映画 Seven Years in Tibet  

日時:2000.06.10 21:00 フジTV放送(1997年 アメリカ作品)
キーワード:ヒマラヤ、チベット、第二次大戦、ナチス・ドイツ、捕虜、ダライ・ラマ、中国共産党

内容:
  ハインリヒ・ハラー(Brad Pitt)は第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下のオーストリアの登山家。1939年ナチスの威信を賭けたヒマラヤ登頂へのアタック隊がまさに今出発しようとしていた。その遠征隊にハラーも加わっていたが、妊娠中の妻を残しての参加であった。
 ヒマラヤ登山中に隊は悪天や雪崩に見舞われ、あえなく途中で断念。下山後に英国領インドで、ドイツと敵対し連合国として参戦したイギリス軍の捕虜となってしまう。
1942年9月、ハラーは捕虜収容所から何度も脱走を繰り返し、仲間の奇策もあって脱出を遂げる。ハラーはドイツ人の隊長ペーター・アウフシュナイダーに反発して仲間とは離れ一人でチベットに向った。ハラーは収容中に妻からの手紙で息子の出産を知り、更に離婚を求められた。チベットから約60Kmの地でこれも一人となっていたペーターに再会する。互いに反発しあいながらも徐々に心を通わせながら二人でチベットを目指す。もう2人とも本国へ戻るつもりはなかった。
 チベット仏教の聖地ラサに外国人が足を踏み入れることは許されていなかったが、途中で山賊に襲われたりと命からがらラサに着いた二人をチベット人ツァロンが暖かく迎える。ツァロンが二人の滞在許可を役人に申請してくれたおかげで、好待遇で生活できることになる。ハラーはラサで見た新聞で連合軍のノルマンディ上陸を知り、終戦が近いのを悟る。ハラーは測量などをしながら滞在を続ける。
 1945年5月、ドイツの降伏を知り、更にまだ見ぬ息子からの「もう手紙を寄越さないで」という手紙にショックを受ける。終戦を知り、故郷オーストリアへの帰国も考えたが、まだ若いダライ・ラマ14世の生母の願いでラサの宮殿へダライ・ラマに謁見する。更に法王ダライ・ラマの要請で映画館を作ったり、ラマの教育担当のような役割を担う。次第にラマにまだ見ぬ息子の姿を重ね合わせるようになり、文字どおり彼に救いを見付ける。
 中国では共産党によって中華人民共和国が建国、共産党軍は軍事力にものを言わせて、チベットへ侵攻を開始。圧倒的な兵力でチベットは中国に占領され、その統治下でラマを中心とした自治を探ることになる。
 ハラーはラマに祝福され、1951年オーストリアへ帰国。ラマにもらったオルゴールを手に別れた妻と息子の所を訪れる。会いたくないという息子に心を痛めながらもオルゴールを息子の部屋に残してその場を去る。
 しかし、映画のフィナーレではその息子と山頂に挑むハラーの姿が写し出されていた。

感想:チベット自治を含め、中国での人権問題は世界中が注目する問題である。最近ではダライ・ラマ同様、生き仏(活仏)といわれる少年がチベットの高山を越え、インドへ渡ったというニュースが記憶に新しい。
 子供を避けるようにヒマラヤに向った主人公だが、登山中に産まれた息子や妻のことはやはり気になっていた。離婚を求められた後も、息子には手紙を書き続けた。後に息子からの手紙でもう手紙を寄越すなと言われて気を落とすが、息子のような若さのダライ・ラマとの交流を通して、心の平安を掴む。
 また、中国軍のチベット侵攻をドイツのポーランド侵攻などと重ね合わせ、自分たちがやってきたことを反省したり、ペーターの妻となったチベット人ペマ・ラキにチベット人と西洋人の考え方の違いを教えられたりして、チベット仏教の文化を吸収していく。
 山好きの一人としては登山シーンが少ないのは残念だった。また、チベット滞在中はハラーはヒマラヤを忘れたかのようでこれも残念。しかし、チベットが中国に降伏する前に、ハラーがダライ・ラマに登山の良さを語る言葉が印象的。
「これ以上ない単純さがいい。もやもやした心が晴れて、はっきり見えるようになる・・」
彼は決して山を忘れたわけではなかった。

補足:ダライ・ラマ14世は1959年インドへ亡命。チベット自治の平和的解決を求めて活動を続けている。1989年にはノーベル平和賞を受賞。つい最近来日もしていた。

更新日: 00/06/11