下に移動させたクラークと、絵的に、
東京に軌道エレベータが欲しかったから「ま、いいか」と建てて
しまった麻宮騎亜のどっちが「SF」だったろうか、とか考えて
しまったりして。

「楽園の泉」の軌道エレベータに使用した素材(炭素繊維だっけ?)
は、理論的には製造可能なんでしたっけ?

#スターグライダーと最終章は、既存の科学から逸脱してる
気もしますけども。

個人的には、クラークの作品の中では「楽園の泉」が一番
好きです(って、あんまり読んでないけど>クラーク)

1109//既存科学とSF (1999/03/25 17:12:37)
MAIL::野尻抱介
#1106> 既存科学の範囲内で書かれた小説はもはや SF ではないと思います。

えっ、じゃあ『渇きの海』や『楽園の泉』や、小林さんの『天獄と地国』はSFじゃないんでしょうか?
もしかして「既存科学」=「既存の知識」みたいな意味ならわかるんですが。
俺的SFの王道は「既存の知識の範囲外を既存の科学で扱う」なので。

1108//「ガジェット的SF基準」と「工学系は、エンターテイメントSFか?」とか。 (1999/03/25 14:08:58)
http://www.network.or.jp/~tomorrow/warp/warp.htm MAIL::諸星友郎
1107の三枝さんの発言の内容を言い換えると、
「『科学的かどうか』というのは方法論が科学的かどうかであって、適用対象が何かは問わない」
というような言い方もできると思います。こういう言い方は、かっこうがよくて好きです。(大幅に言い換えたので、もはや意味がかわってるかもですが)。

特に、「オカルトを科学する」とかいう時に、よく出てきますよね。

んがしかし、この「科学的」ってのをSFの定義に持ってくると、「ガジェット的SF基準」でSFと認定されたSFがことごとくSFから外れてしまうので、この、科学的SF基準は、あまり好きではありません。

「ガジェット的SF基準」ってのは今、でっちあげた用語ですが、意味としては、

1054
大森>基準はけっこう簡単で、宇宙人、ロケット、タイムマシン、
大森>超能力、未来、パラレルワールド、改変歴史が出てくれば
大森>だいたいSFでしょう。吸血鬼、狼男、幽霊はだいたいホラー。

ぐらいの意味です。

余談ですが、「理系vs文系」って話になると、ガジェット(対象)さえ科学っぽければ方法論が非科学的でも許してしまう、ってのはどっちかというと理系に多いんじゃないか、とか思ってしまうんですが。ってのは、私が工学系の出身だからでしょうか?(「工学系」の問題じゃなくて、テメー個人の問題だろ>オレ)

「理系」を「理学系」と「工学系」に無理矢理にわけると、「科学的にはよくわからんが、とにかく何かにつかえそうだね」というあたりで実用に走ってしまうのが工学系で、この発想は「科学的にはあやしげだが、とにかく面白いからいいよね」ということで走ってしまうエンターテイメント系SFに通じる所があるかもなぁ、と思います。はい。(こじつけっぽですけど)

1107//RE:嘘がなければ SF ではない。 (1999/03/25 09:15:54)
MAIL::三枝貴代
小林さんのご説明は大変的確で本質をとらえたもののように、私には思えるのですが。ちょっと、文系の人に説明するのが困難かな。
つまり文系の人って、「科学的」ってことを「科学的事実に正確なこと」だと考えていたりすることがしばしばありましてね。「現象へのアプローチの仕方、解釈の仕方、思考の構成などが、実証的で論理的であること」だとは、なかなか思って下さらない。
なにか、巧い説明法って、ありませんかねえ。
(ちょっと、別口の掲示板で、それで苦労したばかりなので。余談として聞き流して下さっても結構です。)

1106//嘘がなければ SF ではない。 (1999/03/25 00:16:17)
MAIL::小林泰三
既存科学の範囲内で書かれた小説はもはや SF ではないと思います。セン
ス・オヴ・ワンダーは寧ろ既存科学の範囲外にあるのではないでしょうか?
で、SF とファンタジーの違いはどこにあるかというと、既存科学を超え
る存在もしくは現象に対して、科学的なアプローチがあるかどうかだと思う
のですが、いかがでしょうか?
既存科学の範囲外を扱っているからには、そのうち科学の発達にしたがって
だんだんと時代遅れになるのは仕方のないことです。それでも、科学的な間
違いが気になる読者というのはそれこそマニアックな読者で、永久に SF
を見限ることはないと思います。
#しかも、少数だから売り上げに影響しないかも。(^^;)

1105//結局SFってジャンルの決め方に問題があるのかしら (1999/03/24 03:54:48)
http://members.tripod.com/jadelied MAIL::とりいみなえ@試験終わってグロッキーです。
だいぶ下の方でサイファイがどうの、ってはなしも少しありましたけど。つまり
三枝さん>嘘だというお約束で、世界観の統一がとれた作品」は、SFではなくファンタジーだと思われるのではないか、ということですね。
とかまた、

