老子には生き方のヒントがちりばめられています

『絵で読む「老子」無為を生きる』著者インタビュー

長尾みのる

ながお・みのる(イラストレーター)一九二九年、東京生まれ。初めて「イラスト」という言葉を使った日本初のイラストレーター。主な作品に、『ソンブレロは風まかせ』 (朝日新聞社) 『視覚のいたずら・補足改訂版』(小学館)がある。


− 今まで南米などをテーマに色彩豊かな世界を描いてきた長尾さんが、墨絵で『老子』に挑まれたこの本は実に新鮮でした。
そもそも『老子』を描こうと思われたきっかけはなんだったのでしょうか?

 僕は今年の六月に喜寿を迎えたのだけど、その誕生日の前くらいにたまたまね、二十年来のつきあいの編集者であるO君から『老子』の本をひょいと手渡されたのがはじまりです。「これはどうですか」と。でもね「描け」とは一回も言わないんだ(笑)。

 早速その夜から読み出してみたところ、とても難しくてよくわからない。でも、一生懸命読んでいくうちにだんだんわかるようになってきて、そうすると今度は面白くなった。言っていることは意外に単純で、今の時代が求めているのはこれだ、自分にもぴったりだと思えてきたんですね。
 二五〇〇年も前の哲学者の言葉が、日本や東アジアはもちろん欧米にも影響を与えつづけてきたというのは、老子そのものの考え方が決して押しつけがましくなく、非常に柔軟性があるからだと思います。だから、ある人は占いの要素として読んだり、ある人は仏教的な解釈をしてみたりと、それぞれに多様な読み方ができる。ああ、自分の都合にあてはめて読むことができるんだということが途中でわかって、僕はぽんと気が楽になったの。
 それでもまだ、どうしようかと迷っていたころ、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督が連合国占領下の昭和天皇をテーマに撮った「太陽」という映画の試写会に呼ばれたんです。それで観に行ったら、天皇がマッカーサーに「ロータン(老子)を読んだことがあるか」と聞いていた。映画の中のことではあるかもしれないけれど、そうか、天皇は天皇で身を守る術として『老子』を読んでいたんだなと思って、よしやろうと決断がついたんです。

 今回の本は、僕の考えで読んで受け取ったものを絵にして、ため息のような小さな言葉で表現したものです。
『老子』をこんなふうに落とすのはおかしいぞ、と思う人は、併記した原文にもどってもらえばいいでしょう。そして、自分はこう解釈すると思ってくださるきっかけになればうれしいですね。今の時代、そういうふうに考える材料が必要なのではないか、それには老子はいいなって恩うんですよ。

− 墨で絵も言葉もお描きになるのは、初めてですよね。

 最初に「墨絵で」と注文されたとき、今まで生業として描いてきた作為だらけの、色彩による作品を「それはもう見慣れております」と言われているんだなと、こちらは解釈するわけです(笑)。
 そりゃあ自由自在にやりたいけど、家族を食べさせるためにはそうもいかないじゃないですか。慣れた絵の具や紙でずっと継続してやってきたわけだし、まわりも認知してくれているからそういう方面の仕事が来ているんだと勝手に思っていた。でも自分がわからなかっただけで、相手は飽きていたのかもしれない。それなら、何かの流れの中にいる身としては、元の岸に戻ろうとじたばたしてもしようがない。戻った岸は護岸工事をされちゃって、上がれないってこともあるんです(笑)。自分の今までのやり方でやるぞと強く反発するのではなくて、その流れに流されてみようかと思ったのが、まさに自然でしたね。
 製作中は、『老子』を読むだけ読んだ後、散歩に行きました。そして歩きながら、考えて、考える。いざ絵を描くという段階になっても、和紙というのは下書きしたり消しゴムで消すことはできませんから、デッサンを何枚も何枚も描きました。そして 「これだ」と決めたら、心を無にして一気に筆を運ぶ。
 最初の三分の一くらいまでは大変でしたけれど、あとはすーっといったんです。そして 『老子』 の世界を絵にしていくうちに、今度は自分というものがわかってきた。
最初はこんな難しいものを絵で表現するなんてできっこないと思いながらも、読んでいるうちに自然にだんだんのめりこんじゃった。まさに老子の無為の思想を実践したようなものです。今は、やりおおせてよかったなあと思いますよ。

 − 墨絵の濃淡にもカラフルな色彩を感じて、やはり長尾さんの世界が広がっているという印象を受けました。
今回の本は、『老子』全八十一章を水墨画と短詩でつづられたわけですが、とくにお好きな章はありますか?

