料理は越えられない民族の壁か、異文化を結ぶ感覚のメディアか
(連載)裏返しのメディア論『季刊民族学』113号・2005夏



 衛星で放送されている韓国製のテレビドラマ「チャングムの誓い」が評判を呼んでいる。李王朝で宮廷料理長をめざすチャングムという女性の半生記である。低い身分の出身であるチャングムが、両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級の女官たちと料理の腕だけをたよりに競いあう。韓国ドラマらしい、これでもかとくりひろげられる女性たちの権謀術数はなんともおどろおどろしいが、それがまた評判を呼んでいる。
 このドラマを盛り上げている重要な要素のひとつが、韓国料理への関心である。中国文化の影響を受け、食が医と結びつく「医食同源」の思想が根底にあり、それに韓国の食材と調理法がからんだ韓国料理固有の世界が繰り広げられる。多くの日本人は、このドラマをつうじて、韓国伝統文化の奥深さを体験しているのだろう。

■料理を描く映画の「中華思想」
 料理を主題にからめた映画は、少なくない。たとえば、「恋人たちの食卓」(1994年・台湾)では、味覚に変調をきたした料理人と3人の娘たちの家族関係をめぐる確執が、多彩な中国料理が盛られた華やかな食卓のかたわらで展開されていく。また、「パリのレストラン」(1995年・仏)では、味覚を失いつつある初老のシェフが店じまいを決意した小さなレストランで、常連客たちとシェフ夫婦の心温まるドラマが、フランス料理のうんちくとまぜあわされて繰り広げられていく。
 料理界の双璧として世界に君臨する中国料理とフランス料理が映画の重要なシーンにからむのは当然かもしれない。フランス料理がからむ印象的なシーンでは、「宮廷料理人ヴァテール」(2000年・仏)や「バベットの晩餐会」(1987年・デンマーク)が、すぐに思い浮かぶ。ともにヨーロッパの食文化に広く浸透したフランス料理の影響力を彷彿とさせるに十分である。中国料理も同様だ。中国映画と中国料理は双頭の鷲のようなもので、切り離すことはできない。わたしの独断でもっとも印象に残った場面を選べば、「紅夢」(1991年・香港/中国)で妻妾同居する富豪の4人の夫人たちが食卓を囲む場面だ。料理の選択権が妻妾の身分差にからみ、清朝末期の中国女性の閉塞感を際だたせている。
 これらの映画に登場する料理に共通するのは、「伝統文化」が料理という衣をきて、人々を民族につなぎとめる「感覚のくびき」として登場してくることだ。人々は味覚を極めるほど、その料理を生み出した伝統文化から離れられなくなる。中国人も、フランス人も、その意味で、中華思想の信奉者であると世界中からいわれるのも無理ないことかもしれない。そこには、なにがしかの怨嗟のまなざしが含まれているのだろうが。

■料理はエスニック・アイデンティティの砦
 しかし、文化と料理との深い絆は、むしろ、異文化の中で暮らすエスニック集団において強烈だ。料理は、少数民族のアイデンティティを表現する重要なシンボルとして登場するのである。
たとえば、「ソウル・フード」(1994年・アメリカ)では、老母の死をはさんで対立し絶縁寸前の3人の娘たちとその家族が、その老母の遺言にもとづき、彼女が伝えてきた南部の黒人料理をともに作り会食するサンデー・ディナーに集うことによって、一族の絆を回復させる。エスニック・フードは、エスニック集団にとっても、そのアイデンティティと結束を維持するための魔法の杖なのであろう。
 一方、料理は異文化を排除する決定的なエージェントともなりうる。日本人の母と中国人の父のもとに生まれた許鞍華(アン・ホイ)監督の自伝的作品といわれる「客途秋恨」(1990年・香港/台湾)では、戦時下に日本人女性を妻にした中国人男性の老母が、日本人嫁の作った料理を冷たいといって忌避する印象的なシーンが挿入されている。ここでは、料理は異なった2つの文化を生理的に隔てる越えられない溝の象徴なのだ。これらの作品に通底する共通の観念は、料理はエスニック集団の文化を凝集させる強力な粘着剤だというものだ。

