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ソクーロフの「エルミタージュ幻想」

エルミタージュ幻想←ロシアの方舟←エルミタージュ

           アレクサンドル・ソクーロフ 監督

 

 ペテルブルクのソクーロフから電話がかかってきた。「《エルミタージュ》 が完成した。泥のように疲れた。作品とは、なんというエゴイストだろう! 私 をこんな目にあわせて!… 私はどうでもいいのだが、カンヌ映画祭のコンペ にも出品される。それから、NHKが参画してくれたよ…」 監督の微笑が目に 見えてくるように、声がなごんでいた。数ヶ月が過ぎた頃、映画評論、映像制 作も手がけているMさんからメールが入った。カンヌからだ。そこに、《ロシ アの方舟》(《エルミタージュ幻想》の原題。作業中のタイトルは《エルミタ ージュ》)を見たことが生き生きと語られ、彼の感動が克明に記されていた。 このときほど、空間と時間を凌駕するインターネットに感謝したことはない。
 そして、日本で初めて、NHKハイビジョン・テレビ放映されること、東京フ ィルメックス映画祭のオープニングを飾ることなどを知った。
 ハイビジョン・キャメラの出現で、ソクーロフは90分をワンカットで撮影 することが可能になった。それは、彼の夢であった。普通のキャメラを据え付 けたままで、数時間にわたって撮影することも試みている。ドストエフスキー の記念像は、なぜかペテルブルクにはひとつもなかった。それが、1998年に 建立され、その除幕式の日、朝から、ソクーロフのキャメラが、白い布をかぶ った記念像を見つめていた。式典、記念像の見学にやってくる有名無名の市民、 中には、ことをよく理解していないような人も、感動の面持ちの人もいる。キ ャメラは、式典の模様はもとより、入れ代わる人、近づく人、立ち尽くす人、 熱心な人、おざなりな人、あらゆる人々をとらえる…  《エルミタージュ幻想》に、その人々の顔が、なぜかダブってくる…
 19世紀初めの衣装に身をつつんだ将校や貴族たちが馬車でやってくる。彼ら は、冬宮(その一部がエルミタージュ=隠れの間と名付けられていたが、後に 冬宮は総称としてエルミタージュと呼ばれるようになる)に、どっと入り込む。 舞台は19世紀か? だが、宮殿の別室では、1703年に建設されたペテルブル クの生みの親、改革と近代化を強化した、啓蒙王であると同時に残虐なピョー トル1世の姿も見える。近代化を進めるために、多くの人々の“痛み”を切り 捨てる事実は、今も変わりないと、鋭い痛みが胸を突き抜ける。どうして、人 間の“残酷さ”が世の中を作り上げるのだろうが? どうしてそんなことが続 くのか? そもそも、独裁者でなくとも、人間は何と残酷なことか… カフカ の短編『変身』を思い出す。ひとたび余計物になった息子ザムザ、兄ザムザを、 家族がどのように接するか思い出して欲しい。虫のザムザが息絶えたときの、 家族の解放感、喜び… それは、私のものともなりうるだろう… 恐ろしい事 実! 肉体と精神の限界を口実に、愛する者から悪魔に変身できる恐ろしい事 実! それは克服できるのだろうか? 愛していれば、できるのだろうか?…
  エルミタージュの、多くの部屋は、まるで、時代をとじこめているかのよう だ。私たちは、キャメラとともに彼らの後を追う。“キャメラ”は“声”を持 つ。いや、キャメラなどではない。案内人なのだ。これはソクーロフだ。私た ちは、姿を見せないソクーロフのまなざしとともに、エルミタージュをめぐっ て行く。その前を、元外交官の、ロシアから見ての外国人のキュースチンとい う名の男が行く。彼はなぜか、ここに迷い込んでいる。だが、エルミタージュ が火事になった(1837年)後に訪れている、と何度も言及するが、彼は、現 時点の事情がよくわからないようだ。そこで、“キャメラ”の後について行っ たり、勝手に扉を開けて別の間に入ったりする。男は、自分の思いを述べたて る。そこには、ロシアにとっての、鋭い文明批評が込められる。