マルチメディア教育事始め〜メディア工房の経験と教訓〜 『視聴覚教育』99.8
連載3回目
「プロジェクトを組織する」


山中速人


 マルチメディアの教育を考える場合、ともすれば制作技術の習得に眼が向きがちです。
たとえば、PhotoshopやPremierを使ったフォトレタッチングやビデオキャプチャーなどの画像・映像処理の基礎、SoundEditなどの音声処理、DirectorやGreenなどのオーサリング・ソフトの操作、これに加えてHTMLエディターの操作などです。もちろん、これらの技能が身に付いていないと、マルチメディアの制作はできませんから、これらの技能の習得は欠くことはできません。ただ、しかし、問題はそれをどのようにして行うかです。
 メディア工房で行われる授業の多くも、初心者向けの講習は、とりあえずこれらのソフトの操作を一当たり経験するというものです。だいたいフォトレタッチング・ソフトの体験の1回、ビデオキャプチャーの体験で1回、音声処理で1回、オーサリング体験で1回、HTMLエディターの操作体験で1回です。こうすると、これだけですでに5回分の授業が埋まってしまいます。もちろん、学生は、すでにワープロ、インターネットブラウザ、電子メイルなど、パソコンの基礎的な技能は習得しているのが前提です。
 しかし、本当はそれだけではありません。たとえばフォトレタッチングを覚える以前に静止画(たとえば写真やデジタルカメラ)などについて基礎的な知識が必要です。また、ビデオカメラの撮り方や編集についても本当は知っていなければなりません。
 ただ、実際には、これらの予備的な知識や技能についてもフォローしている暇はありません。そこで、授業としては、これらの基礎的な部分は飛ばして、コンピュータを使った処理の部分だけを急いで体験させることになります。
 このような授業を教育効果という観点から考えた場合、メディア工房での経験に照らしてみて、考えておくべき重要な点がいくつかあります。
 まず、これらの講習はたんに体験をさせただけで、実際にそれでマルチメディアが制作できるわけではないこと。したがって、このような講習の要点は、マルチメディアの世界を体験して、自分も作ってみたいという動機付けを与えることにあります。
 したがって、動機付けが十分にされていないと、個別の作業課題を何のためにやっているかが分からなくなってしまいます。フォトレタッチングやビデオキャプチャーなどの作業は、それなりに面白いので学生もついてきます。しかし、オーサリングやHTMLエディタの操作は、前提として編集や構成といった概念が理解できていないと何をしているかわからなくなり、関心が持続しなくなります。
 そのため、私たちは、工房で作業に入る前に、工房のライブラリーから優れたマルチメディア作品をできるだけ数多く選んで、学生たちに見せ、自分たちがどんなメディアとこれから取り組もうとしているのか、また、自分が作りたい作品のイメージはどんなものかについて、優れた事例をモデルにしながらじっくりと鑑賞する時間を取るようにしています。
 現実に制作されているマルチメディア作品の多様性と広がりに比べ、学生たちが抱いているマルチメディアのイメージは、意外に貧弱です。ビデオゲームの一種だといった程度の認識の学生もいます。したがって、最初に、いくつかのタイプの優れた作品を実際に操作しながらインタラクティブに鑑賞することは、イメージを膨らませる上で重要だと思われます。
 私の授業では、学生たちにマルチメディア作品を 次の2つの要素で仕訳して、それぞれのカテゴリーからいくつか作品を紹介するようにしています。
 1. 使用素材の種類、組み合わせ方、頻度。たとえば、動画、静止画、音声、テキストなど。
 2. コンテンツの編集方針(コンセプト)。たとえば、(1)時間を追って直線的にコンテンツを提示させるストーリーテリング型、(2)資料やデータを検索するためのデータベース型、(3)対話型で複数の素材やストーリーを選択しながら視聴するハイパーテキスト型。
 これら2つの要素、つまり、素材のタイプとコンテンツの編集方針を考慮しながら、学生にマルチメディア作品を視聴させるわけです。そして、作品を視聴しながら、以下のような点に注目するよう助言を与えます。