諸星さん>「現実の科学と異なる科学を用いて整合性のある世界を構築するのは困難である」「現実の科学と異なる科学と用いて作られた世界に整合性があるのかどうか判断するのは読者にとって困難である」
というのも、結局は「現実の科学じゃないからSFじゃない」って乱暴な切り方をすれば、それはそれで解決するのかも。

ただ、70年代のSFに出てきた「科学」の中にはいま見るとガセネタなものも多いわけで(科学の進歩のスピードについてはすぐ下で議論されてますけれど)、そこは結局作者の想像力なわけでしょう。
それが時代遅れになった時点で、いちいち「これはSFからファンタジーに変更!」っていうわけにも行きませんよね。

それにそう言う基準では、スターウォーズとか、どう見たってはじめからファンタジーですし。ゴジラだってそうですし。
本当にハードSF(でしかもそれが現実の理論に矛盾していない間)しか、SFと呼んではいけないことになりませんか。
それでいいならいいんですけれど、でもそれだとSFのSだけで、Fの方が消えてしまう気がします。
個人的には、まずFがあってSFではないか、と思うものですから。(というか、本当はSもあってFもあってSFですよね。)
だって、いくら科学的に正しい内容でも、単に高度に確からしい理論の羅列だったらそれは教科書でしょう。より確からしい理論があらわれたら却下するというのは、それは科学理論に対してやるものであって、そもそもフィクションに対しての行為ではない。

どうやら、よけいな発言で議論をずらしてしまったようです。この方向は議論に無意味だと思われたら、とっとと無視しちゃって下さい。

ところで、

諸星さん>「自分の知っている『本当の事』と異なる仮定を用いた話をみると『こんなんウソやん』と思ってしまって思考が停止しちゃうよね(停止しちゃう人っているよね)」
あえての悪いいい方とはいえ、そこまでいくと、それは単に現実とフィクションの区別がつかないだけでは(笑)。
いちおう猿と人間は、鏡の中の自分を自分の像だと認識できるそうですけど?
フィクションとしてへたくそだから「こんなんうそやん」と思う(興ざめする)のなら、わかりますけどねえ。痛いくらい。
だったらそれはファンタジーと呼ぶ(三枝さんのおっしゃるように)、のが一般的ですか。

1104//SFの読者は「ホントウ」を求めているのかも。 (1999/03/23 08:58:25)
MAIL::三枝貴代
》必ずしも現実世界の「正しい科学」と整合性がある必要はないと思いますが、

これを、綺麗に割り切っていない人って、結構多いのではないかと思うんですよ。

第一の理由は、やはり読者は、正確で事実に沿った内容が書ける作家をすごいと感じてしまう傾向があるってことですね。
アジモフの根強い人気などは、これが原因一つである可能性もありますし、スペオペが軽くあしらわれる理由でもあるのかもしれません。

第二が、「嘘だというお約束で、世界観の統一がとれた作品」は、SFではなくファンタジーだと思われるのではないか、ということですね。
最近は、SF畑よりファンタジー畑から良い作品が出て来る傾向にあるってのも、この関係かなあとか。

1103//SFと「科学的整合性」 (1999/03/23 07:11:29)
http://www.hf.rim.or.jp/~morrow/ MAIL::諸星友郎
とりいさん>諸星さま
とりいさん>>SFの魅力の多くの部分が科学描写の正確さにある。

上の意見は、三枝さんの意見の言い換え、として書いたものですので、私の個人的なSF観を必ずしも表しているわけでは、ありません。

フィクションの出発点が統一性のある架空世界の構築であること、SFの世界構築の統一性のキーが「科学」であること、に関してはそうだと思います。

SFの世界構築の統一性のキーである「科学」が、必ずしも現実世界の「正しい科学」と整合性がある必要はないと思いますが、「現実の科学と異なる科学を用いて整合性のある世界を構築するのは困難である」「現実の科学と異なる科学と用いて作られた世界に整合性があるのかどうか判断するのは読者にとって困難である」という二つの点から敬遠されるのではないか、と思います。

後者を(悪い言い方で)言い換えると「自分の知っている『本当の事』と異なる仮定を用いた話をみると『こんなんウソやん』と思ってしまって思考が停止しちゃうよね(停止しちゃう人っているよね)」ということですか。

あるいは、SFに「現実世界の正しい科学で構築された世界での、科学を主題としたお話」という非常に限定されたものを求める人がいるかもしれません。私はこの手の分野のお話は、SFというよりむしろ、一般小説や科学ノンフィクションが担うべき部分だと思います。(「SFの可能性はどこまで広がるのか?」とか「SFの定義をもっとも広げたときに、どこまでSFに内包できるのか?」とか考えた場合は、SFに含めることも可能かとは思いますが)

SFの使命として「現実の科学技術と整合性のある科学を描かなくてはならない」があると仮定するとすれば、ジュール・ベルヌの小説はSFとしては失格となって「魅力がなくなるわけではない」という「魅力」は、あくまでも「SFと無関係な部分で生じる魅力」ということになりますか。

なお、

とりいさん>誰でしたっけ、「高度に発達した科学は、魔術と区別が
とりいさん>つかない」といった有名なSF作家がいたと思いますが
A.C.クラークの「クラークの第三法則」だそうです。

