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信長紀行だあ〜
- 前置き
- 織田信長が明智光秀によって本能寺の変で49才で殺されたのは1582.6.2(太陽暦7.1)であった。
意外なことは、信長が初めて富士山を見たのが死ぬ約2ヶ月前であったという事である。
それは長年の
宿敵武田氏を滅ぼす掃討戦のため信濃・甲斐へ入った時であった。その戦後処理を終えた後、天下
統一が目前となり多年の働き詰めの日々の息抜きの意味からか、その帰り道に富士を眺めながらの
東海道をとっての行程を望んだ。甲府を立った4.10から清洲に4.19に着くまでの10日間のことである。
この間の接待役がこの戦での褒賞に駿河一国を与えられた徳川家康であった。その家康が心を尽く
して供応したため、信長にとってはおそらくかつて無かった”遊覧旅行”となったことが想像される
のである。武田戦に向かう途中から富士山のことを何度も口にしたり、実際道中で馬を責めたりしている
からである。その行程のことが太田牛一著『信長公記』に割合と詳細に記述されているのを頼りに、
信長に富士山はどのように見えたか?
に興味を持って、同じ道を辿ってみることにした。
(引用した『信長公記』は、<角川文庫ソフィア 41>奥野高広・岩沢愿彦校注 1969年初版発行
1993年8版を使用。また、引用は富士山の記述がある3.28から紀行関連を拾い出して4.15までとした
(駿河領ということで)。
日付で項目を立て、太字はその日泊まった場所を示している。日付には今の暦である太陽暦日を併記した。)
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『信長公記』、巻15より
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1582年(天正10年)
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(十八)三月廿八日(太陽暦4月30日)、
三位中将信忠卿、甲府より諏訪迄御馬を納(い)れらる。今日以の外時雨(しぐれ)、
風ありて、寒(カン)じたる事大形ならず。人余多(あまた)寒死(ココヘシニ)候キ。
信長公は諏訪より富士の根かたを御見物なされ、駿河・遠江へ御廻り候て、御帰洛
たるべきの間、諸卒是より帰し申し、頭(かしら)々ばかり御伴仕候へと仰出だされ、
御人数諏訪より御暇下され、
三月廿九日、木曾口・伊奈口思ひおもひに帰陣候なり。
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(十九)三月廿九日(太陽暦5月1日)、
(略)
信長公御帰陣の間は、信州諏訪に三位中将信忠卿置き申され、甲州より富士の
根かたを御覧じ、駿河・遠江へ御まはり候て、御帰洛あるべきの旨、上意候て、
<引用者注:信長は諏訪に3月19日から13泊>
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四月二日(太陽暦5月4日)、
雨降り時雨候といへども、兼日より仰出ださるゝに付いて、諏訪より大ヶ原に至つて
御陣を移さる。
(略)
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四月三日(太陽暦5月5日)、
大ヶ原御立ちなされ、五町ばかり御出で候へば、山あひより名山、是ぞと見えし富士の
山、かうかうと雪つもり、誠に殊勝面白き有様、各(おのおの)見物、耳目を驚かし
申すなり。勝頼居城の甲州新府灰跡(クワイセキ)を御覧じ、是より古府に至つて御参陣。
武田信玄館(たち)に、三位中将信忠卿御普請丈夫に仰付けられ、仮の御殿美々敷
(びゝしく)相構へ、信長公御居陣候キ。爰にて惟住五郎左衛門・堀久太郎・多賀
新左衛門御暇下され、くさ津へ湯治仕候なり。
(略)
<引用者注:信長は甲府に7泊。以下4/15迄は『信長公記』の引用の省略無し>
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(廿三)四月十日(太陽暦5月12日)、
信長公、東国の儀仰付けられ、甲府を御立ちなさる。爰に笛吹川とて、善光寺より流出づる川あり。
橋を懸け置き、かち人渡し申し、御馬共乗りこさせられ、うば口に至つて御陣取。家康公御念を入れら
れ、路次通り鉄炮長(ダケ)竹木を皆道(=街道)ひろびろと作り、左右にひしと透間(すきま)なく警固を置か
れ、石を退(の)け、水をそゝぎ、御陣屋丈夫に御普請申付け、二重・三重に柵を付置き、其上、諸卒の木屋
(こや)小屋千間に余り、御先々御泊々々、御屋形の四方に作り置き、諸士の間叶(まかなひ)朝夕の儀、下々悉く申付け
られ、信長公奇特(きどく)と御感なされ候キ。
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四月十一日(太陽暦5月13日)
払暁に、うば口より女坂(をんなざか)高山御上りなされ、谷合ひに御茶屋・御廐結構に構へて一献進上申さるゝ。
かしは坂、是又、高山にて茂りたる事大形ならず。左右の大木を伏せられ、道を作り、石を退けさせ、
山々・嶺々透間なく御警固を置かれ、かしは坂の峠に御茶屋美々敷(びびしく)立置き、一献進上候なり。
