樋爪館

概説 樋爪(比爪)氏は藤原清衡の子清綱が紫波郡一帯から産出する砂金を支配するため、分家して樋爪の地に住したことに始まるといわれるが、源頼朝の奥州攻略に際しては、文治5(1189)年、清綱の子俊衡・季衡らの一族は居館を焼いて逃亡した。その後、一族は頼朝に降り、俊衡のみ本領を安堵されて樋爪地に命脈を保ち、泰衡の子秀泰を扶養したといわれる。遺物としては、平泉中尊寺出土遺物と酷似する土師器・須恵器・陶器片などが出土。[『日本城郭大系2』より]
 赤石小学校校庭とその西部の水田からは建物跡、北辺には館を区画する大溝が検出された。[現地説明板より]
赤石小学校正門に残る土塁
訪問記[2002/09/01]とうとう来ました「ひづめ」本貫の地。しかし、遺構はほとんど残っていないようです。車で周囲を回っただけなので丹念に歩けばもう少し遺構の破片くらいは見つかるのかもしれない。
所在地岩手県紫波町南日詰字箱清水
参考書『日本城郭大系2』