ビデオ・ジャーナリストに接近するテレビ番組が語りかけること
〜フィールドワーカーはビデオ・ジャーナリズムから何を学ぶか〜

裏返しのメディア論『季刊・民族学』(2005新春・111、pp.76-77)




 最近、ビデオジャーナリストが撮影したビデオ映像を土台にした優れたドキュメンタリー番組が、既存の地上波の放送局ですくなからず制作、放送されるようになってきた。ビデオ・ジャーナリストたちが撮影した、彼らならではの、そして、彼らにしか撮影できない映像を中心にすえたドキュメンタリー作品が登場するようになったことは、ビデオ・ジャーナリズムの新しい時代を象徴する動きのひとつだと注目している。
 ご存じの方も多いと思うが、ビデオ・ジャーナリストというのは、一般に通常のテレビ局に所属して取材や報道を行うジェーナリストではなく、フリーランスで自分の関心のあるテーマを追いかけ、ビデオによる取材も行う独立系のジャーナリストのことである。ビデオ・ジャーナリズムの可能性が取りざたされるようになったのは、今から10年ほど前にさかのぼる。その背景には、ソニーのHi8と呼ばれる小型ビデオカメラの登場があり、それまでのように何人ものビデオ・クルーを従えなくても、単独でビデオ取材が可能になったからである。今日では、デジタル・ビデオカメラの登場によってその可能性はよりはっきりと見えるようになった。デジタル・ビデオカメラの画質は、いわゆるブロードキャスト・クオリティという放送用に求められる画質の水準を十分に満たしている。
 しかし、実際には、テクノロジーの変化に比べて、現実の放送関係者たちの動きは、より保守的で、せっかく貴重な映像を取材したビデオ・ジャーナリストたちもなかなかその発表の場が確保できないのが現実だった。ビデオ・ジャーナリストたちの撮影した映像の使われ方は、通常、ビデオカセットにコピーされたパッケージものと呼ばれる作品として販売されるか、あるいはテレビ報道に使われる場合でも、ニュース報道やワイドショーなどでスポット的に活用される場合がほとんどだった。
 パッケージものでは、ジャーナリストの主張や視点は明確に表現できるものの、流通量に限界があり、時間のずれも大きい。一方、多数の目に触れる場としてせっかくテレビで放送されてもスポット利用ではジャーナリストの意図や主張は伝えにくい。(この壁を克服するために、いろいろな試みがなされているが、たとえば社会派のビデオ・ジャーナリストやドキュメンタリストたちが共同して流通と発表の場を確保しようというVIDEO ACT![http://www1.jca.apc.org/videoact/]のような団体の活動もある。)

◆ビデオ・ジャーナリズムへのテレビの接近

 しかし、ここのところ、ビデオ・ジャーナリズムと従来型のテレビ・ジャーナリズムの壁が急速に溶解し始めてきた。その一つの端的なあらわれが、今回、採り上げようとしているビデオ・ドキュメンタリーなのである。
 たとえば、イラク戦争の現場で命がけの取材を続けるビデオ・ジャーナリストたちが撮影した映像とかれら自身に対するインタビューで構成された「戦場から伝えるもの〜フリー映像ジャーナリストたちの記録」(ETV特集、NHK教育、2004年8月14日放送)や北朝鮮・中国国境を超えて北朝鮮を脱出してくるいわゆる「脱北者」の取材を続ける石丸次郎氏が撮影したビデオ映像を再構成して、脱北者たちの実情をとらえた「私が出会った脱北者の10年」(NHK・BS1、2003年6月29日放送)などはその嚆矢だ。
 これらの作品は、前者はイラク戦争、後者は北朝鮮脱北者を中心的なテーマとしているが、二つの番組の通底和音として共通するのは、ビデオ・ジャーナリストという存在であり、ふだんのテレビ・ジャーナリズムでは黒子となって表面に登場しない取材者が、はっきりと人間の顔をさらして主体者として現場で進行する事態に関与していることである。
 この二つの作品以外にも、ビデオ・ジャーナリストが取材した映像をもと制作されたドキュメンタリー作品はすくなくないが、なぜこの二つをここで採り上げているかといえば、このふたつの作品にかかわったジャーナリストを私がよく知っているからである。ひとりは前者の「戦場から伝えるもの」の構成を担当したNHKのドキュメンタリストである七澤潔氏、もうひとりは、後者の「私が出会った脱北者の10年」に映像素材を提供し、自らも登場した石丸次郎氏である。七澤氏はNHKに所属するチーフ・ディレクターで、チェルノブイリ原発事故以来、原子力問題をずっと追い続けてきたドキュメンタリストであり、また、東欧の民族問題を扱ったり、沖縄出身の詩人の生涯を扱ったテーマの作品など、多彩な作品群を発表してきた。一方、石丸氏はフリーランスのジャーナリストであり、韓国の大学に留学し、朝鮮語に堪能、脱北者問題をはじめとする北朝鮮取材のエキスパートで、ビデオ以外にも数多くの著作を発表している。彼らの人柄や体形などはずいぶんと異なるのだけれど、二人ともジャーナリスト魂という点においては、人後に落ちない見上げた人物たちで、日頃から、二人の仕事には敬意をもって見つめてきた。
 一人は局付き、もう一人はフリーランス。ドキュメンタリストとして、ジャーナリストとして、それぞれ違った出発と経歴をもつこの二人のすぐれた映像製作者たちが行き着いた地点のひとつがテレビ・メディアとビデオ・ジャーナリズムの接近だったということが、私のようなメディア研究者にとって、とても興味深いのである。

