マルチメディア教育事始め〜メディア工房の経験と教訓〜
『視聴覚教育』99.7
連載第2回:メディア工房の誕生〜マルチメディア制作の環境と組織を考える

山中速人


組織を越境するマルチメディア
 マルチメディアが今日の教育メディアにおいて革新的な変化をもたらす潜在力を秘めていることはいうまでもありません。そのことは、誰もが理解していることではあります。しかし、だからといって、それでは、従来のパソコン教育がマルチメディア対応に簡単に移行するかといえば、かならずしもそうではありません。確かに機械としてのパソコンは数年間の消却期間が過ぎれば、どんどん新しい「マルチメディア」対応の機種に取り替えることができます。しかし、それは、あくまでもハードとしての機械のことであって、それを操作する人間のこととなると話は簡単ではありません。たとえば学校のような堅い構造を持つ組織や制度は、マルチメディアのようなコンピュータでもあり、映像機器でもあり、音響機器でもあるという越境型システムに対応することが苦手なのです。
 今回は、マルチメディアを大学という堅い組織制度が受け入れていくとき、どのような問題が起こるのかについて、私の経験を参考にしながら考えてみたいと思います。開発者たちがどんなに効能を力説する革新的なメディアも、それを導入するは人間組織であって、その現場についての議論をしないなら絵に描いた餅にすぎないからです。これからマルチメディアを導入しようと考えている方々に私の経験がお役に立てばうれしいのです。
 さて、大学組織の中で従来から教育情報を扱う役割を担ってきたのは、大きくいって図書館、電子計算機センター、視聴覚教育センターの3つといってよいでしょう。個々の大学でその呼び名は多少異なっているでしょう。しかし、実態は類似していると思われます。これら3つの部門は、大学という教育研究機関が、それぞれの時代の中で教育研究に必要な情報というものをどのように処理し蓄積すればよいか模索してきた歴史過程を反映しています。

図書館、電算機センター、視聴覚センター
 図書館は、伝統的に、書かれた文字情報としての文献を扱うために発達してきました。しかし、単に文献情報センターに過ぎないといってはなりません。大学制度が誕生したヨーロッパに目を向ければ、図書館こそ大学の本質であるといっても過言ではないほど、図書館は重要な位置を占めてきました。今でもその伝統は生きていて、一例を挙げれば、多くの大学で、図書館長といえば学長に継ぐ名誉ある重要ポストであるとされています。図書館を運営するための諸制度は、大学の本質と関わるため、それを変えることは、大変な労力を必要とします。したがって、図書館にとって、マルチメディアのような越境型の媒体は扱いづらい存在といえます。たとえば、ビデオやCD−ROM、DVDなどの新しいメディアを図書館は扱いなれていません。まして非パッケージ型のメディアを扱うことは、さらに困難な問題を派生させるのです。
 まず最初に、図書購入に当てられる予算をCD−ROMやビデオなどにどの程度回せるかという問題があります。ビデオパッケージやCD−ROMを図書と見なしていない図書館もたくさんあります。またこれらのソフトを視聴するためのプレーヤー機器の設置がなかなか進みません。これはある意味で仕方ありません。たとえば、CD−ROMといっても千差万別で、機器も違えば、要求するスペックも違います。DVDソフトを購入したものの、学内のどこにもそれを見るための機械がなかったといったことはよくある話です。といって、その一枚のための高価な機器をすべて揃えることはできません。その結果、機器がないからソフトを買わない、ソフトが揃わないから機器が買えないといった、ディレンマに多くの大学図書館が陥っています。
 さて、第2の電子計算機センターは、図書館と比較すれば、新しい制度です。大学が電子計算機センターを機関として設置するようになったのは、1970年代ころからでしょう。電子計算機の導入は、大学における研究教育を革新しました。当時の技術水準では、今日のパソコンよりも性能の低い電子計算機をたくさんの研究者が共同で利用しなければなりませんでしたので、その利用を合理的に集中的に行おうとして作られたのが、電子計算機センターだといってもよいと思います。そこでは、電子計算機を利用できる「時間」がまるで貨幣のようなに機能し、大学が重要だと位置づける「科学技術」研究や「大学経営」などの事務処理には、より多くの「時間」が割り当てられ、逆に、それ以外の分野の研究者や学生には、満足な「時間」が割り当てられませんでした。電子計算機は、まるで絶対神のように奉られ、計算機センターのスタッフは、それに仕える神官のように振る舞った時代もありました。今日の電子計算機センターという組織は、この時代の雰囲気をまだ十分に残しています。パソコンの能力が向上し、分散処理の概念が普及した今日では、今度は学内ネットワークの総元締めとして力を保持します。
