表紙の言葉


 
世にも稀れなる趣向の奇跡
氷の洞ある、日光かがやく歓楽のドーム

Ray Bradbury『A Miracle of Rare Device』

アクセスカウンタ
90000〜104999

     

  • コールリッジの "Kubla Khan" のこのフレーズに触発された、ブラッドベリの、
    やはりこの詩のように美しい短編小説。エリザベス・エメットの『魅惑』と同じく、
    このようなイメージだけに頼る美しさを表現するには、映像ではなく、
    文章で相手の想像力に訴えるスタイルがふさわしい。

    ('01/05/10)

 
「優しい」という言葉ほど曖昧で傲慢な言葉はない。
べたべたした主観的な価値を、一方的に対象に押しつける言葉だ。
巷に溢れる「地球に優しい」という言葉の嫌らしさを見れば分かるだろう。

恩田 陸『黒と茶の幻想』

アクセスカウンタ
75000〜89999

     

  • 思うに、恩田陸の作品にはイメージの集積が多い。それ故、文章は、あるまとまりのある、
    気のきいたフレーズの集積となる。例えば、この引用したフレーズもその一つ。
    小説の内容とはあまり関係ないが、この意味有り気な表現が、ディテールに深みを与える。
    その一方で、複数の登場人物が集まっている場面で、各人が「このようなことがあった」と
    自分だけのエピソードを披露していき、それを他の全員が聞くという図式は、
    共同で仮説の構築をしているというよりは、ほとんど、噂を形成しているに等しく、
    そう思うなら「気のきいた意味有り気な表現」というものが、
    単に常套句を持ち出しただけになってしまう。

  • この引用したフレーズ自体には共感するところが多い。

    ('01/02/12)

 
正月一日は、まいて空のけしきもうらうらと、めずらしう霞みこめたるに、
世にありとある人は皆、姿、かたち、心異につくろひ、
君をも我をも祝ひなどしたる、様異に、をかし。

清少納言『枕草子』

アクセスカウンタ
70000〜74999

     

  • 第三段、「正月一日は、……」で始まる断章の冒頭部分。
    このあと、7日、8日、15日、春の除目のころ、3月3日、4月賀茂の祭のころ、と続く。
    ただ漫然と日付を並べている訳ではなく、人々が社会的地位を得るのと、
    その地位を得ている人が主に行動する日のイベントの様子を描写している、
    枕草子の中では比較的長い章段。7日、15日の描写など、日常の一部を切り取ったドラマのようだ。

  • 生活の中から季節感がなくなり、世間の行事にも無頓着になった今、それでも1月1日だけは、
    冒頭のような特別感を辛うじて残しているような気がする、と思いたい。

    ('01/01/01)

 
I hated Burrich. Sometimes. He was overbearing, dictatorial and insensitive.
He expected me to be perfect, yet bluntly told me that I would never be rewarded for it.
But he was also open, and blunt, and believed I could achieve what he demanded ...

Robin Hobb, "Assasin's Apprentice, The Farseer Trilogy"

アクセスカウンタ
66000〜69999

     

  • 現時点では、まだ半分ぐらいしか読んでいないが、あえて紹介したい。
    今までの部分から判断しても、残りの半分、絶対期待を裏切らないことは確信できる。

  • 簡単にストーリーを説明すると、主人公は Fitz。国王 Chivalry の私生児として生まれるが、
    物心付くまで、本人はそのことを知らなかった。上の引用の Burrich に連れられて Six Duchies 内を旅するが、
    やがて宮廷に入り、新たなお目付け役 Chade の元で、国王候補としてのいろいろな基礎教養、
    及び自衛、暗殺者に対する対抗策としての、殺人のためのテクニックを学んでいく。

    引用は、Chade との会話で、もちろん Burrich のことを憎んでいる訳ではない。
    Chade と比べて、無骨で粗暴なところはあるものの、自分に対する手放しの期待と、
    裏表の無い単純な性格を、好ましく懐かしくも思っている。
    その会話の中で、主人公は Chade に関するある重大な秘密を知る。
    (これについての伏線はあったのだろうか)

  • タイトルから浅薄な冒険譚を想像すると大間違い。
    とにかく語彙が豊富で、かつ通常なら I を主語にするところを、
    無生物主語で me で受ける文を多用して、主人公の成長を丹念に描写していくスタイルは、
    ファンタジーというよりも、ほとんど教養小説を読んでいるような感じである。

    Web で検索しても、どこもベタ誉めで、

    『指輪』『ゲド戦記』に次ぐ

    と書かれているが、自分の評価としては『指輪』『ゲド戦記』よりも上だと思う。

    ('00/11/27)

 
ひとたび異境を知った者は、故郷にもどってからも、
自分のなかに異境の時間をやどしつづけるのである。

石川 美子,『旅のエクリチュール』

アクセスカウンタ
60000〜66000

     

