研究ノート

日常世界における映像の存在形態をめぐって

−カンボジア・ラオス・雲南調査のフィールドノートから−

『コミュニケーション科学』1999.3


はじめに

 本研究ノートの目的は、生活誌的な視点から人々の生活世界の中で映像がどのような存在の形と意味を持っているのかを研究するために、その予備的作業として著者が1998年の秋におこなったカンボジア、ラオスにおける農村部でのフィールド調査の一部をまとめることにある。

 このフィールド調査は、農耕文化研究振興会(代表・渡部忠世京都大学名誉教授)が過去4年にわたって実施している東南アジア農村における農業と生活に関する調査の一部としておこなわれた。この調査には、著者の他に農学、食物学、被服学などの専門家も参加しており、専門分野の異なった専門家の知見に触れる機会を得ることができることは、私にとってきわめて有意義であった。

 本稿では、今回のフィールド調査で得られた知見を整理、検討し、今後の研究につなげる方向性を探ることにしたい。

A 問題関心と射程

 この研究は、従来の映像社会学の対象領域に新しいパースペクティブを加えることをひとつのもくろみとして企図されたものである。しかし、本稿はあくまで研究ノートであって、私の企図する研究の関心領域と射程、方法について本格的に論じることには踏み込まない。というのも、それらの点について論じるには、もっと手間と時間をかけてフィールドでの知見を蓄積する必要があるからである。 ただ、まだ全体の構想を述べるには不十分ではあるが、少なくとも本稿の問題関心と研究の射程について述べておくことも必要であろう。報告に入る前に、簡単に本稿の問題関心と射程について簡単に述べておきたい。

1 本稿の問題関心

 描画によって記録された画像ではなく、光学的であれ電子工学的であれ機械的方法によって記録される映像を人類が手にしてすでに1世紀半になろうとしている。映像は人間生活を深く取り巻いておりすでにそれは人間の基本的な生活環境の一部となっているかのようである。リップマンがいう疑似環境の環境化という事態は、現代の人間を取り巻く映像環境のことを考えるときに最も適した表現であるかも知れない。

 映像環境を支える科学技術の発達はめざましく、写真に代表される化学反応に基づく光学的映像の時代はすでに19世紀後半にめざましく開花し、20世紀も中半にさしかかると、テレビジョンの登場によって電子光学的映像の時代が出現するようになった。今日では、コンピュータによるデジタル映像技術がこれまでの映像技術をより高い次元で統合しようとしている。このように映像技術の発展はめざましく、このような状況をみれば、20世紀が映像の世紀であったということが今さらながら思い知るところとなるのである。

 しかし、そのような技術の急速な進展のなかで、ともすれば、そのような映像の世紀の華やかな主役を担った世界の周辺部にあって、いまだ近代の映像文明への接触が果たされていない世界あるいは近年ようやくその接触が始まった世界への注目は、いまだ惹起されてはいない。

 映像というものに初めて接した人々の驚きや感動はいまだ世界のあちこちで不断に続いているのに、わたしたちの観念の中では、19世紀末にリュミエール兄妹によって撮影された機関車が南フランスのシオタ駅に到着する映画をみて、われ先にホールから逃げ出した人々の驚きと興奮はすでに過去の忘れ去られたこととなったかのようである。

 われわれは映像の歴史を近代に始まる機械的映像技術開発史として描く視点にあまりにもなれ過ぎてはいないだろうか。それは文化史の体裁をとりつつも、技術史としての暗黙の了解の許に編まれ、低いレベルの技術から高度な技術へという進化論が、アプリオリなディスクールとしてあらかじめ与えられているのである。

 たとえば、G.サドゥールの『世界映画史』(丸尾定訳、みすず書房、1980年)やI.ジェフリーの『写真の歴史』(伊藤俊治・石井康史訳、岩波書店、1987年)など、映像史に関するすぐれた研究の多くがそのような前提を共有している。その多くは、欧米の先進諸国での技術開発史であり、映像芸術史である。そして、それらの中で、先進諸国以外の地域は、映像の主体ではなく、撮影される被写体としてのみあつかわれる以外の登場の仕方をしない。

 もちろん、そのような在り方に対して、最近では、アジアをはじめとする開発途上国の映画を重視する佐藤忠男のような視点(佐藤忠男『アジア映画』第三文明社、1993年、あるいは『アジア映画小事典』三一書房、1995年など)も現れはじめている。