 しかし、困ったことに、マルチメディアが扱うデジタルデータは、従来の電算機センターが扱ってこなかった映像情報や画像情報、音声情報が主要な位置を占めるのです。もっぱらテキスト・データの処理と管理の経験しかもたない電算機センターにとっても、マルチメディアは困り者なのです。
 第3の視聴覚教室やLL教室などをもつ視聴覚センターは、図書館と電算機センターからこぼれた残余カテゴリーに属する教育メディアを扱ってきた部門です。露骨な言い方をすれば、ソニーやビクターの特機部門のお得意さんです。これらの部門が扱ってきた情報は、たとえばビデオや音声などもっぱら非テキスト系の情報でした。そして、そのもっとも積極的な利用者は、語学担当の教員たちでした。映像や音声の利用を早い時期から導入してきたのが、語学教育だったからです。しかし、大学の教員組織の中で、語学教員がその待遇に不公平感をもっているのと同様に、視聴覚系メディアも、大学の中では軽く見られてきたメディアです。そこで、なにやら胡散臭い新しいメディアが登場してくると、この視聴覚センターが対応することになります。だからマルチメディアの学校への導入も、多くは視聴覚教育の一環として行われました。この雑誌で私がマルチメディアの話をしているのも、そのような文脈があるからです。
 しかし、マルチメディアが扱うデータは、従来の視聴覚センターが扱ってきたアナログ・データではなく、コンピュータで処理されるデジタル・データなのです。そこで、視聴覚センターには大量のパソコンが導入されるようになりました。視聴覚センターは画像や映像の扱いは慣れています。しかし、デジタル処理については不慣れです。
 また、CD−ROMやビデオ教材などの非書物系のメディアは視聴覚機器の媒介なしで利用することはできませんから、その出版点数が少なかった時代は、その収集管理を視聴覚センターが行ってきた大学もありました。しかし、その出版点数が飛躍的に増大しつつある現状の中で、図書館システムとの連携が不可欠になってきました。しかし、組織が異なると、それがうまくいきません。越境型教育メディアとしてのマルチメディアの扱いにくさがここにもあります。

メディア工房の誕生
 もちろん、最近新設された大学や学部の中には、これら情報を扱う部門を統合した新しい組織を発足させている大学もあります。一例を挙げれば、慶応大学の藤沢キャンパスには、図書館と電算センターと一部視聴覚教室の機能を足し合わせたメディアセンターが誕生しています。しかし、そんな新しい概念で誕生した大学キャンパスでも、マルチメディアのような越境型のシステムを扱うことはなかなか難しいのです。まして、従来からの制度を維持しながらマルチメディアを導入することは、大きな問題に直面します。
 多くの場合、問題は機械技術的な問題ではありません。きわめて人間的な問題なのです。学内組織の各部門に付随してきた小さな権限、フリンジな特権、教員の専門分野をめぐる仲間意識など、些末ではあるけれど、実際はなかなか越えにくい壁の存在が、マルチメディアの全面的な展開を妨げています。これは官僚組織のもつ古くて新しい問題です。官僚組織では、組織全体を構成する各部門にとって、他部門の権限や予算が拡張することは自部門のそれが縮小することを意味します。したがって、自部門の権益を最大化するために、互いに権限というカードを切り合い、ゼロサム・ゲームが始まります。
 これは、学校がマルチメディアを導入する際にも当てはまります。マルチメディアが従来の情報処理と蓄積の枠組みを越境し、きわめて革新的な変化をもたらそうとしているのに、組織の方は、そのための部門統合やリストラに抵抗します。そして、現実的な選択として、従来のどこかの部門にマルチメディアを扱わせるか、あるいは、新たにマルチメディアを担当する部門が作られることになります。その結果、「組織は自己膨張する」というパーキンソンの法則はここでも実証されるというわけです。やや皮肉な言い方になりました。しかし、これが現実です。
 さて、この連載の話題の舞台である「メディア工房」も、大学組織のこのような葛藤の中から生まれました。つまり、図書館、電算機センター、視聴覚センターの機能の統合ではなく、新たにマルチメディアを扱う部門が取り急ぎ作られたのでした。場所も、ビルの地下で、天井のコンクリートが剥き出しになった倉庫のような空間があてられました。パソコン教室のように機械を整然と並べるには、あまりにも変形した空間でした。倉庫のような空間にはスタッフと学生を分ける仕切りもありませんでした。さらに、その部門を管理する専任職員が存在しませんでした。別の建物に収用されている視聴覚センターの職員が兼務することになったのです。
 「まるで家内工場だね」とみんなが言いました。
 そして、その部門につけられた名前が、「メディア工房」でした。(これをつけたのは、フランス現代思想の研究で著名な社会思想史家で、メディア工房がMediatelierという洒落た欧文名をもっているのは、その人の影響です。)