ロシア大国主 義への揶揄とも受け取れる。“キャメラ”はむしろ、自分の意見というより、 男に事実を伝える。自己問答のように。ヨーロッパではなく、ロシアが成し遂 げたことを語る声に、甘さが溢れる。これも、演出上の計算だろうか? 愛国 主義の微妙さ、曖昧さ、どちらに揺れ動くかで、戦争勃発にまで繋がる危うさ を、生身のソクーロフは痛いほど知っているはずなので… そう、自己問答な のだ! ソクーロフは“キャメラ”だけではなくて、あの男、キュースチンで もあるのだ。彼はソクーロフの分身の役をおのずから演じているのだ。ロシア の極端で排外的な愛国主義者たちに、自分の身を守りつつ立ち向かう手法では ないか?
 宮殿の華麗なる数々の部屋、18世紀や19世紀の貴族や皇室の人々のみごと な装い。それにもかかわらず、何と浅薄な雰囲気だろうか! 果たして気品が 見られるだろうか? レンブラントが描く老人たちのポートレートが思い浮か ぶ。悲しみ、苦悩に打ちひしがれても漂う気品、人間としての気品。願わくば、 この世を去るにあたって、あのひとかけらだけでもほしい! 衣装は豪華かも しれないが、男も女も社交界を泳ぐクラゲのようだ…  だが、とつぜん、キュースチンが入り込むのは、現在のエルミタージュ美術館 である。ああ、2百年まえの人々は亡霊なのだろうか。
 ここで、私たちは世界の名画に再会する。レンブラントの《ダナエ》が、現 場で見る以上に、はっきりと、明るく目に写る。《ダナエ》は15年ほど前に、 一見物人から硫酸をかけられ、ひどく痛めつけられ、10年間かけて修復された。 世界に、たった一つの、名画の中の名画が。
 ふと、キュースチンはオランダ派の小品(タイトル:"The morning of a young lady" 作者名:Frans Jansz Van Mieris I 制作年1659-1660)を見つ めて呟く。「なんと貧しい身なり! だが、生きるのだ、生きていくのだ、永 遠の人々!」 これは、ソクーロフの私たちへの痛恨を込めたメッセージでは ないか。貧しい身なりの私たちこそ、永遠の品格、真剣さを備えたいものだ。 私たち大多数が変容しない限り、社会の本質は良い方向に決して変わりはしない だろう。ああ、それは世界の歴史が物語ってくれる。悲しく悩ましく、死ぬに 死に切れない物語…
 グレコの《使徒聖ペトロと聖パウロ》を前にした、見物の現代青年とキュー スチンとの対話は圧巻である。「聖書、福音書を読まないで、考えないで、な ぜ聖ペトロとパウロの苦悩が分かるのか! 」と叫ぶキュースチン。それは、 そのまま、今を生きる私たちの、精神生活の欠落部分に容赦なく突き刺さる。 “聖書”に別の教典や書名を差し替えて、考えてもいいと、とっさに思う。偏 見、浅薄な考え、いや、思考の欠如、そして、安易な復讐のみが世界を席捲す る辛さ! それこそ、ソクーロフの悲痛な叫びでもあろう…
 キュースチンはソクーロフ同様に、絵画に造詣が深く、私たちは、250万点 以上の所蔵品の、ほんの一部を見るにすぎないのだが、その充足感は大きい。
 レンブラントの《放蕩息子の帰宅》をみつめるとき、大地に水がしみわたる かのように、私たちの心は、寛容な精神に満たされるだろう。このような愛の みが世界を救うのではないだろうか。どうして、このような愛を基盤に、事が 進められないのか? 人類は、どれだけ生き続ければ、それを実現するのだろ うか? どれだけ? どうして、それを深く理解するために、とてつもなく大 きな悲劇を通過しなければならないのか? さらに、その悲劇の記憶は、なぜ、 もっと後の世代に伝達できないのか? 記憶記録装置の有無ではない。すべて、 人間そのものの問題ではないのだろうか…
