浮島城

概説 別称、岡の内城。
歴史:承平年中(931〜938)平将門の与党、武蔵権守興世王が館を築いて清遊したと伝えられる。しかし、その没後、天暦年中(956)物部信太連の裔、浮島太郎安広が修築して居城とし、後裔相次いだが、元亀、天正の頃(1570〜1590)その末裔漢島弾正が佐竹に滅ぼされ廃城になったと伝えられる。尚、その間に保元の乱に敗れた源義広(為義の3男)が20余年に亘り浮島に潜居した(1156〜1180)と史実に見えるので、浮島氏の庇護の下にあったのではないかとも思われる。義広は信太三郎先生と号し、鎌倉を討つべく挙兵したが頼朝に敗れ木曽義仲に投じたと云われている。
概要:字岡の内の台地(標高20m)全体と言われているが、これといった確証はない。利根川図誌に「人見の塚」が城跡の一角にありと記せるも現認不能である。ただ、浮島内に人見氏が4家ある。また、昭和初期まで字仲郷の城跡寄りの地点に「鞍かけの松」という松の大木があったが枯死した。その辺りが馬出口ではないかと推定されるが、干拓造成のため土取り(切土)されたので現況からは不明である。現在台地上は畑地として耕作されており、何らの遺構も見られない。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
姫宮神社側(西側)から登って郭方向を眺める
その他の写真
  1. 西側からの遠景
  2. 南側斜面下に枡形様の空間が
訪問記[2000/11/27]なんの資料もなしに姫宮神社の裏ということだけで行ってみた。一面畑地帯になっていて、これといった遺構は確認していない。中世以前、平安時代からの城跡らしい。中世遺構は姫宮神社周辺にわずかに残り、この台地全体が城館址と考えられるらしい。美浦村の霞ヶ浦沿岸に点々と構築された城砦群同様、北岸の佐竹を意識した陣城と考えられる。
[2003/09/28]東側台地下に堀跡らしきものあり、という話を聞いて行ってみたが見つからず。ただし、浮島小学校西側の台地斜面にある神社の鳥居のところには堀があったと地元のおばぁちゃん方のお話。姫宮神社東側の畑の南側斜面下に祠が祀られていて、その場所が枡形のような感じだった。さらにその下に帯郭があるように見えた。浅野家文書に残る浮島城古城図(広島市立図書館蔵)はデフォルメされてはいるが特徴を捉えているとも言える。最近開通した桜川古渡から稲敷大橋へ通じるバイパスが浮島城の台地北側を縦断している。
所在地稲敷郡桜川村浮島。姫宮神社または貝ノ塚貝塚が目印。[桜川村中央公民館の壁に貼ってあった遺跡地図より]
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』