  • 旅には必ず場所の移動が伴う。
    場所の移動とは、何よりも、今いる場所とは異なる場所に移る、ということを意味し、
    必然的に、日常とは異なる体験を含む。
    つまり、旅の醍醐味はいろいろあるが、全て基本的には、普段と異なる経験に由来するものである。

    だから、旅行記を書くことの本質は、旅先で自分が感じた、日常とは異なる感覚を、
    あとから再び体験できるよう記録することにあり、
    また、旅行記を読むことの本質も、筆者が感じたことの追体験にある。

    その場所に関する正確な情報が欲しい、ということであれば、記録はできるだけ正確でなければならない。
    その目的のためには、例えば、文章よりも、写真の方が適している場合も多い。
    しかし、何を感じたかの追体験を望んでいて、かつ、意図的に何かを体験したい場合、
    体験する内容に主体が置かれることになり、そこには、必ずしも事実に即した記述ではなく、
    虚構へと逸脱する可能性を孕んでいる。とすると、もっとも適した表現方法は「日記の体裁で書かれた虚構」
    ということになる。

    感じた内容を伝えるというのは難しいことであり、必ず、伝えきれない部分は残る。
    その時、周囲との間には、同じ場所に居ながら体験を共有できない、という孤立感が生まれる。
    自分の中に宿してしまった、周囲とは相容れないもの。
    しかし、その記憶を所有できるのであれば、それは孤立とか孤独ではなく、孤高と呼ぶべきである。

    ('00/09/20)

 
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ

清原 深養父

アクセスカウンタ
54000〜59999

     

  • 百人一首の36番目の歌。古今集の夏の巻に収録されている。
    和歌といえば、春か秋というイメージがあるかもしれないが、
    万葉集以降、ちゃんと春夏秋冬、全て収録されている。
    ついでに云うなら、秋が注目されるのは新古今のあたりであり、古今集の頃は春が中心だった。
    夏の暑い時期にはものを考えたくなくなるので、和歌も少ないように思いがちだが、
    百人一首には夏の歌もけっこう収録されている。冬の方が圧倒的に少ない。

    作者、 清原深養父は、清少納言のひいじいさんにあたる。
    父親の清原元輔の歌も、百人一首には収録されている。参考までに、

    36 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ  清原深養父
    42 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは   清原元輔
    62 夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ 清少納言

  • ここで、長らくやろうと思っていて、未だ果たせない、ある構想を公表してしまおう。
    百人一首の構造に由来するいろいろな解釈があるが、誰が見ても明らかなのは、

    同じ言葉が何回も現われる

    ということである。上の春夏秋冬とか、朝昼夜及びそれらの中間の時間、気候(風、雨、雪)
    植物(花、草)、動物(鹿)、土地(山、川、海)、等、これらのキーワードを元に歌を束ねて、
    いろいろ解釈を試みようというのは、誰でも思い付きそうな手法である。
    たぶん、どこかの国文科の学生が卒論でやっているだろうし、
    それ以前に、江戸時代の無名の国文学者がやってそうな気もする。

    上の単語は、自然科学的な素材、といってよいが、人文科学的な単語も目に付く。
    例えば、我、人、身、名、世、思う、等である。
    これらをどのようにまとめて解釈するか、だが、実はここで一つ提案がある。それは、

    自他の関係に着目する

    という解釈方法である。
    例えば、我、身は「我が身ひとつの」という組み合わせで用いられることが多い。
    「世」は他者であり、世を思う、という組み合わせで使われる。
    これらを統合する概念として、

    我が身一つの人も世も

    というフレーズを思い付いた。

    ここから先は長くなるが、ひとつだけ象徴的なことを述べるなら、
    あの時代の歌人は、決して、個人として存在しておらず、必ず社会的存在として存在していた、
    ということである。例えば、出家した僧は一見世捨て人のようだが、それは中央という存在があるからこそ
    そこから離反できるのであり、今で云うような、まったく別のコニュニティに属する、というのとは訳が違う。
    だから、まず自分をとりまく外部存在・コミュニティとして、「人の世」があって、それに対して、
    「我が身一つ」でいろいろ「もの思う」という行動を行うようになる。

    ('00/07/10)

 
学者はまた昔日の征服者、
地球儀のエスパニアを眺めて独言つ。
「この言葉を習いおおせたら
 これで地球の上で
 俺と話の通じる奴が また何億かふえる。」
なにさ、習い出して まだ三日目の文法書。

平川 祐弘, 『CONQUISTADOR』

アクセスカウンタ
51000〜53999

     

  • 著者26歳(!)の時に刊行した訳詩集『ルネサンスの詩 城と泉と旅人と』に、
    自ら記した序詩。
    初心忘るべらずと、若さの迸りの瑞々しさが混じって、実に清々しい。

  • ロンサール『馬鹿騒ぎバッカスの唄』の訳は、みごととしかいいようがない。
    学生の飲み会の雰囲気を、平易な口語体で訳しながら、ちゃんと五七調になっている。

