市民力としての情報メディア〜市民的活動と情報技術〜
立木茂雄・編『ボランティアと市民社会』晃洋書房、2001年4月


1 はじめに

 市民力と情報メディアについてこの章では取り上げたいと考えている。2001年という新しい世紀の初頭に立ってこのテーマを語るなら、情報技術(以下IT)革命を象徴するインターネットの話を抜きにしては議論が始まらないだろう。実際、インターネットの市民的活動への利用についてはすでにたくさんの議論が繰り広げられている。この章でも、それらの議論のいくつかについて触れている。しかし、それらの議論を要領よくまとめて紹介するのが本章の本来の目的ではない。むしろ、市民的活動にとって情報メディアがもつ意味とそれがもたらす変化について、さらに、これらの新しいメディアとどう向きあっていくかについて、実際に市民的活動に関わる活動者としての個人的視点から、私なりの考え方を示したいと思っている。
 ところで、私には市民的活動の中でインターネットの力をまざまざと思い知らされた一つの体験がある。本章を始めるに当たって、私のその個人的な体験から語り始めることをお許しいただきたい。

2 ナホトカ号重油災害美浜町ボランティア・インターネット支援活動の経験から

若狭湾ボランティア本部に入る
 1996年2月18日、新幹線米原を経由して加越1号でJR敦賀についた。時間は、2時40分ごろだった。天気予報では、天候は下り坂に向かうとのことで、北陸線を北に進むにつれて雪が激しくまいはじめていた。風も強くなり、ときどき雷鳴が聞こえた。
 敦賀駅の側にあるトヨタレンタカーでスタッドレスタイヤを装備したスターレットを借りて、27号線を西に走り、巨大なトンネルをぬけると暗い日本海が見え始めた。「美浜原電」の標識がみえるところで、27号から右折して原電へと向かうよく整備された海沿いの道を進んだ。5分ほど走ると美浜町の若狭湾ボランティア本部の看板が見えてきた。
 若狭湾ボランティア本部は、菅浜地区の公園の脇に、いくつかのプレハブの建物が立ち並ぶコンプレックスの中にあった。これらのプレハブは、資材倉庫に使われていたり、会議室だったり、本部スタッフの詰め所に使われていたりしていた。
 三国町のボランティア本部と比べると全体に規模が小さく、こじんまりとまとまっていた。

ボランティア本部の体制
 ボランティア本部には、いつも数名の本部スタッフがつめており、土日などに町の外からやってくる大量の重油回収ボランティアの受け入れや問い合わせへの受け答え、回収作業の分担や作業内容の案内、装備や資材の配布、炊き出し、緊急時の医療の提供、他の地区との連絡やメディアへの応対、地元との調整などの役割をになっていた。
 ボランティア本部の組織は、JC(ボランティア)、区(地元)、行政(町)が共同して運営されていた。JCの現地本部スタッフを実質的に総括をしている副本部長の金吾氏は、「地元と行政を巻き込んだ三位一体の体制」と表現していた。副本部長の下に、ボランティア登録、物資、車両、炊き出し、メディア、広報などのセクションが位置づけられており、ホームページの管理はメディアの担当であった。毎朝8時過ぎにJCの会員が順番にその日の統括責任者として全体を指揮し、学生や若者が中心となった長期ボランティアたちが、これらの各セクションの実質的な運営を行っていた。

メディアルーム
 インターネットのホームページを担当するメディアルームは、本部と道路を挟んで反対側の旧生協ビルの3階にあった。若狭本部でもインターネットを立ち上げるきっかけとなったのは、三国町の本部のページの中に若狭の情報を書き込んでいたところ、誤情報による混乱が起こり、独自のページを立ち上げる必要があったからである。現地の担当者は中村氏(歯科医)で、かれのマシンがマッキントシュであったことから、東経大のメディア工房ボランティアにホームページ運営の支援要請があった。
 メディアルームに入ると、すでにマッキントシュの8500が三国のインターネット担当のレスポンス協会から送られてきていた。それと、N氏が調達したパフォーマ5280があった。プリンタはスタイルライターで、翌日にはアップルトークでネットワークに接続された。画像入力装置としては、デジタルカメラが3台、スキャナ(エプソンGT5000ART)があった。外部記憶装置としては、MOドライブが外付けされていた。また、ISDN回線がひかれていて、それがパフォーマに接続されていた。
 到着後、すぐにメディア工房の学生サポーターの一人であるK君も到着した。K君は、いったん町役場までいったが、シャトルバスがその日は作業休止のため運行されておらず、役場から本部まで役場の職員の方の車で送ってもらってきた。
 今回のデジタル・ボランティア参加に関しては、私の勤めているT大学のメディア工房でを普段マルチメディア作品などを制作している学生や教職員の中から有志を募って、バトンタッチで順次現地入りし、若狭湾でのホームページ運営支援を行う予定になっていた。そして、その第1陣として、私とK君が現地入りをしたのである。その時点で、すでに7人の学生・教員がボランティア参加を申し出てくれていた。