 1. マルチメディアの機能が作品のコンセプトの表現に適しているか。
 2. コンテンツが本当にマルチメディアでしかできない素材であるのか。もし、そうでないならマルチメディア化する意味が本当にあったのか。
 3. 作品のコンセプトを表現するのにオーサリング・ソフトの選択は適しているか。必要以上の機能が作品全体のコンセプトを損ねていないか。
 4. デザインや装飾的表現は作品のコンセプトに適しているか。凝ったデザインが優れているとは限らない、などです。
 ここで、私が必ず学生にみせる作品の一つに、『I Photograph to Remenber』という作品があります。この作品は、一人の写真家がガンで死にゆく自分の両親たちの日常をモノクロの写真と自分の肉声による解説によって淡々と描いたものです。オーサリングは一応Directorというプロ用のソフトを使用していますが、現在ならもっと簡単なソフトでも制作できる作品です。操作機能も単純で写真のページをめくる機能と目次に戻る機能と肉声の解説を聞く機能しかついていません。それでも、この作品がすばらしいのは、その一枚一枚の写真の訴求力と写真家のまなざしの暖かさと厳しさです。マルチメディア批評家の浜野保樹さんは、この作品を評して「マルチメディアで泣ける作品が現れた」と述べていますが、私が学生に強調するのもその点です。メディアの表現力は優れたコンテンツがあってこそ意味があるという原則を学生たちに強調しておきたいからです。(ちなみにこの作品は95年度の日本マルチメディア・コンテストの優秀賞をとりました。)
 作品群の視聴が始まると、当初、学生たちはあっけにとられたような顔をしています。しかし、そのうち、だんだんマルチメディア作品の全体像がおぼろげながらつかめてきます。そして、このような視聴を何度か繰り返しているうちに、マルチメディア作品を評価する力が身に着いてきます。つまり、演繹的にマルチメディアとはかくかくしかじかのメディアであると教えるより、実際の作品を数多く体験して帰納的にマルチメディア作品のイメージをつかむことの方が、制作への動機付けという観点からは効果があるということです。
 このようにして、学生たちはマルチメディア作品についての基礎的なイメージを持ちます。しかし、本当の問題はここからです。つまり、自分は何を作ればよいかという問題です。
 結論的にいうと、メディア工房の4年間の教訓から、工房では個人の制作欲求にまかせるだけでなく、複数の学生・教員がプロダクション・チームを組織し、共同の制作プロジェクトを実施するようにしています。なぜ、メディア工房でこのようなプロジェクトを組織するようになったかについては、次のような経験があったからです。
 開設当初、メディア工房にはサポーターという制度がありました。サポーターというのは、ボランティアで工房の活動の一部を担う学生たちのことをいいます。開設当初、機器の管理から操作技能の助言まで全部担当しなければならなかったスタッフを補助するため、このサポーターが募集されたました。条件としては、授業で使わない時は、自由に工房の機器をさわってよろしい。そのかわり、習得した技能は独占せず、授業などで機器を使用する時、スタッフといっしょになって学生の指導を手伝うこと。また、教員が教材を制作するとき、その作業を手伝うことなども条件でした。応募してきた学生は、30名程度。中にはパソコンをさわった経験があるものが数名いましたが、ほとんどが未経験者。まして、画像処理やマルチメディアの制作などまったく未知の世界といった学生たちでした。しかし、メディア工房にある高価な機器を自由にさわれるという魅力もあってか、学部を超えてたくさんの学生が応募してきました。
 工房の運営を担当する教員やスタッフは、彼らに期待をかけました。講義時間外でも、工房に集まり、マルチメディアの基礎やソフトウエアの操作方法など、熱心に教えました。そして、ようやくその成果が見え始めた2〜3ヶ月後、学生たちが作り始めた「作品」をみて、ある傾向に気がついたのです。
