小高城

概説 鎌倉時代の初期、行方宗幹(源平の戦いで源軍に属して戦死)の子太郎定幹(為幹)が新たに小高へ城を築き、行方から移り小高刑部少輔と称し、鎌倉−室町−桃山時代と10数代にわたって栄えた。しかし、天正19年(1591)2月小高治部少輔に至り、佐竹義宣のため常陸太田に於て謀殺され落城する。その後、佐竹の臣大山義則が城代となったが、慶長7年(1600)の佐竹氏秋田移封と共に廃城となった。城域の最長部は約700m、標高30m前後を測る。北から東にかけては谷地状の水田に囲まれ、西から南にかけては谷地を利用して壕を巡らせている。台地先端部に北から南方向へ本丸、二の丸、三の丸とつくっている。本丸と二の丸の壕及び腰曲輪跡はよく遺存している。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
ウチオンジョウとナカジョウの間の堀
その他の写真
  1. マンダイ(旧主郭カ)虎口の土塁
  2. 小高城にこんな三重の三日月堀があろうとは
訪問記[2003/11/04]三の丸と二の丸の間の堀など近世城的な大きさを感じさせるのは、天正19(1591)年以降佐竹の家臣が城代として入って改造したためだと思われる。三の丸と二の丸は畑地であるが、かなり急斜面の堀を越えて本丸は杉林の藪になっている。『図説中世城郭辞典』の記述によると地元に残る郭の名称は北から順に「マンダイ」「ウチミジョウ」「ナカジョウ」「クラヤシキ」となっており、「ウチミジョウ」の地名は主郭を暗示するとしている。実際この郭の防御が一番堅く造られている。
[2006/02/20]南側コダテ部を調べに来たのだが蔦によるあまりの藪化に進めず退散。仕方がないのでナカジョウから常光院にかけてを探索。
所在地行方郡麻生町小高字御城1245-1外。ここは場所が見つけにくいと思う。西側常光院側からの道は細くて脱輪の危険があるそうだ(余湖さん情報)。国道355号線小高交差点から北東方向へ入り町立小高小学校の先の駐在所の角を左へ曲がり150m先のENEOSの先を右折そのまま北へ向かって直進すると廃校地がある。そこには県の天然記念物の「小高のカヤ」がある。廃校地を北側へ回り込むように進み少し行くと小高城の説明板があり、その右手奥が城址である。
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』、『図説中世城郭辞典』