作業環境の構築とホームページのたち上げ
 K君と二人で、仕事に取りかかった。われわれが今回のホームページ作成のために構築した環境は、つぎのようなものだった。
・8500とパフォーマ5280の間にアップルトークでネットワークをつくる。そのネットワークにプリンタを接続し、両方の機械から出力できるようにした。
・ISDNを8500に接続し、ホームページの更新やメイルのやりとりの作業をそこから行うようにした。
・パフォーマには、フォトショップをインストールした。そして、ホームページの画像作成やデジタルカメラからの取り込み作業などはこのパフォーマで行い、それをアップルトークで共有されたフォルダを経由して8500に送るようにした。
・8500にホームページ作成ソフトのページミルをインストールして、8500上で作成しながら、フェッチをつかってローカルプロバイダー内のFTP内に投げ込むようにした。
・問い合わせなどの電子メイルはEUDRA-PROで処理する。受信メイルのファイルを共有ファイル化して、本部に連絡すべき情報はパフォーマの側から紙で出力して、本部に手渡すこととした。
 このような環境を作っておいて、つぎに、ホームページのコンテンツの作成と改良を行った。まず、これまで作成されてきたホームページのデザインの改良を行った。目次部分と本文記事とを別フレームに分割し、「若狭湾ボランティア本部」のタイトルを作り替えた。
 すでに、作られていた情報項目は、緊急情報、回収作業の進捗情報、物資情報、義捐金の送り先情報、関連リンク情報などであったが、これに新たに「声・その他」という項目を作り、地元の人の声やボランティアの声、観光などの周辺情報を加えることにした。
 作業は、順調に進み、20日の午前中には、ほぼこれらの作業を完了した。完了時点のアクセス数は、約1400件であった。その後、22日朝にに現地を離れる時点で、1700件のアクセスを記録していた。さらに、現時点(24日午後)の時点で2000件と順調にアクセスが増えた。

インターネットの役割
 インターネットのホームページの情報発進力は予想を遥かにこえるものであった。現地に入っている20代前半の長期ボランティアたち(学生や浪人)は三方町にある無料宿泊所に泊まっているが、これらのボランティアたちにインタビューしたところ、8人のうち一人をのぞいて7人までがインターネットで情報を得て、現地入りしていた。
 彼らの出身地は東京、名古屋、福岡、新潟と地域に偏りがなく全国に散らばっていた。ようするに、インターネットを介してつながったグローバルヴィレッジの村人たちであった。
 これに対して、近隣の大学生はこれら長期ボランティアにはほとんどいなかった。近隣の大学のホームページをみてもボランティア参加の一般的な呼びかけが掲載されているだけで、情報の更新もほとんどされていなかった。
 近隣だからといって、ボランティアにやってくるというわけではないようである。
 また、インターネットを見て、支援物資やボランティアの人員を送ってくる学校や企業・組合なども非常に多いと言うことであった。マスコミの情報は、ボランティアに参加しようと言う人々にはきわめて不十分なものでしかなかった。テレビは三国町に流れ着いた舳先を象徴的に映すだけだし、新聞は一日遅れの情報で今の役にはたたない。電話は事務所に人のいるときしかかからない。こう考えると、インターネットは今回のボランティア活動にとって必要な情報を得るほぼ唯一のメディアであったといえる。三国町のボランティア本部が神戸のレスポンス協会の支援の下で立ちあげたホームページに10万件を超えるアクセスがあったこともうなづける。
 しかし、反面、当初、この三国町のページのみが立ち上がり、他の地区の情報が三国町のページを通して提供される構造になってしまったため、三国にアクセスが集中し、つながらない状態が起こったり、三国に情報をファックスで送ってそれをページにアップしたため、その過程で誤情報が発生した。たとえば、若狭湾ボランティア本部は、美浜町「菅浜」地区にあるのだが、三国本部のページでは、「菅原」と記されてしまったため、それをみて若狭湾本部にやってこようとしたボランティアたちが道に迷ってしまったり、ボランティアを乗せた地元のタクシー会社から抗議された。また、援助物資の要請メッセージが更新されないため、すでに十分物資が送られてきているのに、さらに全国から大量の物資がとどき、その処理に忙殺されるという事態も起こった。
 若狭湾ボランティア本部が、自前のホームページを立ちあげようと決意したのはこのような背景があった。

