尾瀬と舘脇操博士と

高橋 美智子

 

 2年程前、時間つぶしに入った本屋さんで、平凡ライブラリーの『尾瀬と鬼怒沼』武田久吉著が目に入った。武田久吉博士については、日本山岳会創設者のお一人にくらいしか知らなかったが、尾瀬という地名と表紙に書かれた副題「世界にも稀なる自然の楽園−尾瀬、始めての紹介者である著者が描く、明治末期から昭和初期に至る尾瀬及びその周辺の山々。日本の自然保護運動の原点となった記念碑的著作ここに蘇る。」という言葉にひかれ購入した。武田久吉博士自身すばらしい経歴の持ち主であらせられることは勿論なのだが、読み進む内に、朝日カルチャー教室で鮫島先生がよく話題にされる舘脇操博士が、大正13年夏、武田博士と一緒に尾瀬を歩かれた時の感慨が「尾瀬をめぐりて」という題で80頁ほど挿入されていた。私とて鮫島先生が親方先生とお呼びする舘脇博士が、北大の偉い植物学の権威であられることは知っていた。昨年、友の会の静狩行きを案内することになり資料探しをしていたところ、北海学園大学の佐藤謙先生に、植物園の冨士田先生が静狩湿原について調査報告書を書かれていることを教えて頂いた。その中に舘脇博士が卒論として「静狩泥炭地の植物生態学的研究」1924年という引用があった。1924年は大正13年なのです。尾瀬をめぐりては、大学を卒業されたその年の夏、尾瀬を訪ねた時に書かれたもの、ということになります。このあたりの経緯を博士は「尾瀬! 北の国に来てから山の旅に島の旅に思いつつも機を得なかった。武田博士にその緒を得て、ここに驥尾に付すこと2週間。新しく生態学的観察の指導を賜ることを得、自然の中にありて自然を見る観察観に触れ、私の若い日のある夏をほんとうの心の生活で埋め得たことを喜ぶと共に深い感謝の意を武田博士に捧げないわけにはいかない。」と冒頭でお書きになっている。この時、武田博士は2度目の尾瀬で、明治38年に尾瀬を訪ねて以来、渡英し植物学の研究をされ、大正5年に帰国。京都、北海道、九州の各帝国大学の植物学の講師を歴任されたとあるから、この時舘脇博士とは師弟の関係ということななろうか。この本に収められた舘脇博士の「尾瀬をめぐりて」のみずみずしい情感にあふれる美しい文章に、私はすっかり舘脇ファンになったのです。
 ところで、私たち長靴仲間は、野の花のシーズンオフ、植物園で自称、標本貼りのボランティアをして3年になります。昨年の暮れ、未整理標本の整理をいいつかり、破損の酷いものや、採取地、採集者、採取年月日の不明なものなど、標本として不備なもの等をより分けていた。その中に、大正13年7月、尾瀬、舘脇と筆で朱書きされた一括りの標本が出てきた。標本は鬼怒沼、至仏、燧等地域ごとに分けられ、新聞の切れ端に書かれた地名が添えてあった。今これを書きながら考えると、この一括りの標本は、一度整理され重複するものなどが、未整理として台紙に貼られることなく残されたもののように思われる。推論はいろいろあるのだけれど、私はこの一括りの標本を見たとき、あっ、あの時の標本だと直感し、叫んだ。「ねえ、この標本、私読んだ舘脇先生の尾瀬紀行に書いている時の採集したものだよ。きっとそうだよ。」と。仲間も「大正という時代、そうそう尾瀬までは行かないよね。」とか「70年も昔のだよ。」とか、次々出てくる朱書きの地名にまだ見ぬ尾瀬を思い、一同興奮の渦に浸った。この時開いたいくつかの段ボール箱には、宮部金吾博士が採集されたコケ類の標本とか、古いもので月日がハッキリしなかったけれど、植物園の技官の方が日高で採集されたトラキチラン、カムイビランジなど、写真でしか見たことがなく実物に接するのは始めてというのもあって、仕事はさっぱり進まなかったが、私たちには至福の一時であった。翌週、鮫島先生所属の「ぽっぽの会展」を植物園を早めに切り上げて見に行った。初日とあって先生もいらした。早速例の件を報告申し上げた。植物園の帰りですと言うと、「そうかい。高橋先生も(植物園の)助かるって言ってたよ。」と言いながら舘脇先生にいいつかって「何せあの身体でしょう。(相当かっぷくがよろしかった?)お前案内しなさい。」武田博士を大雪にご案内した話をしてくださり、舘脇先生は卓越した自然保護思想を持っておられたと、お話してくださった。
 そういえば舘脇先生を親方先生と呼ぶ鮫島先生は、自然環境研究室主宰であられ、以前北海道自然保護協会の副会長をされていたし、その鮫島先生を師匠と呼ぶ佐藤謙先生は、現在やはり北海道自然保護協会の副会長をされ、北海道の自然保護のため心血を注いでおいでになる。この自然を慈しみ保護していこうという思想は、武田博士の尾瀬再訪の結びに見ることが出来る。「思い出すだに楽しい2週間であった。そして尾瀬は良いところである。あの珍種にとむ尾瀬平。まれにみる景色。学術上無限の宝庫というべき湿原。あれをいかに利欲に目がくらんだとはいえ貯水池にしようという計画が同胞によって試みられ、官憲によって許可されたことは痛恨の極みである。否むしろ国辱である。ああ、日本の国土はついに日本人の手によって滅ぼされる運命からまぬがれることは出来ないものであろうか。」と慨嘆しておられる。 そして現在、佐藤謙先生は、士幌の自然を守るためナキウサギ裁判に奔走される。その先生の嘆きもまた深いのです。尾瀬に行きたい。屋久島にも行きたい。しかしこれらの地はユースオーバーのため現在入山規制が囁かれているし、北海道のアポイさえも登山者の置きみやげによる富栄養化のため、植生が変わりつつあるとは佐藤先生のお話です。花が好き、自然が好き、綺麗な花が見たい。こんな望が何時までも叶えられますよう、自然が美しい自然のままでいられるために、自然に優しい歩き方とは、何処までが許され、私たちは何をなすべきなのかを考えられなければならない時がそこに来ているように思われます。

 

ボタニカ14号

北海道植物友の会