 しかし、それらにしても、職業的映像制作者の制作する作品への関心にとどまっており、一般の人々の生活とその周辺での映像世界はとりあげられない。

2 本稿の射程

 本稿では、そのような従来の映像技術と映像文化に対する視線とは別の視線を設定したいと考えている。

 ここでは、次の二つの領域がもっぱら関心の対象となる。

 まず第一に、映像技術や映像文化の産出に関わる先端的・中心的部分ではなく、後発的・周縁的部分に注目する。つまり、開発途上国あるいは第三世界と呼ばれる地域において、映像がどのような振る舞いをしているかに焦点を当てる。このような地域において、近代的な映像技術と人々との接触の様相は、先進諸国がこれまで歩んできた漸次的な技術進化を前提としたそれとは根本的に異なっているのではなかろうか。そこでは、電子工学的な映像技術と伝統的な描画的世界が衝突し、多くの混乱がある一方、不思議な共存も示しているように思われる。このような世界を理解するには、従来の進化論的(言い方を変えれば近代化論的な映像史のディスクール)ではとうてい手に負えるとは思えない。それを効果的になし得るには、それぞれの地域の社会文化的的特性に根ざした状況の記述と理解の方法が模索されねばならないはずである。

 第二に、映画やビデオ作品など、職業的制作者によって専門的に担われる文化的商品としての映像ではなく、人々によって自給自足的に消費される日常生活財としての映像に注目する。たとえば、家族写真はどのような時に、どのような人々によって撮影され、鑑賞されるのか。また、どのように交換され、消費されるのか。写真という映像は、人々や家族を包み込む固有の地域や文化の中でどのような意味を持ち、どのような機能を果たしているのか。つまり、生活世界における映像の存在形態と意味世界をエスノグラフィーの手法によって解き明かそうというのである。そして、それと同じまなざしが、家庭用デジタルビデオカメラによって大量に撮影され、家庭の中に堆積されていくビデオテープについても向けられるはずであろう。

 このような手続きを経ることによって、われわれははじめて映像というものが人類にとってどのような経験をもたらしうるものなのかについての普遍的な視座を獲得できるに違いない。

 以上、私がこれから取りかかろうとする研究の基本的なもくろみをおおよそ明らかにした。さて、このような二つの領域に向かって、これから手探りの作業をはじめるのだが、ここからは、今回の調査で得られた知見を報告することにしたい。

B フィールド調査から

1 写真を持たない家族

 さて、報告を開始するにあたって、最初に、映像的世界との接触をいまだ十分に果たしていない人々の存在について述べることから始めることにしよう。

 これだけ写真が普及した今日でも写真というものをもたない家族というものは確かに存在する。たとえば、今回の調査でもラオスのルアンプラバン周辺の山岳地域に住むモン族の村でそのような家族に遭遇した。(写真1)また、前回の調査でも、中国雲南省シーサンパンナ周辺のコングー人(プーラン族)の村で同様に写真というものを持たない家族に出会った。(写真2)

 前者の家族が写真をもたない最大の理由は貧困であった。この村は、ラオス政府が山岳部で実施中の実験的な農業プロジェクトに労働力として93年に半ば強制的に動員されてきた人々によって構成されており、村の人々はラオス人の村と比べて、さらに他のモン族の村とくらべても、その生活は貧困であった。政府から米の支給は受けているようだったが、十分な労働賃金が支払われているかは定かでなかった。

 したがって、村の中で家計収入を別に支える手段のある家族には写真が所有されていた。たとえば、村で小さな商店を営む家庭は、ベトナム戦争後、タイの難民キャンプに収容されていたが、そのキャンプで撮影された写真を十数枚所有していた。バスで非難する人々の写真、キャンプの住居に写真、それらを後ろに撮影した家族の写真などである。また、この家族の一部は、アメリカにラオス難民として移住が許され、現在、カリフォルニアにその一部が住んでいる。店番の女性は、兄妹と思われる人々がモン族の民族衣装を着て、カリフォルニアの風景の中に立って笑っている写真を誇らしげに見せた。(写真3)

