出島のシシ土手

概説 シシ土手(宍土手)とは「猪鹿土手」とも呼ばれ、猪や鹿などの食害から農作物を守るために作られた長大な土塁。
 元文元年(1736)の成井村より黒川幸衛門宛の覚書によると、「土手七百六間」「猪落シ三拾弐」を作るために、坂村、加茂村、成井村など六カ村より人足1291人、他領他村より助人足を加え、合計2393人に割り当てて普請に従事させたことが記されている。現在のシシ土手の主要部は、18世紀前半に築造されたとみられる。[『霞ヶ浦町遺跡分布調査報告書ー遺跡地図編ー(2001)』より]
 ここでシシ土手と稲敷の街道閉塞土塁との比較を見ておきたい。観察のポイントとしては、土塁を貫通するように主要古道が通過していることは勿論だが、土塁の両端が谷津に落ち込んでいるか・堀を伴っているかが重要な点になる。とは言っても土手の全長に渉って観察するのは容易でないので、かわりに『霞ヶ浦町遺跡分布調査報告書ー遺跡地図編ー(2001)』の遺跡地図から地形を読みとることにした。それによると、谷津と谷津を結ぶように構築されているのは三ツ木シシ土手だけだった。また現地を観察した限りでは堀を伴っているのは島山シシ土手のみである(ただし、堀に関しては後世埋められてしまった可能性は残る)。そもそも、どのシシ土手も主要古道と思われる街道が通過している様子はない。以上のことから、霞ヶ浦町内のシシ土手は少なくとも稲敷の街道閉塞土塁に類似した目的・効果を狙ったものではないと考えられるし、そうした土塁を転用したものでもないのだろう。
訪問記[2003/10/20]成井のシシ土手(稗田・西ノ入シシ土手)はその規模・猪落しの構造など見る価値有りです。他のシシ土手は場所が分かりにくい上、構造が単調で規模も小さく、かつて猪落しがあったものかどうかもはっきりしない。霞ヶ浦町郷土資料館で伺ったところ「もう今では町内にイノシシはいませんよ」とのことだったが、我が美浦村では役場の近くにイノシシが今だに出没するのです。-->>証拠写真
参考書『霞ヶ浦町遺跡分布調査報告書ー遺跡地図編ー(2001)』、『ヒヘ田遺跡調査報告書(1997.11)』

備前山シシ土手

 宍倉小字備前山4255-82外

 長さ81m。畑と林の境になっているので畑の土を盛った様に見える。県道141号線宍倉小東交差点の北東600m。石岡市との県境付近。

庄衛門シシ土手

 宍倉小字庄衛門5200-1外

 長さ170m。田向稲荷大明神南側の杉林の中にある。

島山シシ土手

 宍倉小字島山5220-1外

 長さ197m。庄衛門シシ土手の東約600m。土手の手前に堀があるが、これだけはっきりした深さの堀を伴うシシ土手は他にない。土手の向こう側は緩やかに下がる斜面になっている。

向シシ土手

 宍倉小字向3813外

 長さ178m。県道141号線宍倉小東交差点の南南東約900m。土手の向こう側は斜面なので土手頂との比高差は4〜5mはあるのじゃないか。

三ツ木シシ土手

 三ツ木小字婆田161-4外

 高さ90cm、幅1.0m。老人ホームサンシャインつくばの東約1km。道路脇の土手断端部は高さ50cm程度。
 吉田神社が存在する南側の台地突端部を防御する目的で谷津と谷津とを土塁(かつては堀を伴っていたかもしれない)で結んでいる。これは霞ヶ浦町内のシシ土手・その他の土塁の構築方法としてはむしろ異色である。

稗田・西ノ入シシ土手

 西成井小字稗田283-7外

 残存状態が良く「成井のシシ土手」として有名。県道141号線沿いで霞ヶ浦消防署の約300m南東に図の標柱が立っている。長さ1000m以上あったが、北側200mほどは自動車教習所建設のために湮滅。県道の南側にも途切れ途切れに残っているらしい。

 県道から土手に沿って北へ100mほど入ると高さ3mはあろうかと思われるすばらしい遺構がある。この土手には30m乃至50m間隔で土塁の切れ目があり、深さ2mほどの落とし穴(=猪落し)が仕掛けられている。

 土手の上から猪落しを見る

下大堤シシ土手

 下大堤小字東厚569-1外

 地元のお年寄りに聞いても分からず、今日は見つけられませんでした。