小貫城

概説 江戸時代の記録(1)『行方軍記後世鑑』(2)『柄ケ崎軍記』(3)『常陽唐崎合戦』などによると、16世紀中頃に行方郡内の諸氏族を巻き込んだ、俗に唐ケ崎(柄ケ崎)合戦と称される戦いがあったと伝えられている。『玉造史叢』第13集「唐ケ崎合戦」配置図によると、小田勢は霞ヶ浦岸の幸崎から上陸し、台上山(西蓮寺)へ進む。小田勢はさらに東の唐ケ崎へ進み井上勢と対陣する。

唐ケ崎合戦:玉造氏と小高氏の所領をめぐる争いがおこり、紛争処理にあたった府中大掾氏の処置に不満を持った小高氏は、小田氏に通じて紛争を有利に展開させようとした。小高氏には、下河辺氏・麻生氏・島並氏・島崎氏・山田氏・武田氏等が味方し、唐ケ崎、物見塚、大木戸へ押し寄せる。小田氏の軍勢も南野庄から渡船にて小高城へ入る。対して玉造氏には、手賀氏鳥名木氏等が味方し防戦する。また、府中大掾氏からは弓削為宗が軍勢を率いて玉造に向かい、小川氏。芹沢氏等が後詰の役をするという状況であった。唐ケ崎における戦闘がどれほどのものだったかは不明だが両軍の主力部隊が全面衝突したわけではなさそうだ。対陣途中で小田氏の軍勢が急遽帰陣したため決定的な勝敗をみないまま対陣が解かれ、形勢不利と見た小高氏は小田氏を頼って逃れ、島崎氏は府中大掾氏に詫言を申し入れた。当面の解決策として芹沢秀幹が小高城へ入り、行方氏を称して地域支配の任務にあたった。後、小高氏は芹沢秀幹に詫言を申し入れようやく小高城へ復帰した。[おそらく『玉造町史』]
南側からの遠望
その他の写真
  1. 虎口(袖ふり坂)
訪問記[2003/11/04]仁王門からまっすぐ西側へ降りる旧参道も昔のお城道かもしれないが、南側へ降りる袖ふり坂が大手の虎口だと思われる。袖ふり坂を下り南へ進んだ左手が小貫氏の館跡ということになるらしい。東側台地頂上には堀と土塁が残る。
所在地行方郡玉造町西蓮寺。西蓮寺境内。
参考書