3 コミュニティの危機とインターネット

 美浜町の経験は、市民的活動と情報メディアを考える際の要点について教えてくれているように思う。
 まず、最初に問わなければならないのは、なぜこのようにたくさんのアクセスがボランティア本部のサイトに寄せられたのかということである。インターネットの特性やメディアとしての新奇さなどいろいろの要因はあろう。しかし、もっとも重要な要因は、そこに市民社会に共通の関心の対象としての危機が存在したからだ。危機の直面した地域社会がその克服のために開始する緊急の情報アクセス行動にとって、インターネットは非常に有効性をもっていたといえる。
 インターネットのどのような特性が効力を発揮したのか、ここで考えてみたい。
 @即時性、速報性......今日の作業が中止されるかどうか、また、現地で今必要な物資は何か、刻々と変化する現地の状況やニーズに対応するには、情報にタイムラグがなく、即時的にかつ迅速に提供されねばならなかった。インターネットのホームページによる情報提供は、これらの要件を十分に満たしていた。
 A個別性......重油の流れ着いた地域が異なれば、被害の状況も異なり、そこで必要とされる物資や人員も異なっていた。したがって、情報は地区別に細やかに提供される必要があった。ホームページを地区別に立ち上げることで、これら地区別に異なったニーズを細かに伝達することができた。ただ、実際には、三国町のボランティア本部だけがホームページを開き、他の地区はホームページを持たなかったため、三国経由で提供された誤情報が他地区の本部を振り回すことになった。そこで、私たちのインターネット・ボランティアが必要になったわけである。
 B広域性......北陸の災害に際して、現地に駆けつけたボランティアは全国化していた。情報は、したがって、広く全国的に提供される必要があった。インターネットの広域性は全国は愚か世界中に現地の状況を伝えることができた。
 C超境界性......美浜町の場合をみても、全国から支援に駆けつけるボランティアに対して、地元では行政、企業、市民団体が共同して応対する必要があった。これら駆けつける市民に対して、それぞれのホームページがリンクを相互に張り合うことによって、組織間の横の情報チャネルを確保することができた。ただ、実際は、これら三者の間、とりわけ行政と市民団体の間の協力関係は必ずしも十分とは言い難かったが、インターネットがなければもっとばらばらなものとなっていただろう。
 インターネットがもつこれらの特性が、地域社会の危機を市民が克服するのに効果的な市民力の源泉となったのである。
 一方、マスメディアをみれば、たとえばテレビは速報性と広域性は満たしていたが、個別性と即時性に乏しく、個々の現地本部で今何が求められているか、何をしなければならないかをきめ細かに伝えることができず、視聴者に事態の深刻さは伝えても、人々の行動に直接役立つ情報を提供することができなかった。これは、他の情報メディアについてもいえた。たとえば、行政の提供する自動録音によるテレフォンサービスも、即時性、情報量、超境界性などのあらゆる点でインターネットと比較にならなかった。実際、アクセス数でも、ホームページが1日で数万件を記録したのに対し、テレフォンサービスは1日400件程度に過ぎなかった。また、パソコン通信も、阪神大震災の際にも指摘されたのだが、電子掲示板に大量に投げ込まれるメッセージに現地からの重要なメッセージが埋もれ、現地にとって真に役立つメディアとはならなかった。
 考えてみれば、地域社会の危機に直面し、その克服のために市民的連帯と援助の要請を広く市民社会全体に発しようとするとき、従来、市民たちはその情報の媒介をマスメディアや公的権力に依存せざるを得なかった。しかし、インターネットの登場によって、初めて自前でそれをなし得たのである。それも、行政やマスコミより圧倒的な効力を伴って。北陸の経験は、市民社会にとって時代を画するものとなったのである。

