2004.3.13

日本アカデミー賞をとれなかった篠田正浩監督「スパイゾルゲ」は、どんな世代をひきつけ、どんな世代に拒まれたのか。

 篠田正浩監督の「スパイゾルゲ」は、日本アカデミー賞のいくつかの部門で候補にあがっていたが、結局、受賞はどれも果たせなかった。私の個人的な興味をいえば、昨年、劇場で観た映画の中で、一番自らの琴線に触れた映画のひとつが、この「スパイゾルゲ」だった。しかし、やはり賞はとれないだろうなという予感もあった。

 この映画が封切られた後、Yahoo!などの映画サイトで視聴者が書き込む映画評のページでは、この映画についてあきらかにきびしい評価が書き込まれていたのである。とりわけ70年代以降生まれの若い世代の間には、この映画をなんのスペクタクルもストーリーの展開もない失敗作だと酷評する意見が多かった。また、篠田正浩がこだわったテーマより当時の昭和初期の東京の街並みをコンピュータグラフィクスで本格的に再現した技術にむしろ関心が集まっていた。

 このような批評を読んでいて、この作品を酷評する若い世代の言い分も、それなりにもっともだと思う。「スパイゾルゲ」で篠田正浩が精力を傾注したテーマは、20世紀前半の世界を席巻したさまざまなイデオロギーとそれを信じ自己犠牲的に献身した人々のドラマであり、そして、そのようなイデオロギーが無惨に解体したあとも生き続けていかなければならない人間の悲哀に他ならないからである。

 20世紀前半に起きたロシアの社会主義革命の成功は、20世紀を革命の世紀へと誘ったのだが、それは同時に、マルクスレーニン主義、毛沢東主義など多様な社会主義革命思想に人々がのめり込んでいく過程でもあった。とりわけ多くの若者が、革命思想の影響を受け、その実践に専心していった。天皇主義にもとづく国家主義イデオロギーが席巻した戦前の日本では、社会主義革命思想ははげしい弾圧の下にあったから、社会主義者たちは同時に思想に対する殉教者としての役割も引き受けることになった。イデオロギーとそれに献身する若者というテーマは、そのイデオロギーの内実とは別に、弾圧する国家権力という巨大な悪役の存在を配置することによって、若者はキリスト的な存在となり、戦争に抵抗する良心の殉教と自己の信念の問題として多くの文学作品や映画のテーマとして、取り上げられた。もちろん、戦時下の言論表現統制が厳しかった日本においては、そのような作品は戦後現れたのであるが。

 「スパイゾルゲ」のテーマは、イデオロギーの世紀を生き抜いた人々によってしか、共感され受け止められることは不可能なのではないか。すくなくとも、同じ重みと感慨をもってこのテーマを受け止めることができるのは、かつて左翼運動に関わり、その中で精神的な高揚や自己の存在の充実を感じたり、同じ思想を共有していると信じられた友と深い共感を分かち合ったり、また、傷ついたり、挫折したり、敗北感を味わったりした人々でなのであろう。このような感情は、ゾルゲのような社会主義者に限らず、国家主義や天皇主義思想にのめり込んで、太平洋戦争を戦った若者たちにも共有されていたものかもしれない。
 後者が敗戦によって価値解体と思想的挫折を経験したのに対し、前者は冷戦崩壊によってそれを経験したのである。
 そして、そのいずれも経験したことのない今日の若い世代にとっては、その両方ともがオヤジたちのうざったい繰りごと、過去への未練、たんなる思想的アノミーとしか映らないのだろう。冷戦の崩壊後の今日、イデオロギーの幻想が広く人々の脳裏深く刻まれ、若い世代などは、そのような言説の存在したことすらすでに歴史的時代の出来事に属するものでしかないのだろう。そして、そのような文脈で「スパイゾルゲ」を彼らは面白くない映画として酷評するのである。

 吉祥寺で「スパイゾルゲ」を観た後、街に出ると、北朝鮮に拉致された人々の奪還を求める署名活動が行われていた。呼びかけをしたり、ビラを撒いたりしている人々をみると、大学生くらいだろうか、たくさんの若者の真剣な顔がそこにあった。これらの若者の顔をみるにつけ、ふたたび素朴で信じやすい心をナショナリズムがとらえようとしている今の時代を感じすにはおれない。
 このような若者たちの素朴なナショナリズムがどのような方向に向かうのか、私には、分からない。かつての若者たちが抱いていた理想の社会主義とは、あらゆる点で異なった醜悪で無惨な姿をさらす北朝鮮という社会主義国の圧倒的リアリティの前で、かつての幻想は木っ端微塵となったが、敗戦によっていったんは葬られたはずのナショナリズムは、さまざまな回路を経て、今日、再興を遂げようとしている。この新しいナショナリズムの先導者たちの筆頭を挙げれば、さしあたって小泉、阿部、福田などといった現政権の執行部の面々が浮かんでくるだろう。彼らに共通するのは、戦前の国家主義の流れをひく政治家の子弟として、親に反抗することもなくその地盤を受け継いできた従順な二世たちであるという点であり、さらに、敗戦による挫折を経験していない若い世代の政治家だということだろう。思想的挫折を知らない彼らが、善意と誠実をもって、素朴で心地よいナショナリズムのしらべをハーメルンの笛吹のように奏でながら若者たちを引き連れて、いったいどこへ誘っていくのだろう。

 スパイゾルゲを観て酷評する若い人々には、その蹉跌なき人生を心から賞賛したいと思う一方で、いつかこの映画を観て、同じ感慨にとらわれることもあるだろうとも思うのである。人生は決してそう賢明に生きられるもんじゃない。