バウハウス展
・・・BAU HAUS・・・
EXHIBITION

(Sponsored Essay:協賛広告付(募集中))


■上野公園へ (08年7月13日)

 その前日の午後は、晴天の霹靂であった。バリバリと雷が鳴り出し、とたん に、雨と雹かもしれない大暴雨である。

 その日の午後は、相変わらず暑かった。中部地方では最高気温を記録したと か。暑いのである。都心でも皇居は若干涼しいのだそうだ。森のせいだ。出掛 けたとしても、 皇居の中 は簡単 れないのだろう。いくらサミットが終わ ったとしても、身分証明書も無いし免許証、パスポートも期限切れ。誰何(す いか)されたときには健康保険証くらいしか提示するものもないのであ 。 他の 手段は、タヌキに でもなるしかないらしい。
    タヌキ話の真偽は、以下のニュースを元にしている。
    >>■「皇居のタヌキ」陛下が論文、ふん分析し共同執筆
    >> 天皇陛下が皇居に生息するタヌキのふんを分析し、研究者と共同
    >>執筆された論文「皇居におけるタヌキの食性とその季節変動」が、
    >>国立科学博物館発行の研究報告に掲載された。(・・以下略・・)
    >>(2008年7月11日02時07分 読売新聞)
 森のせいで涼しいのであれば、 上野の森はどうだろうか。 ここなら、健康保険証も要らないし、 ○ラン人も○ラク人もパ○○○○人もパスポート無しで入 れるらしいし、クスリも健康保険証無しで買えるらしい。いや、クスリはいか んな、健康保険証無しで他にもカキ氷とかも買えるだろう。夏はやっぱり夏季 氷!だな。

 ということで、日曜日の昼下がりに上野公園まで出掛けてみる。♪上野は〜、 東北人の♪心の駅であったのだが、最近では中東人も心の駅にしているらしい。 あなた!一度この話題から離れなさい!!

 ということで、日曜日の昼下がりに上野公園まで出掛けてみる。JR恵比寿 駅の西口改札入口から入って、30分ほど動く電車で軌道上の細い通路を通っ てJR上野駅は公園口出口から出た。電車というシステムもよく考えるとなん だか可笑しい。殆どの施設は通路なのである。入口から入って特にくつろぐこ ともなく出口に出るだけで金を取られるのである。上野公園は台東区であるが、 お隣の墨田区、昔の玉乃井であれば「抜けられます」という看板があって、只 で通路は通れたものだ。それがだんだん抜けられなくなって、抜けるところの 場所も変わってきてしまった。
 後藤晋平先生が東京の都市計画をもう少し強引に続けてくれたら、今でもど こでも「抜けられます」だったということはなかったろうかと偉大な古人の中 途半端な遺徳を偲ぶのである。ニンゲン系の文化の進化のお題目も既に行き止 まりである。抜けられる道はない。
あなた!この話題からも離れなさい!!


■トランスポーツ準備運動

 ということで、日曜日の昼下がりに上野公園まで出掛けてみる。JR恵比寿 駅で切符を買って改札口を入った。
 わたしは、今月になって生まれて初めてPASMOというカードを 購入した。定期券であるが、定期路線以外の区間でも乗り降りが出来るという ものである。
 出口の改札口でこのカードを感応装置に近づけると機械が官能具合によって、 ピッとかブッとかベッと鳴るのだがピッという官能音以外では機械が感応して 行かせてくれないのである。それに、その先の表示器には、通過するたびに 「0円」とかの表示が出る。最初は何のことか理解できなかったが、どうやら 定期代以外の上納金を積んでおくと、その「0円」が「5500円」とかそう いう数字に変わるらしいのである。この数字の違いは隣の改札口の表示器を見 たことで発見した。その数字は「隣の改札口を通過する人が持っているカード の上納金の残高」らしいのである。
 つまり、通過するたびに「アナタノ財布ノ中身ハ空デス!」とか「マイド! 190円分抜キ取リ成功。ピポ!」とかを機械に誰何(すいか)されて、それ でも問題が発生すると、はじめて生の係員がお出ましになるのである。都会で 人間的な顔の見える生身のお付合いをするには、問題を発生させないと対応を してもらえないのである。

