1999.01.04

参考文献*小説編*

 ネタ部分です。


『大友の皇子東下り』 豊田有恒/講談社文庫

 

わたしがとくに注目してしたのは次のようなこと。#ネタバレにも通じるので、いちおうページ変えますね。

●大海人皇子の出自

大海人皇子は『日本書紀』にあらわれる、宝皇女(皇極・斉明天皇)の子・漢皇子(あやのみこ)である。漢皇子の父親は用明天皇の孫・高向王(たかむくのおう)となっているが、ほんとうは皇族ではなく高向の村主(すぐり)などの豪族出身だろう。

●大海人皇子の役割

母は田村皇子(舒明天皇)との間に生まれた大海人の「弟」・中大兄皇子を溺愛し、彼はいつも悲しい思いをしていた。そして認められるためにもっぱらダーティな仕事を引き受けていた。乙巳の変(鞍作=入鹿暗殺)で鞍作をじっさいに殺したのは大海人である。証拠はまず、中大兄が手にしていた凶器の記述が槍と剣とで食い違っている箇所がある点。そして、現場にいた古人皇子が帰宅後口にしたという「韓人(からひと)が入鹿を殺した」という言葉。韓は「あや(安耶)」とも読み、つまり韓=あや=漢と考えられる。

●中大兄暗殺説

天智天皇=中大兄皇子は、大海人皇子によって暗殺された。母の死・中大兄に額田王を奪われたこと・大友の立太子がその原因である。

●大友の側近

大友の東下りをとくに熱心に、身を挺してまで助けたのが百済からの亡命者5人。親・新羅の大海人に対して、百済の遺民(白村江の戦い以後、百済は滅亡)として、親・百済であった中大兄の直系・大友皇子を立てるというのがその背景にあった。つまり、壬申の乱には、新羅vs百済の代理戦争的な意味合いもあった。

●大友の逃走経路

近江から琵琶湖を経て、湖東平野に出、鈴鹿山系を越え……木更津までの道のりが書かれているが、どうしてその場所を経由したか、そこがどういう場所であったかもきちんと考察されている。

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