 「小国寡民」ですね。原文で描かれているのは、どこかで犬や鶏が鳴く声がのどかに聞こえる小さな国なんだけど、そこには少ない民が暮らしている。彼らは自分たちの生活に満足しているので、よその国の繁栄などをきょろきょろ気にすることはしない。だから、船に乗って攻めに行ったりはしないのです。こういう自給自足のできる、小さくて治まっている国がいいなあと。今、確かに大国ほど苦労しているでしょう。国でも企業でも、大きくするのをよしとする風潮だけれど、それは果たして人間が幸せになる方向だろうかと思うのです。二五〇〇年前の言葉なのに、今の世界情勢にあてはめて読むことができる。面白いですよね。
 その理想的な小国をハワイのような小さな島に描いたのですが、今回はすべてを中国風にではなく、時間と空間を超えた絵にしてみました。あとは蘊蓄を披瀝するような、説明的なものにはしたくないなと。例えば、人々が鹿を追いかけて狩猟をしているという言葉に出会うと、なぜ鹿なのだろうと思うわけです。そこでいろいろ調べてみると、当時は鹿には頂点に立つエリートという意味があり、憧れの存在であったことがわかる。つまり、みんなでトップを目指しているという意味合いもこめられているのですが、それを言葉で説明してもつまらないので、壷の模様として描いてみました。さりげなく絵にこめたところもいろいろあるので、絵で読む『老子』としても楽しんでもらいたいなあと思っています。

 −一九六九年にイラスト小説(イラストーリー) という独自のスタイルで出版された『バサラ人間』や『革命屋』が最近復刊されて、再び若い人たちに注目されているとお聞きしています。当時若者だった団塊の世代が今いっせいに定年退職を迎える時期にかって、世間では「二〇〇七年問題」などと呼ばれていますが。

 このごろ口癖のようにみんなに言っているのは、慣れたものを継続しょうとするのが、ストレスやノイローゼの原因になるんじゃないかということです。人間は今まで元気に過ごしてきて、その元気を継続させるために医者に行ったり、薬を飲んだり、健康法をいろいろ試したりする。これまで何十年も会社という組織の中で働いてきた人も、定年になって今までの生活が変わることがストレスになるのかもしれない。でも、継続させなければと思っているのは自分だけで、自然の流れはそうではないのかもしれないということでしょうね。
 僕はね、体制にはかならず反発する者であり、親分はつくらない。だから団体には絶対入らない。団体に入らないと推薦されないから、勲章もなにももらえない。でも、もらえないほうがへつらうより楽だから、生涯小者かもしれないけれど、ずっとそうやってきたわけです。
大企業に所属していても、所詮その中のひとりでしかない。せっかく定年になって組織から解き放たれたのなら、それも自然。安心してひとりでいることの気楽さを味わってみるといいと思うんだけどなあ。『老子』には、そういうときのヒントがちりばめられているから、読んでいて面白いんです。

 −『老子』と取り組み、この本を完成されたご感想はいかがですか?

 女房に言わせると、この仕事をしてから丸くなったって(笑)。墨一色の挿し絵の世界で頑張っていた時代が終わって、今度は色彩でやってやろうと一生懸命やっていたら、次は墨絵でと提案される。流行は繰り返されるというようなことではなくて、そういうふうな流れがあるんだということが、だんだんわかってきましたね。今までの人生をずっと見ていると、やりたいことをやって生きてきたんだし、この先も怒ったり反発したりといくらジタバタしてもしょうがない。
 この作品をやり終えたときに、女房は「卒業制作ですね」と言ったんです。年をとった僕を見限っているんだな(笑)。でも、これによってまたひとつ僕の流れができた。今まで出したい品物はこれなんだと自分で決めつけていたのが、ひょいと 『老子』 を手渡されたことで、違う世界が見えてきた。それがひじょうに自然な流れであったわけで、今は大感謝していますよ。
 僕はね、『老子』をどういうふうに読みこなすかは、読者次第だと思うんだ。喜寿の僕が絵によって読み解いた今回の本を手に取ってくれた方が、それぞれの思いでまた好きに読んでくださればうれしいですね。

                      構成・文/藤井恵子

『絵で読む「老子」無為を生きる』
定価:1,680円(税込) A5判/178ページ  ISBN4-09-387649-5

「月刊本の窓」小学館 2007年1月号より抜粋

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