 一方、後者のコングー人の村は、近代的な消費文化の侵入がまだ到達していないことが主要な理由のように思われた。シーサンパンナからジープで幹線道路を約2時間、幹線を逸れてでこぼこ道をさらに1時間入ったところにあるこの村には、省の役人もめったに立ち寄らないと言う。97年からようやく電気が通うようになったが、それでも、電灯以外の使用はまだない。村の指導者の一人の家を訪問した。モンクメール系特有の高床の家の内側には、我々が都市で普通に見かけるようなプラスチックスの道具や大量生産される生活財といったものはまったく存在しなかった。そこにあるのは、ほとんど博物館で見かけるような手作りの伝統的家財であり、民具であった。そして、この家族は写真を所有していなかった。(写真4)

 このように、貧困が原因であれ、近代化の遅滞が原因であれ、多くの家族はまだ写真をもっていない。

 しかし、とはいうものの、このような人々が写真からまったく無縁かというとそうではない。たとえば、家族の写真はなくとも、政府が発行する身分証明書には役人が撮影した写真が貼付されている。そして、このような村では、その写真がおそらくその人物の撮影した唯一の写真であるという場合も少なからずある。

 また、多くの家庭の居間には、その国の政治的指導者や王族、また、宗教的な指導者の写真が飾られている。家族の写真が存在しなくても、このように印刷された大判の肖像写真は家庭の中にすでに侵入を果たしているのである。

2 家族と写真 −3つの家族−

 カンボジア・ラオス調査で訪問したいくつかの村では、映像が人々の生活の中でもつ最も基本的な位置と意味を確かめる上で、重要な手がかりを得ることができた。

 以下、カンボジアでの2つの事例とラオスでの1つの事例を紹介したい。

事例1 カンボジア、プノンペン郊外タケオ県プレカバス郡ウエル村で機織りする兼業農家、バン・ノールさん(67歳)の家族

 プノンペンを離れ、タケオ県プレカバス郡にある戸数150〜200戸のウエル村を訪ねた。この村は、機織りの盛んな村で7〜8割の農家が機織りをしている。その中でも、比較的熱心に機織りに携わっているバンさんの家を訪ねた。彼の家の構えは、ポルポト時代の破壊を免れ、周辺の村と比べても立派であった。カンボジアで見られる高床式の家屋に5人家族で暮らしている。家族の内訳は、3人の娘と娘の連れ合いとその子どもが2人である。

 農業についてみれば、水田を75アール所有している。かつてベトナム軍がカンボジアを統治したとき、農地の再分配を行い農民1人当たり15アールの水田を配ったという。だから、この75アールという数字は、その公式的な面積である。しかし、実際は、家の構えの立派さから推してもっと所有していると推測された。

 これらの水田から年、間、モミで3トンの収穫がある。栽培している稲には、栽培期間の短いものと長いものがあり、短いものは5月に植えて8月に収穫し、長いものは6月に植えて12月に収穫する。耕耘は牛で鋤き、鍬でならす。米はほとんど家庭内で食べてしまうが、ときどき金銭が必要な時、売ることもあると答えた。

 彼は高齢のため、農作業は他の家族の者がしている。しかし、彼自身は大工の経験があり、機織り機を作ったり修理したりする仕事をしているとのことだった。

 一方、機織りは、田植えと収穫の時期の農繁期はしない。機織りをしているのは、もっぱら46歳の娘と孫娘26歳である。この孫娘が機織りの実演をしてくれた。典型的なクメール様式の織物で、1日に50センチほど織ることができる。織物は、サイワの町のマーケットで売ることもあるが、基本的には仲買人が買い上げていく。この周辺の農家にとって、貴重な現金収入を得る手段となっているとのことだった。

 インタビューのほとんどは、実は、高齢の本人ではなく、娘が代わって答えた。しかし、ポルポト時代の生活について聞くと本人が重い口を開くようにぽつりぽつり次のように答えた。

 「ポルポト時代は、うえから指図された、しかし、今は、なんでも自分の思うようにできる」

 さて、このようなカンボジアの農家の中にあって、写真はどのような位置と意味をもつのだろうか。

 バンさんとのインタビューの途中、彼を取り囲む娘たちに家族のアルバムを見せてくれるように依頼した。このような依頼に対して、彼女が最初に示した写真は、1984年に撮影された一枚のモノクロ写真であった。その写真は、一家の法事の際に撮影されたものであった。バンさんを中心にして、彼女を含め、法事に参集した十数名の親族たちが起立して写真に記録されていた。この家族が保有する写真の中で最も古い写真がこの写真であった。この写真を撮影するために、家族は写真屋に1000リアルを支払った。(写真5、写真6)