◆何を撮るべきか知る者が撮るということ

 80年代の半ば、私は当時始まったばかり放送大学のために番組制作の仕事にたずさわっていた。番組収録のために、海外に長期ロケすることもよくあった。フィールドワークが専門の研究者が、NHK出身の撮影クルーと協働して、教育番組を制作するのである。私がビデオ制作の面白さや奥深さに魅了されたのも、この経験があったからである。
 ただ、当時、ロケ隊は、撮影が専門のビデオクルーと現場での講義と解説が専門の研究者とにはっきりと分離していた。両者の間には、厳然とした垣根があって、たがいに相手の領分には口をはさまないという暗黙の了解があった。たとえば、タイのチャオプラヤ川の川岸での撮影では、こんなことがあった。川沿いの僧院でインタビューを撮影する際、川を行き交うモーターボートのエンジン音が雰囲気をそこなうからと、ディレクター氏はエンジン音が入るたびにNGをだした。研究者はそれに素直に従った。お陰で撮影されたチャオプラヤ川の映像は、穏やかで悠久なタイのイメージにぴったりとはまる絵にはなった。しかし、すでに驚異的な経済成長期にあった当時のタイの現状とはずいぶんと異なるのんびりとしたものとなってしまった。そのようなことは幾度も起こった。
 私がフィールド調査に際して、自分でカメラをまわそうと思いたった理由は、そのときのもどかしい気分が原因している。撮影のプロはたしかにすばらしい映像を作るけれど、現場で何が一番重要かを知っているフィールドワーカーが求める絵は撮ってくれない。それなら、自分で撮るしかないと。
 ビデオ・ジャーナリズムの誕生も、この私の気分と同様の認識を共有している。それは、どう撮るかではなく、何を撮るべきかを知っている者がメディアの操作権をもつ(カメラをまわす)という単純な原則への回帰なのである。

◆フィールドワーカーよ、カメラをとれ!
 テレビの側からのビデオ・ジャーナリズムへの接近は、実際は、大企業となったテレビ局の局付きのスタッフが危険をともなう戦争や紛争の現場にいくリスクを避けたいという後ろ向きの発想も手伝っているだろう。しかし、そのこと自体がすでにテレビ・ジャーナリズムの衰退と限界の自己表明なのだ。
 この事実は、わたしたちのようなフィールドワーカーにも新しい可能性を示してくれる。従来の安直でステレオタイプに満ちた紀行番組や辺境ドキュメンタリーに異議を唱えるフィールドワーカーは多い。しかし、番組が作りだすステレオタイプに憤慨しているだけでは、問題は放置されたままだ。今、フィールドワーカー自身がカメラを手に立ち上がるときがきているのだ。そして、もしテレビが放送してくれないのなら、インターネットを使った新しい放送技術が味方をしてくれるに違いない。今、私たちはそういう挑戦が可能な時代に呼吸をしているのである。