概説 | 神野角助公は海上氏の嫡流なり義によって家督を離れ神野氏となる。公は天正年間(1573〜1591)此の地の領主たり、妹おこうの方、府馬左衛門尉時持公に嫁す。[良文貝塚史跡保存会による現地解説板による]
神角介は上代(かじろ)に程近い貝塚の住人で、地元の伝承では海上氏の一族とされている。角介は天正18年5月に秀吉軍の大将浅野長吉(長政)と木村常陸介(一)が江戸崎城の土岐氏を攻撃した時に、城に乗り込み、土岐氏やその家臣を城外に退去させている(臼田文書)。この時に角介は浅野・木村氏と香取神社の間に立って、香取神社の所領内での軍勢の乱暴を禁止する制札を獲得している(香取神宮文書)。その後、角介は大久保長安と吉田佐太郎とともに、小見川を支配していた粟飯原氏から小見川城を受け取ったという(「粟飯原家年代記」、川名登「近世初期代官吉田佐太郎について」)。また、角介は浅野長吉とともに欧州へ行き、8月30日には、平泉の中尊寺・毛越寺の要望を長吉に取り次いでいる。これらのことから角介は元々は侍身分であり、しかも浅野・木村氏と渡り合い、寺社の要望を浅野氏に取り次ぐほどの実力を持ち、小見川や貝塚周辺では名の通った人物であったと思われる。[『松平家忠日記』(角川選書304)より] |