 たとえば、ホームページを例にとると、まず第一に、デザインが非常に凝っていること。タイトルやイラスト、リンク・ボタンやフレームデザインなど凝りに凝っています。ついこの間フォトレタッチングを教えたばかりなのに、もうかなり上級のテクニックをこなしているのには驚くばかりです。中には、3Dグラッフィクス・ソフトやGIFアニメ制作ソフトなどを駆使して、立体アイドル人形のアニメを制作し、私がアクセスするとそのアニメ人形がお辞儀をしてくれるといった芸当を披露してくれるサイトも登場しました。
 しかし、そんなすばらしいテクニックを見せてくれるのですが、肝心のコンテンツといえば、自分のことばかり。それも、ほとんど交換日記的世界が連綿とつづられているばかりです。中には、せっかくサイトを開設したのに、文章を書くのが苦手だといわんばかりにフォトレタッチングした写真やお絵かきソフトで描いたアニメばかり掲載しているサイトもありました。これが第二の傾向でした。つまり、コンテンツが貧弱なのです。
 しかし、考えてみれば、大学に入学したばかりの青年たちにとって、それまでの受験一辺倒の生活の中でなにか自信をもって表現できるようなコンテンツを出せといっても、それは無理な注文だといえましょう。また、これまで自分の意見を文章にまとめるといった訓練も十分受けていませんから、表現するといっても勢い絵やデザインの美しさに向かうことになってしまうのです。その結果、せっかく手に入れたマルチメディアという新しい表現の道具も、結局、交換日記イラストの発表メディアくらいにしか利用されなくなってしまいます。
 教員やスタッフたちが共同製作プロジェクトを組織しようと考えるに至った理由は、このような傾向を克服したかったからです。しかし、それは別の意義もありました。大学が持っている学術資産である図書館所蔵の画像資料や教員の研究データとしての写真や録音テープ、ビデオテープなどをマルチメディア教材化し、教育に利用することです。そのためには、図書館や教員が素材とその提示のためのノウハウを提供し、学生がメディア工房のスタッフの指導の下にマルチメディア制作の作業を分担するのです。もちろん、制作作業を担う学生の中心は、サポーターたちでした。
 このような考え方にもとづいて、共同制作プロジェクトが企画され、4年間に数多くのプロジェクトが実施されました。たとえば、図書館が所有する近代錦絵のコレクションを絵師別、年代別、登場人物別で分類し、インターネットで公開する錦絵画像データーベースの開発プロジェクト、文化人類学担当の教員が撮りためてきた貴重な中国少数民族の記録写真を分野別地域別に分類し、解説するハイパーテキスト形式のマルチメディアCD−ROMの開発プロジェクト、著名な社会学者の学説や評論を本人の映像と肉声で検索、視聴できる言説のデーターベースCD−ROMの開発プロジェクト、学内LAN上のサーバー内に共通の教材を置き、複数の教員がLAN経由で教室や研究室から共同利用する共通教材開発プロジェクト、インターネットを利用して本学の教員が行う授業や公開講座をライブやオンデマンドでストリーミング放送するプロジェクトなど、大学教育に直接利用できる教材の開発がプロジェクトとして進められました。
 プロジェクトの企画は、まず教員や図書館など学内での素材探しから始まります。格好の素材が見つかると、工房のスタッフたちがそれをどうすればマルチメディア教材化できるか考えます。素材の所有者が教員なら、工房のスタッフと会合がもたれ、学術・教育利用を前提にマルチメディア化の基本構想を練ります。そして、マルチメディア化が可能だと判断されれば、さっそく作業を担う学生ボランティアの募集が始まります。
 応募学生が数人集まったところで、教員・工房スタッフ・学生の会合がもたれます。そこで、素材の加工の方法と手順、つぎにオーサリングの方針とオーサリングのプラットフォームになるソフトを決定します。このとき、指導する工房のスタッフは、制作作業の効率化という側面にもっとも配慮をします。つまり、
 1. 素材の処理作業の分担が可能なような構造を考える。
 2. 作品に組み込むマルチメディア機能は教育などの目的に必要な最小限のものにできるだけ限定する。
 3. オーサリング・ソフトの選択は、使いたい最低限の機能を満たす簡単なオーサリング・ソフトを利用する。