 磁気記録式のカードから、PASMOやSUICAに変遷したのは何故か。 もちろん便利ということもあるが、もっと大きな キーワードは接触型から非接触型へ の「ヒト属ヒト科都会モン」のねじれてしまった文化の生理的欲求の総 体でもあるのである。
 人が触れ合うほどの過密都市ではふれあいのないデザインが求められ、一時 間歩いても人っ子一人出会わない過疎山村ではデザインのコンセプトが「ふれ あい」だったりする。

あなた!この話題は!、もう始まっているのね、、、


 ということで、上野公園に着いた。まったく、人様(ひとさま)の考えるこ とはみんな同じか。休日の安近短、車でドライブとかしないの?ガソリン値上 げ。飛行機で海外旅行はどうした!サーチャージ。わたしは元々免許証無し、 パスポート無しなので疑問文ででも感嘆符付きでも発言できる権利があるので ある。いや、そういうことではなく、上野公園は人出が多い。


■地名異名事(ちめいイメージ)

 上野公園を散歩していた。少し歩けば森の中にはいる。ただ、行けども行け ども森である。などと山頭火風なことを言えるほどには続かない。が、森は森 である。山盛りとはいかない、木を一つ抜いてすり切りの林くらいであるが、 「上野の森」と呼称されているのだからしょうがない。地名というものはそう いうものである。
 目黒区には数十年前には一時期頑固で厳格な役人がいたらしく「元競馬場」 などという地名がある。が、昨今は元の大学が無くても「学芸大学」「都立大 学」と名乗ったままで、地元でも「元学芸大学」や「都立大学跡」に地名変更 運動をするような共産党員や社会党員や、(ここで中断できないので流れで) 民主党員や公明党員や自民党員や、あれ、あとは、なんだっけか。そうそう、 国民新党員や地球防衛隊隊員も誰も運動をしていない。
 この現象というのは、 デザインの要素としての「ネーミング」 もその一範疇で ある事を如実に証明していないか。そういえば、「元清掃工場」とか「元焼場」 とか「墓場跡」などいう地名もみあたらない。いや、鳥取県境港市には実在し ているような気もするので、断定は取り下げておこう。

 鳥取県から上野公園に移動する。切符もPASMOもSUICAもいらない。
移動しても只である。頭脳というのは寛容である。JRも移動料金ゼロ、こう いうシステムを考えて欲しいものだ。元々国の会社だったのであるから、それ くらいのお礼とか融通はして欲しいものである。元、国の会社(組織)という ことでは、NTTにもJTにも同じように言いたい事があるが、ここで思考を 留めておくわけにはいかない。はいはい思考も移動、しっし。

 こうして、思考も移動しながらも歩行しているので散歩は森を抜けて、噴水 を抜ける。途中に有名な建物がいくつかあった筈だが思考中なので、それらの 建造物名が順序だてて並べられない。それに、上野公園内の建造物名は中央線 のとある駅にでも行ったかのように「国立×××」という名前が多いのである。 国立市は、商標登録をしなかったのだろうか。ま、国立市も国分寺と立川の間 だったので 「自分の名前にしちゃった(てへっ)」 てなもんだで、国分寺と立 川の手前もあり、自分がオリジンであるとはさすがになかなか言いにくいわな。 それで国を立てておけば、まあ間違いない、という戦略なのである。

    >>JR国立駅は「国分寺」と「立川」の間に作られたためこの名
    >>になり、後に市の名前に採用された。駅名が市名になった珍
    >>しい例。
    これは、&T'sDESIGN社OT氏が、『とんでも一行知識の世界』
    (唐沢俊一・筑摩文庫)に載っていたとのレポート(08/05/03)
    です。


■進化論的スピニングホールド(現在の進化座標)