其日は、もとすに至つて御陣を移させられ、もとすにも御座所結構に輝くばかりに相構へ、二重・
三重に柵を付けさせ、其上、諸士の木屋々々千間に余り、御殿の四方に作り置き、上下の御まかなひ
仰付けられ、御肝煎是非なき次第なり。
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四月十二日(太陽暦5月14日)、
もとすを未明(びめい)に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中のごとくなり。富士の根かた、
かみのが原、井手野にて、御小姓衆、何れもみだりに御馬をせめさせられ、御くるひなされ、
富士山御覧じ候処、高山に雪積つて白雲のごとくなり。誠に希有の名山なり。
同じく根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立置き一献進上申さるゝ。大宮の社人・社僧罷出で、
道の掃除申付け御礼申上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられしかみ井手の丸山あり。西の山に
白糸の滝名所あり。此表くはしく御尋ねなされ、うき嶋が原にて御馬暫くめさせられ、大宮に
至つて御座を移させられ候キ。今度、北条氏政御手合せとして出勢候て、高国寺かちやうめんに、
北条馬を立て、後走(ヲクレバシリ)の人数を出だし、中道通り駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を
初めとして、もとす迄悉く放火候。大宮は要害然るべきに付いて、社内に御座所、一夜の御陣宿たり
といへども、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々敷仰付けられ、四方に諸陣の木屋々々懸置き、
御馳走斜めならず。爰にて、
一、御脇指 作吉光、
一、御長刀 作一文字、
一、御馬 黒駮(ぶち)、
已上、
家康卿へ進らせらる。何れも御秘蔵の御道具なり。
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四月十三日(太陽暦5月15日)、
大宮を払暁に立たせられ、浮嶋が原より足高山(=愛鷹山)左に御覧じ、富士川乗りこさせられ、
神原に御茶屋構へ、一献進上候なり。暫く御馬を立てられ、知人に吹上げの松・六本松、和歌の宮の
子細御尋ねなされ、向地(むかうぢ)は伊豆浦・目羅が崎、連々聞食(きこしめし)及ばれ候。高国寺、よしわら、三枚橋、
かちようめん、天神川、伊豆・相摸(さがみ)境目にこれある深沢の城、何れも尋ねきかされ、神原の浜辺を由井
て、磯辺の浪に袖ねれて、清見が関、爰に興津の白波や、田子の浦浜・三保が崎、いづれも三ほの
松原や、羽衣の松、久堅(ひさかた)の四海納まり、長閑(のどか)にて、名所々々に御心を付けられ、江尻の南山
の打越し、久能の城御尋ねなされ、其日は江尻の城に御泊り。
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四月十四日(太陽暦5月16日)、
江尻を夜の間に立たせられ、駿河府中町口に御茶屋立置き、一献進上申さるゝ。爰にて今川の
古跡、千本の桜くはしく尋ね聞食(きこしめ)し、あべ川をこさせられ、彼川下(かのかはしも)左の山手に、武田
四郎勝頼此比(このころ)拘へられ候取出、持舟と云ふ城あり。又、山中路次通りまりこの川端に
山城を拵へ、ふせぎの城あり。名にしおふ宇津の山辺の坂口に御屋形を立て、一献進上候なり。宇津のやの坂をのぼりにこさせられ、田中漸く程近く、
藤枝の宿入口に、誠に卒度(そつと)したる偽之橋(イツワリノハシ)とて名所あり。かい道より左、
田中の城より東山の尾崎、浜手へ付いて花沢の古城あり。是は昔小原肥前守楯籠り候時、武田信玄
此の城へ取懸け攻損じ、人余多(あまた)うたせ勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の
虚空蔵まします。能(よく)々尋ねきかされ候て、其日は田中の城に御泊り。
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四月十五日(太陽暦5月17日)、
田中を未明に出でさせられ、藤枝の宿より瀬戸の川端に御茶屋立置き、一献進上
申さるゝ。瀬戸川こさせられ、せ戸の染飯とて皆道(かいだう)に人の知る所あり。嶋田の町、
是又、音に聞こゆる鍛冶の在所なり。大井川乗りこさせられ、川の面に人余多立ち渡り、かち人
聊爾(れうじ)なき様に渡し申候なり。真木のゝ城右に見て、諏訪の原を下(クタリ)、きく川を御通りあつて、
のぼればさ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上候なり。是より、につ坂こさせられ、
懸川御泊り。
<引用者注:以下、『信長公記』の記述から抜粋>
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四月十六日(太陽暦5月18日)、
この日、天竜川を舟橋によって渡り、”上古よりの初めなり”という。浜松に至つて御泊り。
