神明城

概説  別名、武田城とも言われる。武田氏は、新羅三郎義光の3子義清を遠祖とし、初め勝田市大字武田に住み武田氏を称したが、その子清光に罪があって共に甲州に逃れた。数世の後、応永の乱に際し武田信久は兄清満と共に上杉禅秀に味方したが敗れ、兄の清満は自殺、弟の信久は甲州から千葉に逃れ、転じて常陸武井郷(現北浦村武田)に身をかくした。2代成信の時、武井郷を武田と改めて常陸に永住することになった。西砦(神明城の北西約150m付近にあるという)を築いたのはその直後である。記録は見当たらないが、神明城はその後に構築したものと推考される。3代信俊は、跡部氏の乱で戦死。その後、代々続いて8代通信は、天文2年(1533)武田下郷(現内宿)に木崎砦を築いた。9代信房は元亀2年(1571)、父以来所領争いで戦っていた鹿島氏と講和し、旧領3か村を中分した。また、天正15年(1587)9月侵入してきた大掾清幹と戦ったり、隣邑山田氏とも戦っている。天正19年(1591)2月に至って、常陸太田郊外に於いて、佐竹氏に謀殺され、ここに常陸武田氏は滅亡した。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
西側からの遠望
その他の写真
訪問記[2004/11/29]現在の国道354号線は二の城および三の城南側の堀切を通っている事になる。国道を挟んで三の城の南側にある高台は「見晴らし」というそうだが、余湖さんの聞き取りによると近年土を盛って高くしたそうで旧状は三の城とほぼ同程度の高さだったそうだ。三の城北側の堀も二の城北側の堀も藪と化していて折れや横矢の様子は確認できない。
所在地茨城県行方郡北浦町両宿字神明。国道354号線沿いの北側。東宮神社の北西約400m。
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』