黒羽城

概説 別名、大関氏居館。大関高増は、進展する戦国の世に対処すべく新たな構想の下、四神相応の地としてこの丘を選び、複数型居館形式の黒羽城を築き、天正4年(1576)余瀬の白旗城から移った。以後、近世大名大関氏代々の居館として、明治4年(1871)廃藩となるまで続いた。残存する土塁・空壕は、戦国末期の山城の機構を今によく伝えている。[本丸跡解説板より]
 大関氏は一度の改易・転封もなく江戸時代を通じて廃藩置県までの約300年間、黒羽城を本拠とし続けた。これは、関東の外様大名としては、大田原氏と共に極めて異例のことであった。但し、黒羽城は、宇都宮・壬生・烏山・大田原などの諸城とは異なり、江戸幕府からは陣屋という評価を受けていた。[駐車場の解説板より]
本丸東側の堀
その他の写真
  1. 本丸東側の桝形
  2. 本丸東側(駐車場南端部下)の水堀
  3. 本丸郭内
  4. 砲台の土塁らしき土饅頭の列
  5. 弾薬庫?
訪問記[2005/06/06]本丸東側の駐車場も郭の一つで南側に土塁と水堀が残っている。本丸の東側の虎口は連続した桝形によって厳重に守られている。この北側の空堀の緑が美しい。本丸西側の土塁は中央付近が広くなっていてここには櫓台があった様だ。その近くには展望台を兼ねた模擬櫓台が作られて西方の那珂川を遠望できる。本丸の西側城塁斜面は屏風折れになっているそうだが、下草が勢いよく生えてきていてはっきりとはわからなくなっていた。本丸の南側には馬出郭、三の丸と続いている。馬出郭と三の丸の間の堀を西へ進み城塁に沿って南西方向へ向かうと台地の辺縁部に直径2mほどの土饅頭が四つ並んでいる。もしかすると幕末に設置された砲台かも知れない。背後に高い土塁で囲まれた狭い区画があるがこれは弾薬庫の跡かも知れない。「黒羽藩は天狗党に砲撃を加えた」という逸話を耳にしたが、これがその時の砲台なのかも知れない。
所在地栃木県那須郡黒羽町前田
参考書『日本城郭体系4』