 そうこうしているうちに、歩行であるが走行していたのである。走行といえ ば速く歩く(走る)というイメージが強いので、走行とは言うまいとは思うの だが、車の走行距離といったらこれは車がある基準(時間、燃料、速度)で、 動いた距離のことをいいます。つまり徐行してもそれは走行距離とみなされま す。この事実から敷衍(ふえん)すれば、歩くこと(歩行)も走行のうちであ ることは、自明の理ですね。
 では、走行と歩行に違いが無いのかというと、よくよく漢字の形を見なさい。 歩行とは左から右に移動することです。そして、走行とは右から左に移動して いる形が見えませんか。わたしはここからデザインの奥義まで発見してしまい ました。それは、非常口のマークです。人形(ひとがた)の図がありますね。

 北半球人は、太陽を見るのには南方を向く。 東から上り西に向かうというこ とは、左から右に移動している。ただ、太陽は直接眺めると視力を崩壊するほ どの力がある。これを太陽力といいます。はい、太陽力はウソですね。太陽は 直視してはいけませんというのが本当のことです。
 それで、北半球人は、太陽を直接眺める代わりに太陽を背にして立つ(つま り後ろ向き)という手法を発明した。太陽を背にすると、人形(ひとがた)の 実寸よりは拡大された影が出来る。
 影が実寸になるには、人は前後平面形でありかつ地面に接着している状態が 必要である。が、地面に接着した場合にその影は誰にも見ることが出来ないの である。こういうニンゲンの状態を影日向のない人と表現するが、陰日向とか 裏表のない人という状態の実現はほぼ不可能だということがこの説明で理解で きよう。人類の祖先は200万年ほど前に発生して30万年(から70万年と も)ほど前にやっと「ヒト属ヒト科」と呼ばれるようになった。爾来30万年 (から70万年とも)掛かっても人類はいまだこんなことの解消も出来ないの である。

 話を戻す。
 太陽を背にすると、人形(ひとがた)の実寸よりは拡大された影が出来る話 である。太陽を背にして、じっと東海の小島の磯にたたずんでいると、その人 形(ひとがた)の影は、なんと、左から右に移動しているのです。
 南方に向かって太陽を見つづけると目がつぶれる、いや、
 南方に向かって太陽を見つづけると太陽は左から右に動いて、
太陽を背にして自分の影を見ると影はやはり左から右に動いている
のです!不思議でしょう。 文科系人間は、この程度の話でコロリ とだまされます。
 この影の不思議から、日時計の発明話へと騙り続けても、だまされたままで す。あ、暗くなったね。明日の朝の影も左から動くか確かめようか。夜明けの コーヒーでも二人で飲もうよ。二人で時(日時計)を創ろう。・・・・・・
 しかし、理科系の彼女などにこういう話をすると、「バッカじゃないの!」 とそれから30年くらいは見向きもされなくなってしまうので注意してくださ い。


■RightとLightとサイコな漢字(かんじ)

 ああ、話が戻せない。
 歩行とは左から右に移動すること、走行とは右から左に移動することである。
という話のことです。どうしても書いておきたいことがある。非常口のマーク です。人形(ひとがた)の図の話です。この人物の向きです。これは、左向き のマークが多いのではないだろうかということの理論的裏づけを思いついてし まったのです。何故か「走」という字も左向きです。また、この人物の形は 「足」という字にも似ています。この意匠は何を意味しているのでしょう。実 は足という字も左向きですね。漢字のそもそもの成り立ちからも「足」と「走」 は兄弟(のような)文字であるから当然だろうとお思いになられるでしょう。 確かに、白川静先生の論を持ち出すまでもなく、類似文字ですね。
 では「歩」という文字はどうか。「歩」という文字も「足」と類似かもしれ ません。が、「手」という字と同じく「右向き」なのです。ここから何が導出 されるかというと、左から右への移動は、自然な時間軸を表しているのです。
例えば、グラフにしても表にしても時系列の関わるそれらの表現は、左が過去 側、右が未来側を表しているのが心理的に自然です。

 非常口の左向きマークは、心理的に不自然 な表現をしているのです。
元々、ヒト属ヒト科は歩くのが本源であり自然なのだということです。走るこ とは不自然な状態なのです。不自然な状態とは、左(座標A)から右(座標B) への流れを縮めようとすることです。走ることとは、左から右に歩いて移動し た時間を縮小することによって、座標Bをより左に持ち込もうという不自然行 為なのです。不自然な行動というのは、アドレナリンが増加します。アドレナ リンが増加すると、普段ではありえない火事場の馬鹿力が発揮されたり、短期 的に筋肉行動が俊敏になったり耐痛力(いたみに耐える)が助長されたりする のです。勿論想像ですが、非常口の左向きマークには、このような隠れたデザ インコンセプトがあるのです。