 教育利用を目的とするマルチメディア作品は、マーケットで商品として売られる訳ではありません。したがって、オーサリング・ソフトもプロ用の高度なソフトは機能的には優れていますが、限られた時間に学生が作品を完成するには複雑すぎて作業量が大きくなりすぎる場合が多いのです。たとえば、インタラクティブ系のCD−ROM作品にもっともよく使われているDirectorというソフトは、その典型です。多機能で非常に自由な表現が可能ですが、その反面、 スクリプトと呼ばれる動作指示文を書かねばならず、初心者の学生にとっては習得と操作に時間が掛かりすぎます。メディア工房の経験では、マルチメディアの概念が分かりかけた程度の学生が使用するのにちょうどよいオーサリング・ソフトとしてInfoCity社のGreen、また、テキスト中心のブック形式の作品のオーサリングにはボエジャー社のエキスパンド・ブックなどを使わせています。また、現在、多機能化しつつあるウエッブ・ブラウザの機能を借りて、HTMLエディタを使ってマルチメディア作品を制作するということも行うようになりました。
 もちろん、学生の中には、Directorも習得済みというベテランも当然います。しかし、プロジェクトのプラットフォームにはできるだけ簡単なソフトを使うことが大切です。そうでないと、高度なソフトを使える学生だけに作業が集中し過ぎ、また、ソフトの能力が無意識的な上下関係を生み出すというマイナスの影響が起こるからです。

 プロジェクトが順調に滑り出すと、共同作業ならではのすばらしい経験が参加者を捉えます。学生にとっては、授業以外の教員の素顔に触れることができ、学術研究の深さやおもしろさの一端を経験できます。教員にとっては、自分の研究データや記録写真などがマルチメディア作品に変身していくのをみて、学生への信頼感も高まりますし、今後の研究方法を模索する上でよいヒントが沸いてきたりします。そして、作品が完成すると、教材として授業で活用され、一般学生にとってもメリットが還元されます。また、教員にとっても、その作品をCD−ROM化し学部の研究雑誌の一部として出版することによって、学術業績として評価を受けることも可能になっていきます。(そのためには、CD−ROMを大学が発行する正式の学術雑誌と認めるという制度をまず作る必要がありますが)
 もちろん、成功したプロジェクトばかりではありません。流産したプロジェクトもたくさんありました。たとえば、教員のマルチメディアに対する期待があまりにもけた外れだったために、現在の技術では実現困難と判断してお引き取りいただいたもの、素材は揃っていたものの学生の応募がなく頓挫したもの(これは、著名な歴史学者の講演のテープ起こしに映像を加えるというプロジェクトでしたが、歴史学者の講演内容に学生の関心が集まらず、転けてしまいました)また、プロジェクトは始まったものの、一人の学生があまりに難しいソフトを使おうと強引に主張したために、チームが白けてつぶれてしまったもの、などなどです。
 しかし、一方、プロジェクトの成果が現れると、新しい試みが次々と持ち込まれれうようになりました。たとえば、その一つは、阪神大震災の映像記録CD−ROMの制作プロジェクトです。これは、被災地の大学の救援センターが、その大学の映像設備を使って制作した被災者向けのCATV番組の素材テープを再利用して、新たにCD−ROMを制作しようと言うプロジェクトでした。学生たちは、実際に被災地を訪れ、被災者の生の声を聞いて地道に制作作業を続けました。また、日本海で起こったナホトカ号重油流出事故の際には、現地の美浜町ボランティア本部の要請に応えて、学生教員がインターネットのウエッブサイトを立ち上げ維持管理する情報ボランティアとして、現地に乗り込み、サイトの運営に協力しました。ボランティア本部のホームページには、工房ボランティアのバナーがしっかりと掲げられました。また、大阪の女性団体の要請を受けて、広島の原爆被害を訴える被爆者が描いた原爆の絵のホームページ化のプロジェクトも行いました。完成した作品は、現在、広島市平和資料館のサイトで永久公開されています。
 プロジェクトの活動を通して学生たちが学んだことは、マルチメディアを通して社会との関わりを広げることの重要性です。ともすれば、パソコンの前で自閉的になりがちなパソコン・ユーザーたちに、マルチメディアを通して、また、メディアを通さない直接的な人間のふれあいの大切さを伝えることがこれからのマルチメディア教育の目標のひとつといってよいと私は思います。