 本当のことを話せば、当初、メディア工房が構想されたとき、必ずしもマルチメディアの概念が明確に理解されていたわけではありません。今から5年前の1994年、コミュニケーション学部という新しい学部を開設するに当たって、映像音響教育に必要なビデオカメラや編集機器、録音ブース、スタジオ設備、また、雑誌や書籍のDTPを学ぶためのマッキントシュとカラー出力システムなどをどう準備するかが議論の中心でした。しかし、これらの議論を深めていくと、結局、マルチメディアという概念に行き当たりました。
 当初は、ビデオ系機器とパソコン系機器とは、ひとつの部屋の中にあっても、相互に独立して別個に機能するようレイアウトされる計画でした。しかし、議論が進む中で、ビデオ・デジタイザー(いわゆるビデオ・キャプチャーボード)を介すれば、ビデオ系機器とパソコン系機器との間で情報やデータが相互に交換できることが分かってきました。それなら、いっそビデオデッキや編集機とマッキントシュやスキャナを一つの卓に配置し、ケーブルで連結してしまおうということになりました。今では当然のことかもしれません。でも、当時の大学という環境の中ではまったくユニークな発想だったのです。ビデオ系とパソコン系をひとつの空間に押し込んだ結果、マルチメディアという新しいベビーが誕生したのでした。(図は、当時私たちがレイアウトしたシステムの構成図です。)
 偶然の幸運もありました。メディア工房には、先述したように収録スタジオや録音ブースも併設されていたので、映像や音声の収録や加工といった作業が自由にできました。また、間仕切りもケーブル用の二重床も機器用のラックもなかったため、機器類はただ操作卓に置かれただけで、自由に取り外したり、接続し換えたりできました。まったく「工房」とは、よく名付けたものでした。まるでビデオやパソコンの工作室とでもいえる空間が出現したのです。
 問題は、この空間を管理するスタッフをどう確保するかでした。私は以前勤めていた文部省所属の教育メディア関係の研究機関で、大学における教育メディアの導入に関する実態調査を手がけた経験から、多くの大学で高価なメディア機器が操作のできる専門スタッフがいないために無用の長物となっている姿をいたるところで見ていました。したがって、メディア工房には専門の技能スタッフはどうしても必要でした。
 しかし、どこの学校でも、人件費の圧縮は至上命題です。専任職員を海のものとも山のものとも見分けのつかないメディア工房に配置することには、ためらいがありました。そこで採られた妥協が、人材派遣会社の利用でした。高度な技術スタッフを派遣会社に依存するというアウトソーシングの考え方は、学校経営の場でも有効というわけです。しかし、実際には、ビデオとパソコンの両方に通じた技術者を人材派遣会社から調達することは困難でした。多くの場合、これらの派遣会社の人材は、コンピュータのプロではあっても、メディアのクリエータではありません。一方、映像関係のクリエータはテレビ局周辺の制作会社にはいましたが、パソコンの管理はしてくれそうにありませんでした。でも、メディア工房で必要なのは、この両方ができる人材だったのです。
 しかし、人材がいないわけではありませんでした。コンピュータを使ったマルチメディア作品やビデオアートなどを手がける若いクリエータは、育ちつつありました。ただ、人材派遣の市場から、まして、大学教育の市場からそんな才能を調達することができなかったのです。そこで、教員たちが手分けして人材を探し、その人の能力を十分見極めた上、形式上は派遣会社からの外部スタッフとして採用することにしました。この方法がよかったかどうかは、分かりません。しかし、専門性の高いユニークな技能スタッフを採用する手段が、今日の学校組織にない以上、こういうやり方を個別に工夫する以外、方法はないのでないでしょうか。
 難産だったにせよ、こうしてメディア工房は誕生しました。そして、そこから多くのマルチメディア作品やリアルストリームを使った遠隔教育の実験などユニークな試みが生み出され、また、デジタルメディアを通した社会貢献のあり方を実践する学生ボランティアが育っていきました。もちろん、技能的な側面だけに注目すれば、近年、あちこちで開設されているデジタルメディア系の専門学校などの方がより本格的なマルチメディア制作環境を持っていますし、また、技能養成力も優れているかもしれません。しかし、メディア工房は、大学という知的コンテンツの宝庫とその表現手段としてのマルチメディアが結合したところにユニークさがありました。
 この5年間を振り返ってみて思うのは、マルチメディアを作り出す環境を支えるのは、高価なメディア機器や一握りの秀才の頭脳ではなく、新しいものを作り出したいという人間の工夫や努力だという当たり前の事実でした。ともすれば、機械のスペックに議論が集中してしまうマルチメディアの世界を見るにつけ、このことは忘れてならないことだとは思いませんか。
 次回は、このメディア工房から誕生していった作品やユニークなメディア実験についてお話したいと思います。
(連載第2回、終わり)