 写真が撮影される機会は、家族にとって重要ないくつかの儀礼の機会と重複していた。たとえば、結婚式や法事などである。それ以外にも、パーティーやピクニックなど、家族や友人たちが参集する特別な日に写真が撮られた。

 彼女が見せてくれた写真アルバム、それは、DPE店でプリントを発注するとサービスで付いてくるビニール綴じの簡易アルバムであったが、そのアルバムには、宴席でくつろぐ多くの親族や友人たちの姿が写しとめられてあった。ポーズを取る者もいたが、そうしない者もあった。また、笑っている者もいたが、笑っていない者もいた。しかし、いづれの場合も、映像として固定された人々の視線の大半は、カメラの方向に向けられていた。それは、これらの写真もほとんどが記念写真として撮影されたことを物語っているのかもしれない。

 現在、この家族はカメラを1台所有していた。1995年に購入したものであるという。カメラを所有するようになってからは、写真を撮影する機会は、増加しているという。しかし、他者を撮影した写真をあげたり、交換したりする習慣はないということであった。

 「写真を撮るのに大層なお金がかかるのに、他人にあげるようなことはできないよ」

というのが、よこで口を挟んできたアシスタントの発言であったが、実際のところを深く質問する時間的余裕はなかった。いずれにせよ、この村では、写真が交換されることはないようであった。

事例2 シエムリアップ県ピーオク郡トラヨン村の農家 ムイ・ハンさん(65歳)の家族

 シエムリアップから車でトンレサップ湖の方向へ40分ほど来ると、中規模の市場の前の広場にベトナム統治時代に建てられた稲と鎌を掲げた農夫のコンクリート像が現れる。その市場の前から横道に入り、水路をいくつか渡ったところにトラヨン村がある。戸数144戸、人口898人、男488人、女410人の村である。

 この統計は、インタビューが始まって何事がおきたかと現れた村長から聞いたデータである。村長は、さらに次のようなことも教えてくれた。まず、この村には寺が1つあり、この中に幼稚園があり、小学校は隣村にある。ほとんどの農家が米作をしている。乾期米(1月植え、4月刈り取り)は60戸の農家が栽培している。乾期米の耕作地は約50ヘクタールとのことだった。一方、雨期米(5月〜9月種蒔き、12月〜2月収穫)は、ほとんどの農家が栽培しており、その栽培面積は約70ヘクタールとのことだった。ちなみに、メコン流域によく見られる減水稲とはこの乾期米のことを指す。収量は、この乾期米が1ヘクタール当たり2トン、雨期米がヘクタール当たり1トンであると答えた。この雨期米の収穫後、ふたたび耕してナス、トマト、スイカ、カボチャ、キャベツ、タロイモなどの野菜などを作っている。今年は、水が少なく浮き稲は作っていないとのことだった。

 さて、村に入ってからは道路を車で徐行しながら、アポイントをとらないで飛び込みで道脇の農家を探した。そして、訪ねたのがムイ・ハンさんの家であった。(写真7)

 戸主の名前は、ムイ・ハンさん、65歳。彼は、隣村(タトウ村)で生まれた。同居家族は、5人と答えた。子どもは、10人いる。最長は45歳、最年少は25歳である。男が3人、女が7人。10人の内3人がまだ独身で、現在、本人とその妻、未婚の3人の子どもと暮らしている。未婚の3人は、一人が学生、1人が教師ちなみに教員の給与は6万リエル(約20ドル)、給料が安いため副業として市場で商売をしているとのことだった。最後の一人は、下肢に障害がある。それは寺のそばで作業をしている最中、地雷を踏んだためである。内戦の影響がこんな村にも及んでいた。

 働き手がいないため、彼の家では稲作をしていない。水田を他人に貸して、収穫からお米で小作料を取っているとのことだった。ムイさんのやせた胸には、魔除けの入れ墨が施されていた。

 途中で先述の村長が入ってきた。村長の名前は、コン・マイさん、47歳。1988年から村長をしている。選挙で選ばれた。ちなみに、カンボジアでは村長は選挙、それ以上は任命制をとっている。コン・マイさんは、子どもが8人いるといった。