4 市民的メディアの戦後史

 ここで、市民的活動が情報メディアをどう手にしてきたかを戦後史として振り返っておきたい。
 高度成長期の最中、公害問題が深刻化した1970年代にも、地域社会の危機が叫ばれ市民的活動が各地で広範に繰り広げられた時期があった。この時期、全国に革新自治体が続々と誕生し、公害反対や環境保護を目的とする住民運動が各地で活発に組織されていった。ちなみに、震災後のボランティア活動のめざましい活動で市民的活動の新しい潮流を作り出した兵庫県南部の諸都市は、この70年代にあっても、全国的でもっとも住民運動が活発に展開された地域であり、兵庫県下で組織された住民運動の数は、100団体に迫り群を抜いていた。だから別の見方をすれば、そのような広範な市民的活動の下地が準備されていたからこそ、震災時にあれほどのボランティア活動が展開できたのだともいえるかもしれない。
 この70年代の住民運動の全国的な展開は、必然的にコミュニケーションの手段を必要とし、各地の運動団体は、自前のメディアとして小さな機関誌やニュースレターを発行していた。このような機関誌やニュースレターは、マスコミに対する対抗的な意味を多分に含んだミニコミという概念で総称された。これらのミニコミは、小規模なものは謄写版印刷で印刷されたニュースレターだったり、中規模のものでも、街の印刷屋でオフセット印刷された程度のものであった。また、配送の手段は、もっぱら郵便に依存していた。定期刊行物の体裁をとっているものでも月刊が漸くで、週刊のミニコミはほとんどなかった。
 印刷物以外の試みとしては、ミニFMを使った自由ラジオ運動があったが、ラジオ局の存在自体が自己目的化した運動としては存在し得ても、運動の手段としてはほとんど意味をなさなかった。
 したがって、ミニコミは、実態をみればマスコミに対抗しているというよりもむしろ棲み分け(セグメント)をしていると言った方がよかった。全国的な情報網を持った職業的な送り手によって、広く浅く情報を網羅するマスコミに対して、ミニコミは、地域社会の個別の事情とニーズに深く関わり、送り手も職業的ジャーナリストではない生活者としての市民によって担われていた。したがって、ミニコミは、そのカバレージの規模と範囲は自ずから限られていた。所詮、ミニコミには、メディアとしての速報性や広域性、媒体の量的規模においてマスコミとは比べものにならなかった。
 ミニコミが期待された市民力は、多分に市民自治や住民主権といった理念的かけ声の中で過大に評価されていたに過ぎない。今でも、多くの市民的活動団体が、全国紙の地方版や県紙に対するパブリシティに力を注いでいるかを考えれば、マスコミの影響力の大きさは絶大であった。
 しかし、一方、公害問題の拡大や全国化に伴って、住民運動も広域的な情報の交流を果たす必要が生じてくると、住民運動間の横のコミュニケーションをどう確保するかが、課題となっていった。市民的活動を担う人々にとって、ミニコミは運動と参加者、運動とその周辺にいる支援者とを結ぶ大切なメディアであった。しかし、それは、広域的で恒常的な情報交換の回路としては、あまりにも貧弱だった。
 もちろん、市民たちも運動間のコミュニケーション回路の確保のためにさまざまな試みをした。たとえば、住民運動が発行するミニコミを全国的に収集し、相互の情報交流の役割を担おうとする運動が、(たとえば全国ミニコミセンターや住民図書館)が東京に設立された。また、住民運動の全国的な情報交流の場として住民運動の交流誌『月刊地域闘争』が京都で発行された。
 しかし、ミニコミセンターが「東京」に設立されたことに象徴されるように、中央としての「東京」を地方の上位におくという枠組みから脱出することは、構造的に困難であった。また、せっかく発行された連絡誌も、やはり、即時性、個別性という側面において不十分であったし、また、超境界性についても、多くの問題を抱えていた。つまり、運動のネットワークを全国化する際、決まって全国政党との関わりをどうするかという問題が常につきまとっていた。たとえば、共産党と社会党、当時勢力を持っていた新左翼の各派など、それぞれ政治的な中心性を主張する組織が住民運動間のコミュニケーションのネットワークづくりに関与しようとした。
 住民運動の側では、これを排除しようとする立場、それなりの役割を認めようという立場など、さまざまだったが、インターネットのような強力なネットワーク型のコミュニケーション手段が存在しなかった当時の状況では、住民運動自身による横のネットワークは、理念としては受け入れられても、現実性はなかった。実際、兵庫県のケースをみても、県域を網羅して結成された住民運動の連合体は、公には特定の政党による指導はないとされながらも、官僚制的な組織行動を得意とする政党の連絡調整機能や情報宣伝力を抜きにしては成り立たなかった。
 このような事態は、住民運動に限らず、街づくりや福祉活動、共同購入など、この時期に誕生した多くの市民的活動組織も同様であった。市民的組織の全国的な横のつながりを保障するようなコミュニケーションの回路は、結局、行政や政党など官僚的な組織をもつ全国的な機関に依存する他なかったのである。

