勘十郎堀

概説 1706(宝永3)年、水戸藩の藩財政立て直しのために勧農殖産や治水土木を担当していた清水仁左衛門の推薦で松波勘十郎が登用された。当時、東北諸藩の物資を江戸へ運ぶのに、房総半島や鹿島灘の難所を避け内水路を利用していた。途中涸沼から巴川沿岸の紅葉までは陸送をしていたため荷物の積み替えに多くの時間や手間が掛かっていた。そこで松波は通船税など多額の収入が見込めると考え、運河開削に着手した。1707(宝永4)年7月に着工されたが土砂崩れや水量不十分による通行不可能などで修復工事や計画変更による工事などが続き、実用化には至らなかった。工事には領内各地の農民が多数動員され、しかも過酷な労働を強いられた反面、日雇銭はまともに支払われなかった。「勘十郎堀」としてはもうひとつ大洗町大貫でも大貫堀河の工事が行われたがこちらも実用には至らなかったらしい。[『茨城の歴史 県北編』、『茨城の史跡は語る』より]
海老沢館近くの勘十郎堀跡(鉾田方向を臨む)
その他の写真
訪問記[2005/01/24]海老沢館から天古崎城へ移動する途中に渡った谷津が勘十郎堀跡だった。涸沼方向は水田になっているが鉾田方向は今も水が溜まって沼地と化している。概説にも紹介した大洗の「勘十郎堀」も近い内に訪ねて見たい。
所在地茨城県茨城町海老沢の涸沼南岸から鉾田町紅葉の巴川まで。
参考書『茨城の歴史 県北編』、『茨城の史跡は語る』