土佐藩陣屋

概説詳細未調査だが、司馬遼太郎『竜馬がゆく 2風雲編』「追跡者」の章に住吉陣営として土佐藩陣屋に関する記述がある。その部分を抜粋してみたい。
住吉陣営:
 ところで、大坂における土佐の藩邸は、二つある。
 ひとつは、江戸初期から土佐藩領の米、海産物、紙、材木などの物産の集散をしている西長堀の長堀川ぞいの藩邸。これは、ゆうに一万坪はある壮大な屋敷である。しかし、商務をつかさどる役所にすぎない。
 いまひとつは、最近できた。これは、軍事専門の屋敷である。
 場所は、住吉村中在家にある。
 幕府からの拝領地に建てたもので、敷地は一万七十九坪七合五勺。海浜に面し、構えは、ほとんど城郭といっていい。土佐藩では、
「住吉陣営」
 と、通称していた。
 幕府が、外国陸戦隊の堺上陸にそなえて建てさせたものである。故[吉田]東洋が、幕府の機嫌をとるために、必要以上の経費を投じて造営した。武装も相当なもので、沿岸に砲台をつくり、陣中にはオランダから購入したゲベール銃五百挺を用意し、陣営の指揮官には家老級を置き、藩士五百人を収容している。
土佐藩陣屋は粉浜東小学校と西側一帯にあった
その他の写真
  1. 土佐藩陣屋から移したといわれる生根神社紅梅殿西側の石垣
訪問記[2006/11/06]ここも遺構は何も無いが陣屋で使われていた石垣石が住吉の生根神社紅梅殿西側に移されているとの情報を得て見に行ってきた。神社で頂いた由緒略記にもそのように記されている。
[後日追加]司馬遼太郎『竜馬がゆく』の中に住吉陣営として土佐藩陣屋に関する記述を見つけた。司馬氏は何らかの文書を元に描写したものと思うが、一万坪を越える敷地とか、海浜に面しとか、沿岸に砲台とか、書かれており、さらに詳しく知りたくなった。
所在地大阪市住吉区東粉浜2丁目。東粉浜小学校からその西側阪堺線の通る道にかけての一帯。石垣石が残る生根神社は住吉大社の北300m。玉出の生根神社とお間違えなきように。
参考書