2000.4.14

裕次郎の兄貴であることはつらいね、慎太郎くん。

 石原慎太郎都知事が在日外国人を「三国人」と呼んだことがメディアで取り上げられ、人々の反感を集めている。

 今回の「三国人」発言は、以前、都議会で同様の発言をし、議事録から削除されたという経緯があるので、「差別とは知らなかった」というのではないだろう。彼は、その言葉を聞いたら心を痛める人々がいることを十分承知でこの言葉を発しているのである。

 彼の言葉に溜飲をさげる人々がいることを彼は知っている。東アジアで国力を強めている中国や韓国に対して民族的反感をいだいているナショナリスティックな日本人たちが存在するからだ。彼らは、都知事、石原慎太郎が自分たちの鬱屈した信条を代弁してくれていると感じている。そして、そのことを石原知事も、十分、分かっている。

 ひどい言い方である。それも、知ってやっている。このような表現に返す言葉もないが、つらつら考えるに、他人をことさら傷つける粗暴な言い方をして、そのことで自分の男っぽさや剛胆さを示そうとする傾向が、この人物にはある。中国をシナと言い続けているのもそうだ。中国が不快感を表しても彼は止めない。

 決して教養がないわけではないのに、公衆の耳目のあるところで、わざと卑わいな言葉やことさら攻撃的な表現を口にする男性がいるが、石原はそのようなタイプの一種かもしれない。ノックのように、本当に下品なわけではない。

 高学歴で高い地位についている人物が、あえてこのような非常識な行動をとるのは、このような男性性の表象を通して自己のパワーを印象づけようとしているからに違いあるまい。とくに、身体的な水準において、特別に優れた表象を持たない普通の男たちが権力を行使し、指導力を顕示しなければならないようなとき、肉体によっては表現できない男性性を粗野な言語表現によって代替しようとするのである。

 石原慎太郎はそのような意味で常に男性性の呪縛から逃れられないできた。肉体についてみれば弟の裕次郎にはかなわないことは歴然だ。まして若くしてこの世を去った弟が、大衆の脳裏に刻みつけられた永久に失われることのない象徴としての肉体の輝きを保持し続けるのに対し、生き残った兄の、当初より弟にかなうべくもない肉体は、老いることによって、ことさら彼にそのような振る舞いを要求する。

 元来、神経症的な瞬きを繰り返す彼の目は、この人物の内面の不安や屈折の無意識の反映なのであるが、そのような内面を覆い隠し、自身の男性性をことさら強迫的に表現しなければならないという衝動が、最近一層強まっているのではなかろうか。銀行協会が新税に対して訴訟に踏み切ったことも、なんらかの心理的な負担になっているのかもしれない。

 さて、彼は14日に記者会見をひらき、発言に「遺憾の意」を表明した。テレビは、「遺憾の意」を表明する彼の表情を捉えていたが、彼はここでもパフォーマンスを試みた。わざと意に添わない「遺憾の意」を表明しているのだという振りをしたのである。男の子が喧嘩相手に謝れと親にいわれて、わざと不本意に謝る振りをするときにそっくりだった。本心は早く事態を収拾したい、でも、そのまま素直に謝ったら、かっこが悪い。だから、自民党の失言大臣のように完璧な形式主義で装われた謝罪を演技するというやり方ではなく、あえて精一杯ふてくされてみせた。それで、本心から謝っていないというパフォーマンスをわざとする。でも、本当は怯えていた。

 男は辛いよ、じゃなくて兄貴はつらいよ、だよね、慎ちゃん。

 ところで、今回の発言に関して、もっと注目しておかねばならないことは、災害時に治安を名目とした「不法」外国人の取り締まりに知事が言及したことである。しかし、実際にそのようなことが可能かどうか、石原知事は行政の長として真剣に考えるべきだった。

一例をあげれば、もし震災が起これば、その混乱で、外国人登録証を持ち出せなかったり、携帯できない外国人はたくさんいるはずである。実際、阪神大震災ではそのような外国人はたくさんいた。

 ところが、石原知事は、そんな事態の中で、治安対策として不法滞在外国人を取り締まれというのである。実際に、どのような方法で、「不法」滞在外国人と「合法」的に日本に居住する外国人を区別するのだろうか。そんなことは不可能である。着の身着のままの被災者に対して、外国人登録証を見せろとでもいうのか。(言い換えれば、かくも左様に外国人登録証の常時携帯義務は反人権的なのである。)

 関東大震災のとき、警察や自警団は、朝鮮人とおぼしき人物に「十五円五十銭」と発音させ、発音できなければ検束したといわれる。石原知事は、そのような悪夢を繰り返せというのだろうか。

 阪神大震災の経験に照らしてみれば、日本人も外国人もともに信頼し協力し合って、危機を克服した。暴動など起きなかった。石原知事は、もっと神戸の経験から学ぶべきなのである。

 「東京は神戸とは違うのだ」と石原知事は言いたいのかもしれない。そう、確かにそれは一面において正しい。ただひとつ東京と神戸には決定的な違いがある。それは、関東大震災における朝鮮人虐殺の存在である。震災時に外国人に対する襲撃事件が現実に発生した唯一の都市としての東京の特殊性こそ、もっとも考慮すべき点ではないだろうか。

 もし、石原知事が真にこの東京の特殊性に配慮するなら、自衛隊や警察は、むしろ、次の震災に備えて、無法者の日本人から在日外国人の安全を確保するための警護体制を準備する必要はありはしまいか。

 私がもし知事だったなら、きっとこういったに違いない。

「国際化の進展で近年東京に居住する外国人の人口は急増しています。もし震災になったら、パニックに陥った日本人による外国人襲撃がふたたび起こるかも知れません。かれらの生命と財産が不当に奪われることがあれば、知事として自衛隊の諸君に出動を要請することがあるやもしれません。その時は、自国民であるからといって容赦することなく不法日本人に対して断固とした対応をとっていただきたい。」と。