柳原佳子先生にささげる告別の辞

 柳原佳子先生の死を心から悼みます。もし、今しばらくの時間をいただけたのなら、先生からもっと多くのことを学べたのにと悔やまれてなりません。
 数年前、先生はくも膜下出血という大病から奇跡的に生還されました。だから今回も、何日か我慢すれば、あの独特の口調で語られるするどい批評と言説をふたたび聴くことができるものと信じておりました。しかし、それはかないませんでした。あまりにも急な死でした。

 思い返せば、同じ大学院に学ぶ機会に恵まれて以来、賢く厳しい先輩としてたくさんのことを教えていただき、また、いろいろな社会活動に参加する機会を与えていただきました。研究職につかれてからは、共同研究や教科書の執筆など、たくさんの仕事をご一緒にさせていただきました。どの仕事もたいへん思い出深いものでしたし、先生とご一緒に仕事ができたことをこころから光栄に思っています。

 なかでも、とりわけ印象深かったのは、1980年代の始め、尼崎市のある中学校の校内暴力問題と取り組む活動にともに参加したことでした。当時、新進気鋭の社会学者として、非行問題に新しい理論的アプローチを試みておられた先生は、たんに理論研究の分野だけでなく、少年非行の現場での実態調査や非行防止活動にも、熱心に取り組まれました。

 この活動は、地域社会の協力を得ながら、非行経験のある少年少女自身を「羽ばたく会」という非行防止のための自主的グループに組織していこうというもので、今日、最新の社会活動理論として脚光を浴びているエンパワーメント理論を20年も早く先取りするものでした。この活動は、その後、我が国における非行防止対策の一つのモデルとなるようなめざましい成果をあげ、政府や学会、マスメディアも広く注目するところとなりましたが、そのような素晴らしい成果も、先生の存在を抜きに語ることはできないと思います。

 そして、その活動の中で、グループの指導者であり、その後よき伴侶となられた千坂良さんと巡り会われました。「美女と野獣」・・・失礼。いや、それぞれ希有な才能に恵まれた「理論家と実践家」による絶妙なるコンビの誕生でありました。

 先生とご一緒させていただいたさまざまな仕事の中で、最後の仕事となってしまったのは、朝日新聞社のアエラムック編集部からの原稿依頼で、犯罪映画の紹介と批評を行ってほしいというものでした。その仕事の分担を引き受けていただこうという私の勝手なお願いに「しかたないわね」と不承不承うなづかれた先生の電話口の声が、先生からいただいた最後の言葉になってしまいました。
 先生を亡くした今、その批評を読み返していたら、先生の書かれた次のような文章に目が止まりました。それはこんな文章でした。

「人間というものは、ある行為がよいかどうか、また、なぜその行為がなされるのか、が分からない場合にも、その「わからなさ」や「理由のなさ」にすら解釈上の意味や動機を与えてしまうのである」

 それは、若くして亡くなったジェームス・ディーンが主演した映画『理由なき反抗』について先生が書かれた批評の一部でしたが、これを読んだとき、いろいろと空しく言葉を費やして、先生の死の意味や理由をあれこれと考え込んでいる自分の姿にはっと気づかされたのであります。
 私たち愚かな後輩たちは、あまりに大きい未練や執着のために、先生の早すぎた死に、わけのわからない理由や、無意味な意味づけを与えようとしております。それをどうぞ叱らないでください。それもこれも先生の死がこしらえた穴が大きすぎるためなのですから。

 しかし、冷静に考えれば、人間はいつか死を迎えねばなりません。ただ、それがいつどのような形で訪れるかが、人間には分からないというだけのことなのかもしれません。だから、こうして悔しがっているのも、つかの間のことなのでしょう。日頃、教壇の上から学生たちに説いております人類の歴史という長大な時間の流れからみれば、私たちがそちらに参りますのも、もうすぐのことでありましょう。ですから、先生におかれましては、私たちが順番にそちらにお邪魔し、酒宴が徐々に盛り上がっていくのを楽しみにお待ちいただきながら、しばらくは、好きだったお酒をちびりちびり手酌でやっていてくださるようお願いいたします。
 最後に、先生、どうか安らかにお休みください。先生の思い出にひたりながらお別れの言葉といたします。

2002年12月20日

山中速人