 足と手は文化的には、相反する機能を持っています。 足と手がお互いに離反 する行動をとると移動することさえおぼつかなくなります。この事を「足手ま とい」といいます。暑さで思考も移動を拒否し始めました。こんな駄洒落でこ の夏は乗り切れるのだろうか。心配です。


■建物(HAUS)に入る。

 上野公園の噴水のある池は通り過ぎたのである。通り過ぎてしばらく行くと、 大通りに出てしまう。これは、上野公園ではないのではないか。アスファルト の4車線の道路である。上野公園から外れてしまったのか。車の通る道路際を 歩いても風情もないぞ。だがしかし、歩道に沿って続いている塀は、趣(おも むき)がありそうである。
 わたしは、塀の外の道路を歩いている。道路はやはり格別に暑い(気がする)。 道路からの照り返しがそれに輪を掛けて暑い(気がする)。顔の下で懐中電灯 を上向きにして怪談話をする男優の顔になっている(気がする)。

 それくらいに暑いので最寄りの建物の中に入った。と、そこはバウハウス (BAU HAUS)の展覧会を開催中であった。何故か持ち歩く文庫本に挟 まれて、汗でじとっとしているが、「バウハウス展」の入場券があるのだ。

 どこで拾ったのか?拾った記憶が無いのである。拾った記憶はないが、いた だいた記憶がある。


■ときどき どこからか だれにも というわけではない電話。



 それは、08年7月10日の昼下がりのことであった。
電話機のディスプレイが、パッコンと背景色が白くなると電話の呼鈴(よびり ん)がなった。呼鈴とはいっても、昔のようにベルが実在しているわけではな い。電話機内に潜んでいるバーチャルな呼び鈴である。少し前であれば、この ことを「コール音」と呼んでいたかも知れない。最近では、これが「着メロ」 だ。あ、「コール音」は架けるほうなので受ける方は「コールド音」とは言わ ないから「着信音」ですね。

 簡単にいうと、電話が鳴ったのである。
    J:「はい、株式会社ジンです」
    W:「もしもし、イガラシさんいますか」
    J:「いませーん」

    仕事ではない人の声での応答はとりあえずこう応える。
    S氏などからの電話だと、ここに2、3行付け加えられる。
      J:「ちょっと、待ってください」
      といって、電話口をふさいだ振りをしてイガラシ氏を探す芝居をする。
      J:「やっぱり、いません。本人が言うのだから間違いありません」
      S:「へっ?」
      J:「で、なんじゃい?」

    J:「はい、なんでしょ」
    W:「上野公園で、展覧会があってな、バウハウスって知ってるよね」

    知らないとは言いたくないので、。

    J:「ああ、えーと(何だっけかと考える)、あれでしょ、ドイツかどこか で昔あった美術だか建築だか大工だかのデザイン関係の運動ですね」

    W:「そうそう、そのいにしえの運動。それの入場券、余ってんだけど要る?」
    J:「ほほう、では下さい」
    W:「期限が迫ってるんで、無理に行かなくてもいいが、んじゃ送っとくわ」
    J:「はーい」

 というやり取りをした。
 すると、大抵は最短翌日に、郵便で封筒が届くのである。
 OT氏もWAT氏も、書き物(描き物)にはこだわりがあったりするので、 万年筆などでの手書文字である。よもや、アンケート用紙記入用や、ゴルフの スコア記入用の先っちょだけエンピツ芯付プラスチック棒などでは書かないの である。絶対に書かないとは断言出来ないが、書かないのである。いや、書い ているかも、、、いやいや、書いていない事を希望!としておこう。

 手書きと社名のスタンプ印 はなんだか嬉しい
 ビジネスは、中身の印刷されたゼロの数の多少とかが喜怒哀楽の対象物とな ってしまうのが、手書きの住所氏名と文字の配置などは、喜怒哀楽の対象外と なることが多い。

