友部城

概説  友部城は、正平3年(1348)小野崎道胤が艫神社の西側の台地に築いたといわれている。小野崎道胤は久慈郡小野台からここに移り住んだ人で、祖父の小野崎為通が、佐竹義重に従って戦功あり、その子高通、常通等も、佐竹義篤に従って、金砂郷城を守って戦功があったため通胤は祖先の功によって多賀庄を賜わり、それによって友部城を築いたといわれている。それより以前、嘉元元年(1303)宍戸五郎左衛門家時が、宍戸山尾氏と称して、友部字権現山に権現山城(後に艫形城といわれたもの)を築いて、その子知時まで2代、28年間の居城であったが、元弘3年(1333)知時が六波羅にて戦い、戦死してから廃城となり、それから10年を経て友部城が築かれたことになる。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
I郭からIV郭V郭方向を臨む
その他の写真
  1. II郭東端の堀切
訪問記[2004/09/06]城址西側台地上の城の丘地区の大規模住宅開発にともなう都市計画の中で、郭先端部の所々が削られまた公園整備によっても大改変が行われたようだ。とにかく整備に手が入りすぎて中世城館の形が失われている印象。II郭東端の堀切以東はほぼ自然に残っているが、堀切斜面にはやらずもがなの石垣なんかを造っている部分もある。東側突端には遠見番所が置かれていた跡があるそうだ。
所在地十王町城の丘1丁目。城の丘公園。
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』