鹿島城

概説 別名、吉岡城。
 大掾清幹の第3子成幹が鹿島郡の地頭として鹿島に居住したのが始まりで鹿島氏を称した。成幹の3子政幹は粟生城にいたが、後現在の地に城を築いた。養和元年(1181)鹿島神宮惣追捕使に任命され、政幹から8世の孫幹重は応安2年(1369)鹿島惣大行事に補、後代々世襲し鹿島惣大行事家とも称されるようになった(『鹿島のあけぼの』)。大永4年(1524)義幹と家臣団の対立があり、島崎、小高、麻生、手賀、玉造、島名木、武田、小河の兵2千余騎が城下に集り城兵700余人と共に下総東庄に退く。鹿島城は大掾平高幹の子通幹を城主としたが、これまた宿老間に和を欠いていた。義幹は反撃の機会をうかがい出兵したが大敗し鉢形野にて自刃(『鹿島治乱記』)。天正19年(1591)、城主晴房は佐竹義宣から太田に招かれ謀殺され、城は佐竹の臣町田備中守に攻められ落城した。承応元年(1652)鹿島神宮大宮司則広が泰平の世に無用の長物とし、大船津掘、大辻堀、角内後堀を埋めさせた(『鹿島年表』)。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
本丸東側の堀
その他の写真
訪問記[2004/01/06]本丸しか残っていないらしいが、周囲の土塁・堀は大きくて深い。公園整備にも好感が持てる。[「好感が持てる」と書いたのだが、その後聞いたところでは周辺の土塁は公園整備の時に作ったものだそうで、根拠のある復元かどうかも怪しそうだ。そうなるとちっとも好感が持てないことになる。]
[2005/04/10]城址公園(本丸)へ入る手前の土橋南側の堀は現在は空堀であるが、20年ほど前には水が入っていた記憶があるという話を聞いた。本丸西側下に水堀があったということは知られているが水堀はさらに深く入り込んでいたということになる。また、現在本丸の辺縁にある土塁は公園整備時に造られたもので、鹿嶋高校の農場として使われていたころには土塁は無かったそうだ。
所在地鹿嶋市城山1丁目。鹿島神宮の西側、鹿島高校の北側、城山公園となっている。
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』