 その点、ビジネス以外では、手書きの住所氏名と文字の配置などは鑑賞の対 象物ともなり、ゼロの数の2つや3つの違いは笑って済ませることができる。 胃が痛くなることもないので、健康にもよい。
 これからは、脱ビジネス、非ビジネス、エコとゆとりの時代だ。ビジー(多忙) 無(ね)っす。ただ、ビジネスなのにビジー無(ね)っすは辛い。ビジー無(ね) っすをビジネスライクにするのが、スマートというものだ。
 嗚呼、はやくそうなりたい。



■お礼のメール。


Date: Fri, 11 Jul 2008 12:58:02 +0900
Subject: [お礼]バウハウス展の切符
From: Jin Igarashi

 バウハウス展覧会の切符+1をご恵送いただきありがとうございます。
本日届きました。

 バウハウスといえばわたしは「札幌農学校」とか「百葉箱」とかを想起する のですが、何故なのでしょう。
 独逸語ですが、HAUSはやはりHouseのことなのでしょうね。
 なるほど、そうか、、(これは独語)
 ドイツ語は何でもかんでも連結させて一つの単語を作る潔癖とか緻密とか理 科系じみた性格を持っています。シュトルムウントトランク(疾風怒濤)とか いう言葉もそうですね。逆さにすると机にもなる浴槽とかそういう合理性のあ るデザイン(やられた!)でバウハウスに先を越されていないだろうかと少し 心配にもなります。
 ハウスで思い出したのは、かの青山二郎は客の応接中に父親が出てくると、 「ハウス!」といって部屋に戻したそうです。これは犬語では「小屋に戻れ」 という意味ですね。日本では犬はワンワンと鳴きますが、外国に行くと、犬は バウバウと鳴くのです。ありゃ、バウハウスはやはり「犬」と「小屋」の連結 語でしたか。(これは毒語)
 とここまで進めて、青山二郎はバウハウスを知っていた上で「ハウス」と言 っていたのではないかと思い至ったわけであります。(これは読後)

 よし!これで予備知識は充分だ(^^;(これは御都合)

                        /恵比寿バ○ハウス



■会場にて。

 という経緯があったのである。
 わたしは現在ロケ地(東京藝術大学大学美術館)の建物内にいるのである。

 昔々、一度だけここには来た事がある。青雲の志(こころざし)がまだホン の少し残っていた頃の話である。と書けば、高邁な読者諸兄はお気づきであろ う。こほん、東京藝術大学を受験に来たのである。と、お思いであろう。ブッ ブー、はずれです。どこかの飲み会だったかで、藝大の女子大生とお知り合い になったことがあるのである。ホントにゲーダイ?と、疑ったわけではないが、 卒業制作の発表会(展示会)があるのであるので、そのご当人様のアートを拝 見したのである。卒業制作は、各自、自画像とその他の何らかの代物(しろも の)を展示する。あまり似ていないが、その女性の名前と一致する自画像があ ったので、フムフムと納得した次第。自慢話なのかのろけ話なのかわけの分か らん感傷(鑑賞)話はどうでもよいか。

 さて、ここでは、作品の維持の為の空調をしているが、人(来館者)のため の冷房などはしていないので、来館者は四の五の言うべからず!。と先ずは、 窓に張ったパネル(だったか、立て札だったか失念)で機先を制される。
ゲージツ鑑賞には「暑いの寒いの」は言ってはならないのである。と、素直に 自覚したが、ちと待て、BauHausはゲージツだったのかとふと疑念が持 ち上がったのである。正確には、「稀少実物の鑑賞には『暑いの寒いの』は言 ってはならないのである。」である。うむ、だいぶ考え方も理科系に近づいたぞ。

 入口で切符を渡してエレベータに乗った。エレベータに乗って入口で切符を 渡した。どっちだったか分からなくなってきた。ま、メイン会場の入口に着く。 休日のせいか、上野公園内も人が多かったが、この展覧会の会場内も人が多い のである。入口入って正面にパネルがある。その前でもう人ごみなのである。 足の踏み場は確保できるが、テレビのニュースであれば湘南海岸のイモ洗い状 態の海水浴客の混み具合の歳時ニュース説明と同じ表現をしてしまうであろう。