 さらにソクーロフに選び抜かれたロシア史の瞬間が、絢爛たる広間で再現さ れる。中でも、優れた作家グリボエードフ(1795−1829、戯曲《知恵の悲し み》の作者)は、政治的流刑のごとくテヘランへ外交官として派遣される。そ このロシア公使館で、熱狂的なイスラム教の暴徒に殺害される。当時のペルシ ャ王が孫の王子をロシアに遣わし謝罪するが、その一行を受け入れ、儀式が行 われたのも、このエルミタージュである。丁重に謝罪するペルシャ使節。その 事件が「一部のものの行為であり、二国間の友好に傷はつかない」とするロシ ア側。権力にとって図星の結果であるのに、痛ましい表情を取り繕いながら進 められる儀式。欺瞞の図式。華麗さに目を奪われてはならない! 権力者はい つの時代にも邪魔者を抹殺して、盛大な葬儀を執り行う。いや、権力者だけで はない。巷の、あらゆるジャンルの、芸術ジャンルと呼ばれる所でさえも、小 さな権力を持った人々は同様の行いをする… いじめ、嫉妬、追放…などなど は人を直接殺さないが、人の心を抹殺に値するほど傷つける… 子ども世界に も反映されているおぞましい図式! これを、人間が持つ業というなら、人間 であることをやめたい。だが、そうした種は、小さいながらも私の胸にも生き ている。憎らしい小さな生き物のように! 何と恐ろしいことか!
 だがまたこの広間に戻ろう。当時の衣装を、ソクーロフのスタッフは文字通 り再現した。金糸銀糸の刺繍を施されている。それが、目に鮮やかな場面を紡 ぐ。空虚な華麗さの中で、西と東が交差する。グリボエードフ殺害は、結果と して、東西の悪の交差地点で行われたとも言える。単にロシアの国内問題とし て、複雑さをはらんでいるだけではない。これもまた、権力の特質を現してい る。だから、この19世紀前半の舞台は、私たちが生きる21世紀にとって、実 に切実に、苦痛をともなって響いてくる…
 ロシア最後の皇帝ニコライ二世の家族たち。伝説のアナスターシャは、まだ 幼い少女… 美しい子どもたちが飾る家族像。母皇后の、未来にたいする慄く ような予感。ここでは、皇帝の権力がなしたことは棚上げされる。それは、家 庭には持ち込まれない。皇帝だけではない。政治家、会社や組織の首脳が成し た汚点は、快適な居間や、清らかに微笑む家族の許には、決して持ち込まれは しない。これは、私たちが考え、思いをいたせば、法則のように、くっきりと 見えてくるかもしれない… 
 広間では、ダンスパーティが繰り広げられる。キュースチンも、ポルカに加 わる。やがて、ダンスが終わる。ワレリー・ゲルギエフが指揮するマリンスキ ー(キーロフ)劇場の楽団も演奏し終わる。「ブラボー」の叫びが上がる。こ こは現在のペテルブルク。19世紀の貴族たちが現在にスリップする… また は、ゲルギエフとオーケストラメンバーが19世紀にスリップする…
 やがて、千人以上の着飾った男女が大ホールを後にして、正面の階段を下り ていく。白い大理石に金箔の彫像があしらわれ、カガミがはめ込まれた、典型 的なバロック様式の階段を下に、下におりて行く亡霊たち。若きプーシキンと 絶世の美女、妻のナターリャも。90分に凝縮された300年が、階段を流れて いく。その先は?
 12月の風がペテルブルクの上空を吹き抜ける。凍てつくことに抗う海が波を たてる。ソクーロフの声が呟く。「私たちは永遠に、この海を漂うのです」  “キャメラ”は別れを告げる。「ヨーロッパよ、さようなら!」
 ロシアの方舟は、どこへ漂っていくのだろうか。そして、私たちは?
 夢の中で、エルミタージュを散策したのだろうか? まだ、目を覚ましたく ないのだが… 

                          

(2002年9月5日)

「エルミタージュ幻想」DVD

「エルミタージュ幻想」オフィシャルWeb

〇一般映画館公開・2003年2月より 東京・渋谷ユーロスペースにて。



「エルミタージュ幻想」(原題「ロシアの方船」)はNHKハイビジョン放送で初放映されました。 

番組名: ハイビジョンスペシャル<巨匠ハイビジョンで撮る>
ソクーロフの「エルミタージュ幻想」
放送日: 2002年10月11日(木)
放送時間:

午後7:30-9:00

日本語吹き替え


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