5 市民メディアとしてのインターネットの潜在力

 しかし、北陸での経験にみるように、インターネットのようなネットワーク型のコミュニケーション手段は、市民的活動組織にとって、水平的なコミュニケーション回路を保障する強力な手段となる可能性を秘めている。フランスの社会学者のトゥーレーヌは、現代の「新しい社会運動」を分析し、その連帯の形態は、かつての労働運動にみられるような垂直的な従属=統制関係ではなく、多中心的で水平的なネットワーク型の関係を特徴とすると述べている。インターネットのようなネットワーク型のコミュニケーション・システムはこのような新しい社会運動の実質を支える重要な手段となるだろう。
 さらに、かつてのミニコミがマスメディアに対する対抗的メディアとしての役割を理念として期待されながら実際はその補完物としての位置づけを免れなかったのとは異なり、インターネットを活用する「新しいメディア」は、ある局面をみれば、マスメディアを凌駕する潜在力を持っているのである。
 それは行政や企業などの既成の制度的権力と対抗するような局面においても、これら「新しいメディア」はきわめて強力な力を持っているといえる。その一例として、私がこの北陸で経験したひとつの出来事を紹介したい。それは、美浜町の対策本部が県外ボランティアの受け入れを中止する決定を下した事態に関係していた。ます、出来事のあらましを当時の私のフィールドノートから引用する。