 このムイさんの家族は、村の中では裕福な家族であるといえるかもしれない。家族が所有する動力式の脱穀機と精米機が、屋根付きの小屋に収納されていた。

 さっそく、写真がないか尋ねた。もし、アルバムを持っているのなら、それを見せてもらいたいと頼んだ。通訳を介してのことなので、なかなか要領を得ない。しかし、しばらくして女性の一人が、2枚の写真を持って現れた。1枚は、お盆のときに撮影した家族全員の写真であり、もう1枚は、着飾った自分自身の写真である。

「綺麗ですね」

 と感想をいうとはにかんだ。写真は、近くの市場にある写真屋に依頼して撮影してもらったものだといった。撮影を依頼すると、1枚当たり1500リアルで撮影してくれるとのことだった。この家族は、カメラを所有していなかった。

 さらに、もっとほかに写真はないかと聞くと、家にいたもう一人の35歳くらいの女性が、写真アルバムを持ってきた。アルバムは、前回のインタビューと同様の簡易アルバムである。

 その写真アルバムは、海岸でポーズをとった男性や彼女自身、友人と思われる人々の集合写真が映っていた。(写真8)聞けば、その男性は彼女の夫であるという。彼女に、この写真をどこでいつ撮影したかを尋ねた。

 彼女の答えによると、これらの写真は、数年前、コンポンソンに旅行したときに撮影したものだという。しかし、カメラは持っていないのに、どうして、写真を撮ったのかと聞くと、観光地で開業している写真屋に頼んだと答えた。ここでも、1枚、1500リアル掛かったという。

 このアルバムをどんどんめくっていくと、宴席で撮影された記念写真が2枚でてきた。(写真9)数人がテーブルを囲み、豪華に盛りつけられた料理の前で、その写真は撮影されていた。これらの写真は、その宴席に出席した友人が撮影したものであり、その友人からもらった写真であると答えた。先述の事例とは異なり、この家族には、すくなくとも他人の写真を撮影し、それを譲ってくれる友人がいるということになる。

事例3 ビエンチャンの市街に住む都市居住者ソムチャイ・シーハラさんの家族

 ラオスの首都ビエンチャンで訪問したのは、ソムチャイ・シーハラさん(72歳)の家庭である。彼女の家は、ビエンチャン市内タルワン地区にある。すでに夫は亡くなったが、これまで男8人、女5人、13人の子どもを設けた。これらの子どもの内、長男を筆頭に7人がビエンチャン陥落時にアメリカに移住した。長男は、現在ジョージア州で家族を設け、その息子を頼って、彼女自身、昨年まで10年間、ジョージアで生活していた。

他にも、タイのバンコクに一人移住した。現在、ラオスにとどまっているのは、5人に過ぎない。

 彼女にアルバムを見せてくれるよう頼んだ。インタビューは家先のポーチにあるテーブルを囲んで打ち解けた雰囲気の中で進められた。一旦、アルバムを取りに室内に引っ込んだ彼女は、1冊のアルバムを抱えて現れた。

 最初のページを開けると、そこにはアメリカ時代の自分が映された写真が並んでいた。彼女以外にも、アメリカで暮らしている息子夫婦の写真やそれらの家族とともに映っている自分の写真が並んでいた。アルバムは、アメリカで撮影された多くの家族スナップを整理するために購入され、以来、この家族に関するさまざまな写真を収録するようになったに違いない。しかし、現在でも、アメリカ時代に撮影された写真が過半数を占める。

 そのうち、彼女が、また室内に引っ込んだかと思うと、また別の写真を1枚持ってきた。その写真は、1978年に子どもの誕生を祝って僧侶から儀礼を受ける際に撮影された写真であった。(写真10)この写真は、当時、家にあったカメラで撮影されたものだと言う。しかし、そのカメラは、その後失われ、現在にいたってもこの家族にはカメラがない。

 さらに、古い30年前の1968年の写真がアルバムの中からでてきた。おそらく彼女が古い写真をすべてこのアルバムに貼り付けていったのだろう。

 それは、彼女が、街の縫製工場で働いているときに、亡くなった夫と共に撮影した1枚のカラー写真であった。写真の中の彼女は、今と比べてよく肥っていた。

 当時、この写真を撮影するために2キップを写真屋に支払ったという。現在なら5000キップも支払うところだろうか。

 その写真をきっかけとして1975年の「解放」前の話を聞いた。

 当時、この地区はまだ村と呼ばれていたが、およそ村にはすくなくとも1人の写真屋が開業していた。だから、写真を撮る必要があるときには、この写真屋に依頼して撮影が行われたという。