 入口正面には、パーティション用壁面にパネルが3枚ある。1枚は展覧会の 挨拶パネル、日本語。パネル内には上向き矢印がある。矢印の上を見てもパー ティションの壁と天井しかない。あ、これはバウハウス特有の有名な矢印デザ インなのねと理解できた。その同じ壁面に、もう2枚、バウハウスの概略説明 のパネルがある。日本語で1枚、英語で1枚である。そのパネルにも、矢印が ある。いずれも右向き矢印が印刷されている。これは、観覧経路を示す矢印も 兼ねているのかと思い右に向かう。が、なんとなく人の流れは逆のような気も する。展示物の配置のせいで、人の流れも一直線にはならない上に、一度見て 次見てその次を見て、一度目の図象との関わりを理解して一度目にもう一度戻 る、などということはどうしてもありえるが、人の流れが量的にわたしの進む 方向とは逆向きのような気がするのである。

 流れに身を任せると、自然に元の入口に戻ってくる。そこで、もう一度パネ ルを見るとその下に、経路看板の矢印が左向きではないか。ただ、入口 付近は人だかりなので、床面に立っている経路看板が見えないのである。会場 係の女性がいたので、そのことを言う。「入口が込んでいるのは、パネルの矢 印に誘導されている人が多いのではないか?経路看板は低くて見えにくいです よ」。すると、その係員は鼻で笑って言うのである。「パネルの矢印はバウハ ウスのデザインですから」と言うのである。どうも上の発言を翻訳すると、 (間違うような客はお断りなんだよ、イナカモン)と言っているような気もし て、あわてて調子を合わせてしまう。「そうだよね、上向き矢印で壁を登る人 もいないしね。バウハウス見に来た人が間違っちゃいけないよね」。フフン。

 もう一度、経路看板の矢印とおりに左側から入る。


■閲覧室内にて。

 まとまりがつかない、つけられないので箇条書きでメモしておく。
といっても、閲覧室内ではメモ禁止なのである。これらはあとから、思いつい た箇条である。


 先を越された!

 若いアベックが多い。 多すぎる。新居の家具を見に来たわけではないのか。 ここは、家具売り場じゃないぞ。「桑沢の先生」とか「イズミ先生」という声 も聞こえる。「桑沢」とは、あの「桑沢デザイン研究所」のことには間違いな いだろう。「イズミ先生」というのは、その研究所の有名な先生のことなのか。 それともイズミ先生はバウハウスにあこがれて桑沢デザイン研究所を創設した とか、分からない分だけ勝手に空想してみる。

 校長室のレイアウトの後ろの 低い灰色の棚は「クラブおおつき」風である。

 揺りかごがあったが、棺おけにもなる揺りかごではなかった
「逆さにすると机にもなる浴槽」とかそういうものも見つからなかった。

 カンディンスキーもパウル・クレーも一派だったのか。知らなかった。

 バウハウスの出版した機関紙に「シュトルム」 というがあるのを発見してび っくり。なんとわたしは、バウハウスを知らずに「シュトルムウントトランク (疾風怒濤)」と口走っていたのである。

 札幌農学校を想起したのはイスや家具のせいではないかと思う。

 手作り工芸品と、ハイパー幾何からくり風。

 某イタリア外資系会社のフライングにあった木製テーブルなどは、バウハウ スを意識していなかったか、などと思う。スパチオ家具もそれらの系統の一派 ではないか。オリベッティは「イタリアのバウハウス」 を標榜しようとしたこ とはなかったろうか。防衛大臣が「宇宙人はいないとは限らない」という理屈 と同じ程度で、目指していなかったという証拠は無いわけであるから、「オリ ベッティはイタリアのバウハウスを目指していた」(のではないだろうか)と 想像してもあながち外れてはいないのではないかと、これも無知を武器にして 勝手に空想してみる。と思ったら、カッシーナ社も協賛している。
(後になってから(この文章を書く段になって)、あの長大年表をじっくりと 眺めておけば良かったと後悔する。)