県外ボランティア受け入れ中止の決定
 現地では、2月17日から21日まで、地元の住民が休息をとれるよう、回収作業を一時中止していた。この間に、ホームページも立ち上がり、22日からの作業再開のために万全の準備を整えていた。
 しかし、美浜町の災害対策本部(災害対策本部長=町長)は、2月20日の午後、突然、町外からのボランティアの受け入れを停止する決定を発表したのである。この日の朝、町議会で奇妙な動きがあった。議員たちが本会議場に招集され、町長が非公開の議員懇談会を開いたのである。議会事務局に電話で傍聴できるかを尋ねると、本会議ではなく、「懇談会」だから傍聴はできないとの回答であった。奇妙だなと思っていたら、案の上、ボランティア受け入れ中止の決定が午後にでた。
 若いボランティアたちの間には、この決定に疑問をもつ者も少なくなかった。災害対策本部の発表の中に、「良好な状態になった」という表現があったからである。災害対策本部の発表は、事実上の収束宣言のような趣であった。しかし、現実には、回収はまだまだという感じであった。海岸には、あいかわらず重油の黒い固まりが漂着していた。
 しかし、町の決定として、海はきれいになったので、これ以上回収ボランティアは受け入れないというものだった。役場では記者会見が開かれ、テレビも新聞も町長の発表通りニュースを流した。正義感の強い若い学生ボランティアの間では、このような町の決定に対し、不信感と無力感が急速に広がっていった。
 一方、災害対策本部の発表によると、町外からのボランティアは受け入れないが、回収作業は「地元での対応」によって継続されるとのことであった。ボランティア本部に集まっている地元の人々の話では、「地元で対応するといっても、そんな大量の作業をする人手はどうするのだろうか」という不安の声もあった。
 なぜ町がそのような決定をしたのかは不明である。噂では、原発を抱えた美浜町としては、環境保護のボランティアが大挙してこられ、それが反原発の動きにつながるのを警戒したからだとか、プルサーマル発電の受け入れと引き替えに重油の回収は関西電力にまかせることになったとか、未確認の情報が飛び交った。町としても重油除去作業とボランティアの受け入れの二重の負担に疲れはてた上の苦渋の選択だったのかもしれない。しかし、 いずれにせよ、美浜町でのボランティアによる重油回収作業は、停止されたのである。
 行政・地区・ボランティアからなる三位一体の若狭湾ボランティア本部は、町行政が受け入れを停止した時点で自動的に活動を停止しなければならないことになった。三位一体といいながら、実質的に行政優位の体制であったといえる。
 22日の朝、ボランティア本部のミーティングで、町の決定を受け入れて美浜町でのボランティア活動を24日以降中止することが決まり、ボランティア本部の撤収作業に入ることが確認された。倉庫にある物資はボランティアを継続している他の本部に送ること、建物の撤収を行い、きれいに更地に戻すことなど、これから必要な作業の分担が決められた。新たに外部からの回収ボランティアは受け入れないが、本部スタッフにはもう一仕事あることが確認された。
 インターネットに関しては、せっかく立ちあげたホームページは、これからも維持し、これからは観光情報など地元の情報発信に活用していくことが確認された。ただ、メディアルームは近く閉鎖されるとのことで、コンピュータを1台残して、それでホームページの管理を行うことにするとの見通しであった。
 その結果、私たちがデジタル・ボランティアをバトンタッチで派遣する体制は、緊急性はなくなったと判断されたので、一応中止することとし、今後、必要があれば、新たな協力のあり方を相互に考えましょうということで現地を引き上げたのである。

 以上が、出来事の顛末である。行政組織という垂直統制的な力もつ伝統的な統治システムが、一方向的に均質の情報を大量伝達するマスメディアという伝統的なコミュニケーション・システムを使って、自発性と水平的なネットワーク原理で行動するボランティア活動という新しいシステムを押さえ込んだのであった。
 しかし、ここで私は別の展開の可能性を考えるのである。そして、その別の可能性こそ、今後の主流となる大きなマグニチュードを予感させる。
 町当局が県外ボランティアの受け入れ中止を決定したとき、本部に集まっていた私や学生ボランティアが、まだ重油で汚れている実際の砂浜の画像をホームページで公開し、引き続き回収ボランティアの続行をほ訴えたらどうなっただろうか。もしそうであったら、たとえ町当局が海はきれいになったといい、マスメディアが当局の発表をそのまま報道しても、ホームページを通して全国の市民たちは事実が発表とは異なっていることを知ることができただろう。当時、1日に数万件のアクセスがあったホームページで公表された事実は、揺るがし難い重みを持ったにちがいないからである。
 IT革命がもたらすインターネットなどの新しい強力なコミュニケーション手段を持つことによって、私たちは、確実にマスメディアと対等、いや限定的な局面においては、それ以上の力を手にすることができたのである。それは、行政と既成メディアの結託によって、この社会の情報を実質的に統制できるという発想が、はっきりと過去のものになった瞬間であった。

