2000年3月2日(木曜日)


 少しずつ、何かが前に進み始めています。いろんなものが着実に私の前から離れて行き、姿を消してゆく中で、新しい生活への準備が始められようとしています。
 もちろん、心の準備も。

 私は、これまでの生活も決して嫌いではありませんでした。もしかしたら私は、名残惜しんでいるのかも、知れません。気持ちが高ぶる、という感覚とはまた違って、今、私の胸にはいろんなものが突っかかっています。恐れているわけでは、ないと思うのです。いや、思いたいだけ、なのかもしれません。とにかく私は、緊張し始めています。

 傍から見れば、大げさ、と思うかもしれません。この生活だって、本当は望んでいる何かのための、ほんの繋ぎに過ぎないのかもしれないのに。

 いろんなことを、自分で責任を請け負わなければならない生活。
 そして、やりたいことが、とりあえずは何でもできてしまえる生活。
 誘惑や、無駄遣いや、同棲や、創作活動や、一人鍋や、監禁や……。
 今、私は、緊張し始めています。

#言っておきますけど、監禁はしねーですよ。そんな。


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 エピローグ

ジャンル:SF
危険度:中

 機械文明は事実上の終焉を迎えようとしていた。
 遺伝子操作の研究が行われ始めて、すでに200年が過ぎようとしていた。
 技術的な解明がここまで遅れた一番の理由は倫理的な問題であった。そして、それが原因で戦争が起こり、泥沼の、地獄のような時代が20年近くも続いた。
 もはや文明的な復旧はほぼ不可能と言われた。それほどまでに、酷い戦争だった。戦うための機械的道具でさえ全て燃え尽きても、なお人と人との殴り合いは収まらなかった。そんな戦争が、永く永く続いたのだ。
 森林の80%が燃えつき砂漠と化した。浅瀬の海は化石燃料と放射性物質が入り混じるヘドロと化した。夕焼けは燃えるように紅く、夜は長くなった。食料と呼べるような生き物が生きていける環境もほとんどなくなってしまった。
 人間が生き残るすべは、もはや遺伝子操作による種の改造しかありえなかった。なぜなら、それ以外のアイデンティティーが、人間の頭では考えつかなかったからだ。

 事実上、戦争に破れたのは遺伝子操作反対派であった。彼らは戦争に遺伝子操作を使わなかったのだ。使えなかったわけではない。それができる技術者はいくらでもいた。しかし、彼らのモラルがそれを許さなかったのだ。そして、それが決定的な敗因となってしまった。
 負け組となった反対派の人間たちの多くは推進派の手によって施設に閉じ込められ、酷い改造手術を受けた。たとえば彼らは食肉用に改造されたりした。食肉用として改造された人間は工場へ移送され、そこでクローンバイオ技術による大量生産が施された。食肉用に改造された人間の肉は人肉とはいえ臭みもなく、なかなかの美味でもあった。しかし倫理的な抵抗感はぬぐいきれないものがあるので生肉が店頭に並ぶことはほとんどなく、飲食店でそれとなく使われることが多かった。
 もっとも食用の人間などというのが作られた背景には、それほどに切迫した食糧事情でもあった、ということが一番大きいのではあるが。
 他にも、一生を娼婦として生きるのに都合のよい体に作り変えられたり、とにかく速く走るよう改造されて競馬の代わりに使われたりした。もっともそんな風に改造された人間だって立派な人間としての志向回路は備わっているが、到底人間としての権利といえるような権利は与えられることはない。故障すればその場で射殺され、遺体はすぐにリサイクル工場へ移送される。

 さて、それに対して勝ち組の推進派達はどうなったか。
 彼らもまた、自らの体を改造した。必要最低限の改造、たとえば体内自浄作用の大幅な強化、温度変化に対する耐久力の強化などは勝ち組・負け組を問わず全ての人間に施されたが、それに加えて彼らは自由に自分の体をカスタマイズする権利を得た。多くの人間が自分の容姿を望むように作り直し、骨格を修正し、運動神経や筋肉を強化した。もっとも筋肉ばかりは自分で鍛えなければ成果は得られないが、軍事力にも影響を及ぼすような改造を負け組みの人間に施すことはありえない。

 こうして、人間は自らの種を作り変え、新しい生活と社会構造を手に入れた。そして、人類の新たなる歴史は幕を開ける。

 しかし、ほんの一部でまったく違う社会が、まったく別の時代の流れを作り出していた。遺伝子操作反対派の上層にいた人間の一部が、推進派の手から逃れて落ち延びていたのである。
 彼らは地下組織を結成した。彼らは血の誓いを交わした。彼らはその地で物資を掘り起こし、ありとあらゆる自然燃料を動力に変換し、エネルギーを光にして植物を栽培した。自分たちは地下に引きこもり、地下工場を建設した。そして人体改造に対する対抗策として、彼らは高性能アンドロイドの開発と生産に着手した。
 彼らの強みは遺伝子改造技術を使わずとも食料を確保する術を知っていたことだ。彼らの作る高性能ろ過フィルターはヘドロの海の水も飲料水に変換することができた。彼らの作る特殊なジューサーはそこいら辺の土からも養分だけを搾り出して健康的な流動性食料を得ることができた。綺麗な空気で呼吸する術も、日光の代わりに光にあたる術も知っていた。遺伝子操作を行わない彼らが必要と感じた生きる術のほとんどを、まったく別の技術で全て補っていたのだ。そして、唯一補いきることのできなかった、軍事力と物資の供給、その答えが、アンドロイドなのである。

 物語はすでに終焉を迎えている。
 なぜなら人間は、この物語を通じて、自分たちが生き残る術を、その答えを見つけ出しているからである。  しかし、物語にすべき着眼点はどこにでも転がっている。
 もしもこの先を書こうと思う人間がいるならば、これはその物語の序章となりうるだろう。
 新たな戦争は、いつしか、幕を開ける。