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四月十七日(太陽暦5月19日)、
吉田に御泊り
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四月十八日(太陽暦5月20日)、
池鯉鮒(ちりう)(=知立)に至つて御泊り
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四月十九日(太陽暦5月21日)、
清洲迄御通り
- 風景
上記道程で実際に撮った写真と、当時と今とでは見える風景も変わっているため、
浮世絵の街道物も挿入することにする。(なお、浮世絵は写実的
といわれる司馬江漢(1747〜1818)の東海道五十三次(※1)と葛飾北斎(1760〜1849)の
冨嶽三十六景(1831〜1833)(※2)から採った。絵の下に(北斎)とあるもの以外は江漢のもの。)
(※1)出典:『司馬江漢「東海道五十三次画帖」−広重「五十三次」には元絵があった−』,對中如雲監修,1996,ワイズ出版
(※2)出典:『風景画<北斎美術館(全5巻)第2巻>』,永田生慈監修・執筆,1990,集英社
・3月28日(太陽暦4月30日)
(上諏訪)
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信州諏訪湖(北斎)(遠望されるのは高島城) |
・4月12日(太陽暦5月14日)
(本栖→人穴→白糸の滝→大宮)
(撮影は1999.3.22)
・4月13日(太陽暦5月15日)
(原(浮嶋が原)→大野新田→吉原→田子の浦→富士川→蒲原(吹上ノ浜)→由井→薩(さっ)た峠→
興津→清見ヶ関→(清水)→三保の松原・羽衣の松→久能山城→江尻城)
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原 | 駿州大野新田 (北斎) | 吉原 |
東海道江尻田子 の浦略圖(北斎) | 蒲原 | 由井 | 興津 |
江尻 | 駿州江尻(北斎) |
(この中で、東海道で主に泊まる宿とされたのは、江尻)
・4月14日(太陽暦5月16日)
(府中(又は駿府)(現・静岡市)→安倍川→持舟(現・静岡市用宗町)→
鞠子(現・静岡市丸子)→宇津谷峠→岡部→藤枝→田中城)
・4月15日(太陽暦5月17日)
(瀬戸川→嶋田→大井川→金谷→諏訪の原→菊川→小夜の中山→日坂→掛川)
(この中で、東海道で主に泊まる宿とされたのは、金谷)
- 地図

出典:『別冊歴史読本'91春号 織田信長写真集』P.130,1991,新人物往来社
- 小説など
上記のくだりを取り上げて描いている小説などを以下に挙げる。
・司馬遼太郎著、『覇王の家』(凱風百里の章)、1973.10単行本発行、新潮社
(1979.11.25新潮文庫(し-9-25)発行)
これによると、柏坂あたりで太政大臣の近衛前久が信長の後を追って来て、
一緒に連れて行って欲しい、と頼んだのにも関わらず、信長は
”近衛、わごれなどは、木曾路(中仙道)をのぼりませ”と言ったという。
(※この言葉は、『甲陽軍鑑』(品第五十八)に出ている。)
・堺屋太一著、『鬼と人と−信長と光秀』、1989.12単行本発行、PHP研究所
(1993.5.20PHP文庫(さ.7.8・上巻,さ.7.9・下巻)発行)
は、3/14から6/13までの日にち毎に描いている。
・津本陽著、『下天は夢か』四(本能寺の章)、1986.12.1〜1989.7.30「日本経済新聞」連載,
1989.8.24単行本発行、日本経済新聞社
(1992講談社文庫(つ-10-17)発行)
・遠藤周作著、『反逆』下巻(さとの場合の章)、1989.7単行本発行、講談社
(1991.11.15講談社文庫(え-1-37下巻)発行)
・池波正太郎著、『真田太平記』(一)天魔の夏、1974.12単行本発行、朝日新聞社
(1987.9.25新潮文庫(い-16-34)発行)
・秋山駿著、『信長』(三十四 武田戦完了、論功行賞の章)、1992年5月号〜1995年10月号
「新潮」断続連載、1996.3.25単行本発行、新潮社
- 顛末記
このページの冒頭のような考えが浮かんで、いざ実施しようとすると・・・
天候が良くなく雨降りの日々が続き、実際見物に行けたのは3/22一日しか取れなかった。
という訳で、当時の日にちに近い五月の連休中にでも、もう一度やってみたいものと考えている。
それにしても約400年前の道中を辿るのがこれ程困難だとは思わなかった。
地名が変わっていたり無かったり文中の伝承の類が
分からなかったりは勿論のこと、地形も眺めも変わり道路は舗装されているという状況では、
軽い思い付き以上にかなり難しい作業だと分かった次第である。
- 著作権について
このページで使用した『信長公記』、『東海道五十三次画帖』、『冨嶽三十六景』の出版物から
ホームページへの利用は原作者が亡くなって権利が消滅しているため、”掲載可能”という確認をしております(著作権
情報センター・著作権相談室(.03-5353-6922)に1999.4.20確認)。
また、エコール経営研究所のQ&A(”著作権Q&A(2)”)が参考になると思います。
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