6 地域コミュニティから危機のネットワークへ

 IT革命がもたらした変化は、個々の市民にかつてないような強力なコミュニケーションの手段を保持させるようになった。現代社会における公共性のあり方についていくつもの重要な論点を提出してきたドイツの社会学者であるハバーマスは、このようなコミュニケーション行為それ自体に根ざす新しい政治的権力を「コミュニケーション的権力」と呼んでいるが、IT革命によって担保された市民力は、このコミュニケーション的権力の一つの現実的な存在形態であるということができるかもしれない。
 そのような市民社会の側からのインターネット利用の試みは、今日、きわめて活発である。市民的活動におけるインターネット利用を調査した徳島大学の干川剛史によれば、災害情報を始め、インターネットを活用して市民的活動を進める多種多様な試みが存在している。そして、情報ネットワークの活用とそれとの積極的関わりを活動の中心とするような新しい市民的活動の形を情報ボランティアと呼び、市民的活動を支えるようなインターネットを活用した新しい市民による情報ネットワークの構築を呼びかけている。
 しかし、街づくりや市民参加の恒常的な装置として、インターネットを活用することには、現実的にいくつかの課題が残されている。
 ひとつは、現代の地域社会がコミュニティとしての役割を発揮するのは、目前に危機が存在するときに限られるからである。危機の存在がなければ、生活者としての市民が地域社会の公共的な情報に関心を寄せることはほとんどない。もちろん、生活者としての市民が地域社会の情報に全面的に無関心であるというわけではない。地域の小売店の商品情報や余暇情報、健康情報など、日常生活のこまごまに関わる多くの情報が日常的に消費されているし、情報ニーズも確かに存在している。しかし、こと地域社会の共同体としての統合(市民力)、言い方を変えれば公共的な領域に関わるような情報への関心は非常に緩慢であるのが普通である。
 たとえば、最近の例をあげれば、インターネットを通した情報アクセス行動が爆発的に生じたのは、今とりあげた北陸のナホトカ号事故をはじめ、堺市のO-157集団食中毒事件、東海村の核燃料施設臨界事故など、地域社会が非日常的な危機に遭遇したケースだった。危機の存在が、人々に日頃忘れていた共同体の連帯感情を呼び起こしたといってよい。
 危機の到来が地域社会における人的、物的、情報的資源の調達を活性化し、普段は地域のことなど関心を持たなかった人々をコミュニティの集結させ、危機の克服と問題の解決に動員するのである。しかし、そのような危機が克服され、問題が解決されたとき、集結した人々は去り、動員された資源は編成を解かれ他の領域に振り向けられていく。
 ところが、危機が去った後も、流動性のない行政組織は、日常的な情報システムを組織し維持しようとする。実際、阪神淡路大震災のあと、災害時の情報提供やボランティアの組織化の必要性が叫ばれ、行政や識者の間で、日常的な情報ネットワークの整備の必要性が指摘されるようになった。
 しかし、多くの場合、行政側が整備した地域情報システムや官主導の「市民」的組織は、効果的に機能しない。危機の去った地域社会に優れた人的物的資源をつなぎ止めることができないからである。それは、震災直後の危機が去った阪神間の被災地にとどまる市民的活動組織の課題とも重なっている。
 これからの新しい市民的連帯にとって重要な意味をもつのは、共同体としての「地域」ではなく、脱境界的な「ネットワーク」であるに違いない。これからの地域社会にとって必要なのは、日常的共同体ではなく、危機の際にいつでも動員可能なネットワークであり、具体的には、そのインキュベータとしてのNPOであろう。
 実際、震災後、阪神淡路の被災地で活動してきた多くの市民的組織の中には、インターネットの脱境界性を積極的に活用して地域を超えた市民のネットワーク形成を模索する動きが活発化している。一例を挙げれば、震災時にサバイバル情報を提供する小さなコミュニティーラジオとして出発したコミュニティFM局(FMわいわい)は、インターネット・ストリーミング技術をもつリアルネットワークス社の協力を得て、電波の物理的カバレージを超え、情報提供に成功している。他にも、被災地で活動したボランティアたちのネットワークを維持するために、多くのメイリングリストが活動を続けている。