 彼女の亡くなった夫が得度式に臨んでいる写真は、大きく引き延ばされ、金縁の赤い額に額装されていた。この写真は1987年に撮影されたものである。ラオスでは、男は人生のうち一度は僧侶になることが義務づけられているのである。

3 家庭に浸透する映像 

 以上、3つの事例を概観した。ここで目を一旦これらの家族が所有するいわばプライベートな写真映像から離して、この家庭に、どのような映像が侵入しているか観察してみよう。

 まず、カンボジアの事例で共通して認められたのが、国王であるシアヌークの写真であった。ハンさんの場合は、国王の写真は仏壇の傍ら、玄関からまっずぐに入って人々が最初に視線を投げるだろう壁面のやや上位にシアヌーク国王の写真は飾られていた。(写真11)家人に質問すると、仏に祈るとき、いっしょに国王の健康と長寿を祈るとのことであった。

 つぎに、父親らしき先祖のカラー写真が玄関側の壁に掲げられていた。この写真も1500リアルを払って写真屋に撮影してもらったとのことであった。(写真12)

 これら肖像写真は、すくなくとも家の壁面の上位、つまり、家人が起立したときに成立する視線よりやや高め、つまり、家人が見上げる位置に掲げられていた。

 ここでは、写真は祖先とその子孫たちの血脈を繋いだり、国家と人民との紐帯を象徴として確認するイコンとして使用されている。このようないわば宗教的イコンとしての映像は、映像を大量に複製する技術を持つ側と持たない側との間の政治的(権力的)関係として読み替えることもできよう。そして、その場合、この政治的権力の絶対性は、映像を操作する力(つまり、装置としてのカメラを所有したり、写真を写真屋に撮らせる経済的能力)が普及するに従って、相対化されてゆくのだろう。この相対化の行く手には、映像の消費化や娯楽化が待ち受けているのかもしれない。しかし、とりあえず、まだカンボジアの村々では、そのような事態はまだ生じていなかった。

 しかし、今回の調査でも、このような楽しみとしての映像を訪問した多くの家族のなかで発見することができた。たとえば、写真カレンダーである。月めくり式の美人カレンダーのすべてのページが切り放され、軒から下げられていた。すでに、過去(2年前)の日付のカレンダーもあったが、そのままつり下げられていた。きっと美人ポスターの代わりとして写真カレンダーが使用されているのだろう。ここでは、印刷された映像としての写真は、すでにイコンとしての聖性を失いつつあり、人々の欲望の対象として世俗化した商品としての様相を呈し始めているのである。しかし、それは、商品という資本主義のイコンの登場を意味しているのかもしれない。しかし、いずれにせよ、これらの観察はまだ印象の域を出てはおらず、これからのさらに詳細な検討を待たねばならない。

4 家業としての写真屋

 ところで、今回、ラオスの首都ビエンチャンでは、一般家庭を訪問する一方、街の写真屋を訪ね、店主とその妻にインタビューをすることができた。

 40歳代のPさん夫婦はビエンチャンで一二を競う写真店主である。Pさんの店はビエンチャンの中心部の繁華な通りに面している。店の入り口にはマネキンを飾り、店内にはこれまで撮影したさまざまな人々の写真が派手な額に納められて壁一般に展示されていた。(写真13、写真14)その傍らのガラスで仕切られた一角には、フジ写真光機製の自動現像焼き付け機が据えられている。この機械はタイで購入し、税金を払ってラオスに持ち込んだ。これ以外にも、大きなサイズの写真は二階にある特別な装置で引き延ばし、プリントするのである。彼は、この店以外にも、もう1店、ビエンチャンの市場に写真屋を所有している。

 彼は、タイのノンカイで生まれたラオス人である。(写真15)彼がビエンチャンに越してきたのは1980年、それ以来、食堂を開き、この店の開業資金を貯めた。そして、タイで行われているフジフィルムの講習会で写真の現像引き延ばし焼き付け技術を習得し、この店を1990年に開業した。1990年だった。以来、事業は順調に伸展している。ただ、昨今は、他にもフィルム販売の写真屋が増え、過当競争気味でフィルムの売上げは、横這い気味であるという。ちなみに、扱っているフィルムは、フジとコダックである。