    ('00/06/05)

 
アダム・ケレスは身をひるがえし、
自分の前に一本の小道があるのを見ると、
大理石のテラスから離れて、木々の下の道をたどっていった。
誰もそのあとに従う者はなかった。
そして、その瞬間こそ ―― 彼は気づかなかったが ―― 
彼が国を捨てた時だったのである。

Ursula K. Le Guin , "The Fountains"

アクセスカウンタ
48000〜50999

     

  • "Orsinian Tales"、『オルシニア国物語』収録。
    登場人物のアダム・ケレスは、細菌学者だが、そのこと自体にはあまり意味がない。
    『所有せざる人々』のシェヴェックが理論物理学者であったのと同じように、
    イデオロギー的には中立だが、その応用範囲の影響力の大きさ故に、
    政治的に利用される立場にある人物、を示す記号である。

    ('00/05/01)

 
余はさまざまな未来 ――すべての未来にあらず――
に対し、余の八岐の園をゆだねる。

Jorge Luis Borges, "Ficciones"

アクセスカウンタ
45000〜47999

     

  • 例えば、三省堂の大辞林で検索しても、「八岐」という言葉は出てこない。
    迷路の中の、あらゆる方向に分岐するイメージを「8」という数字に込めた訳語である。
    それは、直接的には、この小説の登場人物が所有する庭園を意味し、
    また、その登場人物の辿った人生、及び、もう一人の人物とその人物のめぐり合いも象徴している。

    このまま読むなら、タイトルのとおり、一つの人生を象徴した、寓意的な話として読んでしまう。

  • しかし、最後には、むしろ記号論的な話と化してしまい、登場人物の配置や人生さえも、
    単なる一つの表意文字となってしまうことが明らかとなる。
    この、あまりの展開に、始めてこの小説を読んだとき、この結末が何を意味しているのか理解できなかった。

    著者曰くところの、チェスタトン的寓意の試みであったとは。

    ('00/03/29)

 
ある壮大なるものが傾いていた、と海を歌った詩人があった。
その言い方を借りれば、波打際はある壮大なるものの重い裳だ。

海は一枚の大きな紺の布だと歌った詩人もある。
さしずめ波打際は、それを縁どる白いレースということになる。

併し、私が一番好きなのは、雪が降ると海は大きなインキ壷になる、と歌った詩人だ。
分厚く白い琺瑯質の容器の中に青い海があるだけだ。もうどこにも波打際はない。

井上 靖 『海』

アクセスカウンタ
42000〜44999

     

  • 詩集『運河』収録。この詩は一時期、中学の現国の教科書に載っていたので、 私と同年代の人は記憶にあると思う。

  • 最後の部分は、暗い冬の海に雪が吸い込まれていく雰囲気がよく出ている。
    このような風景を日常的に見ることのできる場所から離れて、もう30年近くになるので、
    今の自分にとっては、この表現は、心象風景としか受け取ることができないが、
    例えば、今の季節の北海道、海沿いの町では、ちょうどこのような風景が見える。

  • 井上 靖は中学〜高校にかけてかなり読んだが、本は手元にない。
    この他、引用したかった候補としては、

    • 『氷壁』後半の、常盤大作の大演説
    • 『星と祭』の、ヒマラヤで月を眺めているところの描写
    • 文庫『幼き日のこと・青春放浪』にかかれている、明け方のある時間帯に対する思い入れ
    • 『夏草冬濤』の最後、明け方の海に対する感想

    後の2つは、『運河』に収録されている『かちどき』という詩の最後の言葉、
    「暁闇の無明の腥さ」という表現に生きている。

    ('00/02/14)

 
「昔キシの子のサウルは父の驢馬をさがしに行って王国を見つけたということですが、
 僕にはあなたがそのサウルのように思えてならないんです」

「僕には王国の値打は分からないが」とウィルヘルムは答えた。
「しかし自分の身に余る、しかも世界の何ものにも換え難い幸福をかち得た
 ということだけは分かっています」

ゲーテ『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』より

アクセスカウンタ
40000〜41999

     

  • ゲーテと云えば『ウエルテル』でも『ファウスト』でもなく『修業時代』である。
    作品中に現われる詩の美しさ(「君知るやかの国を」「あこがれを知る人ならで」)、
    出会い・別離・再会、生死を分ける偶然のドラマ等、物語の魅力が全て詰まっている。

  • この言葉ほど結婚式にふさわしいものはない。
    自分の結婚式で使いたかったが、まさか自分で祝いの言葉を述べる訳にもいかず、残念ながらお蔵入りとなっている。
    しかし、埋もれさせるにはもったいないので、もし、挨拶を頼まれて悩んでいる人がいたら、 ぜひこの言葉を使って欲しい。

    ('00/01/18)


『表紙の言葉』
(アクセス数 30000〜39999)
『枕草子*砂の本』 『表紙の言葉』
(アクセス数 105000〜)

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三島 久典