飯塚館

概説 常陸大掾平国香の後裔の五郎左衛門兼忠は玉里地方に領土を得て、飯塚の地に居館を構え飯塚氏を名乗り、府中外郭の守りと地域開発に努力した。この地一帯の要害に加えて、更に館の外郭を二重の濠、三重の土塁などをめぐらし、堅固に防備した跡が今も残されている。飯塚氏は天正年間の末(1590年頃)佐竹連合軍によって攻略され、大掾氏と運命を共にした。[玉里村教育委員会現地説明板より]
屋敷地北側の土塁
その他の写真
  1. 三重の堀・土塁
  2. 枡形のようにも見える区画
訪問記[2002/12/23]城址へ入るには説明板の在る所からどうしても人家を通らなくてはならない。屋敷地の北・西・南側後背地を取り巻くように三重の堀が巡る様子は阿見町の塙城と類似している。東側は水によって守られていたのだろう。
所在地新治郡玉里村上玉里字飯塚549外。
参考書『玉里の史跡六井六畑八館八艘探訪マップ』、『玉里村史』