7 デジタル・デバイドとメディア・リテラシー

 一方、もうひとつの課題は、インターネットによって出現した新しいコミュニケーションの形態に、これからの地域社会や行政がどう対応していくかという問題である。
 この新しいコミュニケーションの形態は、エンド・トゥー・エンド型のコミュニケーションに代表されるものである。旧来の官僚組織にみられるような情報を下から順に上位の部門に吸い上げていくような階層型のコミュニケーションではなく、端末と端末が直接ネットワークで結合されてしまうようなコミュニケーションがコンピュータ・ネットワークを利用することで実現できるようになった。これによって、旧来の組織の内と外の壁はかつてほど強固ではなくなり、また、上位決定者の情報の独占や一元的管理も崩れる可能性がでてきた。判断や意志決定は、直接、エンドである現場がネットワークによって他の多くのエンドである現場と情報を交換し共有しながら、より集合的に行えるようになった。
 このようなコミュニケーション形態が、旧来の行政、企業、NPOといった枠組みを超えた市民力の醸成をもたらす潜在的な可能性をもつ一方、同時に、旧来の安定した官僚組織の枠組みを揺さぶり、特権的な地位を占めてきた行政機関や大企業の強い反発を引き起こすかもしれない。岡部一明の調査によれば、インターネットの発達したアメリカでは、市民運動の重要な目標のひとつが、政府のデータベースへのアクセス権を市民に公開させることとなっている。
 ITと市場主義経済が無条件に民主的な市民社会を醸成するといった「ネチズン論」に代表されるような議論は、楽観論に過ぎるといわなければならない。ITの資本主義的な再編が電子社会における情報格差(デジタル・デバイド)を拡大し、先進国に偏在するIT企業による寡占をさらに加速させるなら、たとえITが狭義の市民的活動にとって福音をもたらしたとしても、広義の市民社会の基盤が掘り崩されることによって、社会総体としての市民力の減退は避けられないからである。
 ITを市民力としてより普遍的なものとするための試みは、すでに始まっている。先述の岡部が紹介しているアメリカ西海岸の事例では、NPOがコンピュータを導入する際の支援活動を展開するコンピュメンタ(サンフランシスコ)の活動がある。もちろん、これもNPO活動の一つである。また、ITへのアクセスで不利な条件にある移民や少数民族出身者のデジタル・デバイドを解消するために、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)としてコンピュータ教育と職業開発と取り組むプラグドイン(イーストパルアルト)など、ITを市民力として担保するための具体的活動が定着し始めている。
 日本でも、神戸で同様の使命を掲げたNPO、ツール・ド・コミュニケーションなどの活動が始まっている。企業や行政の枠を超えて、このような新しい動きに対して、どのような支援を形作ることができるかを考えることが今大切である。
  一人一人の市民がインターネットに代表される強力なITを保持する状況を社会への脅威とみるか、市民力のさらなる拡張の可能性とみるか、現実には難しい問題を秘めているだろう。マスメディアでインターネットを使った犯罪や反社会的事件、あるいはヘイトサイトと呼ばれる人種差別やナチ崇拝を隠れた目標とする謀略的で反人権的なサイトの存在が誇張されて報道されることもあって、インターネットに対する社会的規制を求める声が一部に根強く存在している。
  しかし、インターネットは、その構造的な性格として、公権力や行政による統一的な規制に馴染まない存在である。だからインターネットの否定的側面を克服するためにも、市民の側が、そのより効果的でより豊かな利用法を提起していく以外、この新しいメディアを市民社会にとって価値あるものとさせることはできないに違いない。迂遠のように見えても、市民一人一人がメディア・リテラシーを獲得することこそが、インターネット社会と市民社会のともに共存できる未来を約束するに違いないのである。

参考文献

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ハーバーマス『公共性の構造転換--市民社会の一カテゴリーについての探究(第2版)』(細谷貞雄・山田正行訳)未来社、1994年

粉川哲夫『情報資本主義批判』筑摩書房、1985年

公文俊平『ネティズンの時代』NTT出版、1996年

栗原幸夫・小倉利丸編『市民運動のためのインターネット――民衆的ネットワークの理論と活用法』社会評論社、1996年

丸山尚『ミニコミ戦後史一:ジャーナリズムの原点を求めて』三一書房、1985年

民衆のメディア連絡会編『市民メディア入門』創風社出版、1996年

岡部一明『サンフランシスコ発:社会変革NPO』お茶の水書房、2000年

岡部一明『インターネット市民革命:情報化社会・アメリカ編』お茶の水書房、1996年

大月一弘、水野義之、干川剛史、石川文彦『情報ボランティア』NECクリエイティブ、1999年

竹内郁郎・田村紀雄編『新版 地域メディア』日本評論社、1992年

 古い友人の岡部一明は、2000年末に、神戸でストリーミング・メディアを試みるNPOの人々とともに、アメリカ西海岸で現在進行中のITの市民化に取り組むNPOを訪問する機会を作ってくれた。この場を借りて感謝したい。