諏訪廃寺

概説 掛馬から高来の信太郡家と推定した側を通って追原の方面に向かって官道が開通したものと想像するが、その追原の道路脇に諏訪廃寺院があったもので、現在その地名も、寺院遺構とおぼしきものも残されている。そこには数多くの布目瓦が出土するが、これらは全て奈良時代前期のものと判定されることから、この寺院は信太郡の郡寺としての役目を果たしていたものではなかろうか。郡家はやがて信太郡の中心地を求めて移転した。それは現在楯縫神社の建てられている美浦村郷中又は信太の地か、それとも直接現在の江戸崎町君山の地に移転したものか、それらのことは『常陸国風土記』信太郡の条にはその記載がないのである。君山の郡家跡は木瓜台と称されていたが、きうりは郡(こうり)を意味することから、君山の台地に郡家が置かれたことが理解される。その郡家の規模は極めて広大で、現在その中から奈良時代中期から後期にわたる布目瓦を多量に出土することから判断して、郡家の設立は奈良時代になってからではないかと推察されるのである。[『阿見町史』より]
★布目瓦については「信太郡衙と古代官道」のページをご覧下さい。
諏訪廃寺基壇の盛り上がり
その他の写真
訪問記[2004/03/02]信太郡衙・竹来説は聞いたことがあったが、こんなに近くに布目瓦の散乱する廃寺跡があったことはつい最近まで知らなかった。基壇は道路からすぐ見える場所だが、その周囲にはあまり布目瓦はないそうだ。実際周囲は杉林で枯れ葉がそうとう積もっていてつま先で少々つついたくらいでは見つからなかった。かつては裏側にかなり散乱していたらしいが近年ブルで土を押してフェンスで囲ってしまったため採集できるかどうかは不明です。
所在地稲敷郡阿見町追原。諏訪ノ台バス停と諏訪ノ下バス停の中間付近の西側。基壇は道からも見える。
参考書『阿見町史』