煉瓦場の台場

概説 「煉瓦場の台場」は『土方歳三遺体の行方』の中で「島田魁日記」の記述として出てくる。函館市富岡町1丁目、亀田小学校北東側一帯は煉瓦場または煉瓦台と言ったそうだ。これは金子利吉の煉瓦工場がここにあったことに由来するそうだ。金子利吉は最初茂辺地付近で煉瓦工場を始め、それから亀田(煉瓦台)へ移り、その後煉瓦工場は小樽へ移って行ったらしい。
煉瓦台といわれる台地状の地形
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訪問記[2004/08/01]「島田魁日記」の中に出てくるそうだが、原典は未確認。「煉瓦台ハイツ」の名称のように、いまだにこの地名が残っていることを知りなぜかうれしく感じた。煉瓦台を西側から見ると消防署東側が台地状に一段高くなっているのが分かりやすい。今のところ「煉瓦場の台場」の場所を点で特定は出来ないが、この煉瓦台といわれる台地上のどこかにあったと推定する。箱館戦争当時「煉瓦場」がすでにあったのか、追加調査が必要。
所在地函館市富岡町1丁目、亀田小学校北東側一帯の台地
参考書『土方歳三遺体の行方』((有)函館パルス企画『箱館人』2004第3号)