オリンピック建設労働に外国人参加の道を開け
『街づくりフォーラム99』大阪都市協会1999.6

山中速人(東京経済大学・教授・社会学)


 近代という時代にあって、都市は、国家との関係において政治的な敗北を重ねた。かつて政治的アジールとしての特権をもった都市は「国民=国家」によって解体され、特定の国家に従属し、その庇護と支配を受ける存在となった。
 しかし、21世紀を迎えようという今、「国民=国家」の揺るぎによって都市に対する国家の支配は相対的に弱体化の兆しを見せ始めている。大阪にとって、そのような機会こそが長い間待ち焦がれてきたものではなかっただろうか。
 それは、オリンピックについてもいえることである。オリンピックが国民国家の栄光と名誉のために存在してきた時代に終止符を打たねばならない。そのような時代は、国家がすべての価値に優先した20世紀というひどく不気味な時代ともに葬りさらなければならない。ベルリン・オリンピックの記録映画であった「美の祭典」と「民族の祭典」という異様に美しい二つの映画が私たちに投げて寄こした身体と国家とを結合させる幻想の共同体というメッセージは、今でも、人々をオリンピックに熱狂させているのだが、しかし、オリンピックをこの幻想の共同体から解き放すたくらみこそが大阪でオリンピックを開催する重大な意義となることに気づくべきだろう。(実際、そうでないとやや時代錯誤的にナショナリズムをたぎらせる北京に対して、大阪の招致の名文が成り立たないだろう。)
 大阪でオリンピックを開催することは、本来都市の祝祭であったはずのオリンピックをその本来の姿に戻す可能性を考えることでもある。という前提をおいて考えれば、都市としての大阪が確立するべきいくつかの重要な課題が透けて見えるはずである。
 近世より海外に開かれ、多様な文化の共存を享受してきたという大阪の特徴は、それと密接に関係しているはずである。都市の多文化性というのは、たんに諸外国から選手団を迎えるといった美辞麗句を意味しているだけではない。今日の日本の大多数の都市では、都市建設を実際に担う労働力のかなりの部分は、外国人労働者によって支えられている。オリンピックの誘致というからには、当然、競技場や選手村など多くの施設が建設されるだろう。これらの工事で働く外国人労働者に対して、法務省によって代表されるような国家としての日本がこれまで表向き表明してきた、外国人単純労働力の排除というような空虚な建前を繰り返すのか、それともアジアに開かれたメトロポリス大阪の「都市」としての本来の自立性と矜持を発揮するのかが問われているのではないだろうか。
 具体的には、オリピック建設のために諸外国とりわけアジアからの労働力を受け入れるといったことができるはずである。それは、たんに労働政策といった次元を超えて、アジアの祝祭都市空間の建設のためにアジアの人々がともに額に汗して働き、ともに同じ鍋を囲むという体験を分かち合うことでもあるはずである。もちろん、日本人労働者と同様に社会保険や労働者保護の諸制度の適応を受けた「労働者」としてオリンピック建設労働に国境の枠を超えて広く世界中の人々が参加するのである。これこそ、人権都市「大阪」にふさわしいオリンピックへの参加の形ではあるまいか。
 たんに建設労働力の受け入れにとどまらず、多文化都市としての大阪を強化するような諸施策がもっと広範に展開される必要がある。それは、華やかなイベントというよりも、もっと地道で路地裏的な施策といってよい。たとえば、実現が求められて久しい定住外国人に対する地方選挙権、在留資格に関わりない修学保障など、人々の生活に直結した多文化政策が必要である。
 大阪に多様な異文化コミュニティが生き生き胎動を始めることがこの街のすべてを活性化させるのである。たとえ多文化による弊害ががあっても、大局的にみれば、これが都市というものに課せられた宿命の道であると肝に命じるべきだろう。
 国家の代表として特権を付与された一握りのエリート選手のためだけではなく、また、先進国、開発途上国の双方で増殖したオリンピック・マフィアと呼んでもよいような一握りの利権屋たちのものでもないオリンピックがそこに現出するだろう。それこそ、庶民の街、大阪が追求するべきオリンピックの姿なのではないだろうか。