 製図板フェチ。ロットリング。の時代であった。フラクタルや、CG、複雑 系などの発生以前である。

 織物の意匠などは使えないだろうか、目の前でメモすれば描けそうな気がす る。と思うと、これらのデザインは既に著作権が切れているのではないかとい う事実に思い至った。素材(画材)も特別なものでは無し、真似だけなら素人 でも出来そうと思い込んでしまうのである。それで、メモ禁止、紙切れ持参禁 止、筆記具持参禁止なのだなと思ったものである。

 大からくり風オブジェの前に来ると、ケータイをかざしてメールを打つそぶ りの人(女性)がいた。これって、メモと撮影と同じことではないんかのと思 うと、すぐさま係員が飛んできた。よかった、要らぬおせっかいをして、にら まれなくて。


■思索(試作)の道。

 公園内には、東京藝術大学生の作品(オブジェ)などが所々にある。学生が 置場が無いので置いていったものか。場所が場所なら不法投棄である。その上 投棄者名まで入っている。役には立ちそうにもないが、ゲージツだから仕方が 無い。これでいいのだかも知れない。
 と、歩いていくと犬の絵や猫の絵の看板がある。そこかしこの木に結び付け られている。展示者は台東区とある。説明文もあるので読んでみると、「フン の始末は飼主の責任です」などと書いてある。これは役に立つ作品であるが、 学生の作品に比べると少し無粋な気もする。
 ところが、後日に気づいたことであるが、同じデザインと文言で台東区が目 黒区に変わっているだけの看板を目黒区で見つけた。なるほど、地方公共団体 を取引先とする看板専門の職業があるのであろう。とすると、これはプロの作 品である。そう考えると、学生の野外作品と犬猫看板ではどちらがバウハウジ ーかと考えると、犬猫看板の方がバウハウスしている事に気づいた。

 京都には「哲学の道」があるが、上野公園東京藝術大学付近の道は「犬猫の 道」でもあるのである。




■バウハウス理解の為の奥会津の時代説明。

 さて、そろそろ総論を騙る時がきた。 もうそろそろ、飽きられている

 バウハウス展記念グッズのショップがある。分厚い本がある。ぱらぱらと見 る。目録だろうか、日本語が印刷されていないのでわからないが、目録にして は「図版」の写真が少ない気がするのと、写真が小さい。人物写真や建物の風 景写真や細かい字の文章が殆どである。「図版」が小さいのと数が少ないのは、 やはり「真似される、真似してしまう人が多い」からなのであろうと、再び思 ったのである。

 で、この本、三千円です。わたしにとっては、行って来たぞ!という証拠と、 見栄での飾りにしかならないので敬遠する。ハガキを2枚購入して我慢する。

 BAUとは建築という意味である。バウハウスはドイツで興った建築を主体 としたデザイン運動の潮流であり、バウハウスはその学校の名前であった。
 三代の校長で、ほんの14年間(1919−1933)の活動である。干支 で数えると、ホンの一回りちょいの年数なのである。

 そして、この時代バウハウスが興った年は、大正8年である。バウハウスが 興った年には、奥会津に昭和村は存在しなかったのである。バウハウスが開校 8周年であったのが、1927年、昭和2年のことである。この年に、野尻村 と大芦村が合併して昭和村となる。

 バウハウスを思う時には、この時代(大正、昭和初期)に生まれた芸術運動 であることをじっと理解せねばならない。

    1919年 大正8年。バウハウス興る。
    1925年 昭和元年。
    1927年 昭和2年。昭和村合併創村。
          初代村長 五十嵐春松氏(1927−1932)
          2代村長 束原善六氏(1932−1939)

          現在に至る。


 2008年、上野美術学校、もとい、東京藝術大学に行って90年ほど昔の 事々を考えるに到ったのである。

 自作(思索)年表を作って眺めてみよう。
バウハウス時代を引き継ぐように、昭和村が発生する。昭和時代は終焉したが、 昭和村時代はまだ引き継がれている。昭和村が、合併騒動に巻き込まれるとす ると、次に来る時代は、奥会津時代であろうか。

 では、このあたりで、筆をおくあいづ。パタリ。


※メール送付時の、誤字脱字は一部校正(構成)しました。
(Copyright : Japan Intelligence Network / WAT)