詳細は、ワープ日記990217を参照。
http://www.network.or.jp/~tomorrow/warp/w9902c.htm#990217_3laws0

「いまのSFが良くないのは、」以下については、なんとも。

1102//ものすごく久しぶりに書き込みます。 (1999/03/22 23:20:44)
http://members.tripod.com/jadelied MAIL::とりいみなえ
しばらくROMしてましたが、やっとちょっとは私にもなにか言えるかも知れない話題なので(笑)。下の方の批判はともかく、SFと科学の関係についてだけ、思ったことを。

諸星さま
>SFの魅力の多くの部分が科学描写の正確さにある。
宮崎さま
> 一部のハードSFを例外とすれば、そもそもSFは、科学的な正確さをそんなに要求されるジャンルではないので
三枝さま
>SFの魅力は、「科学描写の正確さ」ではなく、「科学という魅力的な魔術の幻惑効果」かな、とか。

字面ではそれぞれ違うことを指しているように見えますが、本当は同じことをおっしゃっているように私には思えます。

SFに限らず、フィクションというものは原則として架空の世界を作ることから始まるわけですから、その世界の構成にいかに統一性があるかというのが出発点ですよね。(ああこれ、結局あの話に戻っちゃいますね(笑)>稲葉さま)
で、SFの場合はその世界を構成している理論が、現実世界で(その時々の)主流になっている科学理論なのではないですか?
誰でしたっけ、「高度に発達した科学は、魔術と区別がつかない」といった有名なSF作家がいたと思いますが、SFの中で利用される科学技術というのはやはりそういう意味での魔術性の魅力があるのであって、しかもその魔術性はいかに科学技術を正確に描写しているかに(原則的には)よるものだという相互関係の両側面が三枝さまと諸星さまのお言葉に端的にあらわれているような気がします。
宮崎さまの「正確さを要求されない」というのは、もちろんいい加減であっていいと言うことではなく、正確さとフィクション世界の統一性のどちらを取るかと言えば統一性を取る、ということではないかと思うのですよ。
たとえばジュール・ヴェルヌとか、技術的にはいまでは「おやおや」モノですが、それで魅力がなくなるわけではないでしょう。未来モノに限らずシェークスピアだって何だって、今考えればまずい要素はずいぶんありますよ。
でも、簡単に消え去るのは、その時代のウケだけを狙って他に魅力のない作品です。(プレシオジテとか、田園趣味とか、異国趣味とか…あれ、またあっちに戻ってしまった(苦笑))。

いまのSFが良くないのは、特に日本の場合そういった統一性なんか無視して安易に好き勝手なことを書くというスタイル、ウケだけを狙うスタイルがはびこってしまったからで(まあ、そういうのを読んで喜んでいた私たちの小中学生時代にも責任はあるのですが)、読み手を引き込むだけの統一性のある(現実味のある)フィクションがもはや出てこないという問題の一環ではないでしょうか。
この辺で私は、池澤夏樹がちくま文庫日本文学全集の中島敦の解説で書いている、「たぶん大正時代のある時期から後、日本の作家たちはみんな知識人であることをやめてしまった」という言葉を思い出したのですが、結局SFもふくめてそう言うことなのでは。
二度三度読み返そうと思う本って、もうSFに限らず少ないでしょう。SFに限らず。
アーシュラ・K・ル・グゥインみたいに幼い頃から親の書斎で人類学の本に浸ってた、ぐらいの予備知識の達人で・なおかつ生身の人間への視線も忘れないような人が出てこないと、この現状は根本的には変わらないのではないでしょうか。でも、変化が遅すぎるということは決してないと思います(下手したらSFという言葉の意味が変わってしまう、ということはあるにしても)。

こういうこと書きますと、一番自分が心苦しくなるんですけどね。
ちょっと話題が分散して、違う話になってしまいましたが、ごめんなさい。でも、この話題はSFに限ったことではない、というのを、みなさまの書き込みを読んでいて痛切に思いましたので。下手をしたら文学だけの問題でもないんですよね。

1101//科学の幻惑効果 (1999/03/22 19:28:21)
MAIL::三枝貴代
SFの魅力は、「科学描写の正確さ」ではなく、「科学という魅力的な魔術の幻惑効果」かな、とか。
だからそれは、「おおおぉー、すっごいじゃーん」な部分が必要なわけで、読んだ途端「あ、間違いみっけ!」と、素人にばれるようではダメなのではないかと。
けれどそれが、あっさり起こりそうなのが現在という時代かな。

》どんどん陳腐化するので、どんどん売れるってのはどうです?(^_^;;

わはは。だったら良いですね。
でも、少しでも古い物を手にした読者に、「このジャンルは下らない」という印象を与えてしまったら、最新の本も巻き添えで売れなくなる可能性とかもちょっと、あるかも。

それから、宮崎さんのおっしゃる「理論とテクノロジーをわけよう」というのは、実際の研究場面では、ちょっと困難なんですね。
けっこうその二つは密接に絡まり合って発展しているものなので。