谷田部陣屋

概説 谷田部藩は、肥後熊本藩(細川氏54万石)の分家。初代藩主興元は下野国芳賀郡に領地を賜り、茂木に居を定めた。元和元(1610)年の大阪夏の陣に参陣、戦功を挙げ常陸国筑波郡・河内郡内に領地を加増され、その後、藩庁を茂木から谷田部へ移し、谷田部藩が成立。陣屋の敷地面積は約6,800坪、北と東には堀を巡らしてあった。谷田部藩は幕末の頃財政危機に陥り、二宮尊徳の仕法により藩政改革を行った。[現地説明板より]
谷田部小学校地がほぼ陣屋跡
その他の写真
  1. 谷田部藩陣屋の玄関(谷田部小学校正門南側に移築されている)
  2. 「陣屋の見晴らし台」伝承地は現在の市営駒形住宅
  3. 不動並木の200本の松並も今は最後の1本が残るのみ(2003/11/17)
訪問記[2002/03/04]谷田部陣屋関連遺構と思われる「細川さんの外堀」を見てきた。
[2002/11/11]谷田部小学校周辺を歩いてみたが、陣屋の遺構と思える地形はとくにないようだ。
[2003/11/17]陣屋の見晴らし台:最近、先祖が谷田部藩5軒の名主のひとつであったと言われる方からネットを通じて「陣屋の見晴らし台」伝承地のことを教えてもらったのでさっそく探しに行ってみた。その場所は旧谷田部中学校地(近くにクボタ住宅があるのが目印)だということなので、まずはつくば市教育委員会でおよその場所を聞いた。教育委員会では「陣屋の見晴らし台という名称は分からないがその付近にヤグラシタという小字があったと思う。見晴らし台とヤグラシタのヤグラとが同じものを差しているかは分からないが。」という興味深い話も聞けた。現在、旧谷田部中学校地は市営駒形住宅団地になっていた。そこは東側へ視界が開かれた台地の縁になっていて、東谷田川を眼下に臨むことができる。
不動並木:不動町にある大渡山不動尊の前から南へ向かう道に沿って200mにわたり大小合わせて約200本の松並木があったそうだ。現地の説明板には「約300年前、時の谷田部藩主細川興昌が参勤交代の便宜上細川氏の領地の中で江戸に最も近いこの場所に茂木(栃木県)より居所を移したとき、城下町の形態を整えるため松を植樹したのがはじまりと推定される。松の成長はきわめて順調で、幕末の頃にはすでに一偉観を示すようになり、当時の人々に「谷田部に過ぎたるもの」としてほめたたえられるようになっていた。」と書かれているが今では最後の1本を残すのみとなっている。排気ガスの影響というよりも松食い虫にやられたのではないだろうか。
所在地つくば市谷田部。谷田部小学校校地がほぼ陣屋跡。正門脇に説明板があり、正面の校舎前に城址碑がある。また、谷田部藩陣屋の玄関は小学校正門向かい側の職員専用駐車場内に移築されている。「陣屋の見晴らし台」伝承地は現在の駒形住宅団地(旧谷田部中学校地)のところ。
参考書