土浦藩の海防問題
 鉾田町の田山道夫家文書の中に「異国船渡来の節、村々心得方仰渡され候御受書の事」というのがあるが、それによると「私ども村々え異国船相見え候節、御人数差出の儀、土屋相模守様(土浦藩)・牧野越中守様(笠間藩)え仰せ付けられ」となっていて、異国船が鹿島浦に見えた時は土浦と笠間へ「昼夜を限らず」注進し、さらに出陣の際には宿陣として寺院や民家の提供、海岸に陣小屋を建てる場合は材料の提供や兵粮・馬飼料などの付送りなどを引き受けている。この文書の日付は文政8(1825)年9月となっているので、「異国船打払令」によってとられた処置と考えられるものであるが、その差出人は、杉庄兵衛御代官所常州鹿島郡深芝村百姓代政右衛門、組頭利右衛門、名主茂左衛門以下13か村の村役人となっている。
 この13か村を現在の市町村別に整理すると、上釜・沢尻・荒地・玉田・子生(以上旭村)、小山・小宮作・下津(以上鹿嶋市)、深芝・奥野谷・知手・日川(以上神栖町)、太田新田(波崎町)である(『旭村史』によると鉾田町の柏熊が入って14か村になっている)。
 このような史料から鹿島浦の海防は笠間藩と土浦藩が受け持ったと考えられるが、よく見るとかなりの空白地帯がある。それは鉾田町白塚・大竹から大洋村、さらには鹿嶋市の大野地区の海岸線の村々であり、これらの村々は旗本知行地と一部守山藩(水戸藩の支藩)の領地で、その多くが相給である。[『鉾田町史 通史編(上)』より]
 
 このように土浦藩も笠間藩も内陸にあったとはいえ幕藩体制下の有力藩として水戸藩領以南かつ銚子以北の海岸線の防備を割り当てられたようだ。それでは土浦藩は具体的にどこを割り当てられ、どのような体制を敷いて、どのような防備を備えていたのか、残念ながらこれまでのところそれらに応えてくれる史料が存在するのか分からない。
 
 このページをご覧になった方で、「土浦藩の海防に関する」史料・資料・出版物などをご存知の方は、どのような小さな情報でも構いませんので、ぜひ管理人(kopyto@mac.com)までお知らせいただきたいと思います。