立ノ越館

概説 別名、真木後館。
 立ノ越古墳群のある舌状台地の付け根付近に中世の館跡(「立ノ越旧館」のこと)が残っています。これが、地名「立ノ越」(館ノ腰)の由来と考えられています。さらに、谷津をはさんで西の丘陵には戦国城砦跡(当「立ノ越館」のこと)があり、羽成監物の城という伝承があります。[『身近な名所事典』より抜粋]
 位置的に江戸崎土岐氏の西側の境目の砦で戦国末期のものと考えられる。規模は大きくないので大室城の出城、付城的役目をしていたと思われる。[大竹房雄談]
東側には霞湖という釣り堀池がある。周囲を谷津田がめぐり要害をなす
縄張図(クリックで拡大)
その他の写真
  1. 横矢から土橋を見る(郭の北東側)
  2. 郭先端部の堀切
  3. 至る所に横矢が仕掛けられている印象
訪問記[2002/04/15]田植えの季節で代掻き後の畦作りの最中。もう向こう側へは渡れない。霞湖側から行くか、秋以降にするかしかない。籔もかなり深そうなので、秋以降に来てみよう。
[2003/03/03]国道125号線バイパス工事の阿見・烏山・右籾区間が急ピッチで進められている。スーパーマルエツ近くの交差点から工事中のバイパスを300m歩くと右手(北西方向)へ入る未舗装道がある。聖徳太子の石碑を過ぎて、行けるところまで行って斜面を登ると大きな帯郭がある。さらにその上に一部土塁の囲われた幅3mほどの帯郭がありその上が土塁に囲まれた郭である。郭の輪郭線を歩いたところ南東から北東にかけて横矢の仕掛けが至る所に見られた。北西側は藪が深く詳しくは見ていない。台地の付け根に堀切が欲しいところだが見つからなかった。思い出しながら概略図を描いてみましたがはっきり言って嘘っぱちです。土橋と横矢の感じだけお伝えできればと思います。
[2004/01/02]今日は本郭の西側を重点的に歩いた。東側と違いはっきりとした横堀は回っていないが数ヶ所畝と思われる盛り上がりがある。また、二の郭の西側下には虎口を伴った武者隠しかと想像される6m四方ほどの行き止まりの空間が二ヶ所見つかる。
[2004/01/05]遺構配置を再度確認に行って、少しマシな概略図(こちら)を描いてみた。近々、『茨城城郭会』の五郎さん・潮風さんが決定版縄張図を描いてくれることでしょう。
[2014/01/07]昨日10年ぶりに見にきたら聖徳太子の碑も太子堂も無くなっているし、南西側の遺構の一つは砂山に埋もれてしまっていてびっくり。これはまずいと思い、急遽10年前の縄張図を完成させようとやってきた。北側の斜面には何もないと思っていたら、なんと先端部に虎口を伴った深くて大きな10m四方の入り江状構造物を発見した。二の郭西側下の遺構と形状がそっくりだ。湖沼面の高さに近いので往時には水が入っていた可能性もある。ということはこれは武者隠しではなく船隠しではないだろうか。その部分を含めてさらにマシ?な縄張図にしてみた。
所在地稲敷郡阿見町阿見字真木後。スーパーマルエツ近くの交差点から国道125号線バイパスを北西方向へ300m歩くと道脇に「羽成塚」に関する石碑があり、その手前から右手(北東方向)へ入る未舗装道がある。その道をしばらく行くと左手に「聖徳太子」の石碑と太子堂への石段がある。ただし、2014年現在、碑の台座と石段のみ薮に埋もれつつも残っている。
参考書身近な名所事典(阿見町)