 一方、写真撮影の仕事は、活況を呈している。とくに、10月から翌年の2月に掛けての乾期は、結婚式シーズンであり、結婚式に呼ばれて記念写真を撮影する仕事は、非常に繁盛している。多いときには、月に15組みもの結婚式の撮影をするという。結婚式の撮影は、会場まで出張して撮影することが多い。その場合、1回の料金は700バーツである。撮影の依頼には、カップルが直接やってくる場合が多い。そして、特別に大判に引き延ばして額装する場合は、たとえば、50センチ四方の額装写真の場合、額代として3000バーツ、写真代として800バーツ、合わせて3800バーツをもらうという。

 結婚式以外にも、多くの市民が記念写真の撮影にやってくる。子どもの写真、若い女性の写真、老親の写真など、さまざまであるが、そのほとんどは、家族の行事や特別な機会に撮影される。日本のようにお見合写真というものはないとのことであった。

 そのような場合、10枚セットで500バーツを料金として貰い受けるそうである。

 撮影されたいくつかの写真は、サンプルとしてアルバムにしてあった。このアルバムを眺めながら、さらに質問を続けた。

 アルバムでは、美しくポーズをとった何人もの若い女性の写真が特に目を曳いた。民族衣装を着た女性の写真である。店の中に簡単なスタジオ設備があり、そこで撮影された写真である。店主に頼んでそのスタジオを見せてもらった。店とカーテン一枚で仕切られた簡単なスタジオであった。照明用のライトスタンドが3本あり、カーテン式になったバックスクリーンが2枚備えられていた。撮影のための設備は比較的簡易なものであったが、注目すべきは、女性が撮影の際に身につけるさまざまな衣装や小物が多数豊富に用意されていることだった。

 妻の話では、民族衣装のレパートリーには、ラオスのもの、タイのもの、ベトナムのものが用意されている。また、結婚式用に西洋スタイルのウエディング・ドレスも準備しているとのことだった。(写真16)これらの衣装は、写真撮影以外にも式やパーティー用にも貸し出されるとのことだった。これらの貸衣装を利用する若いカップルは非常に一般的だとも答えた。これらの貸民族衣装の中で好まれるのは、どれかと尋ねたところ、タイ式の衣装だという回答だった。

 このように写真屋は、ビエンチャンのような大きな都市でも、その仕事の大半を慶事用の写真撮影にあてている。もちろん、個人の嗜好や記念のための撮影もあるが、多くは何らかの儀式的な用途として利用されるのである。

 その場合、写真に携わる写真屋は、たんに技術者としての役割を超えて、個人に日常世界を超越する力を与える呪術的な力を行使するのである。写真と写真屋の力を借りて、人々は、異なった民族へと変身することができるのである。

 

C 今後の課題

 以上、今回のフィールドで得られた観察と知見を報告してきた。もとよりこれからの作業は、これらの事例の分析を通して、人々にとって映像がいかなる意味をもつのかを明らかにすることである。この問いに答えを見いだすことがこれからわれわれに与えられた課題と言うことになるだろう。

 しかし、その答えは、すでに述べたように、近代技術史の文脈の中に収斂されるのではなく、多様で多義的な人々の文化と生活の在り様に沿って導き出されるべきものだと思われる。というのも、映像というものが人々の生活と切り結ぶ関係は、異質でかつ固有な文化の中で展開される人々の生活の多様性に応じて、同様に多様な形態をとるからである。そうであるなら、今、求めるべきことは早急な結論ではなく、文化的存在としての人々の多様な生活においてはぐくまれた豊かで多様な映像の在り様を記述し、収集することであるに違いない。

 今しばらくは、このようなフィールドワークを続けることがなにより必要なのであろう。

謝辞

 本稿で使用した写真の一部は、同調査団のメンバーの一員で農学の専門家である中村均司氏の撮影によるものであり、取り上げた農家に関するデータの一部は、同氏のフィールド記録によって補われた。また、雲南のコングー人の村についての写真は、本学助教授の松本光太郎氏(文化人類学)の撮影によるものであり、同氏からは雲南の少数民族に関する幅広い示唆を受けた。貴重な写真と記録を提供いただいた中村氏ならびに松本氏にこの場を借りて感謝の意を表するものである。