■「タッチ・オブ・スパイス」にみる味覚のディアスポラ
 しかし、とはいうものの、料理が民族文化の真髄を宿命的に体現するものだと考えるのは早計である。たとえば、今年上半期に日本でも上映された「タッチ・オブ・スパイス」(2003年・ギリシア)では、料理は民族の真髄というよりは、強いられて異文化の地に移住(ディアスポラ)を余儀なくされた人々の、積み重ねられた人生の軌跡に他ならないからだ。
 ボスボラス海峡に面したトルコ領コンスタンチノープル(イスタンブール)に住むギリシア系住民の家庭がこの映画の舞台である。すでにトルコ国籍を取得した老主人が営む雑貨商の屋根裏倉庫が子供時代の主人公ファニス少年の遊び場であり、そこで、少年はトルコ人少女サイメと幼い初恋のときを過ごす。この空間は同時に、少年がスパイスのなんたるかを覚えていく場所でもあった。
 「晩ご飯は何?」と尋ねるファニスに、サイメは「肉団子よ」と答える。「何を入れる?」ときくファニスに「挽肉、ニンニク、塩コショウ」とサイメが答えると、すかざず「それじゃ、おいしくない。もうひとつ加えなきゃだめだ」とファニスが返すのである。小さな恋人たちの会話に隠された料理の秘密。ファニスは、そっと肉団子に加えるべきスパイスをサイメにそっと耳打ちする。それは、シナモンだ。
 主人公にとって、シナモン入りの肉団子は、かくして自分のアイデンティティの一部となるのである。それは、ギリシア料理でもなく、トルコ料理でもない。ディアスポラを余儀なくされた者たちのそれぞれの事情が生み出した独自の料理文化なのだ。
 ファニスとサイメの初恋にむごい別れがやってくる。トルコとギリシアがキプロス島の領有権をめぐって争ったキプロス紛争が勃発する。国籍を持たないギリシア系住民はトルコからの退去を求められ、家族は、政治難民となってアテネに移住していく。アテネ行きの列車がでるプラットホームに見送りにきたセイメから贈られたままごとセットが、主人公のそれからの過酷な人生の支えとなっていく。
 アテネでは、トルコなまりのギリシア語を話すからと排斥されるファニスたち。トルコを追われ、ギリシアにも受け入れられない現実を、ファニスは料理にのめり込むことで耐える。ファニスの料理は、異なった文化をもつ2つの国家に引き裂かれた移住者の心の叫びであると同時に、異種混交した移民文化の、触れれば凍みる痛みをともった現実でもあるのだろう。

■料理は近代が置きわすれたもうひとつのメディア
 考えてみれば、料理は、それ自体、民族やエスニック集団の文化を記憶し伝達するひとつのメディアだといえるだろう。料理こそ、舌という繊細で鋭敏な感覚装置によってしかエンコード/デコードできない難解で複雑な記号を記憶し、伝達(トランスミット)する媒体であり、そこには文化の多様性を保持する沈黙のコードが隠されているからだ。それは、理性が優位に立つ近代において異常に発達をとげた視聴覚メディアとは異なり、理性の時代には顧みられなかった味覚という感性のメディアである。
 しかし、今日の大量生産技術は、ハンバーガーやフライドチキンやドーナッツのように世界中に同一の食感と味覚を供給できる料理のマスメディアを作り上げることにも成功した。このグローバル化し、すでにアメリカ文化ですらない料理は、はからずも「スーパーサイズ・ミー」(2004年・アメリカ)が露呈させたように、食べ続ければ確実に人間の身体を破壊するおそれのある凶暴なメディアでもあるのだ。
 ファニスのシナモン入り肉団子には、民族料理の排他性とグローバル料理の暴力性をともに克服するレセピの秘訣が隠されている。